2022/07/11

自らの過ちを認め、異なる意見に耳を傾けるという偉大さ


【この「時事」カテゴリーの記事は、学生さん向けの文章をこのブログに転載しているものです。】

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 18世紀に建国されたアメリカ合衆国は、長い歴史をもつ他の国以上に建国の理念を大切にしているように思えます。今年の独立記念日にThe New York Timesに寄稿された以下のエッセイで、著者は、アメリカの建国理念を "a multiracial, multiethnic, pluralist democracy"を作り上げることだと述べた上で、アメリカの可能性について語ります。


Darren Walker

The Founders Bequeathed Us Something Radical

July 4, 2022

https://www.nytimes.com/2022/07/04/opinion/these-truths-we-holdand-share.html


彼によるなら、現在のアメリカの状況は以下の通りです。


Everything right now, it seems, is black or white, all or nothing, perfect or unacceptable. ... Nuance and complexity, let alone compromise, are nowhere to be found. 


しかしアメリカの偉大さは、建国の理念に向かって自己再生できることだと著者は説きます。自らの過ちを認め、それを正す勇気をもつことがアメリカの力だと著者は述べます。


And yet what makes America great is not the fact of our perfection but our act of becoming more perfect. What makes the American people exceptional is that we have the strength to acknowledge our failings -- moral, structural, personal -- and the courage to make wrong into right.


アメリカが建国の理念を追求するには、市民が頑なな自己主張を繰り返すだけではいけません。謙虚さ・好奇心・共感の態度と共に他者に耳を傾け、他人の振る舞いに対して寛容であり疑わしきは罰しないようにしようと著者は訴えます。(注)


Let’s resolve to listen with humility, curiosity and empathy -- with open hearts and minds. Let’s resolve to extend the presumption of grace and the benefit of the doubt.


英語ライティングの授業で私たちが主に書いている文章は、自説の正しさを一貫して立証するものです。研究やビジネスの場面では、まずは自らの見解を短く述べてしまうことがしばしば必要だからです。


しかし研究やビジネスにしても、異なる意見を排斥せずに、自らの見解を捨て去る覚悟さえもって対話に参加することが必要です。ましてや社会的・文化的な話し合いにおいては、自説の正しさを信じて疑わないと、社会的・文化的な分断が深まるばかりかもしれません。どうぞ英語ライティングで学ぶ論証法を過大評価せず、その限界を知った上で使いこなしてください。皆さんも対話に参加できるよう自己教育してください。


(注)

下線部は訂正した翻訳です。最初に掲載していた翻訳は、私なりに文脈から推測した意味を表現したものでしたが、寝る前にあるstand-up comedyをNetflixで見ていたら偶然 "the benefit of the doubt" という表現が出てきたので、この表現が成句だと気づき、調べた上で訳文を変えました。

Merriam-Websterによりますと、"the benefit of the doubt"とは、まさに日本語でいうところの「疑わしきは罰せず」のような意味で、ある人の言動に疑いがある時にも、その人が正直であり信頼がおけるものだという前提をもつことだそうです。

ついでに "the presumption of grace"についても調べますと、まさに"PRESUMPTION OF GRACE"と銘打たれた記事を見つけました。その記事の内容を要約しますと、私たちは自分がある人に対して善い行いができなかった時、「自分に悪意はなかったのだから」と心中で言い訳をし、その人に対してしばしば謝罪しません。「あの人もわかってくれるだろう」とさらに自分なりの言い訳を重ねます。ある意味、人間とはこのように自分勝手なものですが、大切なのはその自分勝手さを自分自身だけではなく、他人に対しても認めることができるかということです。

記事では、自分がやったなら許してしまうような自己中心的な行動を他人が行った時に、その人が許しを請わなくてもその人を許せるかが人間性の試金石だと説きます。現代ではしばしば他人に対して徹底的な説明責任を要求しますが、その記事は次のように問いかけます。 "Do we extend to others the presumption of grace or do we demand an account for every grievance?" こういった記述からは "the presumption of grace" は、「他人の振る舞いに対して寛容であること」ぐらいに訳せるのかもしれません。(この訳は、記事にあるキリスト教的な文脈をあまり反映していない訳です)。

いずれにせよ私は上の2つの表現について十分な知識をもっていませんでしたし、その知識不足を薄々自覚していたにもかかわらず十分に調べることなく翻訳を掲載してしまいました。大学英語教師としてまったく恥ずかしいことです。ここにお詫びし、訂正します。(2022/07/13)



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