2020/03/11

宮坂道夫 (2020) 『対話と承認のケア--ナラティヴが生み出す世界』医学書院



生命倫理や医療倫理などを専門とする宮坂道夫先生(新潟大学大学院保健学研究科教授)によるこの著は、「ナラティブ・セラピー」として代表的なものから周縁的なものまでを独自の視点でまとめたものです。教育現場でのナラティブや対話に興味をもっている私にとっても非常に勉強になる本でした。

以下では1から4の論点で、私なりに勉強になった点をまとめました。まとめはきわめて選択的・恣意的なものなので、この本に興味をもった方は必ずご自身でご一読ください。

まとめの後には、=>印の後に、私なりの考え(というより蛇足)を付け加えています。



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1 実在論的ヘルスケアと構築論的ヘルスケア
ヘルスケア(注1)は、実在論的ヘルスケアと構築論的ヘルスケア(注2)の2つに大きく分けることができる。

1.1 実在論的ヘルスケア
実在論的ヘルスケアは、医学的に定義づけられた「疾病 disease」(p. 61) を対象とし、標準化されたケアを提供することを行動規範とする。基盤となる倫理原則は公平性である。現在のEBMはこの考え方に基づく。(p. 98)

関連記事
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察
https://www.jstage.jst.go.jp/article/casele/40/0/40_KJ00008918284/_article/-char/ja/

1.2 構築論的ヘルスケア
構築論的ヘルスケアは、患者が経験している「病い illness」 (p. 61) を対象とし、個別化されたケアを提供することを行動規範とする。その倫理原則は公正性である。(p. 100) 本書ではこの構築論的ヘルスケアを「ナラティブ・アプローチ」と呼ぶが、 (p. 99) 医療現場ではこの種のヘルスケアに対してほとんど具体的な名前も与えられず、専門的で公式な教育もなされていない。 (p. 101)

=> いろいろな分野での研究や実践を少しずつ知るにつれ、この実在論と構築論(構成主義・構築主義)の対立が、研究者間での根本的な溝になっているように思えます。言うまでもなく自然科学は実在論を原則としますが、それをそのまま人間を人間として研究する分野に適用するかどうかが争点です。
生理学でしたら、人間を客体として扱い、ある特定の観点から研究するだけですから、実在論の前提はそのまま適用できます。しかし、人間が自らの認識と行動で現実に対応する主体であり、さらには仲間や相手の認識と行動によって自らの認識と行動を変容させる社会的存在であるとしたら、人間が個人的・社会的にどのように現実を構築・構成するかという側面を無視するわけにはいかないでしょう。
ですが、権威ある自然科学の影響は強く、人間を人間として研究する学問においても、実在論への信奉は強いものです。構築論はせいぜい二番手としてしか認められていないことも珍しくありません。特に医学研究は、その王道が自然科学的研究ですから、周りが思う以上にナラティブ・アプローチなどの構築論には制度的な裏付けが乏しいということをこの本から学びました。
英語教育というケアにしても、実在論的ケアと構築論的ケアを分けられるかもしれません。実在論的ケアでは、大規模標準試験などで定義づけられた英語力に基づき、標準化された指導を公平 (equal) に実施することが規範となります。
他方、構築論的ケアでは、学習者それぞれが感じているニーズや目標にできるだけ寄り添った形で、可能な限り個別的な指導を提供することが公正 (fair) なこととなります。教師の間で英語授業のあり方を語り合っていても、どこか決定的に話が噛み合わない場合は、このレベルでの対立を疑うべきでしょう。
私は構築論(構成主義・構築主義)の方が主体的で社会的な存在である人間を研究するには効果的である(=研究の妥当性が増す)と考えています。また、実践者としても構築論的ケアの方が有効である(=ケアされる方もケアする方も幸福度が増す)と考えています。もちろん教条的に実在論的ケアを否定することはしません(例えば教室の温度や湿度が一定のレベルを超えれば学習の成果は確実に下るでしょう)。ですが、人間の研究についても自然科学的な実在論だけしか認めようとしない研究者にも、構築論の意義を認めてもらえるようにはしなければと考えています(このブログを運営する目的の1つもそういったものです)。


2 ケアとしてのナラティブ
対話や承認といったナラティブ(注3)はそれ自体がケアとなる。(p. 2)

=> この命題がこの本を貫いているわけですが、この考え方は、経験豊かな実践者ならすぐに頷いてくれるでしょう。早い話が、教師が、学習者と何気ない話ができるようになったら--言い換えるなら、学習者と共にただ「いる」ことができるようになったら(東畑 2019)--、それだけでよい授業が成立する可能性が高くなります。

関連記事
東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/2019.html

もちろんその関係性にあぐらをかいて、授業内容についての研修を怠れば、その教師は「ぬるい授業」しかできなくなります。教育内容についての研究は車の両輪の1つですが、もう1つの輪である学習者との関係性--ただ一緒にいて語らえる関係性--の重要性も忘れてはいけません。教師が相手にしているのはアメとムチで管理された動物ではなく、主体性と社会性を兼ね備えた人間なのですから。



3 ケア者の役割
ケアとしてのナラティブを考える際には、ケアされる人のナラティブだけでなくケアする人のナラティブのことも考えなければならない。(p. 3)

3.1 解釈的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、患者という<他者>を読み解こうとするナラティブを行う場合、それを解釈的 (hermeneutical) なナラティブ・アプローチと呼ぶことができる。(p. 18)

3.2 調停的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、複数の他者に同時に向き合いながら不一致や対立を調停する場合、それを調停的 (mediational) なナラティブ・アプローチと称することができる。(p. 19)

3.3 介入的ナラティブ・アプローチ
ケアをする人が、解釈や調停といった職業的・限定的なナラティブを超えて、他者のナラティブに対する自分の見解を伝える(時には再考や修正を促したりする)場合、それを介入的 (interventional) なナラティブ・アプローチと呼ぶことができる。 (p. 19)

=> この3分類は著者独自のものですが、1つの有効な整理法だと思います(ナラティブ関係の研究や実践は多岐にわたりますから、何らかの形で分類・整理することが時に必要です)。
ただ、介入的なナラティブ・アプローチは、職業的ではなく実存的になされるものだと私は理解しました。医師や看護師あるいは教師といった職業的立場を超えて、1人の人間として相手(ケアされる者)と語り始めた関係と言えるでしょうか。
これは場合によっては、職業の範囲から逸脱したコミュニケーションとなりますから、官僚的な管理者からすれば一般的に禁止するべきものでしょう。しかし、あえてこういったコミュニケーションがなされ、かつ(ここはとても大切ですが)成功した時、関係者は記憶に残る存在となります。いわば諸刃の剣のようなこのアプローチについても、ケアを行う者は適切な理解をもつべきでしょう。



4 ナラティブがケアになる理由
ナラティブ・アプローチがケアになる理由を想定することができる。

4.1 解釈的ナラティブ・アプローチの理由
解釈的ナラティブ・アプローチがケアになるのは、「<ナラティブが個々バラバラの経験を「統一された、理解可能な全体」に結びつけて意味を与える>」 (p. 246) という理由で概ね理解することができる。

4.2 調停的ナラティブ・アプローチの理由
調停的ナラティブ・アプローチがケアになるのは、「<ケア者のみが正解を知っているという前提を放棄して、ケア者と被ケア者とが自由に発言できる対話空間>」 (p. 247) をケア者が作り出すからという理由で説明することができる。

4.3 ナラティブ・アプローチ一般の理由
解釈的であれ、調停的であれ、介入的であれ、ナラティブ・アプローチがケアになる理由は、「ケアする側とされる側とが、これから行おうとする対話実践を信頼して、それに取り組むという協働の姿勢」 (p. 248) とまとめられるかもしれない。

=>4.1は物語論でよく言われることであり、4.2はオープンダイアローグや当事者研究で強調されることですが、4.3の一般化は私には新鮮に聞こえました。
しかし、社会性とそれに基づく文化性が人間の繁栄の大きな要因であるとしたら、他者と連帯できるという可能性が得られただけで、人間が力を感じることができるというのは、ありそうな話だと私は考えます(←十分な科学的証拠のない推論(笑))。

関連記事
ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019) 『文化がヒトを進化させた』白楊社、Joseph Henrich (2016) The secret of our success. New Jersey: Princeton University Press
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/2019-joseph-henrich-2016-secret-of-our.html
中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019-17pp-110-125.html

人間が現実世界で出会う問題の多くが、技術的に完全解決できるものでないとしたら、時には、協働の姿勢を共有できることの方が、問題解決の手段を考えることより大切になるのかもしれません。少なくとも、次にどんな問題が生じるか予測し難い現実世界の複合性を考えるなら--現在のコロナ騒動はまさにその一例です--、常に連携と連帯の関係を優先させることは、1つの知恵ではあるでしょう。職場でも家庭でもそのような関係性を大切にしてゆきたいと個人的には思っています。

(注1)
この本の「ヘルスケア」とは、医学およびその周辺だけでなく、介護、教育、職場、家庭などで行われる人と人のあいだの健康と病いをめぐる「ケア」のすべて (pp. 33-34) を指す用語です。

(注2)
「構築論」は、"constructionism"の訳語です。しばしばこの用語は「構築主義」(あるいは「構成主義」)と訳されますが、著者は「実在論」 (realism) と対置させるため「構築論」という訳語を使っています。(p. 50)


(注3)
本書では「ナラティヴ」という表記になっていますが、この記事では之まで通り「ナラティブ」と表記します。
また、この本では、「ナラティブ」と「ストーリー」の違いについても明確に説明しています。
「ナラティブ」は、ラテン語のnarrare(「述べる、説明する、物語る」といった行為を表す動詞)に由来します。
それに対して「ストーリー」はラテン語の historia/storia(「物語、歴史、説明」などを意味する名詞)に由来します。現代英語(story)も基本的には名詞として使われ、narrateに相当するような動詞形をもちません。(p. 31)
この本では「ナラティブ」という用語が多用されますが、これはこの用語が、「語る」という行為の主体の意味と、「語られた もの」という客体としての意味を含む両義性をもつからです。(p. 221)



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