『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで
以下は、精神医学の神田橋條治先生の2冊の著作についてのお勉強ノートです。COVID-19のおかげでしばらく対面授業ができなかった教員も多いと思いますが、やはり対面してのコミュニケーションでなければ達成できないことは確実にあります。それを解明するためには、神田橋先生の「雰囲気」といった概念の説明が重要と考え、このノートを作成しました。
林道彦・かしまえりこ(編) (2012) 『神田橋條治精神科講義』創元社
黒木俊秀・かしまえりこ(編) (2013) 『神田橋條治医学部講義』創元社
このブログを昔からお読みの皆さんは、私が当事者研究やオープンダイアローグから、コミュニケーションについてのさまざまな洞察を得ていることをご存知なので、英語教育という営みを研究対象とする者が精神医学についてまとめることを奇異に思わないでしょう。しかし、そのような来歴を知らない方にとっては「なぜ英語教育に精神医学!?」という疑問が最初に来るでしょう。
その疑問にできるだけ簡単に答えるなら、次のようになります。「英語という言語はコミュニケーションに使われることを主目的としている。授業という営みも要はコミュニケーションである。となれば、英語教育に従事する者はコミュニケーションに対する洞察をもたなければならない。他方、精神疾患の多くは、(他者とのあるいは自分自身との)コミュニケーションの不調から生じる。また精神医療の治療行為の多くはコミュニケーションに他ならない。精神医学には、英語教育とは比べ物にならないぐらいの、多くの偉大な研究者が存在する。また、対象とする現場の過酷さから、精神医療におけるコミュニケーションについての洞察は非常に深い。学問領域からすれば末端の新興部分に過ぎない英語教育研究は、コミュニケーションの最先端領域の1つともいえる精神医療から謙虚に学ぶべきだ」。
しかし仮にこの説明で精神医学について学ぶことの妥当性に納得が得られたとしても、「他の精神科医でなくて、なぜ神田橋條治先生?」という疑問は湧いてくるかもしれません。日本では中井久夫先生も名医であり達意の文章家として知られていますし、海外の人材でもサリヴァンやエリクソンなど注目すべき人は多く存在します。
これに対する率直な答えは、「諸縁で神田橋先生の著作に出会ったから」というものです。私が神田橋先生のお名前を意識し始めたのは、坂口恭平氏の著作で言及があったからです。坂口氏について私は2019年暮れぐらいから注目し、その著作にも活動にも深い影響を受けていますが、この方についてはブログ記事を書こうと思いながら、本当にまとめることができません。坂口氏の感性が自然で、現代社会の矛盾を縦横無尽に晒すので、そのまとめをするのに時間がかかるというのが一つの理由です。別の言い方をすれば、坂口氏の作品は無難な「商品」として作られていないので、通俗的で安易な理解を拒みます。ですから、その良さを説明することは簡単ではありません。またそれ以上に、坂口氏の言動は常に現在進行系なので、ある時点での坂口氏の作品を固定的にまとめることにあまり積極的な意義を見いだせないこともあります。私は自分が坂口恭平という人間と同世代に生き、同じ日本語という表現媒体を共有していることを僥倖とし、これからも坂口氏に注目し続けようと思っています。
話を神田橋先生に戻しますと、私としては「あの坂口恭平氏がすごいという人なのだから、すごいに違いない」と思い、本を注文したわけです。そうしたらはやりものすごい方でした。
神田橋先生は、その他にも精神科医の斎藤環先生が、神田橋先生がオープンダイアローグの中核部分を瞬間的に理解したことに舌を巻いたエピソードを私は知っていますし、上の2013年の本でも河合隼雄先生が「神田橋先生の話は強烈な破壊力をもつ」と評したことが紹介されています。
神田橋先生は、母校の九州大学医学部での教職を辞し郷里の鹿児島で臨床医として活躍しながらも、年に一回は母校の医学部および縁のあった朝倉記念病院で講義を行ないました。上の2冊はそれらの講演を活字化したものです。花クリニックという医院も、神田橋研究会という団体を作って神田橋先生の講演集を刊行しています。神田橋先生についてネット検索していると、稲葉俊郎先生も神田橋先生を中井久夫先生と並んで「現役医師でもっとも尊敬する方」と評していることも知りました。おそらくは精神医学の枠組みを超えて、研究者にも臨床家にも影響を与え続けた名医と言ってもいいのかもしれません。
かといって、評判だけ大きくなったカリスマでもないようで、上記2冊の編者であるかしまえりこは、『神田橋條治医学部講義』のあとがき(「それからの神田橋講義」)の中で、神田橋先生のもっとも優れているところとして、「自身の失敗に開かれている態度」を迷わず挙げるとしています。
ともあれ、私はこの2冊から、コミュニケーションや教育について非常に多くのことを学びましたので、このお勉強ノートを作ったわけです。以下では、2冊のどの章を参照したかを明らかにした上で、神田橋先生の主張を私なりにまとめた文章を掲載し、そのあとの「=>」印以下で、私の蛇足的な解釈や考察を加えています。直接引用ではありませんので、ご興味をもった方は必ずご自身で著作にあたってください(私が参照したのはKindle版ですから、紙書籍のページ番号はわかりません)。
まとめ方としては、「雰囲気」、「共感」、「コミュニケーション」、「ことば」、「介入」、「現在・過去・未来」、「物語」、「実践」、「学び」、「工学的合理性」という私なりのトピック別に整理しました。最後の語は
“Technical
Rationality” の私なりの訳語であり、神田橋先生が使った語ではありませんが、私なりの理解としてこの用語を使いました。
自分なりにノートの形でまとめをした後に、私の解釈という形で、さらにことばを書き換えた整理をこの記事の最後に掲載しました。その解釈には●印をつけています。もし、言語教育に関連することを先に知りたい方がいらしたら、この記事の最後の部分を先に読んでください。
*****
雰囲気
■ 実践の方法の根底にあるのは「雰囲気」
概略:さまざまな精神療法の中核にあるものに、仮に名前をつけるとするなら「雰囲気」となる(「気」と呼べば漢方の「気」と混同するので「雰囲気」とする)。「雰囲気」が指し示しているのは、「形がなくて、限界がなくて、言語によってはとらえられないものであって、感じ取られていくもの」である。それは療法の治療理論の言語で作られている構造そのものではなく、その構造からにじみ出てくる。その雰囲気を完治せず、理論を言語だけで覚えると治療が下手になる。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
=> 精神療法における「セントラルドグマ」--おそらくは分子生物学の用語法の転用か--として「雰囲気」をもってきたところに私は驚き、一種感動した。このような概念は、誤用・濫用されればおよそ有害無益だが、やはりこのような語を使わなければ、物事の真髄は伝わらないと考えるからだ。そのように危険な語を、虚心坦懐に使うというのは、なかなかできることではないと私は思う。
「雰囲気」の重要性は、さまざまな教育実践者とその人の著作を観察しても、とてもよく理解できる。教育実践の本を読むばかりの人は、しばしば本のことばに振り回されて実践がうまくゆかない。著者自身によるワークショップに参加し、懇親会などにも参加してその著者の人となり(「雰囲気」)をなんとなくつかむと、著作のことばも腑に落ちてきて、実践も落ち着く(もちろん、その「雰囲気」の外見だけを真似れば、実践はすべり続けるのだが)。
逆に、著作がない優れた教育実践者に実際に出会ってその人の授業を見ているうちに、その「雰囲気」に感化されて実践が変わる場合もある(ここでもその変化が可能になるためには、観察者の中に教育実践者に通じる資質がある程度育成している必要がある。もちろん、雰囲気を身につけるにはある程度の「熟成期間」が必要)。
とはいえ「雰囲気」は、明確に定義され表現されるものではないから、感覚的・直感的認識(ユングの分類でいうなら非合理的・合理外的な認識)を苦手とする人は、それを感得することがなかなかできない。そういう人には実践を言語化した著作は必要かもしれない。だが、そのような人は言語の明確に割り切れる意味(ユングの言い方なら合理的認識)ばかりを理解しようとするから、著作のことばに振り回されてしまいがちなことは上に書いたとおり。
ともあれ「雰囲気」という曖昧な概念を表す用語を「セントラルドグマ」と称することは、精密性を是とする学問としては非常にリスクが高い。しかし、「雰囲気」とでも言うぐらいしかない概念を中核において考えないと、対人的な精神療法は考えられないというのが神田橋先生の主張。
これを安直に受け売りして「何事も雰囲気、雰囲気」とこの概念を安売りすれば、まともな論考などできるわけもないが、できうる限りの言語化・概念化をした上で「雰囲気」の重要性を説くことは、人の間に生じる現象に関する学問にとっては一つの突破口になると私は考える。
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「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」
https://doi.org/10.14960/gbkkg.12.14
C.G.ユング著、林道義訳 (1987)
『タイプ論』
みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html
■ 実践の方法を選ぶ場合は「雰囲気」で選ぶ
概略:精神療法のなかで技法を選ぶ場合は、「雰囲気」で選べばよい。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
=>実践とは、人格的献身を伴うものであり、実践者の生き方・生き様が必然的に反映してしまうものであるとすれば、自分にとって自然に思える「雰囲気」をもった実践方法を選ぶというのは賢明な考え方である。
ただし、そのような考え方は、実践の方法にも普遍的によい方法があるはずだと考える人にとっては我慢がならないものであろう。(あるいはそのような人たちの本音は「なくてはならない。なぜならば、そう仮定しないと論文にならないから」かもしれない)
だが、現場の多くの実践者は「さまざまな引き出しをもっている先生が、手を変え品を変えいろいろ試みているうちに、よい流れが見つかり、打開の途が見つかるものだ」という認識をもっている。
ひょっとしたら、この根底には一元的論者と多元論者の根本的な発想の違いがあるのかもしれない。言うまでもないし、言う必要もないかもしれないが、私は一元論者の人は苦手だ。私からすれば、一元論者は、頭が固いばかりに自分の理屈に固執し、現場を困惑させることが多い。もっとも一元論者からすれば、私などは、どの原理も貫徹しないままにあちらこちらと着眼点を変える信用ならない人と映っているだろう。ただ一元論者は自らの認識枠組みこそは唯一正当と考えるが、多元論者は自分の認識枠組みは数ある認識法の一つに過ぎないことを認めているという点では決定的に異なる。
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Press)のまとめ
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Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ
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K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン
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■ 「雰囲気」はアクションとイメージの両方を必要とする
概略:アクションを観察あるいは実行する場合は、それにイメージ(あるいはことばや感覚)といった内省的なものを補い、イメージ(あるいはことばや感覚)を扱う場合は、それに具体的なアクションを添えることによって、アクションやイメージが「雰囲気」に近づいてくる。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
=>実践書を読む場合は、その実践のアクションをありありと心の中で想像し、その想像世界の中でシミュレーションを行い、実践を観察する際は、その実践をできるだけ言語化したり図式化したりする方法は私も長年やっている。そうすることで、多少は、その実践の中核をつかむことができるのかもしれない。
■ データは絆の雰囲気の中でこそ実践的に有効になる。
概略:プラセボ効果は自然治癒力の現れであり心身相関の証左でもある。プラセボ効果・自然治癒力は、治療者との絆によって発動される。絆の主な要素は、治療者が発する雰囲気(態度・音調・環境)と治療者が使いこなせるデータ(言語・数字の情報)である。ただし、データは絆の雰囲気に乗せて伝えられたときにのみ、医療効果を高める。
(黒木・かしま (2013) 「自然治癒力を主役に」 2002年6月13日)
=>学習者も、生来の好奇心や向上心をもっている。教師の役割はその自然な力を学習者に発揮させること。そのためには教師がかもしだし、クラスに伝播させる雰囲気が重要。
よくライティングの研究では、英語の間違いに対して正しいデータ(正解)をどのように提示したらよいかというフィードバック方法の優劣を実験研究で示そうとしているが、40-50年このような研究が続いているがその結論はでていない。しかし、上の最後の文を見るなら、教師が学習者と学習者の人生に敬意をもち、学習者がよい学びの雰囲気を感じているなら、少々どんな方法でデータ(正解)をフィードバックしても学習者の役に立つだろう。逆に言うなら、雰囲気が悪いところで、いくら最新のICT手段でデータを提示しても効果がないだろう。(そもそも40-50年間、問い続けても答えが出ないのなら、その問いを細分化して新たな実験研究を進めるよりも、問い方そのものを問い直すべきだろう)。
私からすれば、教育実践に関する実験研究の大半は大きな考え違いをしているように思える。実践者、学習者、学習内容、およびそれらの関係性などという要素を捨象してしまって、方法論だけを取り上げて実験をしても、その結果は実践で活きるものにはならない。それでは方法だけでなく、実践者・学習者・学習内容・それらの関係性などなどを包括的に取り込んだ実験を行おうとしても、今度は要素が多くなりすぎて実験対象が複雑系(複合系)になってしまうから、要素のちょっとした変化で結果は大きく変わりうる。そうなると安定した結果は出ない。
そもそも実践方法に、どんな条件でも有効な普遍的な方法を求める考え方がおかしいと私は考える。「さもないと、科学的な実験として認めてもらえないから」というのが本音かもしれないが、そもそも単純な対象相手の厳密な科学的実験のスタイルで、曖昧で莫大な要素をもった現実世界を相手にしようとすることが筋違いだろう。
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柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20. https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
柳瀬陽介 (2020) 「当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充」一般社団法人大学英語教育学会(JACET)淺川和也・田地野彰・小田眞幸編 『英語授業学の最前線』ひつじ書房所収
■ 同じ行為も治療にもなれば使役にもなる。
概略:療法の実践の基底に、それにふさわしい雰囲気があるかないかで、治療法として成立しているかどうかが決まる。たとえば作業療法は、作業を通じて本人の活動力を賦活させる方法だと考えられるが、そこにそのような本人の動きを支える雰囲気がなければ、それは単なる使役になってしまう。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
=>いくらよい教材があっても、ただそれを学習者に強制するだけだったら、それは苦行にしかならない。もちろん既に外部的に動機づけられている学習者は、その教材からも何かを学ぶだろうが、十分にやる気が育っていない学習者は、それを仕方ないからこなすだけである。教育の第1目的を選抜とするなら、教材だけを与えて、残った者だけに合格点を与えるだけでいいだろう。しかし、教育の目的を学習者個々人の自己実現、およびその誰も見捨てない姿勢を通じての社会性の涵養と捉えるなら、よい教材を与えるだけでは教育とはいえない。
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選抜か育成か
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■ 講師・指導者の力量は雰囲気で判断せよ
概略:講義や実習者では、講師・指導者の雰囲気をよく観察せよ。その人の態度やことばのはしばしに、技法にふさわしい雰囲気がただよっているならよいが、それがないなら、その人は方法や技術の権化であり、人をよりよい方向に導こうとする意思の欠けたテクノロジーがしゃべっていると思って良い。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
=>だが、技法にふさわしい雰囲気どころか、そもそも技法に雰囲気などといった非客観的で計測できない要素はいらないし排除するべきだと思っている人もいる。そういった人たちに対して青臭い批判をすれば、人間は機械ではない。人間が機械のように動くことを前提とした学問は、現実を歪めうる危険なテクノロジーとなりうる。人間の非合理性(=合理性では割り切れない側面)を認めることこそが合理的な態度であると考えている私にとって、人間の非合理性を頑なに認めようとしない浅薄な合理主義者の言説は非常に危ういものに思える(だが、そんな合理主義者にとって自らの言説は合理的極まりないものであり、故に間違いのないものなので、話は面倒になる)。
共感
■ 相手が感じているだろう「雰囲気」を感じる努力をする
概略:「雰囲気」は、最初こそは、自分と相手(患者)の間に作られている雰囲気として実践者に感じられるかもしれないが、次第に、実践者と患者の間に作られているように患者が受け取っている雰囲気を感じ取り(あるいは想像し)、それをよいものにするよう工夫するべきである。また、診断の時にこそ患者が毎日感じているに違いない「雰囲気」をとらえるべき。それこそが治療と治療方針に関する診断となる。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
=>これは「共感」
(empathy) の重要性を説く文章と私は解釈した。相手が感じている雰囲気を感得するのは、個人主義的・唯我論的に考えるなら不可能であるが、その不可能なことを少しでも可能にしようと試行錯誤すること、しかもその試行錯誤が相手の邪魔にならないように、相手の人生を尊重し続けることは、それだけでも相手にとって肯定的な影響を与えるのかもしれない。
教師も、一方的に学習者を診断(あるいは断罪)することを得意としがちだが--ある種の教師は、「私はあなたのことは、あなた以上にわかっているのよ」と誇らしげに語る--、相手が感じているに違いない「雰囲気」を謙虚に理解しようとすることの方がはるかに重要であろう。
■ 相手に共感する中で、相手にとっての違和感を自分でも覚えるようになる。
概略:臨床現場の技術がうまくなると、相手の話に自分が半分乗っているうちに、自分の中に違和感(不愉快な気持ち)を感じ取り、そこに相手の問題があるのではないかと目星がつくようになる。(林・かしま (2012) 「問題点の指摘の仕方」1989年8月19日)
=>これは知的というより感覚的理解というべきだろうか。相手の話を、どうやって自分の手持ちの理屈の枠組みに入れ込もうかとしている人には不可能な感得方法。当然、自分の手持ちの感情--ユングによれば心の合理的な(割り切れる)機能--を相手に一方的に入れ込んでしまう人も不可能。そのような人は、しばしば「私はこの人の気持がわかっている」と豪語するから手に負えない。こうしてみると、実践の技能を高めるためには、実践者が明鏡止水を目指し、自然な感性を失わないことが不可欠であるように思える。
■ 共感は可能であり不可能
概略:「共感」を考える場合には、「人間同士あるいは命あるものは通じ合える」と「他人のことは分からない。人は人、自分は自分なんだから分からない」という正反対の2つの考え方を同時に受け入れることが大切。(林・かしま (2012) 「共感について」 1996年7月13日)
=>後者の不可知論というブレーキがなければ、「共感」と思っていることが、実は一方的で時に暴力的ですらある「思い入れ」や「思い込み」となってしまう。かといって不可知論に取り込まれてしまうと、身体から湧き上がってくる直感にすべて蓋をしてしまうことになる。
■ 共感はコミュニケーションによりのみ生じる
概略:ある体験がことばでまとめられ、身振り手振りや表情と共に、本人の伝えようとする意図のもとに伝えられ、相手がそれを理解しようとする意図のもとにそれに接する営み--要はコミュニケーション--においてのみ、共感は生じる。ある人の様子をただ観察するだけでは、他人は「思い入れ」や「思い込み」をもって接することができるだけ。相互に理解を求めるコミュニケーションの中で、他人は最初「思い入れ」や「思い込み」から始まるにせよ、やがてズレが見えてきて、「ああ、そういうことか」と思えて洞察が得られる。それが共感の瞬間である。(林・かしま (2012) 「共感について」 1996年7月13日)
=>共感という概念について私はあまり知らないので確たることは言えないが、この概念規定は、かなり言語的コミュニケーションを重視しており、かつ「理解」の概念規定に近いように思える。だが、おそらくそれよりも重要なのは、二者間の相互作用から生じる「共感」と、一方的な「思い入れ」や「思い込み」を決して混同してはならないということであろう。
■ 共感は生じるもの。自分の意思や努力だけで達成できるものではない。
概略:共感は、共感をしようとする意欲、思い込みの崩壊、洞察の到来の末に「生じる」ものである。共感は努力して作り出せるものではない。人ができるのは、できるだけ早く共感が生じるように相手への質問を工夫することだけ。(林・かしま (2012) 「共感について」 1996年7月13日)
=>できるだけ相手を理解しようとして、「だいたいわかると思うのだけれど○○というところがよくわからないので、もう少し教えてもらえます?」といった解明的・探究的な問いが共感を生じさせるための工夫となる。
■ 共感が伝播すると安らぎが生じる
概略:共感が生じたら、そのことはことば以外の表情やタイミングや語調によって伝わる。伝わったら相手に「自分はひとりではない」という感じが出て、それにより安らぎが生じる。(林・かしま (2012) 「共感について」 1996年7月13日)
=>無意識の身体表現が共感を示していないのに、「うん、うん、わかるよ!」などと一方的な思い入れ・思い込みを押し付けるのは、言われた方としてはしらじらしいだけ。その度がすぎると、私たちは「同情なんて止めてくれ!」と思わず叫ぶのかもしれない。
■ 「離魂融合」という技法
概略:患者の歩き方を見て、「この歩き方は何々だ」と判断するのは、神経内科の初心者だが、大家となると、患者さんの歩く姿に自分を重ねて、イメージの中で、違和感を感取し、その患者さんの障害(あるいは詐病)を特定することができる。(黒木・かしま (2013) 「プラセボ・エフェクト」 2005年5月24日)
=>ある熟達英語教師は、生徒の真似が非常に上手だが、その模倣を通じて、その生徒の思考法をシミュレートしているようにも思えた。これらの例は、患者・学習者から特にコミュニケーションの働きかけがないときにでも「共感」をしている例と考えられるだろうか?(神田橋先生の用語法からは逸脱してしまうが)。
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「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料
+ 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_73.html
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_11
コミュニケーション
■ 理解は共通であれば、働きかけは実践者なりのやり方でよい。
概略:自然に感得した相手の問題点を相手に伝えるやり方は、その人の個性・生き様に即したものでよい。ただし問題の理解は正しいものである必要はある。ただ、一つの技法として、相手がつぶやいたことばを、機械的にオウム返しするのではなく、あたかも本当に自分が感じて自分に対して言い聞かせているようなことばにする工夫は勧められる。(林・かしま (2012) 「問題点の指摘の仕方」1989年8月19日)
=>表現とは、外界への働きかけであり、それは個々人がそれまでの半生をかけて習得してきた方法であるから、相手への問題の指摘という表現も、その人がもっとも得意とする方法でやってよいのではないか。逆に、「こうしなければ」と無理矢理に新たに覚えた借り物の行動様式で表現をする実践者は傍から見ていて痛々しい(あるいは空々しい)。だから、上の最後の工夫も下手にやれば逆効果なだけだろう。
■ 対話の根底にある二者の関係性と雰囲気
概略:対話の原形は、音、表情、タイミング、触れ合い、感情の行き来。これは動物も行っている二者関係。人間の対話もこの関係性を基にしなければならない。その関係性が「雰囲気」となる。(林・かしま (2012) 「対話精神療法の初心者のために」 1995年7月22日)
=>私はペット(ネコ2匹)と暮らし始めて以来、これら言語以前のレベルでのコミュニケーションが決定的に重要なことを学び続けている。ネコにはことばの理屈は一切通らず、雰囲気しか伝わらない。授業でもこういった「雰囲気」をうまく学習者との間で作り出し、学習者が感じる「雰囲気」をいいものにしなければ、授業はやがてMOOCsのように機械化されても仕方ないと私は思っている。
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柳瀬陽介
(2020) 「生のコミュニケーションの力の再認識を」『英語教育1月号』pp. 24-25. 大修館書店
ことば
■ ことば・イメージ・実体験・身体
概略:表面にあるのがことばで、その奥にイメージがある。イメージは実体験に支えられるが、実体験を可能にしているのは身体である。ことばの活動とイメージの活動を行ったり来たりするとことばが豊かになる。イメージの世界と実体験の世界を行き来するとイメージの世界が豊かになる。実体験のないことばは現場では役立たない。(林・かしま (2012) 「粘り強い心をつくる」 1994年7月30日)
=>英語を読む時に、私は文字面から映像を描きだそうとする。映像が出てこないならそれは読めていないことだと思い、映像が出るまで読む(もちろん、哲学といった抽象論では具体的な映像は出ないが、それなりにイメージ(あるいは「雰囲気」?)を感じることはできる)。さらに、その映像・イメージから自らの実体験をできるだけ想起しようとしている。そうやってようやく少しは他人が書いた文章を理解できたかなと思える(このようなブログ記事も、その試みの一環)。
私は今、英語リーディングは指導しておらず、ライティングを指導しているだけだが、ライティング指導で学生の英文を読む時も映像を思い起こし、映像が描けない(あるいはおかしな映像が出てしまう)英語表現を重点的に指導するようにしている。大学院の授業では、院生が読んだものを院生のこれまでの直接体験や読書経験と結びつけることを推奨している。
逆に言うなら、身体や実体験から切り離されてしまい、イメージも貧困で文字通りの意味しかないようなことばを並べて理屈ばかり展開する人を私は苦手としている。私の業界である英語教育界は実践を重視するべきだと私は信じているので、貧困な理屈(感性を削ぎ落としてしまった表面的な知性)が、実践者的な知性と感性を駆逐するのを見るのは苦痛。
■ ことばは心を自由にもするし拘束もする
概略:ことばには両面性がある。脳がことばをどんどんことばを生み出してゆけば、それで心の自由度が広がる。逆に、ことばが既成の考えと結びつけば心を拘束してしまう。ことばのやり取りが中心の精神療法で、ことばが規格化されていると、そのことばが患者の心の自由度をむしろ制限してしまう。だから精神療法家は、詩人のように、次々と規格化されていないことばを使い、患者の心の自由度を保ち育むべきである。(黒木・かしま
(2013) 「精神療法の骨格」 2003年6月12日)
=>教師でも紋切り型の説教しか言わない者と、結論としては同じことを言いつつも、どこか新しい捉え方・切り口のことばを使い、学習者の気持ちをはっとさせる者もいる。もちろん学習者の心を動かすのは後者の教師。英語教師は、言語教師であるなら、凡庸で貧困な言語使用を避けなければならない(といいつつ、私はこのブログ記事の表現が固定化しつつあることを恐れている。だからこそ、私はどんどん本を読み、音楽を聞き、ネコと暮らし、感性を保たなければならない)。
■ 眠くなる講義と眠くならない講義
概略:自分は、医学部の学生だった時に、講義の時間はほとんど寝ていたが、壇上で語りながら、自らに問いかけ、学生に問いかける精神の格闘をしている先生の講義の時には眠くならなかった。講師が知識の運搬人でしかない講義ではどうしても眠くなったのとは対照的である。しかし、後者の先生の講義でも、その先生がつい熱を込めた時は目が覚めた。そしてその箇所はしばしば試験に出たから、なんとか試験に合格することもできた。(黒木・かしま (2013) 「精神療法とは」 2005年5月24日)
=>音読の効用を説く英語教師は多いけれど、多くの教師は単調な音読しかできない。著者の心の動きをありありと再現するような朗読ができる英語教師は少ない。しかし、ブーメランのように自分のことばが返ってくることを自覚しつついうなら、「朗読もできずに何が英語教師だ」ということになる。
ちなみに、資格試験の高得点は必ずしも朗読力の高さを意味しない。そもそも朗読の力は、標準化し客観的に測定できるようなものではない。
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創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/blog-post_90.html
■ 心の二側面:心の身体部分とファントム
概略:心を「身体部分」と「ファントム」の2つに分けることが便宜的に可能である。「心の身体部分」とは、感覚や情動。「ファントム」とは、心が生み出したイメージを記述言語で命名したもの。イヌやネコには、心の身体部分はあるが、ファントム(ファントム界)はない。これら2つの側面から考えるなら、「心」といっても身体部分が強く作用している時もあれば、もっぱらファントムが作用してる場合もある。コミュニケーションでは両者が統合されているべき。そうであると、たとえファントムである言語の細かな意味は伝わらなくても、身体レベルで関わり合ったという実感は残る。だが、メールなどのやり取りでは、ファントムのレベルだけになりがち。(黒木・かしま (2013) 「プラセボ・エフェクト」 2005年5月24日)
=>この区別は、ダマシオの中核意識 (core-consciousness) と拡張意識(extended
consciousness) と少し似ているが、神田橋説は、ダマシオ説よりも明確に言語の関与の有無で二者を区別しているように思える。
ともあれ、書き言葉では、心の身体的側面への作用が少なくなることは事実。それだけに、書き言葉では、音読した時に書き手の息遣い・思考のリズムが伝わるような文体で書くことが重要になるのだろう。
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Another short summary of Damasio's argument on consciousness and
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Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for
Spinoza"
https://yosukeyanase.blogspot.com/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html
介入
■ 知らせないことによる支配
概略:治療者が患者に教えないことが多ければ多いほど、その治療は「操る要素」が大きい治療といえる。神田先生は、以前から患者を病院のスタッフ・ミーティングに入れて治療方針を集団討議させている。つまりオープンダイアローグのようなことをやっていたわけだ。その一番の治療効果は、勤務者がみな「心がほわっと広がったオープンなマインドになること」だとしている。その結果、患者を操ろうとする姿勢が減るともしている。(林・かしま (2012) 「知ること、知らせること」 1998年8月8日)
=>知はやはり操作・管理・支配といった権力に直結しているというべきだろうか。改めてオープンダイアローグや当事者研究、さらには授業といったコミュニケーションを、権力の観点から再検討する必要を感じる。人間も社会的動物だとしたら、複数の間でほぼ必然的に生じる権力について私たちは自覚的であるべきだろう。
オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/poetics-of-open-dialogue.html
オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html
オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html
オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/love.html
飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/2016.html
比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2016.html
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html
「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/11/blog-post.html
斎藤環 (2019) 『オープンダイアローグがひらく精神医療』日本評論社
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/12/2019.html
■ 患者の自然な力を育む
概略:患者の治療意欲・治療努力をできるだけ鼓舞し、「自助の能力を本人の中に育てる」ことが療法の基本。(黒木・かしま (2013) 「自然治癒力を主役に」 2002年6月13日)
=>私は自分の仕事場のミッションは、学生に (plurilingual) autonomous users of Englishになってもらうことだと考えている。だが、今の英語教育体制には、まだまだ教師が学習者の学習を管理(支配)し、英語学習は授業の終了と共に終わるというような認識が強いように思っている。私は引退まであと8年であるが、どこまで自律的な英語学習・使用という文化を勤務校に普及できるだろうか。
■ 治療は、本人の回復力に対して、よいと思えることを試してみることが基本
概略:本当の治療とは自然治癒。したがって病を消すとか病の状態を持ち上げるというのではなく、自分としてなんとか持ち上げていこうとする生態の営みに対して、少しでもよさそうなことをするのが治療。だが、その治療を扱う治療学が教えられていない。(黒木・かしま (2013) 「底流としての精神療法」 2008年9月2日)
=>多くの教育実践は、この方針を取っていない。学習者を対象 (object) として扱い、学習者の主体性 (subjectivity) などは教師が学習方法や教材でコントロールするものであると考えている。それが証拠に、「どのように学習者を動機づけるか」といった操作的・支配的な言説は教育界にあふれている。しかし動機(やる気)などは、本人ですら容易にコントロールできるものでなく、ましてや他人がコントロールできるものではない。だが、「教師」という主体・主語が、「学習者のやる気」という対象・目的語を操作するという他動詞的発想が強い現在では、「強者(治療者・教師)が弱者(患者・学習者)を操作・管理・支配する」という概念枠組みで考えることが多い。
この現状に対抗する一つの手段は、他動詞的発想とは異なり、現在では珍しくなった中動態的発想に着目することだろう。ある学生さんによると、スペイン語には中動態的な表現が多いとのこと。ただ、私は言語学的素養が乏しいので、スペイン語はおろか日本語でもきちんと中動態について分析することができない。しかし、「やる気」に関する文法については、いつか言語学に詳しい人と共同研究をしたい。
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國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html
■ 介入は最小限に留めて、自発的な力が生じるのを待つ。
概略:介入の技術は最小限に留めて、患者から自発的なものが出てくることを期待する(あるいは待つ)ことが大切。もちろん期待するだけではいけないから、介入と不介入の見極めが重要。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
=>教育界において、教師の介入をできるだけ控える方法の一つとして『学び合い』がある。私は、その実践者の一人である福島哲也先生にお会いして深い影響を受けた。コロナなどでしばらくお会いしていないが、またお会いして、「謦咳に接する」、あるいは、「薫陶を受ける」--要は、その雰囲気を再び学びたい。
ちなみに私が今の職場に来た最初の年の実践的目標の一つは、学び合いの実践だったので、その実践も報告としてまとめた。
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福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
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「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/2016.html
木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/201532903.html
柳瀬陽介 (2020) 「<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して--」
https://doi.org/10.14989/ILAS_3_23
■ 自助能力が生じるように支援するのが治療者の役目
概略:患者に自助能力がない時は、傍にいて助けなければならない。しかし、治療者との関係性の中で患者に自助能力が生じたならば、治療者は傍にいる必要はない。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
=>教育なら、学習者がある学習内容を一人で学べる能力がない時に寄り添い、学習者に自発的な意欲と学習が可能になったら、そっと去るのが教師の役割と言い換えることができるだろう。しかし、実際は、さんざんに学習者を操作・支配して、学習者の自発的な学習意欲をくじいた挙げ句に学習者のもとから去る教師も多い。中には、学習者の意欲をくじくような苦行でもって学習者に成果(例えば、志望校合格やその他の数値目標達成など)をあげさせ、それを自分の業績とし、その後の学習者がどのように燃え尽きようと知らぬ顔をする教師もいるから本当に怖い。
■ 患者と治療者が共同作業の関係で問題に立ち向かう
概略:問題があれば、それを治療者と患者が別々の場所から共に眺めるといった「三角形の関係」を作ることが大切。治療者は、自助能力が芽生えた患者と共同作業で問題に立ち向かう構図で物事を進めるべき。(黒木・かしま (2013) 「いいお医者さんになってください」 2009年9月10日)
=>上記の三角形は、治療者と患者が底辺にあり、共に上にある問題を眺める正三角形のようなイメージだが、同じ三角形でも、治療者と問題(課題)が上に立ち、下にいる患者を見下ろすような三角形ではいけない。特に治療者と課題の距離が近くなり、患者に課題の克服を迫る命令者となる下側の頂点が鋭角となるような二等辺三角形となれば、患者もプレッシャーを感じるだけだろう。(私もうつ病を患った時に、そのように不全な自分を責めているように見える医師に会い、往生したことがある。その時点で私にあったに違いないうつ病の否定的な思考を差し引いたとしてもあの医師の態度は今でも認めがたい。)
教育界でも、そのような二等辺三角形で学習者に課題の克服を強要する教師は少なくないだろう。
現在・過去・未来
■ 臨床力とは、未来と過去との連関の中で現在を観察すること。
概略:臨床力とは、瞬間ごとの全体的な判断で、未来を推測し、過去を参照しつつ、現在を観察することによって作られる。ある同じ瞬間の判断も、推測する未来と参照する過去が異なれば、異なってくる。また瞬間、瞬間の観察であり判断だから、明示的・論理的に考えようとするとどうしても遅れてしまう。だから「何となくそんな気がするから」ぐらいの感じで臨床実践家は行動している。このような臨床力をマニュアル化することはできない。(林・かしま (2012) 「臨床力を育てる方策」 2000年8月19日)
=>もちろん「何となく」という根拠でやるといっても、その結果に無責任であるということは臨床家としてありえない。臨床家は失敗すれば、それをきちんと反省し、なぜうまくゆかなかったかをできるだけ分析する。そうやって育った臨床家の直感は、それまでの経験と思考の結晶を一瞬にして知ること。
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ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳 (2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/2015.html
羽生善治氏の4冊の本を読んで:知識を経験にそして知恵に
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/4.html
=>現在を過去と未来と結びつけ、そこに見通しを得ることは、意味を理解するとも言い換えることができるだろう。
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柳瀬陽介
(2018) 「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論 ―英語教育における意味の矮小化に抗して―」『中国地区英語教育学会研究紀要』48 巻 p. 53-62
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53
■ 現場での思考とは、仮説・実験・検証の繰り返し
概略:現場で考えるとは、注意を惹かれた事象について、未来と過去を考えながら、仮説をたて、その仮説にもとづき行動(実験)し、その結果を検証して、その仮説・実験・検証が有効だったら、その一連の考え方をとりあえずの認識とすること。また、できればこれは治療者が患者との共同作業として行うことが望ましい。(林・かしま (2012) 「臨床力を育てる方策」 2000年8月19日)
=>ある卓越した英語教師をインタビューした時もこれと同じようなことばを聞いた。実践家は現場で鍛えられるが、現場とは単なる試行錯誤の場ではなく、アクションを起こしながらリサーチしている場というべき。
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「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ
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「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ
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■ 「流れ」を見る
概略:「病」は流れであり、その流れの中に今ここの患者が現れている。流れを見る感性が重要。この感性は「この症状はあるかないか」をチェックするのとは異なる。(黒木・かしま (2013) 「診断者の感性」 2000年6月15日)
=>教師にしても、学習者の今ここの行動だけでなく、その行動をもたらしている流れ(学習者の過去・現在・未来)を知ろうとすることが重要。現在しか見ない教師は多い。現在を過去と結びつけるだけの教師はそれなりにいるだろう(だがそのような教師の多くは過去を過大視している)。現在を過去とも未来とも結びつけて考える教師は少ないのかもしれない。
物語
■ 診断と治療には物語・ストーリーが大切
概略:医療の診断と治療、特に精神科においては、物語・ストーリーが重要。昔は「リウマチ」とか「全身性エリテマトーデス」とかばらばらにしか捉えていなかったが、今は「自己免疫疾患」というストーリーができて、診断と治療に一つの流れができた。ばらばらに出てきているデータをつないで何とか理解するのが物語。データなどの事実を現場で役立てるためには、ストーリーが必要。だが、ストーリーは次々に出てくる新しいデータを取り込めなければならない。取り込めないままにストーリーを維持するのはもってのほか。(黒木・かしま (2013) 「うつ病の精神療法」 2009年9月10日)
=>ここでは「物語」と「ストーリー」は、ニュアンスだけ異なる同意語として扱うにせよ、「物語・ストーリー」は「概念」あるいは「仮説」と言い換えてもよいようにも思える。神田橋先生が、「物語・ストーリー」ということばに込めた意味については下で検討したい。
■ ストーリーを選ぶ
概略:多くの人は「抗うつ薬は入れ歯や眼鏡と同じ」というが、私は「抗うつ薬は松葉杖である」というストーリーを使った。前者の表現だと、患者がいつまでも抗うつ薬を必要と考えてしまうからである。だがこのストーリーも万能ではないから、治療が進み、患者の様子がわかるにつれ、別のストーリーを考える。(黒木・かしま (2013) 「うつ病の精神療法」 2009年9月10日)
=>この例だと「ストーリー」は「メタファー」と言い換えられるようにも思える。しかし、神田先生は「松葉杖である」という表現から、患者の未来を描き出しそれを患者と共有しているように思える。こういった経時的な発展を重視するという点では「メタファー」よりも「ストーリー」という表現の方が適切だと考えられる。同じように、「概念」や「仮説」にも、時間的な発展や展開といった含意は少ない。さらに、「概念」や「仮説」といった語は、「物語・ストーリー」がもつ価値、そしてその価値の喪失と再生といった主観的要素を扱い難い。物語・ストーリーには起承転結がありドラマがあるが、それらはすべて価値という人が大切に思う信念を巡っての展開である。私はこれら、時間的展開と価値的側面をうまく含意できるという点で、神田先生は「物語」や「ストーリー」という語を使っていると解釈した。
関連記事
柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018-16pp-12-32.html
■ 自らの「理論」の正しさを守ろうとして暴走する「秀才」
概略:医学で使われる理論は、ほとんど帰納法によって作られており、数学や物理学と異なり、例外がたくさんある。それにもかかわらず、それが崇められると、それに沿わない事象を排除する傾向が出てくる。そのような「理論」の操り方が上手なのがいわゆる「秀才」であり、「理屈は言うけど使い物にならんヤツ」である。「秀才」は、自分の理論に合わないものは認めないし、何事も自分の理論に合わせるべきと暴君的な性質を帯びてくる。(黒木・かしま (2013) 「理論と物語」 2012年9月11日)
=>数学などは演繹的な理論体系だが、複雑系を対象とする実証科学の理論は帰納で(あるいはアブダクション)でとりあえず作成されたものであり、さまざまな例外をもつし、しばしば修正の必要もある。さらには、異なる観点からの複数の理論が必要になることも多い。それなのに自分の理論を唯一の真理として扱うと、その「正しさ」を維持するために、さまざまな無理が現実世界に生じてしまう。ただし「秀才」は自らの頭の良さを疑わず、正しさを信じ切っているので、その無理は考慮せず、理論的な正しさをあくまでも貫こうとする。だから使い物にならない。
■ 理論を物語として扱う
概略:医療の「理論」の大半は、ありそうな解釈枠組みといった「物語」と連続している。理論と物語の間にはさまざまなグラデーションがあると考えるべき。臨床の現場においては、理論も、目の前の現象に対して、当てはめるべきか当てはめない方がよいのか、また当てはめるにせよどのくらいの確かさがあるのかなどをチェックしながら、物語として扱ったほうがよい。そしてその物語をそのまま発展させるか、それとも別の物語にシフトさせるべきかと考えてゆく。その中で、次に調べるべきことがわかってくる。(黒木・かしま (2013) 「理論と物語」 2012年9月11日)
=>自分の認識枠を「理論」と捉えると、どうしても「そうでなくてはならない」と思いがち。したがって、複数あり、かつ、さまざまなバリエーションへと派生的に発展しうる「物語」の1つとして捉えて、現実と対話をし続けることが重要と言い換えることができるだろう。また2つの理論は両立できないと通常私たちは考えるが、物語は複数が併存できるとしばしば考える。
■ 未来を考えながら物語を作り出してゆく
概略:物語の発展あるいは変容は、未来に向けて、少しでもいい結果がでるようにと行動を選択することと重なる。人間は物語をこしらえて、それに基づいて未来を予測し、何かを選択する。(黒木・かしま (2013) 「理論と物語」 2012年9月11日)
=>物語のあり方を決めるのは、過去志向ではなく未来志向であるべきという指摘は重要。私たちはしばしば、「この物語はこれまで有効だった」「物事はたいていこのように進むものだ」などと過去を見つめて物語を決定してしまう。
未来志向の精神療法としては「未来語りのダイアローグ」 (Anticipation
Dialogues) があり、以下の本でも取り上げられている。
関連図書
セイックラ・アーンキル (2016) 『オープンダイアローグ』日本評論社
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比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 数値目標
概略:数値目標の達成には、生理的快感は乏しい。数値目標とは社会的な信仰にもとづくものさしであり、私たちはそこに生理的快感を援用して何らかの快感に変えているだけ。(黒木・かしま (2013) 「うつ病の精神療法」 2009年9月10日)
=>マルクスの用語を借りるなら、数値目標は、社会的に作られ維持されている交換価値の指標。数値目標を達成することで、何らかの代償(合格や昇進や予算あるいは社会的称賛)が得られると私たちは信じている。その数値目標・交換価値が示している代償の価値が多少は世間で認められているなら、それは商品価値をもっていることにもなる。
商品価値は、交換価値と使用価値が統合されたものだから、その事柄には多少の有用性(使用価値)があるはずだが、多くの場合、その使用価値は交換価値と分けることができないぐらいに合体している。したがって、人々はその事柄を自らの人生で使いこなす喜びを純粋に感じることができず、それがどれだけ他のモノを獲得できるかという交換価値を常に想起してしまう。その点で、人々はほとんど内在的価値・真価 (worth) を忘れてしまっている。
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マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配
―
マルクス理論の新地平』筑摩書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html
柳瀬陽介 (2014)「学習者と教師が主体性を取り戻すために」 『英語教師は楽しい』所収
実践
■ 現場の実践者は不確実性の中で実践を行う
概略:「正しい」医者は、本を書いて権威を得るが、治療技術は必ずしも高くない。自分の理論から外れることは決してしないように治療するからうまくゆかないのだ。反面、現場の最前線の医者は「ああだろうか、こうだろうか」と不確かな状況の中で、細かな仮説・実験・検証を繰り返し、毎回毎回工夫を重ねる。有能な治療者は、自分の治療が正しくないかもしれないことを自覚している。だが、医療裁判が多くなると、治療者はどうしても「正しい」治療に頼るようになる。(林・かしま (2012) 「治療者の偏見」 2007年9月15日)
=>正しい方法しか取らない者は、その方法でも状況の改善が見られなければ、しばしば、「それは患者・クライアントが悪い」と切り捨てる。教育の場でも、教師が「正しい」と信じている方法に合わない生徒を切り捨てることで、自分の精神状態を保っている人は多い。
■ 基礎知識も参照する
概略:目の前の現実を観察する際は、基礎知識を参照しながら観察しなければならない。基礎知識は、感性を高め、わずかしか見えていない兆候の中に可能性を見出すのに役立つ。(黒木・かしま (2013) 「診断者の感性」 2000年6月15日)
=>ある英語の間違いを見ても、英語学の基礎知識が豊富な人だと、その間違いが何に由来し、どのような他の間違いに関連しうるかをすぐに想像できる。基礎知識は、一見何に応用されるのかわかりにくいが、それは逆に言うなら知識の汎用性が高いということである。実践家はそのような基礎知識を大切にしなければならない。初心者は、「これが何に役立つのだろう」といった焦りは一旦脇において基礎的な学問の修得に努めなければならない。
■ 臨床力は芸であり術であり、個人差がある。
概略:臨床の考え方は、一種の芸であり、術であるがゆえに、非常に個人差がある。だが現代はなんでも標準化・規格化しようとする流れになっているので、「この人はいい臨床医になるだろうな」と思う学生ほど規格化された知識・技術体系に嫌気がさし留年したりする。逆に「こんな人が医者になったら、患者を機械的にさばくだけだろう」と思う学生がどんどんいい成績を取る。(黒木・かしま (2013) 「診断者の感性」 2000年6月15日)
=>標準化された試験が権力をもてばもつほど、標準化の網の目からこぼれる個人的知識・人格的知識
(personal knowledge) が抑圧され、異端視される。時には「単なるカンだけで行う無責任な行い」とまで酷評される。その結果、多くの者は無難にマニュアルにしたがうようになり、実践者の技量は長期的に低落することとなる。実践知は、全面的に客観化・対象化できない。だがそういった実践知を私たちは復権させる必要がある。
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Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago
Press)のまとめ
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Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ
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■ 科学は参照され、道具として使いこなされるべきもの。
概略:医療には曖昧な領域があり、本人の主観や周りの環境のように科学の網にはかからない因子が多く存在する。医療はそのような曖昧な領域の中での数多くの因子が相互作用する複雑系の中で行われる。そのような複雑系の中では、医者は医学という科学を適宜参照し道具として使いこなさねばならない。医学に支配されて、単純な世界の中でだけ成立する因果律が、今ここの複雑系の中でも必ず働くと思い込んではいけない。(黒木・かしま (2013) 「心因の構造・境界例の構造」 2001年6月14日)
=>実践者は、さまざまな因果律が交錯している複雑な現実世界の中で、どの流れを見たらもっとも現実的に有効かということを「察する」、あるいは直感で知る、ことができなければならない。しらみつぶしに論理的に検索・思考していれば時間的にとても間に合わないし、何の洞察・直感も得ないままに選択するのは危険過ぎる。実践者は筋のよい直感を得られるように、日々、実践と省察を重ねなければならない。
■ 現場の治療方針は古くからの知恵を具体化したもの
概略:現場の治療方針は、古来「病む者の身になって」と教えられてきたことの具体化に過ぎない。だが、その古来の知恵が、自然科学としての医学が進歩するにつれ、現場で忘れられがちである。(黒木・かしま (2013) 「自然治癒力を主役に」 2002年6月13日)
=>私は言語学・文体論・文学、あるいは神経科学・認知科学、および(臨床)心理学・教育学・社会学といった英語教育にとっての基盤的知識(基礎学問)の重要性は確信しているが、英語教育の営みそのものが科学として確立されるとは思っていない。極言すれば、英語教師は、基盤的な知識を時折参照しながら、人間として当たり前のことをやってゆけばよい。もちろんその当たり前のことには、「学習者の身になって」言動を行うことが含まれる。
■ 基礎知識を得た上で、ぼんやりと全体を見る
概略:漢方の名医は、患者をじいーっと見るのではなく、ぼんやりと、しかし一所懸命に見ると言う。ぼんやりと注意を漂わせて、全体のバランスを見る。その際に役立つのが解剖学や病理学などの基礎知識。ぼんやりと全体を見るなかで、ふと基礎知識の一部が想起され、それが全体の流れを把握するのに役立つ。(黒木・かしま (2013) 「感覚の復権を」 2004年6月10日)
=>当事者研究でも「『見つめる』から『眺める』へ」という標語で、問題の一つの側面に拘泥せずに、全体像をぼんやりと理解することを重視している。
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樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_95
当事者研究が拓く、弱さを語るコミュニケーション
―校内のコミュニケーションリーダーとなる英語教師を目指して―
https://doi.org/10.20581/arele.30.0_271
中川
篤,柳瀬
陽介,樫葉
みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125
https://doi.org/10.14960/gbkkg.17.110
浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html
浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html
当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html
「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html
綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html
英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society
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向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/2009.html
熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019.html
8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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眞子和也君と中川篤君の学会発表(2019/03/09(土)言語文化教育研究学会(於 早稲田大学)
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熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019.html
向谷地生良(他) (2020) 『弱さの研究 -- 「弱さ」で読み解くコロナの時代 --』 くんぷる
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/12/2020.html
学び
■ 「型」は方便にすぎない
概略:「型は癖を矯正するためのものである」、「型は真髄を伝えるための方便である」、「真髄は不立文字、雰囲気のようなものである」。構造論や構造物は仮象であり、それが伝えようとする雰囲気に注目するべき。(林・かしま (2012)「精神療法におけるセントラルドグマの効用」1988年7月23日)
=>逆に言うと、独自の「雰囲気」がまったく感じられない方法論をマニュアル的に伝えられ、その「型にはめられる」と、私などはやりきれない思いになる。「雰囲気」といった標準化しがたい要素を排除することが実践の向上だと信じて疑わない人に対しても、「どうすればこの人に実践感覚を伝えられるのだろうか」と思ってしまう。
■ 治療技術は、人格的献身を経て得られる人格的知識であり、伝統や先導者から体得する。
概略:治療学が教えられていないのは、それが教えにくいから。治療は技術であり職人芸だから、うまい治療者のそばについていないと学べない(黒木・かしま (2013) 「底流としての精神療法」 2008年9月2日)
=>ポラニーの用語を借りるなら、治療技術は意識化される焦点的覚知 (focal awareness) が、補助的覚知・従属的覚知
(subsidiary awareness) と統合されて初めて習得できる。前者に関して教師はなんとか訓示
(precept) の形などで言語化できるが、その訓示の理解は、学習者が実践の中で教師を模倣しようとする中ではじめて可能になる。補助的覚知までも分析し言語化・意識化しようとしても、学習者(というより人間)の意識にはそれだけ莫大な情報を一時期に処理することはできない。学習者は、自らの人格をかけてその技を分析的にも非分析的にもまるごと模倣しないとその実践ができるようにならない。
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Press)のまとめ
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■ 観察によって心と身体が分かれる
概略:生きている時は、心身は相関している。私たちは意志(心)によって身体を動かして歩いているのではない。しかし、この生きている心身一如の姿を観察しようとすると、その瞬間に、生きているありようが心と身体に分かれてしまう。心と身体を分けずに観察し、論じることはできない。(黒木・かしま (2013) 「葛藤を目指す」 2011年9月8日)
=>観察という行為が、観察の対象(身体)を要請し、観察の対象があるということは観察の主体があるはずだとさらなる要請が生じ、身体とは別の心の存在が要求される。つまり、観察から心と身体が分出する -- この考え方は“Self Comes to Mind”の中でダマシオも使っていた。私たちは<主体・主語 - 動詞 - 対象・目的語>という文法によって、心身二元論を招聘しているのかもしれない。
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A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind”
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'Feeling' of language as a sign of autopoiesis
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Damasio (2000) The Feeling of What Happens
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Another short summary of Damasio's argument on consciousness and
self
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Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for
Spinoza"
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■ 「身につく」とは、分かれていた心と身体が再び心身一如に戻ること
概略:他人からの教えや教則本に従って身体を動かしている時、心と身体は分かれている。そこで練習を重ね、熟練をすれば自然に身体が動くようになる。それが「身についた」ということ。(黒木・かしま (2013) 「葛藤を目指す」 2011年9月8日)
=>ただ、「身についた」内容は、教えられ意識した焦点的覚知の対象だけでなく、意識していない・できない補助的覚知の内容も含まれることは忘れてはならない。また「身についた」技能も、それがどのようなものなのか自分で観察しようとすると、途端に心と身体が分かれ、技能はぎこちなくなってしまうことにも注意。
■ 心と身体を分けて、相互調整をはかりながら、新たな心身一如の調和を求める。
概略:上達とは、心身一如の状態を心と身体に分けた上で、心が身体を変えようとしたり、身体のほうが逆に心を変えたりしながら、相克と互助の関係を経て、新たな心身一如の調和を得ること。(黒木・かしま (2013) 「葛藤を目指す」 2011年9月8日)
=>心と身体の相互関係の中で、身体の方が心のあり方が変わることを要求することがあることを忘れてはならない。技能獲得において、初心者のうちは意識で身体を動かすことばかり行うが、次第に身体の方がより自然なあり方を教えて、心(意識)の方を変えなければならないことを告げてくれる。この身体への感性がない人は、いつまでたっても技能がぎこちない。
工学的合理性
■ 医療の客観化・客体化・対象化の帰結
概略:現在の臨床医学は、ICD (International Classification of Diseases: 国際疾病分類)
やDSM(Diagnostic and Statistical Manual
of Mental Disorders: 精神障害の診断と統計マニュアル、あるいはEBM
(Evidence-Based Medicine: 根拠に基づく医療) などで、客観化・客体化・対象化を目指し、主観を排除し、普遍性を求める傾向にある。このことによって医療が均一化し、あまり変なことが起こらないようにしているわけである。だが、このことにより、医者が「患者の身になる」こと、患者に共感することが妨げられている。(黒木・かしま (2013) 「精神療法とは」 2005年5月24日)
=>私が教育工学関係の人と話をしていて、強烈な違和感を覚えるのは、教育工学関係者(の少なくとも一部)が、生の学習者の気持ちや生態を考えることを頑なに拒否し、ひたすらに効率的な管理手段を設計し執行しようとすること。その人たちからすれば、「これだけ合理的なシステムを提供しているのに学習をしないのは、学習者の責任」となるが、機械的に課題を出され続けて「できなければ不合格」とされる雰囲気の悪さを想像すると、私などは「ちょっと待ってください」と言いたくなる。
だが、そこで待たないのが教育工学の一部の人たち。学習の客観化・客体化・対象化を目指すあまり、学習者の主観だけでなく、自らの主観(学習者への想像力)も抑圧してしまい、それこそが「専門家の態度」と思っているのだろうか。私はそんな工学的合理性(Technical Rationality) しか考えない専門家は、教育者というより管理者(あるいは支配者)であるように思える。実践者は情と理の両方をわきまえた人間であるべきだろう。情に流されすぎてはいけないが、情を忘れて理を暴走させてもいけない。
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「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The
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"The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ
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■ 複雑系を単純な「学」に還元することは適切ではない
概略:生体は複雑系だから、治療技術は「学」になりにくい。多種多様の因果関係が同時成立しているから学として単純に整理できない。(黒木・かしま (2013) 「底流としての精神療法」 2008年9月2日)
=> 複雑系のシステムの作動のある時点のある一部分に単純な因果関係を見出すことはできるが、それは作動の観察を、ある特定の時間枠とある特定の要素に限った場合にのみ可能である。したがって、観察の時間枠を少し異なるものとしたり(あるいは長くしたり短くしたり)、観察する要素を加えたり減らしたりすれば、同じ因果関係が観察されるとは限らない。ゆえに、複雑系の中から抽出された因果法則を実際に適用しても、現実はその法則が予測するようには必ずしもならない。
天候という複雑系に関しても、パターンの抽出は可能だが、精緻な予測はスーパーコンピュータをもっても困難。ましてや人間を対象とした予測については、それぞれの人間が「主体」としてそれぞれの表象(意識や思考)を持ち、それによって自らの行動に影響を与えるため、人文・社会科学が扱う複雑系は、自然科学界が扱う複雑系よりも遥かに複雑である。「授業学」の役割の一つを、読者の実践力を向上させることとしたら、それは自然科学風に単純な因果法則(例「○○メソッドを行えば成績が上がる」)を教えることではなく、物語形式の分厚い記述から、実践者の感覚や洞察を追体験させ、同時に読者各自の解釈を促進することに求めるべきではないか。
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スライド:「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか 仮定法的実在性による利用者用一般化可能性」(3/11言語文化教育研究学会・口頭発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/02/311.html
柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018-16pp-12-32.html
The Distinct Epistemology of Practitioner Research: Complexity,
Meaning, Plurality, and Empowerment. (要パスワード)
https://app.box.com/s/0jv3ydbtb6wjm6qdbt10h65abopkwdde
当事者の現実を反映する研究のために(要パスワード)
https://app.box.com/s/eubli7mwy4lqrens47rw7w3i0iiqw5ce
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 pp.11-20. https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11
柳瀬陽介 (2020) 「当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充」一般社団法人大学英語教育学会(JACET)淺川和也・田地野彰・小田眞幸編 『英語授業学の最前線』ひつじ書房所収
*****以下は、柳瀬がさらに言語教育よりに読み替え・書き換えた解釈*****
以下、新たに「雰囲気」、「共感」、「ことば」、「心」、「授業というコミュニケーション」、「教師の現場指導力」、「ストーリー」、「指導という技芸(art = 芸・術)」、「身につける」、「技芸の科学化」という小見出しをつけた上で、最初から読めばそれなりに理解できるように整理しました。小見出しで分割したとはいえ、あるテーマが別のセクションで再び姿を表すこともあります。ここで語られる要素は、さまざまな形で互いに結びついているゆえの再登場と理解していただけたら幸いです。
雰囲気
● 「雰囲気」を大切にする:具体的にどのような指導法を使い分けようとも、学習者とよい「雰囲気」になることを大切にする。いくら、実験研究などでその効果が「実証」された指導法を使おうと、「雰囲気」が悪ければ、効果はなくなったり逆効果になったりすることを熟知する。
● 「雰囲気」は相互作用によって生まれてくる:「雰囲気」は、動物も行っている音・表情・タイミング・感情・所作などのコミュニケーションの基盤となる相互作用によって生じてくる。
● 「雰囲気」は、本能的な学習意欲・学習能力を活かす:「雰囲気」は、学習者が自然な本能としてもつ学習意欲および学習能力を活性化するために、教師が学習者との間で築きあげる絆である。この絆の中で、教師がもつデータ(英語一般および学習者の英語に関する知識)も活かされる。
● 「雰囲気」は、最終的には学習者が感じているもの:「雰囲気」は、最初は教師が学習者との間に感じているものである。だがそれは次第に、学習者が感じているものとして理解しなければならない。だが、教師は学習者でない以上、他人の感じている雰囲気を知ることはできない。そこで行うべきことは、教師が学習者に「共感」することである。
共感
● 「共感」は思い込みではない:「共感」は、教師が一方的な思い入れから自分の感情などを学習者に投影することではない。教師は、学習者とのコミュニケーションの中で、自分の中の予測が少しずつ裏切られる経験の中から「ああ、そうか」と洞察を得る中で少しずつ「共感」できるようになる。
● 「共感」は生じるものである:「共感」は教師だけが努力して作り出せるものではない。共感を得るためには、相手への質問を工夫しながら、それが自然と生じるのを待たなければならない。
● 「共感」はやすらぎをもたらす:「共感」が生じたら、それは学習者の表情や無意識的所作などにやすらぎが生じる。
● 「共感」からの理解:「共感」が生じたら、教師は学習者の思考や言動に自分を重ねることがある程度できるようになる。教師はその重なりの中で生じた違和感から、学習者の問題を知ることができる。
ことば
● ことば・イメージ・実体験・身体:ことばはイメージに基づき、イメージは実体験に支えられ、実体験は身体によって可能になっている。身体・実体験・イメージに基づかない教師のことばは学習者に届かない。
● ことばが規格化されてしまう危険:ただし、ことばは、自分のイメージ・実体験・身体よりも、世間一般での既存の考えに基づくことがある。そのように規格化されたことばを使い続けると、そういったことばを生みだす者も聞く者も心の自由を失ってゆく。教師は規格化されたことばを使う際にも、それを自分のイメージ・実体験・身体を通して、それを改変してそれにいわば命を吹き込まねばならない。
心
● 「心」を便宜的に二分する:「心」を、身体的領域と非身体的領域に大別することができる。身体的領域は、人間以外の哺乳類などももつと思われる情動や感覚が生じる領域。非身体的領域は、情動や感覚の働きがあまり伴わないまま、ことばにより思考が生じる領域。
● コミュニケーションでは「心」の両面が働かなくてはならない:コミュニケーションでは、「心」の身体的領域と非身体的領域の両方が働いているべき。両方が働いていれば、たとえことばの細かな意味が理解できなくても、「雰囲気」は伝わる。
授業というコミュニケーション
● 授業というコミュニケーション:授業というコミュニケーションの基本は、学習者の学習意欲・学習能力をできるだけ鼓舞し、自助の能力を学習者の中に育てること。
● 操る授業は操作・管理・支配の要素が強い:授業の中で、教師がコミュニケーションの中で仕組んでいる計画を教えなければ教えないほど、その授業は「操る要素」が多い操作的・管理的(そして究極的には支配的な)授業といえる。
● 授業の主役は学習者の意欲と能力:授業とは、学習者自身の学習意欲・学習能力を高めるために少しでも良さそうなことをすること。教師が、教師の力で学習を可能にすることではない。
● 多くの教師の誤解:しかし授業について一般に教えられていることは、いかに教師が教師の力で授業を構成するかということがほとんどであり、学習者の力を引き出す術についてはあまり語られていない。
● 教師の介入と不介入1:授業で、教師が口出しするのはできるだけ控え、学習者から自発的なものが出てくることを待つ。もちろんただ無作為で待つわけではないので、教師が介入するか介入しないかの見極めが大切。
● 教師の介入と不介入2:学習者に自助能力がない時、教師は学習者のそばにいて学習者を助けなければならない。だが、教師との関係性の中で学習者に自助能力が生じたら、教師はそばにいる必要はない。
● 教師と学習者の視線:学習者が問題を抱えている時、教師は学習者の視線まで下がった上で、学習者とは別の場所から学習者と共に問題を眺めるべき。教師が、学習者を問題と一体化しして見下してはならない。また、教師は自分が学習者と一体化したと誤解してもいけない。
教師の現場指導力
● 瞬間ごとの全体的な判断:教師の現場指導力の第一の段階は、瞬間ごとの全体的な判断で、学習者の過去を参照しながら現在を参照しその未来を推測すること。この判断は瞬間的なものだから、明示的・論理的に考えようとするとどうしても遅れてしまう。
● 現在・過去・未来を見通す:教師の現場指導力の第二の段階は、学習者の現在・過去・未来を見通した上で、その学習者の自助能力を伸ばすための仮説を立てて、その仮説に基づき行動し、その結果を検証すること。
● 引き出しの整理:教師の現場指導力の第三の段階は、うまくいった仮説・実験・検証を自分の引き出しの中に整理して入れること。
● 当人と共に学習者指導:教師の現場指導力の第四の段階は、学習者の現在・過去・未来の見通し、および仮説・実験・検証を、教師が学習者との協働作業として行うこと。
ストーリー
● 点ではなく流れを見る:学習者の問題行動は、その学習者の「流れ」の中にある。教師にとっては、その流れを見る感性が重要である。流れを見ずに、問題行動だけをチェックするべきではない。
● ストーリーによる理解:すぐれた教師は、学習者の「流れ」を「ストーリー」の形でまとめる。一見、バラバラに見える学習者の数々のエピソードをストーリーの中に取り込んで理解する。だが、新たなエピソードを取り込めなくなったら、そのストーリーを変えるか捨てなければならない。取り込めないままにあるストーリーに固執してはならない。
● ストーリーの雰囲気:現場で有効であることが多いストーリーを1つの「型」として捉えて、新人教師がその型を学ぶにせよ、それは教師のものの見方の癖を矯正するために使われる方便に過ぎない。ストーリーの真髄は、その構造や構成要素にはなく、それが醸し出す雰囲気にある。
● 理論とストーリー:教育における「理論」は、現場で適用できるストーリーの1つと考えるべきであり、崇めてはならない。理論を崇めると、理論に合わない出来事を無視したり無理やり理論に取り込もうとしたりする。そのような「秀才」「理論家」は、「理屈は言うけど使い物にならんヤツ」である。
● 失敗を認める:教師は、自分の失敗に開かれている態度を失ってはいけない。自らの失敗を速やかに認め、そこから学ばねばならない。
● ストーリーを変えようとすることによる理解:現象を理解しようとして、あるストーリーから別のストーリーに変えようかと悩む時、現場で観察すべきこと、調べるべきことがわかってくる。
● ストーリーと未来予測:ストーリーも、よりよい未来を生み出すために使われる。人間はストーリーに基づいて未来を予測し、現時点での選択を行う。
● 数値目標:ストーリー抜きの数値目標から、生理的な快感を得られるのは、数値目標を信仰している者だけ。
● ストーリーの修正:現場の教師は、ストーリーの中で、学習者の現在・過去・未来を見通し、仮説を立ててそれを実行・検証するが、そのストーリー、見通し、仮説・実行・検証は、不確かな中で細やかに選択するものであり、毎回毎回工夫を重ねるものである。
指導というアート(芸・術)
● 実践の「正しさ」:有能な教師は、自分の指導方法が必ずしも正しくないかもしれない可能性を常に自覚している。反面、マニュアルだけに従う教師は常に「正しい」というお墨付きを得ることができるが、現場の現実に柔軟に対応していないだけに指導が失敗することも多い(だが、自分は「正しい」のでそれを反省する必要はないと考えている)。
● 基礎知識の参照:現場の教師は、ストーリー、見通し、仮説・実行・検証を選択する際に、基礎知識も参照する。英語教師なら、英語そのものの知識などが基礎知識に相当する。基礎知識は、観察対象の中に紛れている小さな可能性を見出すために役立つ。
● 知識の論理と現実の論理:教師にとっての基礎知識は、現場で常に変動する多数の要因の中で活かされる。単純で体系的な基礎知識の枠組みに、複雑・複合的な現場を無理やり押し込めてはならない。現場は、基礎知識の論理で必ずしも動かない。
● 全体を見る:教師は、教室や学習者の一部だけに着目してそれを凝視するのではなく、全体をぼんやりと、しかし一所懸命に見る。そうやってぼんやりと全体を見るなかで、ふと基礎知識の一部が思い起こされ、それが全体の流れを把握するのに役立つ。
● 標準化・規格化の危険性:教師の現場での力は、一種の芸であり術である。それゆえに個人差があり、標準化・規格化しがたい。教師の力量を標準化・規格化しようとする営みは善意から行われているのかもしれないが、それが無反省になされると、学習者をただ機械的にさばくだけの教師を量産しかねない。
● 徒弟的な学び:教師の現場での力は、個々の教師の人格・資質・能力・経験・知識などに基づくものであるから、新人教師は先輩の熟達教師のそばで徒弟的に学ぶべきである。
● 太古の知恵:教師の現場での力は、「他人の身になって」思考し行動するという古くからの知恵が具体化したものである。だが、教育を科学化しようとする流れの中で、その知恵が失われようとしている。
「身につける」
● 心身の相関と分化:人が何かを行う時、その人の心身は相関している。心が先行して存在し、それが身体を動かしているのではない。しかし自分自身の行いを観察しようとすると、観察をする心と観察される身体の2つが分かれてしまう。
● 心身の再統合:他人の行いを、ことばや教則本にしたがって新たに自分で学ぼうとする時も、自分の心と身体が分かれてしまう。だが練習を重ねるつれ、心と身体が分化することなく自然に動くようになる。それが「身につく」ということである。
● 上達とは:上達するとは、一体化していた心身をいったん心と身体に分けた上で、心に身体を導かせたり、逆に身体に心を導かせたりして、新たな心身の統合を得ること。
技芸の科学化
● 技芸の科学化の危険性:教師の指導法も、医療の標準化・規格化の流れを追うように、客観化・客体化・対象化を目指し、主観を廃し普遍性を求める傾向にある。このことによって変なことが起こらないようにしているのかもしれないが、同時に、教師が学習者に共感し、「学習者の身になる」こと、あるいは先輩教師から人格的な影響を受けながら教師としての技芸を学ぶことを妨げている。
● 教室の複合性:教室は複雑系・複合系であり、多種多様な要因が流動的に絡まっているので、単純な因果関係だけに還元することができない。すなわち「学」として単純化して整理することができない。
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