2025/05/18

国立情報学研究所・教育機関DXシンポの第2回目の登壇の動画とスライド、およびその後の社会の変化を踏まえての長期的視野の必要性

 2024年10月3日(水)に国立情報学研究所の教育機関DXシンポジウムに2回目の登壇をさせていただきました(ここ半年あまり本当に忙しくてブログの整理もままなりませんでした)。


AIの言語生成と人間の言語使用の違いを重視するAI活用:

大学英語ライティング授業の教育学的考察


概要ページ

https://edx.nii.ac.jp/lecture/20241003-03

資料ダウンロードページ

https://www.nii.ac.jp/event/upload/202401003-3_yanase.pdf

発表動画





この発表では、1回目の登壇 以降の実践を受け、「AIを英文完成のためでなく、英語を使いこなす人間の育成のために使う」方向性を示しました。

今、AIの普及を受け、多くの生徒や教師が英語ライティングを学ぶ・教える意義を失いかけています。「AIに任せればいいじゃない」というのがその理由です。こういった状況で、必要なのは、そもそもライティングとはどのような営みであり、それはAIを活用することによりどのように発展するべきかを定めることかと思います。

私の上での主張は、英語ライティングはその作品を完成した時から活動が始まるということです。自分が書いた内容について、さまざまに語りえるからこそ、英語で書く意味も出てくるということです。そういった力を育てるには、英語ライティング教育の枠組みは変わらなければならないと考えています(自らの実践では定められた標準シラバスのため思うように実行できないのがはがゆいところですが)。

先日たまたま目にしたX/Twitterの投稿は、東京大学大学院工学研究科の教員の方が同研究科の授業のほとんどすべてが英語で行われる方針について、自らの思いを書いたものでした。

その中で次のような箇所が目を引きました。

海外に出て専門性の必要な生活をしてみるとわかりますが、語学と言うのは単純に自動翻訳ができれば済むものでは決してなく、人と人とのマルチモーダルなコミュニケーションの総体なので、いろいろな場面で即応できる総合的な能力及び感覚を持っていないと、国際社会で相手にすらされなくなってしまいます。

英語ライティング教育は、他の技能教育と統合されるべきでしょう。ですが、私としても定められた標準シラバスもあり、その方向になかなか動けないのが悔しいところです。


また、上の東大の方針については、「明治以来せっかく日本語で工学を始めとした諸学を学べるようになったのに、その財産を捨てるとは何事だ」といった反応が来るでしょう。上の先生も、そういった議論を十分に自覚しています。

これ[=大学院の授業を英語にする方針]に関しては、僕が決定に関わっているわけではないので何も言う立場にはありませんが、もちろん日本語話者の学生に不利になる可能性や、そもそも国の財源で運営される大学が他国語で授業をやるのはいかがなものかといった疑義に対しても十分に議論をされた結果の強い判断なのだと思いますし、僕自身、国際的なアカデミアや実務・開発の環境に身を置く中で、今後日本語に閉じた授業や研究環境にこもっていては、大学としても、卒業生の価値としても、引いては日本の産業競争力や国力としても、確実にジリ貧になるのは目に見えている(というかもう既になっている)中で、必要不可欠な、もしくは少し遅しすぎるくらいの動きなんだと思います。

私自身も、日本語への翻訳の重要性を認めます。それは国家レベルではとても重要なことです。しかし、多くの科学者やビジネスパーソンあるいは政治家・行政官が、英語をマルチモーダルに使いこなせなければ、日本の国力が危ういとも思っています。この論点については、下の発表では、AIを使って、日本語人の日本語力と英語力をいわば「共進化」させる道筋を描きました。

第15回産業日本語研究会・シンポジウム(テーマ:生成AIの普及で日本語のコミュニケーションがどうかわるのか)の予行演習動画と使用したスライドの公開


先日(2025年5月12日)、東京都は都立学校(小中高)の14万人に生成AIを使わせる方針を発表しました。これだけの大量の若い人たちが、学習にAIを頻繁に使い始めれば、学校教育の姿は変わらざるをえないでしょう。英語においては特にライティングとスピーキング指導の変革は必至です。

そんな大変動の中で、長期的な視野をもって賢明な教育方針を打ち立てることが今の教育関係者の課題だと思います。