2025/03/13

平泉-渡部論争は「実用か教養か」ではなく、「現代語教育か古典語教育か」である。

 

参議院議員の平泉渉による1974年の「外国語教育の現状と改革の方向」に対して、上智大学の英文学教授である渡部昇一が反論した。それ以後続いた論争は、翌年の1975年には『英語教育大論争』(文藝春秋)として書籍化された。私はこの平泉-渡部論争を、ある必要があって数十年ぶりに読んだ。ここではそれを読んで思ったことを書く。


私は、この論争は基本的にすれ違っていたと考える。平泉が、4技能の総合的な育成を通じて英語をコミュニケーションの中で使う現代語教育としての英語教育について語っていた。それに対して、渡部は古典的な書籍を翻訳を通じて正確に読むことを主眼にした古典語教育としての英語教育について語っている。これが論争のすれ違いである。


しばしばこの論争は、「実用か教養か」という論点で総括されるが、彼らは思ったほどにはこの用語を使って議論はしていない。彼らの論争を要約するなら、英語教育を現代語教育として扱うか、古典語教育として扱うかという方が的確だろう(もちろん選択制か義務制かといった他の論点も入るが、ここではそれらを割愛する)。


またこの論争を「話す英語か読む英語か」(文庫本の解説の裏表紙)とまとめるのも的を外している。平泉は話すことを重視すると同時に読むことを不可欠としてる(もちろん書くことも聞くことも)。他方、渡部の「読む」は、漢文の伝統に即した直訳読み下し的な読解であり、翻訳を介さない精読や多読のことはほとんど語っていない。平泉を「話す英語」とするのは平泉の主張の一部しか扱わない誤った認識であり、渡部を「読む英語」の代表と捉えるのは英語の読みの一部分しか捉えない偏った認識である。


平泉と渡部の英語教育論争は、「実用か教養か」でも「話す英語か読む英語か」でもない。そういった総括は、平泉の推奨する現代語としての英語教育から教養と読書を外して矮小化する。また、渡部が擁護する古典語的な英語教育に、教養と読書を過剰に代表させてしまう。彼らの論争を「実用か教養か」や「話す英語か読む英語か」とまとめる人々は、おそらく現代語教育を経験も実践していない人たちではないか。実用と教養も、話すことと読むことも、それぞれ相互排他的概念でないことをここで強調しておきたい。


論争の当時の多くの英語教師は渡部を支持し、英語教師以外の人々の多くは平泉を支持した。これはその当時の英語教育が、一般市民が求めるほどに現代語教育に転換できていなかったことを示すと私は考える。平泉の主張に理を認めた一部の英語教師も「そうはいっても・・・」と教育・学習環境の貧困さを嘆いただろう。他方、渡部に快哉を叫んだ一般人は、言ってみるなら旧制学校的な英語教育のエリートであったがその後の人生においては実際に英語を使う機会がなかった人たちだったのかもしれない。


英語教育の新旧様式


その後、国の英語教育政策は平泉が提言した方向に少しずつ進んでいる。平泉の改革案の多くは50年経った後でも妥当な案として読める(このことは平泉の先進性を示すと共に、日本の英語教育の改革の遅さも示している)。他方、渡部の反論はいろいろな意味で時代的な制約を感じざるを得ない。主張の内容だけでなく、修辞法や説得の論法など現代のまともな媒体では受けられ難いものも少なくない(もちろん平泉の表現にも時代を感じさせるものもある)。


私が参照した文庫本版では、山本七平がこの論争を「論争とはどういうものか」の模範例を示したと評している (p. 240) が、現代でこの論争を模範と考える人は少ないだろう--もちろん私は、ここでは「論破」といった話法ではなく、知的な論争のことを考えている--。とはいえ、終章の対談の「行司役」の鈴木孝夫の司会ぶりは現代でも評価されるだろうことは付記しておく。


この論争時の日本の英語教育は、古典語教育の枠組みの中に少しずつ現代語教育の要素を取り込もうとしていたものだろうか--私は今、自分の中高時代の記憶を頼るというあやふやな根拠に基づいてこの文を書いている--。だが現在は現代語教育の枠組みを教育改革で作っているが、その中に古典語教育の要素が残っているといったものである。


漢文という偉大な伝統


古典語的な英語の教え方が残っているのは、教師の惰性によるものでない限り、文法に厳密な直訳に一定の知的価値を見出す人たちがいるからであろう。たしかにある文の文法構造を正確に把握しているかを見るには、直訳は悪い方法ではない。しかしそういった直訳はしばしば面妖な日本語を生み出す。もちろんここ150年ぐらいの日本人は、西洋概念を捉えるための奇々怪々の直訳文体を少しずつ現代の翻訳書に見られるような日本語に進化させてきた。とはいえ、学習者にそのような洗練した現代文体を期待することは困難であり、たいていの学習者は読者にはなかなか理解しがたい日本語訳を生み出す(そしてそれは実は学習者自身にもよく理解できないものである)。直訳は文法理解の提示と引き換えに、日本語感覚をおかしくする危険性をはらんでいる。


だが古典語的な英語教育の弊害は、不格好な日本語訳を生み出すことだけに留まらない。それよりもはるかに深刻なのは、直訳によって英語を読み理解する習慣を続ければ、英語を語順の通りに読んだり聞いたりすることが難しくなることである。読み・聞く英語の一つ一つに日本語訳を付け加えて、かつ、それらの日本語の語順を英語と日本語の語順の違いに基づき大幅に変えていたら、その作業だけで頭の中は一杯になってしまう。とてもある程度のスピードをもって英語を読んだり聞いたりすることはできない。もちろん書いたり話したりすることにおいても、一対一には対応していない日本語と英語の語の意味、語順、さらには発想法が障害となる。訳読ばかりやっていると、英語話者にわかりやすい英語を現実の使用に耐えるスピードで書いたり話したりすることが極めて困難となる。それどころか英語を聞く際もいちいち頭の中で直訳してしまうので、英語のスピードについてゆけない学習者も多く生み出す。


文法に忠実な直訳以外の方法でも、知的に凝縮された文章を正確するに理解することは可能である。早い話が、国語教育の読解の授業を思い起こしてほしい。ある一節の解釈を、日本語を通じて侃々諤々と議論し、それについて文章をしたためることは、立派な日本語能力の育成の方法になっている。これと同じような方法で、英語の文章について英語で議論を行い文章を書くならば英語の精読能力も身につくだろう。


だがそのためには、相当に流暢な英語の口頭能力が必要である。その素養がないところに急に難しい英文について話し合いましょうといっても学習者は沈黙するだけだ(また教師も予め準備した台詞を言うだけになるのかもしれない)。だから、英語を通じて英語の読解力をつける授業を急に実現することはできない。しかし長期的にはこれが英語教育の進むべき方向かとも思えてくる。


話が古典語的な英語教育の話になってしまったが、もう1つだけ日本流の古典語的言語教育について語るなら、漢文の訓読による書き下しという特殊な翻訳について言及せざるを得ない。日本語の概念語の多くは中国語の漢字をそのまま取り込んだものである。漢籍の書き下し文が日本の文語(文章語)の基準であった。訓読においては、返り点や送り仮名をつけて原文を一字一句省略することなく日本語文語に「翻訳」した。しかしこのような翻訳は特殊な形態である。通常は2つの言語の文法と語彙の体系は異なるのだから、すべての語を精確に訳出するといった翻訳原則は取られない。だが日本では、漢文読解の伝統が未だに残り、厳密な全出的訳が正統と思われている節が強いように私には思える。その伝統から自由になった翻訳文化の普及が必要だと考えるが、そうなると話は英語教育を離れて翻訳教育になってしまう。


本来は、これからの日本語を進化されるため、あるいはこれから日本語を衰退させないために、日本の翻訳文化についてきちんと考えなければならない。翻訳について考えるには、漢字をこれからの日本語でどう扱い続けるのかということを、カタカナ語が氾濫する今こそ思慮しなければならない。日本の英語教育を考えるには、翻訳や漢籍文化についても視野に入れるべきだと私は思っている。私は基本的には現代語教育としての英語教育を推進している。その一方で国民の一部は、英語がますます覇権的な力をもつ中で、翻訳を通じた日本語の創造に務めるべきだと思っている。考えるべきことはたくさんあるが、本日は試論ということでここで文章を終える。



補記:以上は、私が久しぶりに、書きながら考える試論(エッセイ)の流儀で書いた文章である。私は現在の勤務校で学術英語ライティングを教えるようになって以来、もっぱらアウトラインを徹底的に考えてから書く流儀で文章を書いてきたが、このときはなぜか以前のやり方で文章を書いた。書きながら考えると、思考がぶれたりする危険性もある。だがそのゆらぎこそが考えることだとしたら、文章を紡ぎながら自分の思考を見出してゆく方法にもなんらかの意義はあるのだろう。少なくとも上の文章をまとめてゆく過程は存外に楽しかった。ブログに掲載するため読み直しても、なんとなく自分の思考を再体験するような気がして面白かった。最近の自分は、随筆の執筆と読書を再評価し始めているのかもしれない。

とはいえ、試論的な書き物は速読には適さないのかもしれない。思考の過程だけでなく結果だけを求める読者には、論文スタイルの書き方がよいのだろう。そこで私は上の文章をChatGPT o1 pro modeに、論文スタイルに書き直させた。若干手入れたが、下は基本的にAIの出力のままである。





平泉-渡部英語教育論争の再検討

―現代語教育と古典語教育の対立軸を中心に―

1. はじめに

 本稿は、1974年に参議院議員の平泉渉が発表した「外国語教育の現状と改革の方向」に対する、上智大学英文学教授・渡部昇一の反論、そして翌1975年に『英語教育大論争』(文藝春秋)として書籍化された一連の論争(以下、平泉-渡部論争)を再検討するものである。筆者はある必要があって数十年ぶりに本論争を読んだが、その再読を通じて得た考察をここにまとめる。
 従来、この論争は「実用か教養か」という対立や「話す英語か読む英語か」という観点で整理されることが多い。しかし、本稿では、平泉-渡部論争がむしろ「現代語教育と古典語教育」という異なる視点を軸にしていたと主張し、当時の英語教育の状況や今日への示唆を探る。さらに、論争に付随する漢文伝統の翻訳文化にも言及し、日本の英語教育が抱える問題の一端を考察することを目的とする。

2. 平泉-渡部論争の概要

2.1 平泉渉の主張

 平泉は、英語をコミュニケーションの中で使うことを前提とした現代語教育としての英語教育を推進している。すなわち、読む・書く・聞く・話すの4技能を総合的に育成し、実際に運用できる英語力を重視する立場をとっていた。

2.2 渡部昇一の主張

 一方、渡部は古典的な書籍を翻訳を通じて正確に読むことを主眼とした古典語教育としての英語教育を唱えている。直訳による読み下し的な方法に重点を置き、漢文のように返り点や訳し下しを駆使するような読解スタイルを想定しており、コミュニケーション手段として英語を活用するというよりは、文献を正確に読むための技術を重視していたといえる。

2.3 すれ違いの原因

 論争をあらためて検証すると、平泉の“現代語教育”と渡部の“古典語教育”という二つの枠組みが相容れないために議論が平行線をたどっていることがわかる。しばしば「実用か教養か」「話す英語か読む英語か」と総括されるが、彼らが実際に多用していたのはむしろ現代語としての英語か、古典語としての英語かという対立概念であった。

3. 「実用か教養か」「話す英語か読む英語か」という総括の問題点

 本論争は、外部からしばしば「実用か教養か」の図式に当てはめられてきた。しかし、実際には平泉・渡部双方ともその用語をさほど多用していない。現代語教育を選択するか(平泉)、古典語教育を選択するか(渡部)という対立こそがより的確な整理である。さらに、「話す英語か読む英語か」という視点でまとめることも妥当ではない。なぜなら、平泉は話す技能を重視すると同時に読み書きや聞く技能も不可欠だと主張しているし、渡部の「読む」はあくまでも直訳的な読解に重きを置くものであり、翻訳を介さない精読や多読を重視しているわけではないからである。
 このような総括のずれは、平泉の推奨する現代語教育から教養や読書を過小評価するかのような誤解を生み、渡部の主張する古典語的英語教育に教養と読書を過剰に代表させる結果を招いている。さらに、そうした単純化を行う人々は、現代語教育を受けたり実践したりした経験がないのではないかと筆者は推測する。実用と教養も、話すことと読むことも、それぞれ相互排他的対立関係にあるのではない。

4. 当時の英語教育の状況と論争の受容

 1970年代半ばの平泉-渡部論争に際しては、多くの英語教師が渡部を支持したのに対し、英語教師以外の一般の人々は平泉を支持する傾向にあったという。これは、当時の学校英語教育が一般市民の要求するほどには現代語教育へ移行できていなかった事実を示唆する。たとえ平泉の主張に賛同していても、教育・学習環境の貧困さから「そうはいっても…」と悲観的になる英語教師も少なくなかったと考えられる。一方、渡部に喝采を送った一般人は旧制学校的な英語教育のエリート層に属しながら、その後は英語を使用する機会が実質的になかった人々だった可能性がある。
 この論争後、国の英語教育政策は平泉が提言した方向に徐々に進んでいる。平泉の改革案は50年経過した今でも有効性を失っていない部分が多く、平泉の先進性と同時に日本の改革の遅さを浮き彫りにする。また、渡部の反論には時代的制約があり、修辞や論法などが現代のメディアでは受容されにくい面もあることは否めない。なお、山本七平は文庫本版(『英語教育大論争』)において、この論争を「論争とはどういうものか」の模範例と評している(p.240)。しかし今日において、同書を模範と考える人は少ないだろう。もっとも、終章対談における鈴木孝夫の司会ぶりは、現在でも高く評価される余地がある。

5. 現代語教育と古典語教育の混在状況

 当時の日本の英語教育は、古典語教育の枠組みの中に少しずつ現代語教育の要素を取り込みつつあったと推測される(筆者自身の中高時代の記憶にも依拠している推測にすぎないが)。これに対し、現在は教育改革によって現代語教育の枠組みを打ち立てながらも、その中に古典語教育の要素が一部残存している状況である。両者の継承と断絶のあり方は、英語教育の改革を進めるうえで依然として論点となっている。

6. 古典語的英語教育の特徴と弊害

6.1 文法に厳密な直訳の意義と限界

 古典語的英語教育が根強く残る背景として、文法構造を厳密に把握する手段としての直訳に一定の知的価値を見出す層の存在が考えられる。たしかに、ある文の文法構造を正確に捉えているかどうかを判定する方法として、直訳は有効な場合もある。しかし、その日本語訳が往々にして不自然な文体となり、学習者が理解しにくい文章を生み出すことも少なくない。

6.2 英語処理スピードへの障害

 さらに深刻なのは、直訳思考に慣れてしまうと英語を語順どおりに処理できなくなるという点である。読んだり聞いたりする際に日本語に置き換え、その語順を組み替える作業は学習者の思考を圧迫し、英語をある程度の速度で理解することを阻む。また、一対一で対応しない語義や発想法の違いが、書いたり話したりする場面でも大きな障壁となる。訳読型の学習に偏れば、現実のコミュニケーションで通用する英語運用能力の習得は極めて困難となる。

6.3 直訳に頼らない精読・読解の可能性

 文法に忠実な直訳以外の手法であっても、知的に凝縮された英文を正確に理解することは可能である。たとえば、国語教育における読解のように、ある文章を日本語で議論し、文章化していくことが読解力を高める方法であるのと同様に、英語の文章についても英語で議論し、文章を書くことで精読能力が育まれるだろう。ただし、こうした授業を成立させるには流暢な英語の口頭能力が必要であり、準備のない段階で難解な英文のディスカッションを実施しても、多くの学習者は沈黙せざるを得ない。そのため、急激な教育方法の転換は難しいが、長期的にはこうした方向性こそが英語教育の望ましい姿ではないかと考えられる。

7. 漢文読解の伝統と翻訳文化

7.1 漢文訓読の特殊性と日本語文語の形成

 古典語的言語教育を論じるうえで、漢文の訓読を通じた書き下しという特殊な翻訳形態は避けて通れない。日本語の多くの概念語は中国語の漢字を取り込んで成立しており、漢籍の書き下し文はかつての日本語の文語(文章語)の基準であった。返り点や送り仮名を用いて原文を一字一句訳出する訓読法は、通常の翻訳原則からすれば極めて特異な手法といえるが、日本では正統とみなされてきた歴史がある。

7.2 英語教育への影響と翻訳文化の課題

 日本においては、漢文読解の伝統の影響から、英語でも全ての語を正確に訳し下すことが理想だとする風潮がまだまだ強いように見受けられる。しかし、本来は言語の文法・語彙体系が異なる以上、すべての語を余すところなく訳出する方針は適切とは限らない。翻訳文化を問い直すには、漢文書き下し文的な直訳の扱いをどのように位置付けるかを再考する必要がある。
 この問題は英語教育だけにとどまらず、日本語の将来や翻訳教育そのものをどう変えていくかという大きな議論へとつながる。カタカナ語が氾濫する現代において、漢字文化を継承しつつ、英語からの借用や翻訳をどのように日本語に取り込むのか。日本語の創造的発展を図るには、こうした多角的視点が不可欠である。

8. 結語

 本稿では、1970年代の平泉-渡部論争を再読し、彼らの議論が単なる「実用か教養か」「話す英語か読む英語か」という図式では捉えきれない点を指摘した。むしろ、現代語教育(平泉)と古典語教育(渡部)の差異こそが論争の核心であり、当時の英語教育の状況を反映していたと考えられる。
 その後の英語教育政策は平泉の提言に近い形で進展しつつも、古典語的な訳読の方法や漢文読解の伝統が依然として一部に残存しており、英語運用力の養成には障害となりうる面がある。そこで、直訳以外の精読や英語での議論を取り入れることで、学習者がコミュニケーションに対応できる能力を高められるという可能性も示唆された。
 ただし、英語教育の改善を考えるにあたっては、翻訳文化や漢籍の伝統をどう位置付けるのかを含め、日本語そのものの進化や衰退についても再考すべきである。英語が国際的に覇権的な地位を高める中、翻訳による日本語の創造と英語4技能教育の両立は多くの課題を孕む。今後の英語教育と翻訳文化の在り方については議論を尽くす必要があるが、本稿では試論としての位置付けにとどめたい。

以上のように、平泉-渡部論争の核心は「現代語教育か古典語教育か」という対立にある。本論争を通じて浮かび上がる諸問題は、現代でも英語教育をめぐる議論に有益な示唆を与えると考えられる。今後の研究や議論においては、当時の論争の内容を再検証しつつ、現代の教育現場や翻訳文化の実態を踏まえた総合的な検討が求められるだろう。








以下は、最初に試論スタイルで文章を書いた時に参照した、読書メモである。今後、何かの際に使うかもしれないので、ここに掲載しておく。




  • 渡部は彼の反論を「 ルサンティマン」(恨み・怨恨・ 繰り返して感じること)について語ることで始めている (p. 15)。渡部は、平泉の英語教育改革案が、日本人の多くが学校英語教育に対して抱いているルサンティマンをうまくとらえたと論じている。だがルサンティマンに取り憑かれているのはむしろ渡部の方であろう。渡部は、自ら(そして同胞)が現代語教育に対して感じているルサンティマンに突き動かされて平泉に対して反論したのではないか。そうでもなければ「この平泉試案は始めの現状分析から結論に至るまで、すべて誤解と誤謬から成り立っているものである」 (p. 22) といった決めつけはなかなかできないだろう。実際、平泉は、文章読解の専門家であるはずの渡部がこのような誤解をするのは、「[渡部]教授の心底に流れている強い感情―殆ど熱情といってもよい信念の存在のためではあるまいか」として、その信念が「ルサンティマン」であることを示唆している (p. 77)。

  • 渡部が意味している言語教育は 古典語としての言語教育であり 古典語を母国語に変えることをもっぱら意味している . (p. 23)

  • しかも 渡部は聖徳太子といった極めて古い時代からの漢文を取り上げることによってメディアの変化をほとんど 捉えようとしていない (p. 29)

  • 渡部が意味する外国語教育を、渡部は「母国語との格闘」と称している。それが実際に意味するのは、英文和訳や和文英訳や英文法の学習である。 (p. 35)

  • 渡部は英語をしゃべる人が全くいない環境で英会話の能力を身につけたり その能力を維持し続けることはナンセンスに近い努力と言っている (p. 39) 。彼の時代においては、この認識は正しかっただろう。だがその後の、交通手段・通信手段の飛躍的発達、さらには英語をいくらでも生み出しうるAIのことを考えると、英語の学習環境は激変した。

  • 渡部は「学校における英語教育はその運用能力の顕在量で測ってはならず潜在力で測らなければならない」 (p. 39. 強調は原文のまま) と言っている 。学校教育は、社会の多様な状況で活きる潜在的能力の開発を主眼におくべきというのは、1911年の岡倉由三郎の『英語教育』を引用するまでもなく、当然のことである。しかし「運用能力の顕在量で測ってはならず」とまで言い切る渡部の論拠は、私には理解しがたい。

  • 渡部は、「英語の本を一ページ三十分か一時間かかって読めれば私は大成功だと思っている」 (p. 92) と述べているが、これは端的に彼が英語教育を古典語教育として考えていることを示している。念のために述べておくと私はこのような遅読は、哲学や文学の精読なら時に必要だと思っている。だが平易に書かれた科学論文をこのスピードでしか読めないのは明らかに英語教育の失敗であろう。

  • 渡部は「口頭によって外人とデスカッションする能力は、相当長期にわたる海外生活やら、特別な家庭環境がなければ、不可能と断定してもよいと思う。この始めから不可能なことを日本の学校教育でやれると思ったのは、先にも言ったように迷信である」(p. 94) と述べている。この認識は彼の時代には正しく、だからこそ多くの英語教師は渡部に共感したのかもしれない。だがメディア環境が激変した現代、日本の学校英語教育においても相当の口頭英語能力をもった学習者も出始めたことは関係者にとって周知のことである。さらにAIの登場によって、日本においてこのような能力を開発することは十分可能になった(もちろん、可能であるこというとと、実現されるということは別次元のことではあるのだが)。

  • 渡部は終章の対談において次のように述べ、彼らの論争において「英語教師 対 英語教師以外」という対立が現れたことを認めている。だがもちろん、彼としては英語教師の言い分の正しさを立証しようとした。(同様の発言は、「論争をふり返って」の p. 237にも見られる)。

    • 正直いって、平泉先生の提案は、天の声だった、人民の声だったと思いますよ。だから先だってテレビで討論したときも、英語教師以外は大抵みんな平泉先生に賛成ですな。英語教育論というのは英語教師だけがやっていたんですけれども、それがよくないものであったということのひとつの証拠になりますね、これは。(p. 142)

  • 渡部は次のようにも述べ、学校教育は学校の都合で運営せざるを得ないことを認めている。

    • この対談に関係ある範囲でかんたんいえばね、学校の教室内でできることとできないことを、ハッキリさせなきゃいけない、ということです。学校の教室でできることは、むしろ実用から離れた方向の方がやりやすいし、効果があがる。(p. 144)

  • 渡部は自民党政務調査会の公聴会(平泉委員会)の参加者について、「いわゆる学識経験者や文部科学者の役人たちのほかに、商社の人事担当者など卒業生を使う立場の人、つまりユーザー側の人も出席していた」 (p. 234) と記している。このことは渡部が自らのような研究者を英語の「ユーザー」として考えていないことを示唆している。

  • 平泉は、実際の多くの日本人は英語をあまり読めず、書くことも不如意で、ましては話したり聞くことはできないと考えている。そのような状況で、渡部のいう「母国語との格闘」は「一人相撲」であると喝破している (p. 54) 。この平泉の認識は現代においても正しいと私は考えている。

  • 平泉は、例えば「書かれた音であっても、言語である限り、それは絶対に音とは切り離せない」 (p. 68) などと再三主張し、読み書く能力のためには話し聞く能力が不可欠であることを述べている。この認識にも私は同意する。(同時に、彼は読み書きを切り離した、話し言葉だけの話し聞く英語教育は提言していない)。

  • 平泉の、英語を大学入試に入れる必要はないという論は極論のように思われるが、平泉が日本外交史の失敗を要約した後に書いた下の見解を読むと「受験英語」が今よりもはるかに難問奇問を含んでいた時代には、十分合理的なものだったと思われる。

    • 国民教育における現代外国語の意義を、私は何よりも先に、このように受けとめる。それは受験生の数を、法定の入学定員に圧縮するためのコンプレッサーではない。それは国民のなかに、一人でも多くの、外国語の活用者を生み出すものであるはずだ。(p. 129)

  • 平泉は、義務教育での英語教育については、次のように改革案で述べている。AIによる自動翻訳がますます高度化している現在、この考えを再検討する価値はあるかもしれない。

    • 義務教育である中学の課程においては、むしろ「世界の言語と文化」というごとき教科を設け、ひろくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの言語と文化についての基本的な「常識」を授ける。同時に、実用上の知識として、英語を現在の中学一年修了程度まで、外国語の一つの「常識」として教授する。(この程度の知識ですら、現在の高校卒業生の大部分は身につけるに至っていない)。 (p. 13) 

  • 上のように平泉は、英語学習を義務化しなくてよいと述べているが、これに対して渡部は外山滋比古のことばだったと思うとして、島国である日本は放っておくとウルトラ・ナショナリズムになる恐れがあり、その意味においてもまったく異質の文明あるいはそれを担うことばを教えることを試みることはそれなりにも意味があると発言した。 (p. 155) 私は本書の再読であまり渡部に賛同できなかったが、この点は共感する。

  • 対談の司会である鈴木は、大学入試で英語は課しても「パース・オア・フェール(合格か不合格を決めるだけで点数はつけない)の原則でやる」 (p. 162) ことを提案している。私はこの原則を大学院入試における英語で適用するべきだといくつかの会議体で提言したが、なぜか未だに大きな賛同は得られていない。



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これでこの記事は終わる。同じ本も、時代が変わり自分が変わるとずいぶん違った解釈を生み出すことを再認識した。


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