全国英語教育学会が、学会第50回大会記念特別号『英語教育学の今-実践と理論の統合-』を全文公開しました。 15の章に分かれた、447ページの大作です。
これだけの大部を編集し刊行した上で、公益を考え全文公開をされた編集委員会の皆様に心からの敬意をお捧げします。
私はこの冊子の第1章第2節 (pp.20-25) を書くことができました。上で冊子全体が公開されておりますので、ここでは拙稿の部分だけを掲載させていただきます。ただし参考文献は削除しておりますので、その部分も含めた完全版をご覧になりたい方は上の青い部分をクリックしてください。
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英語教育はどこへ向かうのか
1 はじめに
未来について考える最良の方法の1つは歴史を振り返ることだ。この節では,日本の英語教育の歴史を,近現代の特に外交史と経済史の文脈の中で総括し,英語教育がやり残した課題を明らかにする。筆者のまとめは,幕末・明治以来の150年あまりを2回の上昇・下降として捉えることである。
2 「坂の上の雲」から原爆雲まで
明治から第二次世界大戦降伏までの時代は,希望を象徴する「坂の上の雲」―司馬遼太郎の同名の小説タイトルで使われた比喩―を追った前半の上昇と,無謀な戦いを続け原爆雲を見るにいたった後半の下降に分けることができる。
(1) 不平等条約締結から日露戦争と第1次世界大戦の「勝利」まで
幕末の開国は,関税自主権と領事裁判権がない点などでの不平等条約に基づいていた。西洋諸国の帝国主義政策が進行する中,日本にとっての一大課題は近代国家としての形を整えて,不平等条約を撤廃し,自国の植民地化を防ぐことであった。日本は,学制の整備・日本銀行設立・大日本帝国憲法発布・帝国議会開催などの急速な近代化を敢行した上で日露戦争にも辛勝する。そういったこともあり,1911(M44)年には日米修好通商条約の改正に成功し,その後の諸国との不平等条約の解消にいたった。さらに第1次世界大戦で日本は戦勝国側に属したため,1920 (T9) 年に設立された国際連盟の常任理事国となった。
だが日本の近代化は軍事国家化でもあった。特に日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦など10年に一度は大きな出兵を行うことなどは,経済力・工業力だけでなく,教育勅語などによる超国家主義的な精神形成がなければ不可能だったはずだ。保阪 (2024) は,政治や商業を取り込んだ軍事国家を牽制すべき人権意識が不十分であったことを,その後の軍事的暴走の原因の1つとしている。
(2) 国際連盟の脱退と第2次世界大戦敗戦まで
日本は満州事変を起こし,1933 (S3) 年に国際連盟を脱退する。さらにノモンハン事件・支那事変・太平洋戦争と,軍事的にも勝算のきわめて薄い戦いをしかけた結果,主要都市にナパーム弾での空襲を受け,沖縄地上戦で火炎放射器攻撃を浴び,広島と長崎に2発の原爆を落とされるまでになる。
この完敗にいたる国の暴走を軍部だけのせいにするのも一面的かもしれない。五・一五事件などの軍事クーデターは少なからずの国民の共感を呼んだ。その背後には国民の経済的苦境があったが,進みゆく国レベルでの思想教育もあった。顕著なのが,文部省が出した『國體の本義』(1937/S12年)と『臣民の道』(1941/S16年)である。たとえば『國體の本義』は,西洋の個人主義が「民主主義・社會主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり,最近に至ってはファッシズム等の輸入」(p. 5) につながったと総括する。同書は,「我等臣民は,西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる」 (p. 33) のであり,臣民としての「没我歸一の精神」は「主語が縷縷表面に現れず敬語がよく發達してゐる特色」 (p. 98) をもつ国語にもよく現れていると説明する。『臣民の道』は,「我等が私生活と呼ぶものも,畢竟これ臣民の道の實踐であり」「私生活の間にも天皇に歸一し國家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」 (p. 71) と説く。
(3) 英学・英語教育の貢献と限界
日本の英学・英語教育はこのような文脈の中で発展した。日本の急速な近代化の背後に,西洋諸学を旺盛に翻訳しその過程で多くの近代語を創成した英学があったことは言うまでもない。さらに岡倉由三郎 (1911) の記念碑的な書籍『英語教育』が端的に示すように,英語学習には実用的価値 (Practical Value) だけでなく教育的価値 (Educational Value) もあるとされた。教育的価値の1つは「外國に對する偏見を撤すると共に,自國に對する誇大の迷想を除」くことであり,もう1つは「母國語の外に更に思想發表の一形式を知り得て精神作用を敏活彊大ならしむる」 (p. 39) ことだと岡倉は説いた。夏目漱石 (1914) も個人主義を,「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」,「党派心はなくって理非がある主義」だと説明し,個人主義は国家主義とも世界主義とも併存しうると説いた。 (pp. 29-30) このように英語教育や英語学習を代表する識者は,日本の暴走を防ぎうる思想を語っていた。だがその思想を広い層に浸透させることができなかったのが当時の日本の英語教育の限界だった。
3 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「失われた30年間」まで
第2次世界大戦降伏から現代に至るまでの時代を,ここでは焼け野原から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と驕りバブル景気に至った上昇と,その後の「失われた30年」の下降に分けて総括する。
(1) 占領統治からプラザ合意そしてバブル景気まで
占領軍の中核を担った米国の当初の日本占領政策は,日本を二度と戦争ができない国にすることであった。米国は,日本の精神文化を変え,兵器開発につながる工業力を落とすことを目指した。
だが1950 (S25) 年の朝鮮戦争あたりから米国の対日政策は大きく転換する。共産主義国家の台頭を阻むことが優先事項となり,日本にある程度の工業力と経済力をつけて自由主義陣営の支援をさせるようになった。そして1951 (S26) 年のサンフランシスコ平和条約で日本国の再びの独立が認められた。敗戦直後に戦争に関連したとして公職から追放されていた20万人以上のほぼ全員が公職に復帰可能になった。(山崎, 2022)少し前まで『國體の本義』や『臣民の道』に共感した者も国家運営に戻れるようになったわけである。
だが米国も日本への手綱を完全に外したわけではない。サンフランシスコ平和条約締結の後に日米安保条約が結ばれ,日米両国の間に行政協定ができたが,元外務省国際情報局長・防衛大学校教授の孫崎 (2012) によれば,米国の優先順位は逆であった。行政協定を可能にするための安保条約であり,安保条約を成立させるための平和条約であった。日本は,行政協定第2条で米国に対し必要な施設および区域の使用を許すことに合意し,第17条で米国軍人・軍属・その家族についての専属的裁判権を米国側に認めている。これは事実上の不平等条約といっても過言ではないが,こういった取り決めを国会での審議や批准を経ずに決めたのが行政協定であった。無論,行政的な取り決めのためには,国家レベルでの大枠の合意が必要である。そのために調印されたのが安保条約であった。しかし,安保条約は独立国家間での条約である。それを可能にするために結ばれたのが日本の独立を認める平和条約であった。
孫崎 (2012) の分析をさらに続ければ,これらの米国の政策転換により,戦後の日本政治は,米国への協調を最優先とする米国追従路線と,米国との間に多少波風を立てても日本の国益を守るための主張をする自主路線との間での相克となった。他方,経済においては,占領軍による公職追放の対象となった大蔵官僚の数はわずか数名であったことに端的に示されているように,日本の経済官僚はうまく立ち回り,戦時期の国家総動員体制―「1940年体制」―をうまく温存して再編して石炭や鉄鉱などの基幹産業を再建した。(野口, 2019)
日本は急速に工業力と経済力を高めたが,その一方で米国は戦争直後の覇権を徐々に失っていった。1970年代に米国は,基軸通貨の象徴である金本位制度を放棄し,日本に対しても日米繊維協定を結び,日本からの輸出攻勢に苦しむ姿をあらわにした。その後も1981 (S56) 年の日本車対米自主規制,1986 (S61) 年の日米半導体協定や通商301条など,米国は日本の工業的・経済的発展にいらだちを隠せない。そんな中で日米を含む先進5か国の蔵相と中央銀行総裁で電撃的に結ばれたのが1985 (S60) 年のプラザ合意であった。これにより米国は日本の輸出競争力を落とすことを狙った。だが詳述は割愛せざるを得ないがプラザ合意に伴う金融緩和も手伝って日本はバブル景気を享受するにいたった。
日本の台頭について警告していたのが,ハーバード大学で東アジアを研究していたエズラ・ヴォーゲルの著書 Japan as No.1 (1979) であった(翻訳書も同年に刊行)。だが同時に彼は日本の国力が,自由主義諸国では見られない独自の組織力・政策・計画―野口の用語なら「1940年体制」―によるものであることを見抜いていた。ヴォーゲルは2004年の翻訳書復刻版で,同じくハーバード大学教授で駐日米国大使も長く務めたエド・ライシャワーが,同書を米国人には必携の書だが日本では禁書にすべきだと述べたことを明らかにしている。ライシャワーはこの本が日本人を傲慢にすることを恐れていた。だがその復刻版の帯で京セラ名誉会長の稲盛和夫は,「日本社会の卓越性と底力をつとに指摘した本書は,わが民族に希望と勇気を与える永遠のバイブルである」と語っている。このような認識に日本のうぬぼれを見ないわけにはいかない。
(2) 冷戦後の新自由主義・新帝国主義体制での国民の疲弊
冷戦終了も米国は,ソ連に代わる軍事的脅威としてイラク・イラン・北朝鮮を「ならず者国家」として糾弾し,軍事力を維持した。同時に日本を米国の軍事戦略に組み込んで軍事負担を増やし,日本の経済発展を抑えようとした。(孫崎, 2012)2005年には日本の外務大臣・防衛庁長官と米国の国務長官・国防長官が「日米同盟:未来のための変革と再編」に署名した。これにより可能な軍事行動の対象は極東から世界に拡大し,その軍事行動の理念が国際連合重視から日米共通の戦略に変わった。だがこの変更は大きく報道されず,日本が政府レベルで米国に約束したことと国民の間に大きなギャップが生じ始めた。(孫崎, 2009)
その間,世界レベルでは新自由主義による新たな経済競争が激化し,様相は新帝国主義的色彩を帯び始めた。(柄谷, 2023)経済的にも軍事的にも緊張が高まる中,発生したのが新保守主義である。新保守主義は,経済的自由以外の自由を批判する。さらには,国内外の危機を重視し,道徳と国家への忠誠を強調する。(ハーヴェイ, 2007)
その間の日本は,国民の実質賃金は低いままで,諸外国の賃金上昇と大きな違いを見せている。(内閣府, 2022)実質実効為替レートによるならば,日本円は1972年の変動相場制開始時よりも通貨価値が低い。(日本銀行, ND)バブル後の流行語となった「失われた10年」は,いまや「失われた30年」となった。寓話「ゆでガエル」のように国民の多くは少しずつ疲弊を重ねている。
この経済的停滞の背後には,「1940年体制」の精神文化を超克できない日本があると野口 (2019) は分析する。彼は,バブル時期においても近年の円安容認政策時期においても共通しているのが,国の関与を強める1940年体制的発想だとしている。企業や社会の一人ひとりが個人として動き,その相互作用の中から新しい流れを生み出す文化が日本にはまだ不十分であるように思える。
新自由主義と新帝国主義を補完するイデオロギーとして権力側に重宝される新保守主義も,日本に蔓延しているようだ。国や企業のために人が粗末にされることが当たり前になり,日本のあり方(=國體)に特別な意味をもたせようとする「戦前回帰」の傾向すら見られ始めた(山崎, 2018)
(3) 英語教育の変容と限界
英語教育は,戦後直後は強い米国の影響下での民主化の時期を経験した。続いて,日本国独立後の文部省は,学習指導要領に「法的拘束力」があると主張して英語教育体制を維持した。だが1980年代に米国の対日圧力が高まると,中曽根総理直属の諮問機関としての臨時教育審議会が力をもち始め「官邸主導」の英語教育体制が始まった。JET(後のALT)プログラムも中曽根首相とレーガン大統領との会談で合意された。2000 (H12) 年に小渕首相の諮問機関「21世紀日本の構想」は,「長期的には英語を第2公用語とすることも視野に入ってくる」と大胆な提言をした。第2次安倍内閣の諮問機関「教育再生実行会議」はさらに権力を行使し,十分な議論も準備もなかった小学校英語教育の抜本的拡充や中学校での英語授業の実施を閣議決定で突如決めた。
その流れで文部科学省は2017 (H29) 年に大学入学共通テストの英語に民間試験を活用することを決定した。だがテスト実施には数々の現実的問題があり,かつ,国民間の格差を助長するものであった。反対する市民の声は高まり,2年後に文部科学省は,事実上の断念をした。だがその後,東京都は数々の批判にもかかわらず高校入試に民間スピーキングテストを導入している。日本の英語教育に市民の声によるダイナミズムがもたらされたと楽観はできない。
ますます官邸主導で改革された英語教育だが,現在の日本の若者は諸外国の中でもとりわけ留学への意欲に乏しく,留学者数も韓国以下である。(内閣府, 2022)国力の不足を痛感した明治の日本が取った方針は,謙虚に外国から学ぶことであったが,そのような気運を現代日本に感じることは難しい。
4 これからの日本の英語教育
明治からの日本は,西洋諸国の帝国主義政策に対抗して自ら帝国となり,軍事的に暴走した。英語教育は,外国に対する偏見と自国に対する誇大妄想を排することができるはずだった。主語を明示し,身分関係を問わず相手を "you" と呼ぶ英語に習熟することは,自他を尊重する個人主義の普及にいたっても不思議ではなかった。
戦後の日本は,自主路線の動きは時折あったにせよ,ほぼ米国追従の歴史であった。プラザ合意まで米国に許容された日本の経済的・工業的発展は,その後,米国主導の新自由主義・新帝国主義体制の中で力を失った。一部の大企業や富裕層を除いて「失われた30年」の疲弊を感じているのが現代である。その間,官邸主導の英語教育改革は繰り返されたが,それでも日本文化から「臣民」思想は払拭されず,人権は未だに十分に尊重されていないように思える。テストによる学習管理はますます進行中だが,その反面,明治初期のように積極的に外国から学ぼうとする気運はむしろ衰退している。
英語教師はしばしば少数の優秀な学習者の英語力に目を細める。だが,国を造るのは国民一人ひとりである。すべての学習者に英語教育の成果が感じられてこそ公教育は成功する。これからの日本の英語教育は,すべての学習者に日本語以外の思考と表現の形式を経験させて心の働きを豊かにし,自由主義社会の共通基盤である個々の人間を大切にする人権思想を浸透させることができるだろうか。昨今登場し世間を動揺させているAIはその方向で活用されるのだろうか。それともAIは,新自由主義・新帝国主義の時代の新たな臣民づくりの強力な道具となるのだろうか。決めるのは私たちだ。