私がガメ・オベールさんの活動に注目し始めたのは2023年から2024年にかけてぐらいだとぼんやり記憶しているが(参考:言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について)、ガメさんは数ヶ月前から主な発表媒体をSubstack に変えて以来、毎日、文章を掲載している。これだけ創造性の高い人を私は他に知らない。私は毎朝ガメさんの文章で思考に刺激を得ている。9月8日に発表された次の記事は、ことさらにすごかった。
ガメ・オベール
「雑な日本語日記18 いま何をなすべきか」
https://gamayauber007.substack.com/p/18
文章を読んで私も何か書かねばならないと思い、昼休みに書いたのが下の文章です。思い入れの激しい文章なのでSubstackに掲載するだけのつもりでしたが、その後、ガメさんにX(旧Twitter)でも紹介していただいたし、それ以上に、何だかうまく表現はできていないけれど、自分にとっては大切な論点が含まれているように思える文章なので、記録のためここに掲載しておきます。AIが世の中に浸透する時代の言語使用について考え続けたいという願いから、題名を「人間は出現頻度以外の言語の価値を復権できるのか?」としました。
人間は出現頻度以外の言語の価値を復権できるのか?
私は神についてきわめて粗い理解しかもっていないが、もし神を「人間には理解不能な真善美の存在を示唆し、人間の認識の跳躍的向上をもたらす存在」とするならば、人は、常に神を讃えることによって、慣習的な思考ではとても思いつけない発想に至ることができると理解できる。
また、人心が荒廃し、社会に憎悪と冷笑のことばしか見出せなくなったとしても、神を忘れない義人がいれば、希望のことばと建設的な発想を人の世に提示することができる。
人間の理解を超え続ける真善美の導き手としての「神」を仮定し、かつ--これが大事なことなのだが--、それを見ることも十分に理解することもできないにもかかわらず信じることができる知性があれば、人の世には望みがある。
だがそういった真善美を希求する跳躍的な知性をもたないLLMは、ビッグデータに基づく確率計算だけで言語を生成する。ビッグデータでの確率計算では、上の記事でガメさんが説明したように、出現頻度が低い言語パターンは生成されにくいし、生成されたとしても信頼性の低いものしか出力されない。
人の世から神--あるいはそれに類する超越概念--を希求する言語使用が減って、せいぜい残ったとしてもそれがAIにデータ化されない親密な言語圏での使用に限られたら、AIは神が不在の言語使用だけを再生産し続ける。
さらに人間が、AIの表層的な言語生成能力に魅了され、AIが出力した言語を自分自身のことばとして公開し、後続の者はそのAI出力を言語の規範として学び続けるとしよう。
そういった、言語使用から神などの超越概念を失った人々のことば遣いが、ある臨界点を超えて醜悪な方向に振り切ったら、人類にとっての最大の認識・表現装置である言語は取り戻しの効かないほどに凶暴になってしまう。
私も「陰極まりて陽生ず」になると思いたいが、生態系の復元力はある一定のレベルを超えると失われる。AIはその限界レベルへの到達を早める可能性が高い。
出現頻度とは異なる言語使用の価値基準を失ってしまえば、AI言語によって私たちは人間としての死を迎えるのかもしれない。
これから人間は、LLMとは異なる種類のAIを作り出し、そのAIとLLM-AIを共存させて知性を発揮できるのか。
あるいはAIの限界を深く理解し、人間らしい言語使用を復権し発展させることができるのか。
私もこういった問題を考える前に一言「神よ・・・」と付け加えるべきなのだろうか。