たまたま今朝読んだThe New York Timesの以下の記事は、多くの企業が採用の一次面接で、企業側の人間の面接者を省いて、予め定められた質問に対して、応募者が答える様子をビデオ録画する方法がだんだんと増えていっている様子を伝えています。
Job Interviews Without Interviewers, Products of the Pandemic
By Julie Weed
The New York Times, Nov. 27, 2020
https://www.nytimes.com/2020/11/27/business/video-job-interviews.html
この面接方法にはこの方法なりの良さがあり、応募者も少しずつこの新しい形式に慣れていっていることもこの記事は伝えています。
COVID-19の影響でICTの活用方法を知った私たちは、今後ますますICTを利用するようになるでしょう。
これからの企業は、ICTで省力化できる業務に人手を割く企業は人件費負担で衰退し、逆に対面で人間同士が行わなければならない業務をICT化する企業もサービスの質を問われ落ち目となるでしょう。
何を機械化し、何を機械化してはいけないかというのは、今後大切な問いとなると思われます。
教育界でも、何を機械が行い、何を人間が行うべきかを見極める必要があります。
一方でICTは良質なコンテンツを常時提供できることで、反転授業などの推進を可能にします。他方で、機械化できないことはないが、機械化してしまうと、一部の人だけが受益者となることもあるでしょう。
私が懸念しているのは、教育関係者が、何を教育の目的と考えているかです。
多くの人は、教育の機能を選抜--良い人だけを選び出し、そうでない人を排除する--ことだと考えているようです。(改めて問うと否定するかもしれませんが、行動を見ているとそう考えているとしか思えない人が珍しくありません)。
実際、企業の論理、例えば上の人事面接などは、選抜の論理で動いています。企業が必要なのは採用に値するよい人材を獲得することです。値しない人材の今後のことなど考える必要はありません。「商売は慈善事業ではない」からです。
昔、あるワークショップで、企業での英語研修の大家と、公立中学校で優れた実践を展開している英語教師が講師となったことがありました。
ワークショップ終了後のタクシーの中で、私はそのお二人と同席する機会を得たのですが、その際の企業講師のことばを忘れることができません。
「いやぁ、今日は本当に勉強になりました。学校というところは、ボトム[=成績不振者]を救おうとするんですね。企業でしたらボトムは切り捨てるだけですから、ボトムを育成しようとするという発想には改めてびっくりしました」
資本主義社会の中で、利益を上げ、資本を増大することを構造的に運命づけられている企業は、できるだけのコスト削減を行います。それが資本主義的生産体制の中の企業としてやるべきことです。(そういった社会のあり方そのものに対する批判的考察はここでは割愛します)。
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柳瀬陽介 (2014)「学習者と教師が主体性を取り戻すために」 『英語教師は楽しい』所収
しかし、私企業のあり方と公教育のあり方は異なります。
確かに、公教育も受験という入り口のところで、選抜を行っています。
しかし公教育には、すべての人に教育の機会を与え人格的な発展を促すという目的があります(世界人権宣言第26条、子どもの権利条約第28条、日本国憲法第26条・教育基本法第1条)。私人の間での私教育はともかく、公教育においては、個人と社会の育成という目的を怠ることは許されません。
どんな学習者にも、その人なりの自己実現を目指させる。そしてどんな人も見捨てない姿勢を堅持することで、人権感覚に基づいたよりよい社会を作る--こういった理想を教育関係者が忘れてはいけません。
公の営みを私事化・民営化 (privatize) する新自由主義の発想がもはや空気のように当たり前になる中、教育関係者の思考も私企業の人間の思考と同じようになってきています。そんな風潮の中、できうるだけ機械化を進めて、公教育のコストを下げるべきだという思潮が暴走することを私は恐れます。
仮にICTの活用で、一部の学習者の学びが進んでも、その機械化が多くの他の学習者の自己実現を阻んでいるのなら、そのICT化に対しては慎重になるべきだと私は考えます。
進めるべき機械化は進めながら、すべての学習者の権利を保障するために、人間教師は何ができるのか、ICTや機械では代替できない対面コミュニケーションの力とは何か、ということを教育関係者は真剣に問う必要があります。人間から人間の間でしか達成できない学びの文化の伝承をすべての学習者に対して実現することが公教育関係者の果たすべき務めです。
「時代の流れ」に流されているだけの公教育のICT化・機械化を私は恐れます。英語教育関係者も、教育工学的発想が強い人は、総じて新しいテクノロジーが出てくるたびに、それを利用することを目的としたような教育方法を提案します。企業もこれを商機とみなし、そんな教育方法や研究発表をさまざまな形で支援します。
もちろんそういった試行錯誤は、歴史の中で必然的に生じてくるものです。好奇心に駆られた試みをむやみに否定することは賢明ではありません。しかし、新自由主義という空気の中で、経費(特に人件費)削減を第1の目標とするような教育研究がはびこること、さらには奨励されることには批判の目を失ってはいけないでしょう。
公教育の私事化の流れは、「公教育も個々人にそれぞれの利益を最大化させるように競争させるだけの営み」といった考えを広めます。そういった公共的事業の私事化 (privatization) は、長期的には社会を損なうでしょう。人類が長い苦難の歴史の中で獲得してきた人権意識をおろそかにしてはならないと私は考え、そして自省します。
追伸、
もうすぐ発刊される『英語教育2021年1月号』(大修館書店)で私もこういった話題についてのエッセイを寄稿させていただきました。機会があればぜひお読みください。