2023/03/31

柳瀬陽介 (2022) 「人間を育てる英語教育とは何か--英語教師に必要な哲学」『新英語教育』2022年3月号 pp.7-9

 

この原稿は、新英語教育研究会編集/高文研『新英語教育』2022年3月号のpp.7-9に掲載していただいたものです。編集部からの許可を得ていますので、ここに全文を掲載します。


この12月から3月にかけてはAIが急激に発展し、私自身も新年度の授業をどうするか、今でも迷い続けているぐらいです。


しかし、そういった時にこそ、心を澄ませて、日々の暮らしの中で「よく見てよく考える」ことが重要なのかとも思います。





1 「人間を育てる」と「英語教育」の狭間で  


忙しさに追われる中で、私たちはいつしか思考を停止してしまう。「この仕事の意味は何か」と思案する暇があったら目の前にある作業を片付けてしまいたい。仕事の改善を検討する時間よりも睡眠時間が欲しい。「一度、私たちの仕事について根本的に考え直してみましょう」と提言してくる者がいれば睨み倒してしまうかもしれない。だが人々がそうして余裕をなくしてしまった時、社会は正気を失う。この記事ではしばし「人間を育てる英語教育とは何か」というテーマについて考えたい。  


だがこれはいかにも大きなテーマである。「大きなテーマは分割せよ」というデカルト以来の原則に従おう。このテーマは「人間」と「人間を育てる」、および「英語」と「英語教育」に分解できる。  


最初の「人間とは何か」という問いは別に閑人の知的遊戯ではない。 “Black Lives Matter” や “#MeToo” の叫びは、今なお人間の平等性が建前にとどまっていることを明らかにしている。日本でもブラック労働や外国人技能実習生の実態は、日本社会の人間観を如実に示している。さらには人工知能 (AI) がさまざまな知的課題を超高速でこなすようになる中で、多くの人が失職の恐れをいだきながら「人間」とは何だろうと問い直している。  


「人間を育てる」にしても、その一翼を担う学校観も問い直されている。19世紀以来の学校観は「国家が子どもを工場での労働や管理を典型職とする近代的な生産システムに適応できるようにするための組織」とも総括できる。そこでは効率化が重視され、一斉授業・一斉テストが当然の前提となった。近代的生産システムが継続している以上、そういった学校観の意義がすべて消えたわけではない。だが、フリースクールの社会的認知が進んでいる現状は、人間を育てるやり方として、これまでの学校観だけでは対応できないことを示唆している。  


「英語」にしても、第二次世界大戦以前の大英帝国文化の精華といった扱いは、戦争直後ではアメリカ民主主義文化の象徴といった認識に変化した。さらに、昭和30年代からは「役に立つ英語」としてのいわゆる「実用性」が重視され始めた。その後の英語の世界的普及を受け、英語は特定の地域や文化を越えた世界共通語的な扱いを受け始めた。  


「英語教育」もグローバル化の進展により、口語英語の能力育成がますます強調されている。同時に、あらゆることの数値化を求める近年の傾向と共に、英語力は標準化された客観試験により測定されるべしという価値観が強くなった。大学入試にも4技能型民間試験が入ろうとした最近の動きは記憶に新しい。さらには翻訳、校閲、音声認識などでAIの能力がますます向上し、英語教育も変わらざるを得ないと考える者も多い。  


こうしてまとめてみると「人間を育てる英語教育」は時代を超越した実践ではなく、それぞれの時代が創造すべき営みであることがわかる。現代においては、「人間」と「人間を育てる」については身近な実感からの疑義申し立てが目立つ。他方、「英語」と「英語教育」はますます抽象化されシステム化されているように思える。現代における「人間を育てる英語教育とは何か」とは、毎日の中で私たちが抱く不全感と抽象化されたシステムの要求との狭間で考察され実践されるべき問いだ。


今、多くの学習者は、人間らしい暮らしについての明るい希望を得にくいのではないか。他方、多くの英語教師は、近代的生産システムの論理の中で成果を数値化せよという圧力を感じているのではあるまいか。これらの「人間・人間を育てる」ことについての実感と「英語・英語教育」のシステムの要求の間の混迷の中で、英語教師はどのように日々の授業を実践してゆけばよいのだろう。



 2 指導原理としての哲学?  


混迷する現代には「英語教師にも哲学が必要だ」と人は考え始める。「世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問」(『日本国語大辞典』)としての哲学である。実際、前節の粗雑なまとめにすら、若干の学問的知見が背景にある。文字から得られる知見は、日常生活の中では見えにくい事柄を可視化・言語化してくれる。英語教師にも、他のいかなる職業人と同じように、哲学をもつための学問的教養は必要だ。学問に裏付けられ、哲学として結実したことばは、明確な表現となる。やがては他人に影響を与える力をもち始めるだろう。  


だが筆者は、哲学をこのように推進することに実は若干の違和感を覚えている。「英語教育の哲学的探究」というウェブサイトで20年以上執筆を続けているにもかかわらず、いやむしろそうだからこそ、筆者は、特定の哲学が一種の指導原理として多くの人に受け入れられることに警戒心をもってしまう。哲学が不要だというのではない。哲学が暴走することが怖いのだ。以下、その理由を説明したい。  


例えばマルクスの経済学的な哲学である。筆者は『資本論』やその他の書籍のほんの一部を読んだにすぎないが、マルクスが筆者の人生の中でもっとも影響を与えた思想家の一人だと思っている。マルクスの経済学的分析は近代社会を考える上で必須の教養の1つだとも考えている。自分でもマルクスの商品論・貨幣論・疎外論の枠組みを用いて「英語教師は今どのような時代にいるのか?学習者と教師が主体性を取り戻すために」という論考を上梓したこともある(柳瀬 2014)。最近では斎藤 (2020) の『人新世の「資本論」』がベストセラーになったが、マルクスの分析は近代における古典として何度も読み返され、そこから現代的な解釈が生み出されるべき母体だと思っている。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎないが、大切なことは世界を変革することである」というマルクスのことばも、自戒のことばの1つにもしている。  


だが他方、20世紀とは、マルクスの考察がマルクス主義として硬直化し、各種の社会的実験が壮大な失敗に終わった時代だったとも考えている。マルクス自身は「私はマルクス主義者ではない」と述べたとも伝えられているが、多くの人はマルクスの言説を教義化し、それを自らの指導原理とすることを望んだ。そして一部の人々は神官のように特権化された存在として「正しいマルクスの教え」を伝えるようになった。 


これはマルクス主義に限った話ではない。混乱期に人々は強い指導原理を求める。「それさえ唱えていれば自分は正しい」と思える教義を欲しがる。やがてはその教義を連呼する特定個人を強い指導者として崇め始める。その危険性を私は20世紀の教訓として銘記しておきたい。  


だから筆者は「英語教育の哲学」の重要性を認めながらも、特定の哲学がすべての人が従うべき指導原理として教条化されることを恐れる。いや、本誌のこの特集を否定しようというのではない。寄稿者が、それぞれの立場から、「人間を育てる英語教育―英語教師に哲学を」という特集テーマの観点から論ずることは重要だ。しかしそれらの文章は最終的な「答え」として捉えられるべきではない。 


もちろんある論考が、混迷の中で見晴らしを与えることはある。それは一時的には「答え」のように思えるかもしれない。しかし世界や歴史は、ある特定の見解が唯一の最終解となるほど単純ではない。そもそも時代も状況も変わる(そして私たち自身も)。一時は答えに思えた見解が、後にその限界や矛盾を見せたりすることはむしろ当然である。その際に、問題点を隠そうとすることが教条化であり神格化である。かつての答えが今の答えに思えなくなった時には、再び問い直す?これが哲学である。 


哲学とは結果ではなく、絶えることがない過程だ。哲学が生み出すのは答えというよりは、提案であり新たな問いかけである。時代や状況の変化あるいは自分自身の変容に応じて誠実に考え続け、真理ではなく仮説としてその分析を言語化すること―それが哲学という営みだ。 英語教師に哲学は必要だ。だがその哲学は、誰かから一挙に与えられるべきものではない。私たちの正しさを常に保証するような答えでもない。「人間を育てる英語教育とは何か」という哲学的な問いは、私たち一人ひとりに思考の整理を求める問いだ。 


哲学を哲学した(=哲学という営み自身について反省的考察を行った)ウィトゲンシュタインも言うように、哲学的問いの効用は、私たちがずっと以前からよく知っていたこと、あるいは常日頃目にしながら十分に自覚できていないことを思い起こし、それらを整理して物事の見通しを得ることを促すことだ。(鬼界 2018) 「英語教師に哲学を」という呼びかけは、英語教師が実践の中で観察している数々の出来事を思い起こし、それらを現代という歴史的・社会的・経済的・文化的状況の中で解釈し、それらの意味を理解しようと試みることだ。 


「英語教師の哲学」とは、忙しい英語教師が考えないで済むように誰かから与えられる指導原理ではない。「英語教師に哲学を」とは、一人ひとりの英語教師がそれぞれに「よく見て、よく考える」ことを求める呼びかけである。そうやってそれぞれが観察と思考を重ね、そこからことばを紡ぎ出すとき、「人間を育てる英語教育」という理念も少しずつ姿を表してくるだろう。 



3 日常に根ざした哲学的探究  


それでは私たち一人ひとりはどのように自分なりの哲学を育てたらいいのだろうか。「よく見て、考える」ことは、感性のレベルから始まる。カントは人間の認識を、感性・知性(悟性)・理性の3段階に分けたが、本誌でのかつての拙稿(柳瀬 2015)と同じように、ここでもその3つに即して考えよう。 


感性レベルで生じることは、言語による分析抜きに直接に心と身体に生じる直感である。「これはおかしい」と直覚しながらも自分でもその理由をうまくことばにできない直感もあるだろう。まずはその直感を大切にしたい。教室や職場の中で当たり前のように行われている営みの中で生じる違和感をよく覚えておこう。そういった感性の働きを重視することから、硬直した教義ではない、生きた哲学は始まる。 


感性レベルの直感の次は、知性レベルの概念が重要になる。思い起こした数々の違和感をなんとか言語化しようとする。だがこれは容易ではない。ここで有用なのは学術的知見であり文学的表現だ。学問の抽象概念や文学の斬新なことば遣いは、私たちが漠然と感知していたさまざまな直感を1つの言語表現に集約してくれる。そのことばが、自分の語彙体系(つまりはこれまでの人生経験の表現集)の中にうまく適するか、ことばに自覚的になりながら考えよう。直感を概念としてまとめ、その概念と他の概念の整合性を確かめる。日々感じていた違和感をことばで語り直す。これが本格的な哲学の始まりだ。 


だが、そうやって概念で知性的に語り始めると、どこかで語り尽くせないレベルに達する。理性のレベルだ。例えば、毎回の単語テストについての違和感を、意味理論の概念を通じて整理したとする(柳瀬 2021)。知性のレベルとしてはそれで満足かもしれない。それでもさらに「私たちが若い世代に対して行っている英語教育の意味とは何か」といった問いが出てくるだろう。いくつかの知的概念を適用するだけでは答えられない理性レベルの問いである。


「人間を育てる英語教育とは何か」という問いもその理性レベルの問いの1つだ。 哲学とは、どこかの権威筋のことばを教義として崇めることではない。哲学は、日常生活の感性を働かせ、直感を知性的に概念分析することから始まる。その上で、理性レベルの問いに臨む。そしてその問いに対して私たちは語り尽くせないことを知り、再び感性の世界に戻る。実践の中で、よく見てよく考える。それを愚直に繰り返す。―これが英語教師に必要な哲学ではないだろうか。 



参考文献


鬼界彰夫 (2018) 『「哲学探究」とはいかなる書物か:理想と哲学』勁草書房

斎藤幸平 (2020) 『人新世の「資本論」』集英社

柳瀬陽介 (2009) 「現代社会における英語教育の人間形成について : 社会哲学的考察」 『中国地区英語教育学会研究紀要』 (39), 89-98. https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033702 所収 

柳瀬陽介、他 (2014) 『英語教師は楽しい』ひつじ書房

柳瀬陽介(2015)「リスト化・数値化の危険性」『新英語教育』7月号, p. 19.

柳瀬陽介 (2021) 「学校英語教育は言語教育たりえているのか:意味の身体性と社会性からの考察」 KELESジャーナル (6), p. 23 https://doi.org/10.18989/keles.6.0_6 所収



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