Niklas
Luhmann (2002). How can the mind participate in communication? Translated by W.
Whobrey. In W. Rasch (Ed.) Theories of
distinction: Redescribing the description of modernity (pp. 169-184).
Stanford University Press.
Niklas
Luhmann (2008). Wie ist Bewußtsein an Kommunikation beteiligt? In Niklas
Luhmann Soziologische Aufklärung 6: Die
Soziologie und der Mensch. 3. Auflage. Heidelberg: VS Verlag für
Sozialwissenschaften.
以下の構成は、私のつけた小見出し(■)に続いて、翻訳(および脚注(※))、そして蛇足コメント(⇒)となっております。[ ]は私なりに前後の文脈から補った箇所です。( )内の二つの数字は、最初がドイツ語文献、次が英語文献のページ数です。
私のドイツ語力は低いので、高校一年生が大学院で使われている英語論文を読むような基本的な間違いをしていないか恐れます。また、自分なりに納得できる日本語翻訳を目指しましたが、まだまだ「ルーマン語」で通常の日本語読者には意味不明の箇所も多いかと思います。今回の翻訳を通じて考えたことを、今後時間をかけて日常的な日本語にするのが私の課題です。
■ 意識がコミュニケーションに「関与」しているということはどういうことか?
意識 (das Bewußtstein; the
mind) がコミュニケーションに関与 (beteiligen; participate)
することは議論の余地のないことのように思える。なぜなら意識がなければコミュニケーションはありえないからだ。物質の分子組織がなければ生命もありえないのと同じことである。しかしこの場合の関与とはどういうことだろう。(38, 170)
⇒ この論文は、私たちが自明に思っている「意識はコミュニケーションに関与している」という考えを問い直すこと。結論から言うと、ルーマンは、両者は互いを触発しているが、基本的には別のシステムであり、それぞれがそれぞれに発展している自己生成(オートポイエーシス)システムである、ということ。
そのようなことを考えることの意味は何かと問われるなら、一つの答えは、例えば教師が教室内でコミュニケーションを育もうとする際に、生徒個々人の意識に訴え、個々人をあまりに意識的にさせてしまうことは有効ではないのではないかといったことについて考えるためというもの。例えば「よく考えて発言しよう」、「勇気をもって間違いを恐れずに発言しよう」といった指示は、コミュニケーションにとっての前提ではあっても、コミュニケーションそのものではない個人の意識を肥大させてしまうかもしれない。
「コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションであり、教師は教室でコミュニケーションを育もうとするなら、コミュニケーションの関係性を作り出すことが肝要ではないか。すなわち非言語的でもいいから何らかの形でコミュニケーションを開始すること、あるいはそれ以前に、互いが「いる」ことが苦痛でないような関係性を作ることが必要といったことを今私は(安直に)考えている。
前の記事:東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院
■ 複数の意識を統一して作動させている意識などない
[細胞や器官や脳などと]同じように、私たちが意識として経験 (erleben; experience) していることは閉ざされた自己生成システム (geschlossens
autopoietisches System; isolated autopoietic system) として作動している。ある意識と別の意識を結ぶ意識的なつながりはない。複数の意識システムを統一的に作動しているもの (Einheit der
Operationen mehrerer Bewußtseinsysteme; operatonal unity of more than one mind
as a system) もない。「合意」 (Konsens; consensus) と思えるものは、一人の観察者が構築しているものであり、その人がなしたことにすぎない。(39, 170)
⇒ 「コミュニケーションを行っているのは、個々人でも個々人の集合でもなく、全体としての共同体である」といった言い方は有効だが、その共同体は「意識」をもった存在ではないことに注意したい。「意識」がないのだから、当然、「共同体の意思」などというものもない。ただコミュニケーションが続くこと(あるいは止むこと)が共同体の現実である。
■ ある意識が自らはコミュニケーションをおこなっていると想像しても、それがコミュニケーションであるわけではない
意識が意識的なコミュニケーションをすることはない (Das Bewußtsein kann
also nicht bewußt kommunizieren; The mind cannot consciously communicate)。もちろん意識が自らはコミュニケーションをしていると想像することはできるが、それはその意識システム自体の中にとどまるものであり、自らの思考過程をさらに続けることを可能にしている内的な作動である。だがそれがコミュニケーションであるわけではない。(39, 170)
⇒ ある人が「これこそが私たちの思いだ」などと考えても、それは個人の考えに過ぎない。意識とコミュニケーションの間に垣根をなくして、両者を連続的に考えること、あるいは等価に考えることは間違い。
■ システムが自分自身を定めることができるのは、自らの構造を通じて環境に接触しているかぎりである。
システムが自己生成的な再生産 (autopoietischen
Reproduction; autopoietic reproduction) を行い、自らが作動する領域に自らを適応させてはじめて、システムは自らの構造を通じて自らを定める (determinieren; determine)
ことができる。システムは、自らの構造的カップリング (in einem laufenden structural
coupling 英語では明示的には訳されていない) で自らの構造を通じて自らの環境に接触している限りにおいて、自ら固有の作動を続けることができる。 (41, 172)
⇒ 自己生成(オートポイエーシス)システムは、自らの構造を通じて環境に触発され、自己展開する。ある人の意識はその人の意識なりにしか変容しないし、あるコミュニケーションはそのコミュニケーションの歴史に根ざしたようにしか展開しない。教師が生徒に自らの意識を移入しようとしても無理だし、ある共同体が別の共同体に自分たちのコミュニケーションのやり方ををそのまま採択させようとしても無理。
■ コミュニケーションは自らの環境に適合し自己再生産を行うが、その際に特定の意識に適合するかしないかは、コミュニケーションが目的とするところではない。
再生産は生じるか生じないかのどちらかでしかない。コミュニケーションは継続するか停止するかのどちらかである。継続する場合、コミュニケーションはそれ自身の動態性においてどのように進行しようと、自らの環境に適合している。しかし、コミュニケーションが自らを煩わせている意識[だけ]に適合するというのはコミュニケーションの目的 (Ziel; goal) ではない。事態はむしろ逆で、コミュニケーションは継続している時あるいは継続している限り、意識を魅了したりその注意を引いたりしている。これ[=コミュニケーションが意識に適合すること]は、コミュニケーションの目標 (Zweck; purpose) でも意味 (Sinn, meaning) でも機能でもない。それ[=コミュニケーションが意識に適合すること]が生じることもあれば、生じないこともある、ただそれだけである。 (41, 172)
※ ここではEs ist also nicht etwa
das Ziel der Kommunikation, sich dem Bewußtsein, das in Anspruch genommen wird,
anzu passenの解釈(特にAnspruchのあたり)に自信がありません。
⇒ コミュニケーションは、ある人の意識に納得されることを自己目的として展開するわけではない。コミュニケーションはコミュニケーションの流れにそってしか展開しない。その過程である人が一時的に激しく同意したり、別の人が急にわからないと言い始めたりするかもしれない。コミュニケーションがそのまま直接的に意識を変えるとは考えない方がいい。コミュニケーションは意識を触発するが、意識が「わかった」という理解の感覚に到達するまでにはその意識が自己展開するのを待たねばならない。教室場面で言うなら、理解できていない生徒に、教師が自分の意識にぴったりと沿った形の言語をコミュニケーションとして発話しても、生徒がそれをそのまま理解するとは限らない。
■ コミュニケーションが自己展開する時、その可能性は、コミュニケーションの流れという点では狭まるが、意味という形式を使うことで広がりもする
何かを言うことによって、コミュニケーションは自らが自らとどうつながってゆくかについての可能性を縮減する。しかし同時に、意味という形式において、コミュニケーションのつながりの可能性をより広げる。その可能性には告示された情報 (mitgeteilte
Infromation; received communication) を否定したり再解釈したりすることや、それが真でないとか歓迎されないことを明らかにすることも含まれる。社会的システム[=コミュニケーション]の自己生成[=オートポイエーシス]とは、自らをどうつないでゆくかに関する可能性を常に縮減すると同時に拡張するプロセスに他ならない。(41, 172)
※ Mitteilenはルーマン自身も言うように翻訳しにくい語ですが、私は今のところ「告示」と訳しています。「コミュニケーションにおいては、ある情報とその情報が告示しているものが区別され、そのどちらに重きをおいた理解をするかという選択が常に迫られる」といったようにルーマンのコミュニケーション論を表現できないかなと考えています。
⇒ 話の流れによって、ある話題が発展することなく見捨てられるという可能性の減少はあるが、同時に意味の「可能性」に導かれて、話題は広がったり深まったりもする。
関連記事:「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62)
■ コミュニケーションに意識は関与しているが、(たいていの場合において)コミュニケーションはその意識をコミュニケーションのテーマとしないことによって、意識をコミュニケーションに関与させている
まさに光や空気そのものが見えないし聞こえないからこそ、視覚や聴覚は光や空気をメディアとして使用している。それとまったく同じように、コミュニケーションは自らが煩わされている意識をテーマとしないことによって、意識をメディアとして使用している。比喩的にはこう言うことができる。コミュニケーションに関与している意識 (beteilgte Bewußtsein;
the mind in question) は、コミュニケーションにとっては不可視である。(43-44, 175)
※ ここでもgerade weil es das jeweils
in Anspruch genommene Bewußtsein nicht thematisiertの箇所の解釈に私は自信がもてません。
⇒ 光や空気が視覚や聴覚の前提とはなっているが、視覚や聴覚は光や空気そのものについてのことではないように、コミュニケーションは意識を前提とはしていても、意識そのものを話題にしているわけではない。もちろん「そんなこと言いながら、君は心の中ではよからぬことを考えているのだろう」とある人の意識をコミュニケーションの話題とすることもできるが、話題となったその意識は、コミュニケーションにおいて語られた意識であり、ある人の心の中にある意識そのものではない。
■
意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたメディアとしてのみである
コミュニケーションは自己生成システムとしてのみ可能である。言語の助けを借りて、コミュニケーションはコミュニケーションからコミュニケーションを自己再生産するが、その自己再生産の構造的条件を利用し、メディアとしての意識を必要とする。したがって意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたシステムおよびメディアとして[のみ]である。このことが可能であるのは、ひとえに意識とコミュニケーションつまり心的システムと社会的システムが、決して融合することも部分的にすらも重なることがない、完全に切り離された、それぞれ自己言及的に閉ざされた自己生成-再生産システムであるからである。前にも述べたように、人間がコミュニケーションをすることはできないのだ。(Menschen können nicht
kommunizieren; humans cannot communicate) (45,
176)
※ ここでもSie reproduziert mit
Hilfe von Sprache Kommunication aus Kommunikation und benutzt diese
strukturelle Bedingung ihrer Reproduktion zugleich, um Bewußtsein als Medium in
Anspruch zu nehmen.のAnspruchについて今ひとつよくわかった感じがしません。Anspruchがこの文脈でもっている具体的な意味をどうもうまくイメージできません。
⇒ 「人間」とは、生命維持もし意識ももちコミュニケーションにも参加するといった多元的な存在であるが、そのように多義的な存在をコミュニケーションの主体あるいは参加者として考えてしまうと、特に意識をコミュニケーションと混同して論が進んだりするので好ましくない。現実世界でも、すぐれた司会者などは会議で、参加者それぞれの意識は意識として配慮しながらも、あくまでもそのコミュニケーションの場で語られたことに忠実に話を進めているのではないだろうか。
■
意識システムとコミュニケーションシステムは互いに独立しているからこそ、互いを触発すれど決定してしまうことのない相補的な関係性にあることができる
意識システムとコミュニケーションシステムは互いにまったく独立して存在している。しかしながら同時に二つは構造的相補性 (struktureller Komplementarität; structural
complementarity) の関係にある。それぞれが具現化し特定化できる (aktualisieren und
spezifizieren; actualize and specify) のは自らの構造だけであり、それぞれが変えることができるのはそれぞれ自身にすぎない。[しかし]これらの構造的変化をもたらすために、それぞれは互いをつかう。コミュニケーションシステムは概して意識システムのみから触発される (reizen lassen; be
stimulated)。意識システムの方は、言語によって非常に明瞭にコミュニケーションされていることに著しく気を取られる。私たちの議論はこうである。それぞれの閉ざされたシステムが独立していることが、構造的相補性のためには必要である。そうでないと、互いに触発しながら(しかし決定してしまうことなしに)それぞれの構造を具現化することはできない。 (46, 177)
⇒ ある人の意識を変えることができるのは、その人の意識の働きだけ。逆に、ある人がどんなに熱い想いをもったとしても(「この授業での話し合いを成功させたい!」)、コミュニケーションを変えることができるのはそのコミュニケーションの流れだけ。コミュニケーションをうまく発展させたいとすれば、自己意識を意識化したりして意識の働きを肥大化させるのではなく、意識しているかしていないかは別にしてコミュニケーションの流れに言語的であれ非言語的にであれ反応してコミュニケーションの流れを作り出す方がよいと考えられる。とはいえ、コミュニケーションがある人が思ったとおりには必ずしも発展しないのは周知の通り。しかし、だからこそコミュニケーションは面白いといえる。
コミュニケーションに関するルーマンのことばとしては「コミュニケーションだけがコミュニケーションを行うことができる」(Nur die Kommunikation
kann kommunizieren; only communication can communicate) というWas ist Kommunikation?の論文の表現が有名ですが、今回はあえてそちらの論文ではなく、こちらの論文についてまとめました。「コミュニケーションとは何か」の論文は全訳を試みていたのですが、挫折したままになっています。おそまつ。
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