2021/03/08

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈

  

以下の記事は、前の記事と同様の方針で作成された、私なりの覚書です。個人的な解釈や書き換えがずいぶん入った概略です。決して『哲学探究』の忠実な抜粋や要約ではありませんのでご注意ください。

 

また、この第89-133節の重要性については鬼界彰夫先生の『『哲学探究』とはいかなる書物か: 理想と哲学』に教えられました。この鬼界先生の本は、ウィトゲンシュタインについて学ぼうとしている私にとって野矢茂樹先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』と並んで、決定的に重要な本でした。

 

関連記事

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

 

その鬼界先生の本を読みながら、下のような理解しかできないというのは、私の哲学的力量のなさを示しています。ですから、この記事の読者の方は、言語教育を理解するために哲学を利用しようとする者がウィトゲンシュタインをこう誤解したとお読みくださっても結構です(もちろんあまりにひどい間違いがあれば、どうぞご指摘ください)。

 

 

■ 科学的な問いと、哲学的な問い(第89節)

 

概略:「水素の比重はいくつか」という問いと、「時間とは何か」という問いは、別種の問いと考えた方がよいのではないか。前者の問いは自然科学で答えが出るが、後者の問いについては答えが出にくい。というよりアウグスティヌスも言うように、時間といった概念は、誰にも尋ねられていないなら知っているとして何の不安もないのだが、いざ説明しなければならなくなると知っているとは言い難くなる概念である。

 

=> 時間といった概念についての問いは、哲学的問いといえるかもしれない。なぜなら、そのような概念については自然科学的な調査をするよりも、私たちがその概念をどのように使っているかを心に呼び起こすことの方が有用だからだ。さらには、ある理由により、そのような想起が難しくなっているからだ。その理由を解明し、私たちが自由にその概念について思い起こせるようにすること、そして、その問いを自然科学的に答えなければならないという執着から私たちを解放することが哲学の効用といえるだろう。哲学的問いとは、哲学によって私たちの思考の癖を理解することにより、哲学的問いが解答不可能な難問ではないことに気づかせることである。哲学的問いは、私たちが思い起こせる事例を記述することにより、いつか、その問いに答えなければならないという焦燥感から解放されるものである。同語反復的な言い方になるが、科学的問いが科学によって解決されるべき問いであるのに対して、哲学的問いは、哲学によって解消されるべき問いであるとも言えよう。

 

 

■ 哲学的な問いについて、私たちは十分に現象を観察しないままに、あらゆる可能性について考えようとする。(第90節)

 

概略:哲学的な問いについては、私たちは現象を見通して、すべての可能性について答えなければならないと考えてしまう。

 

=> かくして私たちは哲学的な問いが示す実に様々な可能性について考えるが、それらの可能性を1つの本質にまとめあげなければならないと思い込んでしまうと、可能性の多様さが仇となって、困惑してしまう。

 

 

■ 哲学的な問いでは、ついつい「本質は隠されている」と考えてしまう。(第92節)

 

概略:言語や思考の本質を問うのも哲学的な問いの例だが、私たちは思考の癖によりこれらの問いにおいて、表面の下に存在する本質を探そうとする。ついつい「本質は私たちから隠されている」 (Das Wesen ist uns verborgen / The essence is hidden from us)、「答えは、一挙に、未来のどんな経験とも独立に与えられなければならない」 (Und die Antwort auf diese Fragen ist ein für allemal zu geben; und unabhängig von jeder künftigen Erfahrung. / And the answer to these questions is to be given once for all, and independently of any future experience.) と考えてしまう。しかし、この問いから私たちが行うべきことは、すでに誰の目にも明るみに出ていていることをうまく順序立てることにより見渡すことができるもの (was schon often zutage liegt und was durch Ordnen übersichtlich wird. / something that already lies open to view, and that becomes surveyable through a process of ordering.) として探究することである。

 

=> 厳密だが、それゆえにきわめて限定的な範囲でしか答えることができない自然科学の方法論では答えられない問いに対して、私たちは哲学的に答えるべきである。だが、哲学的な素養がないままに無闇に考えると、ついつい「私たちは表面には見えない隠された本質を、一気に見つけ出したい。それを答えとして、将来二度とこの問いを問わずに済むようにしたい」と考えてしまう。だがそれは哲学の誤用であり、そのように考えると多くの哲学者のように徒に頭を悩ませてしまうだけである。

 

哲学が本来なすべきことは、なぜ私たちがついついそのように考えてしまうのかを明らかにして、その思考の癖から自由になって、思い起こすべき事例を思い起こすことである。さらに、それらの事例をうまく整理して並べることにより、物事の見通しを得ることである。見通しが得られたなら、かつて解決不可能という焦燥感がいつか解消する。哲学的問いは、さまざまな事例を思い起こさせ、哲学的問いを生み出していた困惑を消すきっかけとなっていたことに気づく。だがこの解消によってこの哲学的問いが永遠に消え去るわけではない。状況が変わり、新しい戸惑いが生じたら、この種の問いは再び生じてくるかもしれない。だが、その時になすべきことは、誤った哲学的行き詰まりに向かわず、正しく哲学的に考え、物事をうまく見渡すことである。

 

 

■ 『論理哲学論考』の批判(第97節)

 

概略:『論理哲学論考』では、思考の本質は論理であり、それは世界のアプリオリな秩序であり、最高度に単純で、すべての経験に先立ちかつすべての経験を貫く、確実なものであると考えられていた。しかし、思考・言語・経験・世界といったことばは、机・ランプ・ドアといったことばと同じように控えめに使われなければならない。

 

=> 『哲学探究』によれば、『論理哲学論考』のような思い込みこそが、哲学的問いを不必要に難問にしてしまう。論理という理想を現実と混同せずに、現実を現実として観察し、自分の当面の不全感を解消できるように現実の見通しを得ることが『哲学探究』における哲学の役割である。思考・言語・経験・世界といったことばに過剰な思い入れを投入してはならない。

 

 

■ 思い込みが思い込みであるということがわからない(第103節)

 

概略:論理という理想が、眼鏡のように人々の鼻の上に乗っているので、人々は見るものすべてを理想化して認識しようとする。哲学を極めない人々は、その眼鏡を外すという考えに思い至らない。

 

=> 眼鏡の比喩を拡張させるなら、大学や大学院などで下手に学問を学んで「学者さん」になってしまうと、上の眼鏡をかけることこそが知的な態度であると信じ込み、その眼鏡を決して離そうとしない。それどころか、学者さんは、眼鏡をかけていない人を馬鹿にするようになる。だが実践家は、その眼鏡をかけた学者さんの言うことが現実離れしていることを痛感している。実践家は学者さんにめったに進言しないが、勇気をふりしぼって進言しても、学者さんは逆に「あなたも眼鏡をかけると、私のようにきちんと物事を考えることができますよ」と諭したりする。実践家は困惑し、学者さんたちとの交流をさらにやめようとする。

 

 

■ 哲学とは、言語によって私たちの知性にかけられた魔法との戦い。(第109節)

 

概略:哲学的問いに対して、科学的問いに対するように予め立てた理論や仮説による説明を試みてはならない。哲学的問いには、私たちが思い起こす事例の記述を答えとする。そして、その記述は、その哲学的問いがあったからこそ目的を得て、そこに存在するようになったのだ。哲学的問いは、新たな経験によって答えられる問題ではなく、私たちがずっと以前からよく知っていることを組み合わせることによって解かれる問題である。だが哲学的問いに正しく対処するには、私たちは哲学的問いを、論理の理想によって誤解しようとする衝動に対抗しながら言語の働きを正しく認識しなければならない。哲学とは、論理の理想を押し付けてしまう言語の働きによって私たちの知性にかけられた魔法と戦うことである。

 

=> ここで「知性」としているのは、 “Verstand / understanding” の訳語。カントによるなら、理性 (Vernunft / reason) が扱うべき抽象的な理念 (Idee / idea) を、悟性 (Verstand / understanding) が実証的に知ることができる概念 (Begriff / concept) と思い込んでしまうのが私たちの根本的な錯誤の1つ。ここでウィトゲンシュタインの批判的思考とカント(そしてカントの影響を受けたアレント)の批判的思考は重なっている。

 

関連記事

「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/blog-post_5.html

1 Introduction and Key terms

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html

2 Transcendental ideas

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html

3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html

4 Freedom

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html

5 Principle of Pure Reason

http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html

 

ちなみに「知性」は、鬼界先生の訳では伝統的な哲学的用語である「悟性」と訳されています。しかし、私は中山元先生の訳にしたがって「知性」という訳語を好んで使っています。(詳しくは上の関連記事の最初の日本語記事をお読みください)。

 

補記:この箇所は重要なので原文と英訳を掲載しておきます。

Alle Erklärung muß fort, und nur Beshreibung an ihre Stelle treten. Und diese Beshreibung empfängt ihr Licht, d. i. ihren Zweck, von den philosophischen Problemen. Einsicht in das Arbeiten unserer Sprach gelöst, und zwar so, daß dieses erkant wird: entgegen einem Trieb, es mißzuverstehen. Die Probleme warden gelöst, nicht durch Bebringen neuer Erfahrung, sondern durch Zusammenstellung des längst Bekannten. Die Philosophie ist ein Kamp gegen dier Verhexung unseres Verstandes durch die Mittel unserer Sprach. 

All explanation must disappear, and description alone must take its place. And this description gets its light -- that is to say, its purpose -- from the philosophical problems. These are, of course, not empirical problems; but they are solved through an insight into the workings of our language, and that in such a way that these workings are recognized -- despite an urge to misunderstand them. The problems are solved, not by coming up with new discoveries, but by assembling what we have long been familiar with. Philosophy is a struggle against the bewitchment of our understanding by the resources of our language.

 

 

■ 幻想を幻想として見極めることにより、哲学は再出発できる(第118節)

 

概略:この『哲学探究』の哲学は、これまでの哲学的問いを的外れなものとして、破壊しているだけのように思える。しかし破壊しているのは空中楼閣であり、『哲学探究』は、その破片を取り除き、その下にある言語の土台を明らかにしているのだ。

 

=> これまでの哲学的問いは、人々を困惑し続ける形で答えられてきた。そしてそれはそれなりに、偉大なる哲学の営みと思われている。だがウィトゲンシュタインによれば、そのような過去の遺産は幻想である。私たちは幻想を幻想として、哲学的問いにより触発されながら現実を思い起こし、それを整理する営みを始めるべきである。

 

 

■ 全体を見渡そうとする理解(第122節)

 

概略:理解とは関係を見ることであり、全体を見渡せるような描写によって理解は促進される。全体を見渡すとは、私たちの物事をどう見るかに関わる。(これを世界観といってもいいのだろうか?)

 

=> 特定の細部を見つめるのではなく、全体を見渡すというのは、当事者研究の「『見つめる』から『眺める』へ」という原則にもつながる。ウィトゲンシュタイン同様、これを世界観の変化と呼んでいいのかどうかわからないが、認識方法の大きな転換であることは間違いない。英語教育界の多くの研究者は、このような認識の転換を行うことは、学者としての自殺のように考えているのかもしれない(そして、実際、誤った方法で哲学をやってしまうと、それは確かに自殺となるだろう)。

 

関連記事

英語教師の当事者研究

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

 

補記:この箇所も重要なので原文と英訳を掲載しておきます。

Es ist eine Haputquelle unseres Unverständnisses, daß wir den Gebrauch unserer Wörter nicht übersehen. -- Unserer Grammatik fehlt es an Übersichtlichkeit. -- Die übersichtliche Darstellung vermittelt das Verständnis, welches eben darin besteht, daß wir die ‘Zusammenhänge sehen’. Daher die Wichtigkeit des Findens und des Erfindens von Zwishengliedern.

   Der Begriff der übersichtlichen Darstellung ist für uns von grundlegender Bedeutung. Er bezeichnet unsere Darstellungsform, die Art, wie wir die Dinge sehen. (Ist dies eine ‘Weltanschauung’?)

A main source of our failure to understand is that we don’t have an overview of the use of our words. -- Our grammar is deficient in surveyability. A surveyable representation produces precisely that kind of understanding which consists in ‘seeing connections’. Hence the importance of finding and inventing intermediate links.

   The concept of a surveyable representation is of fundamental significance for us. It characterizes the way we represent things, how we look at matters. (Is this a ‘Weltanschauung’?)

 

 

■ 哲学者の仕事とは、言語の濫用を避け、ある実践的な目的のために様々な記憶を運び集めることである。(第127節)

 

概略:哲学者の仕事とは、ある特定の目的のために様々な記憶を整理すること (ein Zusammentragen von Erinnerungen zu einem bestmmten Zweck / marshalling recollections for a particular purpose) である。

 

=> 哲学者は何ら新しい発見をせず、私たちが知っていたが、誤った哲学的衝動に駆られて理想化された答えを求めるあまり、見ようとしなかった事柄に私たちの目を向けさせる。ある哲学的問いが出るのは、それなりの実践的な困惑があってのことだろうから、その困惑を解消するために、さまざまな事例を思い起こさせるのが哲学者の仕事である。哲学者は、知性の幻想から私たちを守り、私たちを現実世界にとどめてくれる。

 

 

■ モデルと現実を混同しない。(第131節)

 

概略:私たちが何らかのモデルを使うにせよ、それを現実の姿、あるいは現実がかくあるべき姿として錯誤することなく、あくまでも比較の対象として、いわば物差しとして扱うべきである。

 

=> 私たちはセンチ・ミリで目盛りが入った直線の物差しを使っても、現実の対象が、センチ・ミリの単位にちょうど合う長さをもっていなければならないとか、直線でなければならないとかは考えない。同じように、モデルは現実を観察する際の「比較の対象」にすぎないのであり、現実をモデルに合わせるように歪めて認識してはならない。

 

関連論文

Yanase, Y. (2002) Two Approaches to Language Use: Applied Linguistics as Philosophy.

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/en/00033453

 

ちなみに臨床の名医の神田橋條治先生も、理論の方に患者を当てはめてしまう頭でっかちの医者の批判をしている。

 

関連記事

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

 

 

■ 当面有用な1つの見通しを得るために用語の整理をすることもある。(第132節)

 

概略:哲学的問いに直面する私たちが求めていることは、その問いで問われたことばの使用についての私たちの知識に何らかの秩序(あるいは見通し)を生み出すことである。それは、当面の哲学的問いを生み出した状況からの打開を図るという特定の目的のために、可能な多くの秩序の中の1つを生み出すことである(それ以外ない唯一無二の秩序を生み出すことではない)。この見通しを得るために、哲学は日頃見落としがちな区別を強調するため用語を改善したりする。そのため、哲学は言語の改良を行っていると思う人も出てくるかもしれない。だが、そういった言語への介入は、言語が空転している時に限った必要最小限のものである。

 

=> 思い起こした事例を整理して、全体の見通しを明らかにする際に、新たな用語を提示することもあるかもしれない。だがそのような言語への介入は控えめに行うべき。そうやって得られる見通しは、当面の目的を満たすために得られた見通しであり、未来永劫有用な普遍的なものではない。さまざまな要因が交錯している哲学的問いにおいて、対象と要因と方法論を厳密に限定した科学的問いで得られる普遍性を求めるのは間違いである。

 


 

関連記事

 ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈(この記事)

 https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/89-133.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/1-88.html

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html


 

 


"AI is an empowerment tool to actualize the user's potential."

  本日、「 AIはユーザーの潜在的能力を現実化するツールである。AIはユーザーの力を拡充するだけであり、AIがユーザーに取って代わることはない 」ということを再認識しました。 私は、これまで 1) 学生がAIなしで英文を書く、2) 学生にAIフィードバックを与える、3) 学生が...