■ 本書について
昨年末に出版され、自分も執筆することができた『英語授業学の最前線』についてようやく紹介する時間が取れました(というか作りました(泣))ので、遅れ馳せながらこの本についてまとめます。
この本は、編者の1人である淺川和也先生もいうように「英語教育のみならず、教育に関わるあらゆるものに、内省し実践する指針を提供している」本かもしれません。 (p.155)
もっとも関係者がそのように言うだけでは説得力がありませんが、たまたまアマゾンで見つけたレビューでも「本書を読み終わり、このような授業学に関するものをもっと前に読みたかったというのが最初の感想でした。授業学に関する大学英語教育学会活動のエッセンスがアレンジされていて、教育に関わるあらゆる者に、内省し実践する指針を示してくれています」という評が見られます。著者の1人として、本書をこのように読んでくださるレビューアーの存在はありがたく思う限りです。
本書の主な構成は次のようになっています。(参考:ひつじ書房サイト)
言語教育における実践者研究の再考 (pp. 1-23)
ジュディス・ハンクス(加藤由崇訳)
【講演1】 言語教育における研究と指導・学習の統合
【講演2】 実践を探究する共同探究者としての学習者と教師
当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充 (pp. 25-48)
柳瀬陽介
「二人称的アプローチ」による英語授業研究の試み (pp. 49-71)
吉田達弘
何に着目すれば良いのだろうか 英語授業改善の具体的な視点を探る (pp. 73-91)
竹内 理
明日の授業に向けてのシンポジウム
明日の授業にむけて―今、私たち英語教師にできること (pp. 93-122)
司会:淺川和也
パネリスト:柳瀬陽介・吉田達弘・竹内理
授業学研究会合同シンポジウム
これからの授業学研究
―大学英語教員に伝えるべきこと・学生に授業を通して伝えるべきこと (pp. 123-143)
司会:岡田伸夫
パネリスト:村上裕美・佐藤雄大・馬場千秋
このブログ記事では、まず我田引水的に私の章について触れた上で、次に上の目次順にそれぞれの章を紹介したく思います。
■ 柳瀬陽介:当事者の現実を反映する研究のために 複合性・複数性・意味・権力拡充
私の論については、この章の冒頭を示すことが、もっともよい紹介となるかもしれません。
「英語の教師と学習者のためになる研究をしたい」―これこそは英語教育学を行うほとんどの研究者が抱く初心でしょう。しかし研究経歴を重ね、査読論文の出版を次々に求められる中、いつしか自分の研究が、現場教師と学習者―これら2つを合わせて以後「当事者」と呼ぶことにします―の現実から離れ始めることも少なくありません。その結果が、研究誌には掲載されても、当事者に読まれない論文です。やがて初心は静かに忘れさられるか冷笑の対象になります。
たしかに研究と実践の乖離は永遠の課題なのかもしれません。しかし少しでも改善はできないでしょうか。この論文では、当事者のためになる研究を行うための提案をします。その骨子は、これまでの研究の前提を変えて、当事者が投げ込まれている現実に即したものにすることです。英語圏の応用言語学でも少しずつ自覚され始めている複合性・複数性・意味・権力拡充といった考え方を新たな研究の前提とすることにより、私たちは「英語授業学」という分野を開拓できるという主張をこの論文では展開します。(p. 25)
私としては、実践研究のあり方についてそれなりにまとめた文章だと思っておりますので、皆様のご一読とご批判を乞う次第です。
■ ジュディス・ハンクス(加藤由崇訳):言語教育における実践者研究の再考
Exploratory Practice(探究的実践)の第一人者の解説が日本語でも読めるようになったことは、実践研究を行う者にとってありがたいことではないでしょうか。
私としては、「なぜ私の学生は話したがらないのか」、「なぜ私の学生は技能統合型の授業を文法や語彙の授業だと考えるのか」、「なぜ私の学生はすぐにやる気を失ってしまうのか」、「なぜ、[私は]学生に質問されると緊張するのか」 (p. 6 いずれも太字強調は柳瀬)といった、一般的・普遍的な問いではない、文脈固有の「パズル」 (puzzle(s))、あるいは教師などが「疑問に思っていること」 (what puzzles them) がExploratory Practice(探究的実践)で取り上げられていることが非常に重要だと思っております。
さらに個人的な意見を述べますと、このようなpuzzleを自然科学のresearch questionとして取り上げないことが重要であり、そのことを理解するためには、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の89-133節の論考がとても参考になると思っています。
関連記事
ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈
このようにExploratory Practice(探究的実践)についてウィトゲンシュタイン哲学の観点から再検討することは、本来ならこの春休みにやりたかったのですが、とにかく次から次に仕事に追われ、その時間を取ることができませんでした。私としては今後の課題とします。
■ 吉田達弘:「二人称的アプローチ」による英語授業研究の試み
この章では、発達心理学者のヴァスデヴィ・レディ (Vasdevi Reddy)が提唱し、佐伯胖先生が高く評価している「二人称的アプローチ」 (Second-Person Approach) についての論考が展開されています。
二人称的アプローチは、私も以下の発表などで言及し、もっと勉強しなくてはと思っていながら、そのままになってしまいましたので、勉強になりました。
関連記事
「言語教師認知研究における物語様式と二人称的アプローチ」(11/17(土)14-16時 熊本大学教育学部棟2)
ちなみに吉田先生は、このテーマについて下の論文も公刊し、その考えを深めたそうです。
Yoshida, T. (2020). A Second-Person approach towards understanding English language lessons: A Sociocultural analysis of the post-lesson conversation. The European Journal of Applied Linguistics and TEFL , 9,(2).
私としては、その後、神田橋條治先生の論考に触れる中で、以下の記述の含意がよくわかるようになりました。勉強できる時間は少ないですが、継続だけはしてゆこうと思っています。
児童生徒とのかかわりの中で「驚き」、児童生徒の「よさ」に気付く「二人称的アプローチ」で授業研究を行うには、常に児童生徒の学びや情動の変化を感じ取りながら応答するという高い意識が必要となります。(p. 58)
感受性を失えば、二人称的アプローチをやっていると思っても、自分の思い込みを相手にそのまま投映してしまう一人称的アプローチや、傍観者的な記述にすぎない三人称的アプローチに変容してしまうというのが吉田先生の指摘です。
関連論文
優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―
https://www.jstage.jst.go.jp/article/casele/48/0/48_11/_article/-char/ja/
このように実践研究は、研究者のあり方の変容も伴います。こういった点についての理解を深めたいものです。
関連記事
『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html
神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html
神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店
追記(2021/03/30)
吉田先生が関係する研究成果が、期間限定で公開されているのでお知らせします。
「VEOを活用したオンライン教員研修プログラム開発のための基礎研究」
公開期間:令和3年3月29日(月)午後1時〜4月2日(金)午後5時
■ 竹内理:何に着目すれば良いのだろうか 英語授業改善の具体的な視点を探る
竹内先生の論はいつものように明晰です。授業観察において、新人教師は表面的なところばかりに注目しがちです。しかし、ベテランは、授業のめあて・教え方・教科書の使い方・評価の間の整合性を確認しようとしたり、自分の経験を超えた「枠組み」をもつことを心がけたり、さらにはそれを基盤として変化に対応することを大切にしているということを竹内先生は調査から明らかにしています (p. 88)。指導の一貫性、判断の枠組み、未知の状況への対応力という3つの要素は、私も覚えておきたいと思います。
■ 淺川和也・柳瀬陽介・吉田達弘・竹内理:明日の授業にむけて―今、私たち英語教師にできること
司会の淺川先生はこのシンポジウムを、「創造的で感情もかき立てられたシンポジウム」と総括しました。手前味噌を重ねて恐縮ですが、私としても、この鼎談は話が噛み合い、非常に充実した時間を経験することができたものです。
私としては、対話という形式に促されて、(量的研究における統計的に一般化された結論ではなく)読者・利用者による一般化可能性、弱さの情報公開、当事者の主観の尊重といったことの重要性を手短に訴え (p. 96)、人文系の素養の復権の必要性を説き (p. 100) 、複数の認識論を理解し使い分けることが現代の教養の一部であること (p. 106) などを訴えることができたことを嬉しく思っております。(ただ一箇所、誤植があります。p. 115の最終行の英語は "Do no harm"です。)
■ 岡田伸夫・村上裕美・佐藤雄大・馬場千秋:これからの授業学研究
このシンポジウムでは、私は岡田先生のまとめにとても共感します。
科学というのは、複雑な事象を構成する要因を同定し、その中の1つ、あるいは少数の要因を選び出し、他の要因を捨象して研究をすすめます。少ない要因に絞って、仮説を立て、実験や調査を繰り返し、その成否を検証します。しかし、そのような科学的アプローチだけで、教員と学習者の全人的なかかわりの全体像を明らかにすることができるのか、という疑問が残ります。
私の専門は英文法研究の英語教育への応用ですが、英文法だけで英語教育はできません。(中略)
授業学というのは、そういう科学として専門化した研究の成果を、授業というクラスの中で「統合する」営みだと思います。 (p. 140)
ただし最後の「統合する」には、私なりに注釈を加えたく思います。
この「統合」とは、理論Aと理論B・・・理論Nの総和といった単純な足し算ではありません。観察対象を細かく限定して互いに視点(視座と注視点)も異にしている科学理論を単純に足すことはできません。そのような足し算は、視座(観察者の立地点)も認識法(観察方法)も異なる細かな注視点(観察対象)の記述を並べただけです。そのようなつぎはぎは、統一的なものの見方ではありません。その観察結果は小さな観察対象の恣意的な組み合わせであり、物事の全体像を捉えるものではありません。
私は、自然科学の1つの理論(あるいは複数の理論の集合)が実践を記述・説明する枠組みとはなりえないと考えます。複合的で多義的で複数の視点を必要とする現実を記述することに適した枠組みは、単一の視点を貫き厳密な記述・説明しかできない自然科学的な様式では不可能だと考えるからです。「現実」という簡単に捉えがたい対象は、多元的な視点と認識をもち、曖昧な解釈を促しながらも、全体としては一貫した流れを示す物語という様式で語り理解するべきです。
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柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018-16pp-12-32.html
真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より
自然科学の知見は、その物語の細部の一部を裏付ける役割を果たすべきであり、物語の枠組みそのものになろうとしてはいけません。逆に言いますと、物語は、その細部において自然科学を否定するものであってはなりません。
「実践研究の枠組みは物語であり、自然科学はその細部の一部を補強する」というのが私の現在のまとめです。
物語についてもう少し詳しく述べれば、「物語としての実践研究は、それ自身が1つのまとまった文章としての整合性を保ちながら、実践にとって重要な人物や要因を複数の視座・認識方法・注視点でもって描き、一人ひとりの読者に自分の実践との関連性を考えさせる報告である」となります。
自然科学について補っておくと、「実践研究を、特定の自然科学理論から演繹する形で構成すれば、それは実践のごく一部だけを強調し、他の数多の視座・認識方法・注視点を無視してしまう、偏った現実認識を生み出してしまう」とも言えます。
私は下の記事でも、自然科学的な量的研究に対して批判的な立場を表明しました。しかし私はそういった研究を言語教育研究において全面的に否定しているのではありません。私が否定したいのは、自然科学的な量的研究が、1つの(というより唯一の)正しい認識として、多面的であるべき現実理解を乗っ取ってしまうことです。
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草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021) 「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」 『広島外国語教育研究』
自然科学が示す結果(立証する命題)は、Yes/Noで示される単純な命題ですから、一般人にも高い訴求力をもちます(例えば「○○のやり方で教えれば、英語力は向上する」など)。しかし、そのような一面的な単純化は、教授法以外の要因を存在しないものとしてしまいます。その学校が置かれた状況、担当教師の力量や性格、個々の学習者の様子、そのクラスの集団的特性、使われる教材のレベル、その他諸々の要因が流動的に相互に影響を与えているのが現実です。
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教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
しかし、単純化され法則扱いされた結論は、その自然科学的装いにより、妙な権威を帯びて、教育の営みを歪めてしまうのです。そのような(権威的・権力的な)現実の歪曲化こそは私が批判したいものです。
比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
私としては岡田先生の総括がきっかけとなって、自分の考えを以上のようにまとめなおすことができました。
総じて言うなら、皆さんも本書の読解を通じて、研究と実践についていろいろと考えることができると思います。その考えを、もっとオープンに語り合うことにより、英語教育研究は本来あるべき方向に発展すると私は考えます。
ご興味のある皆様にご一読をお願いする次第です。
medicine is not a science but an art that uses science as one of many tools