この記事は、前の記事の続きで、基本方針は前の記事と同じですのでその説明は割愛します。
以下、「理論」、「コミュニケーション」、「言語」、「技術習得」の順で神田橋條治先生の以下の2冊の内容を私が教育に拡大的に解釈したまとめを掲載します。
神田橋條治 (1990) 『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社
神田橋條治 (1994) 『追補 精神科診断面接のコツ』岩崎学術出版社
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理論
■ 現場を知れば知るほど、単純な理論や物語は語れなくなる
(拡大)解釈:神田橋先生が好む皮肉は、「すっきりした理論をつくるには、できるだけ患者を診ないようにしなくてはならない」である。臨床経験が深くなればなるほど、情報量が多くなり矛盾する情報も増えるので、物事を単純に割り切れなくなる。逆に言うなら、物事を単純に整理できるのは、情報量が乏しい間だけである。(1994. p. 128に基づく)
=> しかし、実験研究は「すっきりした理論」で「明確な結果」を求める。そこに実験研究の知見と臨床の知の相性の悪さがある。現場を、明解な理論による単純な物語だけで説明するのははなはだ困難であり、それを無理押しするとどこかに歪みが生じる。
とはいえ、「物事はそう簡単には割り切れないんですよ」とニヤニヤ笑うだけでは、力量ある実践家とは言えない。実践家は複雑で重層的な物語を丁寧に語る技能を獲得するべきだろう。
■ 学習者を一定の型にはめ込むような理解をしてはならない
(拡大)解釈:対面診断で避けるべきなのは、予め自らが好む理論的立場から一連の問いを決めてしまっておいて、それらの問いにすべて答えてもらえないと診断ができないようになることである。そのような問い方は、学習者を自分の理論の一つの適用例にする誘導尋問である。対面診断では、いつその診断を止めなくてはならなくなったとしても、自分なりの診断ができるように、問いと観察を重ねてゆかねばならない。柔軟に診断仮説を、必要ならば複数作り出せる能力が大切である。もちろん診断ができないと判断すれば、診断を保留しておく勇気も重要。(1994. pp. 136-137に基づく)
=> 「この学習者は○○だ」という診断が、教師の理論的虚栄心を満たすものでなく、学習者の学びを支え、同僚の理解を促進し、学習者自身に実情を伝えるものとなるためには(参考:学びの診断の3つの機能:指導方針、共通言語化、学習者への説明)、学習者を自分が好む一定のパターンで解釈してしまおうとする理論的野望を捨てて、その瞬間瞬間に自分の五感を働かせながら問いを新たに生み出してゆくことが大切。
■ 方法に縛られることで、目の前のかすかな兆しを捉えられなくなる
(拡大解釈):診断クライテリア、標準化された面接法、チェックリスト、定型的カルテなどは、診断者の注意が偏りすぎてしまうことを防ぐために使うべきであり、これらの一定の方法を守ることが自己目的化してはならない。画一的な問い・観察事項しか見ようとしなくなると、学習者のかすかな兆しを見落とす危険が高まる。第一に注意を払うべきは、方法ではなく学習者である。(1994. pp. 137-138に基づく)
=> 話は私が患者として医者に接した経験になるが、世間でよく言われるように、検査項目の数値しか見ようとしない医者、こちらが大切と思う情報を提供しても「それは専門外ですから」と聞こうとすらしない医者には何度も会った。教師でも、個々の学習者の事情を丁寧に見取ることをせずに、予め決められた事項の様子(例えば小テストや期末テストの合計点など)しか評価の対象としない教師は多いのだろう。そんな教師は「公正」な手続きに従っている正しい教師なのかもしれないが、多くの学習者にとってそんな教師は機械的で血の通わない冷たい教師に見えるのかもしれない。
教育においても一定の手続きを守ることは当然大切だが、そういった手続きは、個々の学習者を伸ばすために決めたものにすぎないのではないか。教師の仕事を、学習者が一定の手続きを満たしているかどうかを正確に判定すること、とするならマニュアル化も可能で、どこからの苦情にもつけいる余地を与えない診断(評価)を出すことはできる。だが、それが人を育てることなのだろうか。もし「学校教育なんてそんなもんだ」と割り切るなら、早く、そんな教師を人工知能で置き換えて、浮いた人件費で福祉を充実してほしいとすら私は思っている。
■ 確証バイアスで歪んだ理解をする危険性
(拡大)解釈:少なからずの教師は、自らが好んでいる理論や先入観に都合がよいように所見のつじつま合わせをしているにすぎない。その落とし穴から逃れるには、自分の理解に基づく未来予測を細かに行い、その的中率を確認することで自らの理解が現実に即しているかをたえず自問自答することが有効である。(1994. pp. 12-14に基づく)
=>自らの確証バイアス (confirmation
bias) には誰も気をつけなければならない。自らの理解は、とりあえずの仮説であることを自覚し、それが普遍的な理論の一事例であるなどと思い上がってはいけない。だが、研究に没頭し臨床経験が少なくなれば少なくなるほど、現場観察において確証バイアスが働きがちになるので注意が必要。
■ 厄介な事例の際には因果律の適用に注意する
(拡大)解釈:人間の認識にはおそらく因果律で考える傾向が本能的に刻み込まれている。しかしその本能的傾向に無批判的にしたがっていると時に問題が悪化する。特に「厄介」な事例の場合、教師は手持ちの理論のどれかを使って「あの学習者が悪い特性をもっているから、この悪い問題が生じている」という因果律で満足したくなる(少なくともそう考えれば当面の心理的葛藤からは解放される)。だが、そのような因果律による説明は可能な説明の1つにすぎず、それにばかり拘ってしまうと、全体像を見失い、問題の解決につながらなくなる。そんな時は、必ず別の因果律(説明理論)を考え出し、別の解釈でも考えるべきである。その際に、古今東西のすぐれた文芸作品にしばしば見られるような、善意や善行から悪しき結果が生じる悲劇パターンや、怠惰や悪行から良き結果が生じる喜劇パターンを積極的に想起するとよい。(1990. pp. 163-164に基づく)
=> 自称「頭の良い人」が自分の考えに凝り固まって、現実対応能力を見失ってゆく有様は世間ではよく観察される。そういった不幸な人は、自らの理論の構築と擁護にはこの上なく雄弁だが、その他の解釈は決して許そうとしない。多くの人間は、結局「自分こそは正しい」と思いたいのかもしれない(このように偉そうな文章をブログに書きつける私もそのような傾向があるのかもしれない)。
本来なら、そのような自己中心的な思い込みを止めることが必要である。もしそれが現実的に困難だとしても、「人は自らの正しさを主張する」ということを相互承認することぐらいは達成しなければならない。しかし、その相互承認すらも拒み、あくまでも自分の正しさを主張する人もいるかもしれないところが悩ましい。総論的にまとめるなら、ある人を「困った人」と呼ぶなら、自分も他の人から見れば別の意味で「困った人」なのかもしれないことを忘れてはならない。
■ 安直に悪人を特定する図式で物事を理解してはならない
(拡大)解釈:人間関係のトラブルが生じた時に、「加害者対被害者」あるいは「悪い人対良い人」という図式で物事を理解するのはもっとも拙いやり方である。人間関係を考える際には、悪人が一人も出ないような理解図式を考え出すことが大切である。もし悪人が生じてしまうようなら、なぜその人が悪人の役割を追わざるを得なくなるようになった事情を解明しようとするべきである。そうすると、根底に善意を見出すことが多い。複数の善意の絡み合いやすれ違いが不幸を招いたという物語は、万人が認めるものではないかもしれないが、事態改善のための物語としては非常に優れている。(1990. p. 185に基づく)
=> この教えも、常に心に留めておきたい。どこかに悪人を求める思考法は、そう糾弾された人以外の者にとっては、免責的で思考放棄を許すとても魅力的な思考法だからである。また、実証主義者は、ある一つの事態に対して複数の物語が成立することをもって、物語は信頼ならないとするが、物語を現実的な問題に対処するために適宜採択する作業仮説と見なすなら、物語の複数性はきわめて有用な特徴となる。ちなみに、この考えはヘイドン・ホワイト (Hayden White) の "The practical
past"(「実践的な過去」)にも見られる。
実践者は常に複数の物語(=作業仮説であり解釈図式)を念頭におきつつ、仮説・実行・検証のサイクルを細かく繰り返し、事態の改善に取り組むべきである。
関連記事:
ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店 Hayden White (2014) The
Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/2017-hayden-white-2014-practical-past.html
■ 同一事例を何度も報告することで評論家になってしまってはいけない
(拡大)解釈:同じ事例について何度も報告をすると、その過程で言語表現ばかりが整理され理論化されるが、もともとあった雰囲気や情感が失われてしまうことが多い。それは経験の歪曲化であり、その歪みをなんとも思わず報告を続ける者は、実践者ではなく評論家(あるいは理論家)となってしまう。それを防ぐためには、「一つの事例について報告をするのは一回だけ」という戒律を守ることである。
=> ここにあげられた戒律を私は守れていない。私は英語教育の評論家であるよりも実践家でありたいと願い、職場を教育学部から一般教育担当部局に変えたが、それでも論文を書く中で、自分の好みの事例を複数回使って論を進めていることがある。幸い、英語教育実践の機会は飛躍的に増えたのだから、自分が経験するさまざまなエピソードを適宜記録・記憶し、それらを常に新鮮な形で引用することで論考を進めるようにしたい。
ちなみに私は対面授業では簡単な授業日誌(ほとんどなぐり書き)を書いているが、2020年春に新型コロナ感染拡大で緊急対応し非対面式授業をし始めてからは、その授業日誌を書くことを、11月末に対面授業を再開するまですっかり忘れていた。思い出したきっかけは、学生の顔を生で見たことである。その瞬間に「そうだ、これら一人ひとりには固有の人生があり、それぞれに異なった思いをもっているのだ」という当たり前のことを再自覚し、少しでも授業エピソードを書いておこうと思った。授業日誌を書くことは、言語化することで単なる体験を自分なりの経験に変容させ、関連記憶も想起し、その後の観察の視点も得るという点で非常に有用である。
■ 自分が使っている理論は、「規制する理論」か「導きの理論」か
(拡大)解釈:理論は、既定の構造を保ち事態の安定をもたらす「規制する理論」でもありうるし、既定の構造を破壊し新しい視点と行動を生む「導きの理論」でもありうる。概して言うなら、規制する理論は何かを禁止し、導きの理論は新たな可能性を示す。自分が理論を使っている時には、どちらの種類の理論としてそれを使っているかを自問自答すればよい。ちなみに、哲学は、導きの理論を模索するための特別な理論であり、混沌とゆらぎをもたらす。対人関係での実践者は哲学への関心をもつようにするのがよい。(1990. p. 222に基づく)
=> 私は神田橋條治先生の精神医学の理論を哲学的なものとして解釈し、教育についての新たな思考法や行動法を学ぼうとしている。神田橋先生の著作を「導きの理論」として読んでいるわけである。だが、その学びの中で、私なりに神田橋先生の理論を整理するにつれ、それがやがて「規制する理論」と変容することもあるかもしれない。「虎の威を借る狐」のように、神田橋先生の言説を教条化して、自他の教育的な思考・行為にダメ出しばかりするようになってしまうかもしれない。私はそのような可能性を避け、神田橋先生の理論を、私を構成する数々の要素の一つとして、適宜使いこなせるようになる必要がある。
コミュニケーション
■ 発話の基盤はノン・バーバル(あるいはプレ・バーバル)な要素である
(拡大)解釈:発話に伴うノン・バーバル(あるいはプレ・バーバル)な要素は、昆虫以上に進化したすべての動物が共有するコミュニケーションの本流である。人間の言語は、そこから派生した特異な分枝に過ぎない。(1990. p. 46に基づく)
=> 英語教育は「外国語教育」、すなわち学習者の身の回りでは使われていない言語の教育であるが、それでもこういった言語の身体性を重視しないと、言語(英語)は学習者の「身につかない」。一部の言語学習者にとっては「言語は自律的・抽象的な形式体系である」が根本的認識なのかもしれないが、私にとっては「言語は第一に身体の表現である」というのが根底的信念である。
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■ 発話の鳴き声的側面と言語内容的側面の使い分け
(拡大)解釈:人間の発話は、プレ・バーバルな鳴き声的側面と、イメージ伝達に使う言語内容的側面に二分することができる。プレ・バーバルな側面は、個体を抱え育む環境作りに馴染みやすく、言語内容的な側面は個体をゆさぶる異物の操作に馴染みやすい。(1990. pp. 56-57に基づく)
=>
大学院に進学すれば、言語を精緻に使い分け、内容を厳密に記述する言語技能を身につけることができる(よい指導教員とゼミ仲間に恵まれればの話だが(笑))。だが、人を惹きつけるプレ・バーバルな言語使用についてはほとんど誰も意識していないため、体系的な指導を受けることができない。
他方、学歴は高くなくても世間でもまれた人は、プレ・バーバルな言語使用に長け、人々の共感や信頼を得てゆく。
当たり前のことだが、言語教師は両方の側面において発話技能を高めなければならない。
■ 非言語レベルと言語レベルでの学習者支援
(拡大)解釈:対面しながら学習者への支援を行う場合は、非言語レベルと言語レベルにおいてそれぞれ以下の点に留意するべきである。
非言語レベルでの支援:一般的で肯定的な支援を広く浅く行う。非言語レベルで深い支援を対面しながら行おうとすると、関係性が教師と学習者関係以外のものに逸脱しかねない。教師は対面時に学習者を支援する際は、自らの非言語レベルでの行動・仕草・表情などが、「暖かさ」や「やさしさ」を示す常識的なものであり、その支援を広く浅く行うよう心がけなければならない。
言語レベルでの支援:的確な言語を使って、具体的な機会に即した理解や叱責を明確に示す。言語レベルでの支援を、広く浅く常識的なものに留めると、学習者の信頼を失うことがあるので、教師は、言語を使って学習者を支援する際には、自らの言語が内容面においても目的においても焦点が定まった言語を使わなくてはならない。(1994. pp. 51-53に基づく)
=> 無難な助言ばかりをするので学習者からの信頼を得られない教師や、焦点は明確だが的外れのことばを投げつけることで学習者を憤慨させてしまう教師は多い。また非言語レベルでの対面行動が、特定個人に対して濃密に表現されると、教師と学習者が同性・異性にかかわらずさまざまな問題を引き起こしかねないことは周知の通り。
■ 「ヒト」として対応するか、「人間」として対応するか
(拡大解釈):人間には「ヒト」としての生物的・情動的な側面と、「人間」としての文字文化的・抽象的な側面があるが、対人関係のコツは、相手が「ヒト」の側面を前面に出してきた時はこちらも「ヒト」の側面を出し、「人間」の側面を出してきた時はこちらも「人間」として応対することである。(1990. p. 180に基づく)
=> たしかに相手が情動を表明して「ヒト」としての訴えを行っている時に、こちらが情動表明を抑圧して抽象的な対応しかしないのは相手を追い込むことになる。逆に、相手が「人間」としての抽象的・理性的な論証をしている時に、こちらが「ヒト」として切々と語っても話は噛み合わない。とはいえ、相手が動物的な怒りを表明した時に、こちらも情動的に対応しようとすれば、それこそ
“fight or flight” で怒鳴り返すか逃げ出さんばかりに怯えることになりかねない。自己中心的な相手が子どもじみた情動を示す際には、こちらはあくまでも冷静に理性的な対応をするべきだろう。もっとも「子どもじみた」と書いたが、教師の中には文字通りの子どもを教えている人も多いのだから、そのような人にとってこの追加は、まったくの無駄話だった。
■ 教師は、学習者に「わかりません」と言わせるような問いをしてはいけない。
(拡大解釈):教師の問いに対して、学習者が「わかりません」と答えたら、その問いはその学習者にとって適切なものではなかったと思うべきである。(1994. p. 139および1990. p. 192に基づく)
=> うまくいっていない授業では、教師の問いに学習者が、同じようなトーンで「わかりません」「わかりません」と答え続ける。問いを続ける教師は学習者に対する静かな怒りを抱き、学習者はその単調な口調で授業に失望していることを表現し続ける。だが、上のように、「学習者に『わかりません』と答えさせる問いは、問いそのものが悪い」と仮定してみると、教師の力量は上がるかもしれない(もちろん、教師の気持ちが折れてしまわないことが大前提だが)。教師は個々の学習者の理解や関心や意欲についてより丁寧に知ることが必要となるからである。
■ 答えやすいが情報量は少ない答えを求める問いから、明確に答えにくいが情報量は多い答えを求める問いまで
(拡大)解釈:問いは疑問詞でいえば、次の順番で答えの情報量は増えるが、それは同時に答えにくい問いであるということである。
(1) Yes or No, (2) Which, (3) What / Who, (4) Where / When / How,
(5) Why
逆にいうなら (1) の問いからはもっとも明確な答えが得られ、数字が上がるにつれ、答えの明確さは失われる(それは同時に、聞き手の解釈の力が必要だということでもある)。(1994. p. 150に基づく)
=> 上の順番は神田橋先生が提示されたものであるが、私にはどうも WhereやWhenが WhatやWhoよりも答えにくいとは思えない。だから、私なりに言い換えるなら次のようになる。
(1) Yes or No, (2) Which, (3) What / Who / Where / When, (4) How,
(5) Why
■ うまく働く「なぜ」は、話の高まりの中で自然に生じる
(拡大)解釈:「なぜ」という問いは、答える側に、必ずしも明確に説明できない多大な情報の提供を強いるものである。故に慎重に取り扱わなければならない。うまくいっている対面診断では、「なぜ」という問いは、話し合いの重要なポイントで生じる。「なぜ」と問うのは対面診断を行っている教師の場合もあるし、診断されている学習者の場合もある。いずれにせよ、話し合いの気運が高まってきた末の「なぜ」は、問う者が「今なら、『なぜ』と尋ねても実のある答えが返ってくる」と確信した時に出てくる。問われた方も、問う者のその問いの言語だけでなく、言語以前の身振りや表情も見ているので、問う者の真剣さを受け止め、それに応えようと困難な問いに立ち向かうことができる。(1994. pp. 159-160に基づく)
=> 逆に言うなら、話の最初から「なぜ○○をするんですか/しないんですか?」と詰問調に問いただすなら、問われた方は身構えてしまい、心を閉ざしてしまうだろう。「なぜ」は強力な問いかけなので、取り扱い注意ということは心に刻んでおかねばならない。
■ 「なぜ」を問い続けることで人を追い詰めることができる
(拡大)解釈:「なぜ」は、しばしば説明を求めるためというよりは、聞き手の納得できない気持ちを表明するために用いられる。したがって「なぜだ!」はしばしば叱責のことばとなるし、「なぜ○○しないのですか?」は聞き手に○○を強要することばとなる。「なぜ」を繰り返す子どもは精神的に大人に依存しているが、学習者に「なぜ」や「なぜ○○しない」を投げかけ続ける教師は、実は学習者を叱責・強要・吊し上げしているのであり、教師としての診断・指導能力がないことを告白しているにすぎない。(1994. pp. 161-166に基づく)
=> 「なぜ」を繰り返す教師は、自らの力量のなさを棚に上げて、その問いに対して答えない学習者に学びの不成立の責任をすべて押し付けることができる。もちろん、話の流れを踏まえ、「なぜ」の口調を変えた上で、「なぜ○○してしまうんだろうね。どうだろう、このことについて一緒に考えてみない?」とうまく誘うと当事者研究の入り口に学習者をいざなうことができる。
関連記事
英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
■ 学習者の「なぜ」は大切にしなくてはならない
(拡大)解釈:「なぜ」の特徴を踏まえた上で述べるなら、学習者から教師への「なぜ」の問いかけは尊重されるべきである。その問いは、学習者が教師に対して積極的な関与をしようとしていることを示しているからである。(1994. pp. 170-171に基づく)
=> 以前あるブログで「学習者に『なぜ英語を勉強しなければならないのですか?」と問われたら、教師はどう答えるべきか?」という特集が開かれ、多くの英語教師が自分なりの答えを示した。私はそこに投稿しなかったが、私の考えは次のものだった。「その問いはそもそも純粋な問いでない場合もあるので、それに対する万能の答えはない。ただ、その問いが、学習者が教師と何らかの形でコミュニケーションを取ることを求めていることを示すことだけは確かだから、教師としてやるべきことは、既定の答えを返すことではなく、そこから学習者と何らかの対話を始めることである」。
■ 望ましい方向への誘導方法
(拡大)解釈:対面診断の質問で、教師が舵取りをするためには、学習者に選択の余地を与えるときに、教師が好ましいと思う方を先に提示するようにする。(例:「どうしようか。このままなんとか止めずに続けてみる?それとも思い切って止めてしまおうか?)。ただし提言をする際にも観察は続けるので、最初の提案の時に学習者の不随意運動に否定的なもの(例えば顔の表情が曇る)が生じたら、上の提言も、途中で適当に変えるべきである(例「どうしようか。このままなんとか止めずに(表情の変化に気付く)続けるのはやっぱりきついかなぁ。もちろん続けてもいいんだけれど・・・」)。
=> このあたりの介入・コントロール・計画性をどれだけどのように入れるのかについては、微妙な判断が必要だと思われる。こういった技量が乏しい私としては、教師としての自分の介入・コントロール・計画性をできるだけ減らすことを今の所の原則としている。とはえいえ、これは単位を落とすことや休学・退学が原則として学生本人の自由である高等教育機関だからこそ許されているのかもしれないが。
■ 助言をする場合は、相手の選択の余地をできるだけ広くする
(拡大)解釈:教師が学習者に助言やアイデアを提示する時に大切なのは、できるだけ3つ以上を提示し、そこから学習者に選ばせるやり方で、学習者の自己統御感を高めることである。
また同様に大切なのが、その時の雰囲気である。比喩的に言うなら、助言やアイデアを教師と学習者の間にそっと置くような感じである。学習者がそれを取ってもよし、取らなくてもよしという雰囲気を出すべきである。(1990. p. 140に基づく)
=> これも実践者なら身体に叩き込んでおくべきこと。案を複数出すことはまだ意識しやすいが、自分が醸し出している雰囲気は自覚しにくいだけに注意が必要。私は神田橋先生の「すべての療法の核にあるのは雰囲気」という考えをすごいと思っていると再三にわたって書いているが、もっと自分の中に「大切なのは雰囲気」ということばを染み込ませねばならないと反省。
■ 人間関係上の問題には双方が絡んでいる。
(拡大)解釈:厳密に言うなら、厄介な学習者というものはいない。ある教師にとって厄介な学習者が、別の教師にとっては特に厄介ではないことも多い。あるいは、教師と学習者が互いに関係性を好ましいとは思っていなくても、その思いの程度は両者で異なることも珍しくない。それが人間というものである。(1990. p. 128に基づく)
=>(私も含めた)教師は自分の思い通りにいかない学習者をしばしば「困った学習者」として認識し、問題がすべてその学習者から生じたものだと考えたくなるし、時には同僚にもその同意を求めたりする。そのような教師にとって、「人間関係での問題において、片方だけが100%悪いということはない」ということは忘れてはならないことだ。もっとも、こういったことは世間で揉まれた人なら誰でも知っていることで、ことさら大学教師がブログ記事に書くことでもないのだが(苦笑)。
■ 「厄介は能力」
「厄介」とされる問題行動も、学習者の力の現れである。むしろ、表に出せる力が大きければ大きいほど、その学習者には大きな力があるということになる。その力を、社会の中に生きる本人にとって好ましい方に導くのが教師の力。とはいえこれも「言うは易し行うは難し」なので、「厄介は能力」を合言葉にして、問題行動に敢えて「能力」(あるいは「力」)ということばを付けて、アイデアを練ることが教師にも求められる。(1990. pp. 144-145に基づく)
=> 「○○力」という用語を敢えて使うことにより、問題行動に対する解釈を否定的なものから肯定的なものに変えて、かつ、問題行動をその人から切り離すこと(=問題の外在化:問題と人を分けて考えること)は、当事者研究でも見られる手法でもある。
しかし、こういった手法について語ることは本当に簡単だが、いざ自分が問題に巻き込まれた時にそれを実践することはとても困難である。人間関係に関する知恵は、実践者の心の平安が保たれていないと実行できない。そして問題行動はたいていの人の心の平安を乱すわけであるから、こういった知恵は「当たり前のようでいて、とても当たり前にはできない」ことになる。
人間修養ということばを使うと説教臭くなってしまうが、人文系の学問を学ぶ者には人間修養は不可欠だろう。もっとも論文生産技術に長けた研究者からすれば、そのような言い分など、論文を書けない者のごまかしに聞こえるかもしれない。また実際、人間修養や道徳を声高に語る者にはいかがわしい者も少なくない。だが、人文系の学問を実学的なものにするためには、研究者はまず自分の身を修めなければならないと私は考える。もっともこれは、私自身がおよそ成熟していないからこそ思っているに過ぎないのかもしれない。
■ 現在は合意できていないことを合意してから、部分的な合意に向けて共に努力するように仕向ける
(拡大)解釈:合意がなかなか取れない相手とは、最初にお互いに合意できない点があるということについての合意を得た上で、非合意の一部でもなんとか共有できるように努めることが好ましい。具体的には「私は○○だし、あなたは○○ですから、本来はお互いに理解できないはずですが、無理に理解を試みるとすれば○○といったところでしょうか」と言った言い方が役立つ。(1990. p. 194に基づく)
=> あるところで、取り調べ室での上手な尋問の仕方は、まず相手に首を縦に振らせて、その後もできるだけ首を縦に振らせ続けることだと聞いたことがある。「本当はお前がやったんだろう」なら相手(容疑者)は首を横に振ってしまい、その後の流れが断ち切られてしまう。だが「寒いなぁ、この部屋は」、「出身は南の方だって?」、「留置所に入ってもう○日になるかなぁ」などといった始め方をすると、それなりに話の流れができてくる。
物語の語り方 (storytelling) においても、私は読み手・聞き手の首をどの順番でどう動かすかが私は大切だと思っている(詳しくはいつか他所で)。首を縦に触れない非合意事項が避けられない事案でも、どのように話の流れを作るかという工夫は常に必要だろう。
■ 謝罪のことばは大切に発するべきである
(拡大)解釈:自分が謝罪を行わなければならない場合は、相手の怒りや悲しみを引き受け、自分自身で共感や後悔や自責といった気持ちが高まってから、謝罪のことばを口にするべきである。(1990. p. 198)
=> 時々、自分に非があるとすればすぐに謝罪のことばを出しておき、後で「ちゃんと謝ったではないか!」と逆ギレする人がいるが、そのような人は、相手の気持ちを共感的に理解するという相手にとっての「抱えられ育まれる環境」を提示していない。また、そのように安易に出される謝罪のことばには、それに伴うべき適切な表情や仕草が含まれていないことが多い。重視されるべきは「不随意運動 > 随意運動 > 言語」という観点から考えると前の2つを無視して、発言内容だけを盾にとって話を自分にとって優位に進めようとするそのような謝罪行為は褒められる行いではない。だが、口調・表情・仕草などは微妙であり、発言内容ほど明確ではないので、「私は謝ったじゃないか」という逆ギレに抗弁することはそれほど容易ではない。ましてやツイッターといったSNSメディアでは、活字化された言語しか見えないので、こういった雰囲気は伝えられない。書きながら自覚し始めたのだが、私がSNSを好きになれないのにはこのようなことも関わっているのかもしれない。
■ 対面診断も「出会い」に過ぎない
(拡大)解釈:対面診断は、診断という目的をもって行う意図的・計画的なものであるが、その本質は生身の人間の出会いである。さまざまな縁起が重なって人間と人間が出会ったのであり、その偶然性・偶発性・はかなさに思いを馳せない対面診断は、結局のところ、学習者のためにも教師のためにもならないだろう。(1994. p. 56に基づく)
=>私見に過ぎないが、自らが科学的であると信じ切って、診断的な調査を断行し、その結果を被調査者にも一般聴衆にも科学的結論として提示する教育研究者を私はあまり信頼することができない。自らの観察(ひいては理論)は所縁に導かれた末に得られたものではなく、真理から必然的に導出されたものであると信じている鼻息の荒い研究者のことばは、被調査者や一般聴衆の可能性を抑圧するだけなく、その研究者自身の潜在的な可能性も歪めているように思う。
■ 対面指導では、究極のところでは、技法よりも正直さの方が重要
(拡大)解釈:強引な単純化をすれば、「対面指導で大切なのは、自分の正直な気持ちや考えを正直に伝えること」となる。対面指導の技法の具体も大切だが、「対面指導の本質は、技法を捨てた状態だ」とも言える。正直さだけで行うコミュニケーションが、教師と学習者の間のコミュニケーションのずれを消し、その雰囲気が、学習者の中にある自己対自己のコミュニケーションのずれをも消す。そのことによって学習者の中の自助能力が働き始める。(1990. pp. 230-231に基づく)
=> この箇所は特に拡大解釈が甚だしいので注意が必要。上の「対面指導」は神田橋先生の「精神療法」をそのまま書き換えたもの。精神療法が原則として1対1で行われるのに対して、教育における対面指導はしばしば1対多で行われるといった違いを無視したまま、アナロジーを展開しているので、上の拡大解釈が妥当なものかについては読者の皆さんが一人ひとり吟味していただきたい。
もちろん私は上のアナロジーが通用すると信じているので、上の拡大解釈を書いたわけだが、その記述の中でもやはり「雰囲気」が重要だと考えている。「正直なコミュニケーション」といっても、たとえば「自分の怒りの感情をそのまま表出してしまうこと」などはその一例ではない。ここでの「正直さだけで行うコミュニケーション」は、自分が相手に下に見られるリスクを知りながら自分の困惑や無力感を吐露し、相手の状況に対する共感的理解も示すといった、複雑で微妙な対話だろう。そういったコミュニケーションには、通常のぞんざいなコミュニケーションには見られない独自の静謐な雰囲気がある。であるから、この「正直さが大切」といったテーゼも、単純に理解するのではなく、「雰囲気が重要」という神田橋先生の見解の中核を始めとした神田橋先生のさまざまな教えの中で理解するべき。その文脈から引きずり出して、これを抽象的な真理などとしてしまってはいけない。
■ 指導者が正直になれるには、最低10年ぐらいのトレーニングが必要
(拡大)解釈:複雑に入り組んだ自分の気持ちや考えをまずは率直に理解して、かつ、それらを他人に誤解されないように正確かつ繊細にことばで伝える技術が、対面指導のトレーニングの基盤である。だが、この基盤をある程度身につけるには最低10年ぐらいのトレーニングが必要。(1990. p. 232に基づく)
=> 「困った子」は「困っている子」ともよく言われるが、困り果てた学習者は若いこともあり自分でも気持ちを処理できず問題行動を起こす。その問題行動には教師も振り回されてしまう。その混乱の中でも教師が自分の気持にも問題行動を起こす学習者の気持ちにも静かに正直に向かい合い、その中で芽生えてきたことばを大切に学習者に届けることは確かに容易ではない。怒りを偽善的に抑圧してしまうのではなく、もちろん怒りに任せて相手を追い込むだけのお説教をするのでもなく、相手の気持ちにも自分の気持ちにも忠実にいることでなんとか打開点を探ることは、教師がさまざまな経験の中から自覚的・反省的に学ぶことだろう。
またもちろんのこと、間接経験として、教師はさまざまな文芸作品(小説・戯曲・詩・演劇・映画・ドラマ・オペラ・ミュージカル・歌曲などなど)から人間のあり方とその表現法について学ぶべきだろう。まったくの蛇足だが、私は最近眠る前に古典落語を聞くことを楽しんでいる。どんな登場人物にも「しょうがないなぁ」という弱みや欠点があり、そんな中で人間がなんとかやってゆく暮らしぶりが描かれている。江戸の昔から語り継がれてきた噺には何かあるはずだと私は今の所、新作ではなく古典落語ばかり聞くようにしている。古典落語のストーリーだけではなく、ことば、そしてその語り方からも、学べることはたくさんあると感じている。
関連サイト
中島岳志:落語「文七元結」-長兵衛はなぜ文七に五十両を差し出したのか
https://www.mishimaga.com/books/ritateki/002634.html
言語
■ 鳴き声としての言語発話
(拡大)解釈:人間も動物である以上、動物種の1つのヒトとして考える場合は、言語発話を鳴き声の一種として扱うことが正しい。鳴き声が伝えるのは、その動物の生体機能・情動・ごく単純な意思決定に関する現在の状態である。(1994. p. 119に基づく)
=> 教師は他の近代人同様、どうしても言語発話の内容(いわば発話を活字化・標準化して得た文字通りの意味)ばかりに注目して、言語発話の基盤となっている発話者の現在の状態に注目しない。また、教師と学習者の双方がやる気をなくしたようなクラスでは、どちらも発声を単調なものにして自らの個性を消し、それぞれの心身の状態をほとんど伝えない棒読み的な発声を続ける。
ちなみに私はここ最近、週末に帰る自宅には猫がいるので、その2匹の猫から鳴き声を的確に理解することがどれほど重要かを教えてもらっている。猫とコミュニケーションをしていると、自分では身体的・情動的な表現を大切にしているつもりでも、存外、ことばの文字通りの意味に頼ろうとしていることがあり、はっとさせられる。
■ 言語により人間は他の動物とは決定的に異なるようになった
(拡大)解釈:「ヒト」は言語を使用し始めることにより「人間」となった。人間は鳴き声に言語という記号体系を取り入れたため、強力なイメージ界構築能力を有するようになった。そのため、構築されたイメージ界が人間に影響を与え、ヒトとしての体調を乱すことすら生じるようになった。(1994. p. 120に基づく)
=> ある発話内容が、特定文脈を離れて常にある人間に伴い、その人間に肯定的な影響を与えることの例は、理念や訓示により自分を律することであろう。だが文脈を離れた言語は否定的な影響を与えるようになることもある。その場合、人間はヒトとして弱りはじめる。
鳴き声と違い、言語は体系的な記号の1つとして認識されるので、文脈を離れてもその意味喚起能力を失わない。その能力によって書きことばは、遠くまで同じメッセージを伝えることができるようになったし、近代人の素養として書きことばを操れるようになることが必須となった。またこの書き言葉がインターネットなどを通じてその伝播能力を飛躍的に高めたのも周知の通り。人間は、言語とりわけ書記言語を操るようになり、単なる鳴き声しかもたない他の動物とは決定的に異なる動物となった。
■ 人間の外界操作能力を暴走させない
(拡大)解釈:生物はすべて自らと環境の間に調和を図りつつ生きている。植物は、自ら変化するだけで環境に適応する。動物は自ら欲するところに移動すること、および環境の一部を操作して変えることで生き延びる。この外界操作能力が異様なまでに発達したのがヒトであり(言語を獲得した)人間である。(1990. p. 1に基づく)
=> だが、この外界操作能力の「外界」に他人の意識・認知までも含めてそれを変えようとすると、さまざまな悲劇が生じるのは周知の通り。教育も、教師が学習者を操作・管理・支配をする発想ではなく、学習者を一人の人間として認めた上で、その人間が生き物として現代社会という環境に適応をすることを支援するという発想に変わらなければならない。
■ 暴走する言語文化
(拡大)解釈:言語を獲得し、「ヒト」から「人間」になった私たちは、さらに書き言葉・活版印刷・インターネットといったテクノロジーを利用するに至り、生物本来としては傍流であったはずの言語文化によって、生体機能が痛めつけられてしまうことが珍しくなくなっている。そうなると、言語文化はヒトにとっての癌細胞であるという比喩さえ成立する。あるいは人類(人間全体)は、地球の生態系にとっての癌細胞とも言えるかもしれない。(1990. p. 68に基づく)
=> 言語操作能力を向上させる際には、その向上がその人間そしてその人間が生きる社会を幸福にするのかという問いかけを失ってはならない。文芸作品などを使って言語を学ぶ場合は、そういった問いが学びの底流に流れているだろうが、昨今の英語教育では誰が書いたかわからないような無機質な文章が「機能的」で「テストしやすい」といった理由で使われているのは周知の通り。最近の英語教育業界の話題の一つは機械による自動採点だが、ここでもいかに言語教育から人間的側面を減らして形式的操作の側面を増やすかというのが大前提となっている。私はこうした業界の流れにどうも馴染めない。
技術習得
■ 教師を育てることも、学習者を育てることと同じ
(拡大)解釈:教師の職能をさらに育てる教師教育におけるトレーニングも、学習者を育てるためのトレーニングと同じである。教師教育の最終目的も、その育てられる教師(当事者)の「読みとる」「関わる」「伝える」の3つの機能の上達である。その際にも、その当事者の意欲と能力を「妨げない」「引き出す」「障害を取り除く」「植えつける」順で事を進めるべきである。(1990. p. 204に基づく)
=> 物事を説明する際に、できるだけ特殊理論を作ろうとする人と、できるだけ一般理論を適用しようとする人がいるが、私は後者のやり方を好んでいる(そもそもそれが「オッカムの剃刀」の意味だろう)。しかし「教科教育学」といった後発分野は、学問政治において自分の地位を高めるために、自分たちの理論は独自の理論であることを主張しようとする。かくして「○○科教育学」というのが教科の数だけ生じる(さらにはその下位分野も生まれることも珍しくない)。その結果、「○○科教育学」の枠組みで育てられる者は、その特殊分野の書籍や論文しか読まなくなる。偉そうな言い方をすると、一般教養が乏しい。しかし、本来は、さまざまな事象もまずは、一般的な原理で説明することを試みるべきではないか。自分の分野に閉じこもらずに、広く読書をするべきであろう。
■ 名人芸の伝承は徒弟制的な体得が王道
(拡大)解釈:実践の熟達者の中には、自分の技術を自分と分離して客観視することを苦手とする人も多い。そのような人の実践を学ぶには、その熟達者の身近にいて、染み込むようにいつのまにかその実践の本質を体得するのが王道である。次善の方法として、観察者が熟達者の名人芸を言語化するか映像として残すことがある。(1994. pp. 15-16に基づく)
=>言語化や映像化が次善の方法にすぎないのは、言語や映像は現象の一部しか捉えることができず、その部分的な情報伝達からはさまざまな誤解が生じるからである。私は前任校の広島大学教育学部で、最初のうちは学部3年生に、さまざまな実践映像を見せた。だが、残念ながら学生はきわめて表面的な観察しかできず、またその観察から自らの先入見に引きつけた解釈ばかりに拘泥することが多かった。そこでその後は、その実践を私なりに分析した文章を読ませてから映像を見せることにした。しかしこの方法にしても、私の分析を先入見としてしまい、その点からの観察ばかりに学生を留めてしまう危険性がある。またカメラマンと編集者の視点変更に従うしかない映像観察では、そもそも現場で自分の直感にしたがって観察対象を変えながら細かな仮説検証を繰り返すことができないので、その点の力量形成に寄与しない。
■ 言語化の限界を自覚した上で言語化を進める
(拡大)解釈:実践の対象化・客観化・言語化は技を学ぶためには次善の策とはいえ、そのような訓練を得て得られた言語力は、実践者の学びの媒体の1つとして重要な役割を果たす。(1994. p. 20に基づく)
=>我田引水になるが、私はこのブログの前の前のウェブサイト(「英語教育の哲学的探究」)の頃から熟達者の実践の言語化を試みてきたが、当の実践者から真顔で「自分でやっていたことが理解できたように思う」と何度も言われてきた。言語化は次善の策に過ぎないかもしれないが、限界があることを自覚している限りにおいては進められるべきだろう。
関連サイト
英語教育の哲学的探究
https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/
■ ケース・カンファレンス(事例報告会)のあり方
(拡大)解釈:ケース・カンファレンス(事例報告会)では次のことに気をつけるべきである。
(1) 報告の焦点:報告者は、まんべんなく報告するのではなく、自分がもっとも興味をもっていることを中心に報告するべきである。そうすることにより、豊かな情報提供ができる。
(2) 文字情報の使い方:レジメは作っておいたとしてもそれは会の最後に配るべきである。報告では、文字情報はできるだけ使わず、話し言葉で報告するべきである。その語りの中で、報告者も聴衆も互いの口調や表情や仕草に注意が向くようになる。文字ばかりを読む報告は、理論家は育てても実践家は育てない。
(3) 聴衆は報告者を支援する:聴衆の役目は、報告者を支援することである。鋭い質問で報告者を追い込むと、ある局面に関する情報は集中的に得られるかもしれないが、場の雰囲気が悪くなると、報告全体が伝える情報量はかえって貧困になる。
(4) 会の前後で参加者がそれぞれに変化する:司会者の役割は、参加者全員が、会の参加の前後で何らかの変化が生じるように仕向けることである。プロを育てる報告会の場合は、参加者が、会が終わった後も考え続けるような変化をもたらすこともよい。
(5) 発言の内容と時間のバランス:すべての参加者は、自分が発言している時は、他のすべての者の時間を奪っていることを自覚して、自分の発言がそれにかける時間だけの意義をもつかを自覚するべきである。もしそのような自信がもてないなら、大人数の報告会ではなく、少人数の茶飲み話会を開いた方がよい。(1990. pp. 213-216に基づく)
=> (1)の報告の焦点については、私がかつて現職教員の研修会のスーパーバイザーをしていた時、「研究報告も、同僚に『ねぇ、聞いてよ』と語るようにストーリーとして語ってはどうでしょうか」と提言し、それなりの成果を得てきたと自負している(下記論文参照)。
(2)の文字情報の使い方については、身体性やライブ性を大切にする講演者の中には、予め話の流れを決めておくことも避けて、パワーポイントなどのスライドも使用しない人もいる。私はそこまではできずパワーポイントを利用するが、それでも研究発表の時も授業と同じように聴衆とのアイコンタクトを大切にしている。私にとってアイコンタクトは、講演・授業の成果を告げてくれるよい指標である。
(3)の聴衆の支援については、よい雰囲気を保ちながら解明的な質問や建設的な批判をすることが重要だろう。これも下の論文に書いたが、いわゆる校内授業研究では、聴衆が無難な質問しかしない傾向があり、よい雰囲気が共有されるまでにはいたっていないことが多い。
(4)の会の前後での変化についてはまったくその通り。上では私はアイコンタクトを研究発表や授業の成果を推測する指標の一つとしたが、この指標も同じように重要。ただ、この指標は質的なものであり、アイコンタクト以上に実証的に示せない。
(5) 発言の内容と時間のバランスについてもその通りだが、大きな研究会などでは自己承認欲求を満たしたいエゴが強い人がしばしば長々と発言することは周知の通り。まあ、そういう人のことはさておき、現実的な研究会(そして授業)の運営法の一つとしては、私は自分の一斉説明を(できるだけ短く)行った後に、全体のQ&Aセッションとグループでの話し合いセッションを入れるようにしている。全員が聞いているという緊張の中でのやり取りと、小集団の中での気楽なやり取りには、それぞれの良さがあると考えるべきだろう。
関連記事:
樫葉みつ子・柳瀬陽介 (2020) 「当事者研究から考える校内授業研究のあり方」
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2020.html
■ 人の統合の理想像は、単一体系ではなく、変幻自在な複合体である。
引用:人の成長における統合の理想像は「心をより複雑に」していった終点としての、混沌とゆらぎである。この統合状態は、決して弛緩したありようではない。微かな刺激が加わると一瞬にして反応がおこる過飽和の気体に準えられるような、静かに張り詰めた雰囲気の混沌、が統合の理想像である。(1990. pp. 218-219よりの引用)
=> この箇所の表現は見事なので、そのまま引用した。敢えて、私なりの言い換えをするなら次のようになるかもしれない。
成長するにつれ、人はさまざまなことを学び、それらを統合してゆく。だが、その統合は決して一つの原理だけに還元できる単純な体系とはならない。心を構成する多種多様な要素は、さまざまに結びつきうる可能性を保ったまま、その人の中で流動している。何かの刺激を感知するや、それらの要素は、その刺激への対応にするために適した組み合わせとして再統合し、その人はその事態に対処する。だがその対処も固定的なものではなく、事態の変動に応じて、異なる要素による再統合を行う。
■ プロとはどこでも常に一定以上の成果を上げる者のことをいう
(拡大)解釈:いかなる分野においても、プロの技術とは、目覚ましい成果を上げることではなく、常にどんな場面でも一定以上の成果を出して、ひどい失敗を起こさないことである。そのためには基礎的な技術を常に磨いておく必要がある。(1990. p. 128に基づく)
=>完全な脱線話になりますが(笑)、私はこういった意味での「プロ」を元広島カープの黒田博樹投手に強く感じます。黒田選手のような教師・研究者になりたいと思い続けていますが、私の現実の行動はその思いを裏切るばかりです。しかし黒田投手への憧れは私の中でずっと続いています。
関連サイト
ウィキペディア:黒田博樹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%8D%9A%E6%A8%B9
■ 「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」
(拡大)解釈:経験から言えることは、困難を打開するには、自分が変わらなければならないが、変わるためには自分が十分に窮していること(困りきっていること)が必要だということだ。だが、人は困っている時に、自分の無力を存外に否定しているものである。その否認があるうちは、なかなか自分の中に変化は生じない。だが、窮している自分に充分に直面すれば、ほどなく自分の中の構造ががらがら崩れ、その混沌の中から新鮮な連想が湧いてくるものである。(1990. pp. 228に基づく)
=> 「陰極まれば陽に転ず」という格言も、これに似ているのかもしれない。あるいは、自分(たち)が無力であることを認めた時に、新たな可能性が生じるという発想は、当事者研究やAlcoholics Anonymousにも見られる。
関連記事
Wikipedia: Twelve-step program
https://en.wikipedia.org/wiki/Twelve-step_program#Twelve_Steps
■ よい教師になるには、自分らしさを最大限発揮しなければならない。
(拡大)解釈:自分という人間にとって最良の教師となるためには、自らのもって生まれての資質と人生経験で染み込んだ学習内容を、対面指導の技法に活かすしかない。つまり対面指導の技量を高めるための教師の目標は、自分なりの技法とその基盤となる理論を一人ひとりが築くことである。もちろん先人の技法や理論も学ぶが、それらは目標に至るまでの通過点と考えるべきである。先人の技法や理論の代弁者になることが目標ではない。他人の技法や理論は、自分の可能性を発見するための型であり、それは守破離の過程を経た上で、状況に応じて自在に使いこなすべきものである。それは自分の構成要素の一つであるが、すべてではない。良い教師となるためには、人間としての自らが身につけているものすべてを総動員して、その結果、もっともその人らしい教師になることが必要である。(1990. p. 257に基づく)
=> それなりに実践家を見てきて、自分でも実践家として職業生活の最後を終えようとしている自分としては、この主張にも深く頷く思いである。しかし、この主張は、多くの教育方法論の研究姿勢を根本的に疑うものであることにも注意したい。多くの教育方法研究は、普遍的な(あるいはそこまで大げさなことばを使わないにせよすべての人にとって)有効な指導方法があるとして、それを実証するための比較実験研究などを繰り返している。しかし、おそらくそういった最大公約数的によい方法とされるものはおよそ常識的なもの(例:「学習者一人あたりに肯定的な関心が向けられれば向けられるほど学習成果は上がる」)ぐらいのもので、現場で悩んでいる実践者にとってはほとんど情報量がないものだろう。
たまたま今朝読んだ新聞の論説記事(下記参照)は、アメリカのチャータースクール論争についてEve L. Ewingという教育社会学者が書いたものだった。その要旨は次のとおりである。「メディアの関心は、チャータースクールを非難するか礼賛するかのどちらかであり、データはそのどちらかの主張を支えるように整理されてきた。言い換えるなら、2世代にわたる『チャータースクールは有効か?』という問いを研究者は出し続けてきたのだが、その答えは何度も何度も同じものであった。『有効な時もあるよ。状況次第だね』」。 (“media attention toward charter schools tends to either demonize or canonize their practices, and data is regularly marshaled to strengthen the case.” … In other words, after two generations of research, scholars have repeatedly asked, “Do charters work?” and the answer is a resounding: “Sometimes! It depends!”)
Can We Stop Fighting About Charter Schools?
https://www.nytimes.com/2021/02/22/opinion/charter-schools-democrats.html
この論説記事はチャータースクールというマクロレベルの教育方法についてのものだが、同じことはミクロレベルの小さな指導技法でも言えると思う。それなりに定評のある技法については、万能でもなければ無能でもない。それが有効になるのは、状況を踏まえた使い方次第であり、その状況を構成する要素はあまりにも多数であり流動的であるので(=複合性
(complexity) が高いので)、それを厳密な一般法則としては定立できない(『英語授業学の最前線』の中に書いた拙論をぜひお読みください)。
それならば、教育方法に関して実践者が問うべきは、「どの指導法が万人にとってよい指導法なのか?」ではなく、「もっとも自分に適った指導法は何なのか?」だろう。この問いの転換のもつ意味や波及効果は大きい。上述の多くの教育方法研究者は戸惑うだろう。しかし、多くの実践者(特に若くて真面目な教師は)、この問いの転換によってずいぶん自由になれるのではないだろうか。もちろん誤解のないように付け加えておくと、「自分に適った指導法」の大前提は自分が指導する学習者をもっとも豊かな学びに導くことである。「自分に適った」というのは恣意的・利己的な意味での表現ではない。