全国英語教育学会第49回福岡研究大会(会場:福岡工業大学)の2日目(2024/08/25・日曜)の最終イベントであるシンポジウム「日本の英語教育の将来:AIの衝撃-英語教室はどう変わるのか?」に登壇させていただきました。コーディネーター兼登壇者が石井雄隆先生、(千葉大学・理化学研究所)、もう一人の登壇者が水本篤先生でした(関西大学)。このイベントを可能にしてくださったすべての関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
私のタイトルは、「英語教育は学習者をAIのようにしてはいけない―AIの言語生成と人間の言語使用の違い―」でした。主旨は、「人間の言語使用は、実存的な語りができるという点でAIの言語生成と異なる。その人らしさを表現できる語りができるようになる英語教育でないと、AI時代に存在意義はない」といったものでした。
発表で使ったスライドはここからダウンロードできます。
発表前に個人で行った予行演習のYouTube動画は下から見ることができます。
小中高生に「AIがあるからもう英語の勉強なんか意味ない。」と言われたら、先生方は何と返されますか?
「どうして英語の勉強をしなくてはならないのだ」という問いは、AI登場以前からありました。多くの場合、こういった問いは、--私の発表で使った用語を用いますなら--<実存的>な問いです。私なりに拡張すれば、「自分は英語を勉強していても意義が感じられない。どうして自分の貴重な若い時代の時間をこのように退屈な作業に費やさなければならないのか?英語を教えるあなたも一人の人間なのだから、一人の人間として私の問いに答えてほしい」という問いです。<実存的>な問いに、無難な答え--<よくある話>の表現--を出すのは、人を小馬鹿にすることです(近年の多くの政治家や官僚はそのような答え方をしていますが、その点については割愛します)。教師は自分の人生を反映した見解を示す必要があります。その答えを聞いた学習者が、「なるほど、この先生がこう言うのなら信頼できる。たしかにこの先生は日頃からそのような考えをもっていたように思える」と感じてくれるようなものでなければなりません。
もしそのような説得力あることば(ということは教師人生)が自分にないのなら、「正直、自分も納得できる答えがなくて、いつも心苦しく思っている」と正直に語ることも1つの方法でしょう。もちろんそういった答えが拡散され問題になるかもしれませんが、誠実に語れば、少なくとも人間関係はできるのではないでしょうか。
もちろん<実存的>な問いは、誰が(他に誰がいる状況で)いつ(どんな出来事の流れの中で)どこで(どんなことが通常期待されている場所で)問われたかなどが決定的に重要です。ですから、答えは千差万別です。ということは上に述べたように、このような<実存的>問いに一般的な模範解答はないということです。もちろん、こういった問いを抽象化した上で、一般的な答えを考えることも英語教育関係者としては重要です。特に私などは「哲学的探究」などと称しているのですから、それなりのきちんとした答えが必要でしょう。ですが、それは必然的に一文、二文では終わらない長いものになります。そういった答えを私なりに提示することはまた後日の課題とさせてください。
公立中学校で教えています。担当は中学一年です。必要に応じてAIも使って行かないといけないのか、と思っていましたが、今日のお話を聞いて、もっと自分の担当している生徒を見て、必要であればそして使って意味あるようであれば使おうと思うようになりました。時代に逆行するようですが、むしろそれが最先端のような気がしました。ありがとうございます。