私はこれまで主にダマシオの論に基づいて情動 (emotion) について理解をしてきましたが、このバレットの本は情動について新たな理解を与えてくれています(まだ最後までは読み切れていませんが・・・苦笑)。記憶が新しく夏休みで比較的時間が取れるうちにまとめておこうと思った次第です。
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Damasio (2018) "The Strange Order
of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
私が知る限りこの本には翻訳書がないので、以下は私なりに訳語を作ってまとめたものです。訳語を決める際には以下のサイトを参考にしましたが、私は神経科学を専門にしているわけではないので、いつものように誤りを怖れます。もし誤りがありましたらご指摘いただけたら幸いです。
How
Emotions Are Made: Glossary
脳科学辞典
ライフサイエンス辞書
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指紋
(fingerprint)
古典的な情動観 (the classical view of
emotion) は、喜びや怒りといった情動には「指紋」があると想定している。(p. 3) この表現はもちろん比喩であり、Glossaryは「人が経験している情動を特定するのに十分な身体的変化の特異のパターン(顔、身体、声、脳)」 (a distinct pattern of physical changes (in the face, body, voice,
and/or brain) that is said to be sufficient to determine which emotion someone
is experiencing) と説明している。この古典的な考えが誤りであることを踏まえた上で著者が提示しているのが情動構築理論 (theory of constructed emotion) であり、その概要を以下で示す。
一つ一つが異なるのが正常
数々の実験や調査が示しているのが、例えば「怒り」といった情動は、さまざまな機会や状況においても、ある個人の中でもさまざまな人間の中でも、実にさまざまな身体的反応 (bodily responses) を生み出したということである。すべてが同一であることではなく、一つ一つが異なることこそが正常な状態なのだ (Variation, not uniformity, is the norm)。 (p.15)
情動は、多様な事例を含むカテゴリーと考えるべき
怒りや怖れや幸福といった感情は、それぞれが一つの感情であり、それぞれに指紋(=本質的特徴)があると考えるのではなく、多様な事例を集めた集合であるという意味で情動カテゴリーとして考えるべきだ (What we colloquially call emotions, such as anger, fear, and
happiness, are better thought of as emotion categories, because each is a collection
of diverse instances)。(p. 23)
母集団思考 (population thinking)
ダーウィンに由来する母集団思考 (population thinking) によるならば、動物の種 (a species of animal) といったカテゴリーは、中核に本質的条件をもたない互いに異なるそれぞれ独自の構成員から構成される母集団である (A category, such as a species of animal, is a population of unique
members who vary from one another, with no fingerprint at their core.)。カテゴリーは抽象的で統計学的な用語として集団のレベルで記述できるだけである (The category can be described at the group level only 。3.13人から構成されるアメリカ家庭が存在しないように、平均的な怒りのパターンと同じ怒りの事例はない。「指紋」はステレオタイプだと考えるべきだろう。 (p. 16)
訳注:“Population
Thinking”には「集団的思考」や「集団科学的思考」といった訳語も充てられているようですが、これは個々の事例を統計学的に抽象化した上で議論する考えだと私は理解したので「母集団思考」と訳しました。
なお、調べる中で、次の短い記事は面白かったので、以下にその一部を翻訳します。
Population Thinking by Dan Sperber
種は進化し、古い特徴が消え、新たな特徴が生じることがある。母集団主義者的観点(a populationist point of view)からすれば、種とは有機体の母集団 (a population of organisms) である。これらの有機体は、共通の「性質」 (a common “nature” ) によってではなく、血統においてつながっている (related by descent) から特徴を共有 (share features) している。このような理解に基づく種とは、時間的には連続しているが、地理的には分散した存在
(a temporally continuous, spatially scattered entity) であり、時間がたつにつれ変化するものである。.
母集団思考は容易に生物学の枠を越え、文化進化にも適用された。(Peter Richerson, Robert Boyd, and Peter Godfrey-Smithの議論を参照せよ)。文化的現象 (cultural phenomena) は母集団として考えることができる。それを構成する諸現象 (members) は、互いに影響を及ぼし合うから特徴を共有している。とはいえこれらの現象は有機体のように子孫を残すわけでも他の有機体のコピーとなるわけでもない
(they do not beget one another the way organisms do and are
not exactly copies of one another)。三つの例をあげよう。
語 (word)、たとえば「愛」とはなんだろう。語は、通常、音と意味を結合する言語の基礎的単位だとされている。確かにそう考えることはできるが、そのように理解された語は抽象概念であり因果力はもっていない (an abstraction without causal powers)。原因と結果を有しているのは「愛」という語の具体的な使用だけである。語を発語することがもつ原因の一つとして話者の心的過程 (mental processes) があり、結果の一つとして聴者の心的過程がある(ここではホルモンやその他の生化学的過程については割愛する)。
この話すという出来事 (speech event) は別の時間スケールで、話者と聴者が「愛」という語を発語し理解する能力を獲得した昔の様々な出来事と因果的に関係している ( is causally linked, on another time scale, to earlier similar
events from which the speaker and listener acquired their ability to produce
and interpret “love” the way they do)。この語はこういった習得と使用のエピソードを通じて言語共同体の中で残り続けるし変化も受ける (The word endures and changes in a linguistic community)。
ゆえに「愛」という語は、人々および人々が共有している環境の中で因果的につながった出来事の母集団として研究できる。この母集団は数知れないほど多くのそのような出来事から構成されているが、それぞれは異なる文脈で生じてそれぞれの瞬間に適切な意味を伝えている。それにもかわらずこれらの出来事は因果論的に関係している。「語」についての学術的・非学術的な議論も、その語の意味も、それぞれが「愛」の母集団の周縁部で進化する心的・公的なメタ言語的出来事を構成する
(Scholarly or lay discussions about the word “love” and its
meaning are themselves a population of mental and public meta-linguistic events
evolving on the margins of the “love” population)。すべての語も同じように、単なる言語の抽象的単位と考えないこともできる。語を心的・公的出来事の母集団と考えるのだ(All words can similarly be thought of not, or not just, as abstract
units of language, but as populations of mental and public events)。
なお、この母集団思考はウィトゲンシュタインの「親族的類似性」 (family resemblance) と重なるところの多い概念であることは言うまでもないでしょう。
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ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から
情動の一事例 (an instance of emotion)
喜びといった情動はカテゴリーであり、私たちがそれを経験したと感じる・認識した場合は、「喜び」という情動そのもの(あるいはカテゴリー全体)を経験したのではなく、その情動の一事例 (an instance of emotion) を経験したのである。したがって「喜び」といった概念あるいは語は、情動カテゴリー (emotion category) として考えるべきである。 (p. 39)
縮重
(degeneracy)
ある感情カテゴリー(たとえば「怒り」)に共通して活動しているニューロン集合 (a
set of neurons) (=「怒り」の指紋となるニューロン集合)が存在しないことは、神経科学の縮重 (degeneracy)
によって説明できる。縮重とは「多くが一つに」 (many to one) ということであり、ニューロンのさまざまな組み合わせ (combinations) が同じ結果(outcome) を出しうるということである。(p. 19)
コアシステム (core systems)
縮重の「多くが一つに」とは反対の「一つが多くに」の働きを示すのが脳のコアシステムである。一つのコアシステムは多くの種類の心的状態を生み出すことに関与 (participate) している。(p. 19)
等機能性
(equipotentiality) ではない
しかしいかなるニューロンもいかなる機能をもつといった等機能性を主張しているわけではないことには注意されたい。(p. 19)
内受容
(interoception)
内受容とは、内部器官・組織、血中のホルモン、免疫システムなどでのすべての感覚を脳が表象したものである (Interoception is your brain’s representation of all sensations
from your internal organs and tissues, the hormones in your blood, and your
immune system) 。内受容は、情動の中核的要素 (the core ingredients of
emotion) であるが、その情動を感情として知覚したものは、喜びや悲しみといった情動よりもはるかに単純な、快-不快や平穏-興奮 (from pleasant
to unpleasant, from calm to jittery) あるいは特に何でもない
(completely neutral) といった非常に単純なものにすぎない。 (p. 56)
固有脳活動 (intrinsic brain activity)
私たちが生まれてから死ぬまで、外からの刺激があろうとなかろうと、私たちに意識があろうとなかろうと、脳においては常にニューロンが互いを刺激している。
固有ネットワーク (intrinsic network)
固有脳活動は固有ネットワーク (intrinsic network) で行われるが、この固有ネットワークは常に同じニューロンによって構成されているわけでなく、スポーツでプレーをするメンバーがしばしば代わるように、異なるニューロンがネットワークを構成する。 (p. 58)
固有脳活動が行うこと
固有脳活動は、心臓や肺を動かしたりすることだけでなく、シミュレーションとして総括できる夢、白昼夢、想像、注意散漫
(mind wandering)、空想
(reverie)といった経験を可能にしているだけでなく、内受容の経験も可能にしている。
補記(2020/02/14):その後出た翻訳書では、「内因性脳活動」と「内因性ネットワーク」という翻訳語が使われていました。
予測
(prediction)
頭蓋骨の中に閉じ込められた脳は断片的な情報から、今何が起こっているかを知らなければならないが、その時に脳が行っているのは予測である。脳は、過去の経験を参照しながら、微細な (microscopic) なレベルでのニューロン同士の更新を行い、現在起こっているのは何なのか、次には何が起こりそうなのかを予測する。 (p. 59)
予測がなければ生存は困難
莫大な情報を帯びた複合的な世界の中で生き残るには、何らかの刺激を得てから行動するのでは遅く、常に予測していなければならない。 (p. 59)
「自由意志という幻想」 (“the illusion of free will”)
予測は脳内で常に行われるので、次の行動も本人が自覚する前からその開始のための準備が脳内で行われている。このため実験をすれば意志より前に次の行動のための脳内活動がなされていることが判明する。 (p. 60)
身体の動きは身体内の動きを常に伴う (Any movement of your
body is accompanied by movement in your
body)
身体が動けば、呼吸にせよ血流にせよ身体内に必ず何らかの変化が生じる。(p. 66)
脳内の内受容ネットワーク
内受容ネットワーク (interoceptive network)は、身体内の変化を内受容の変化として捉える。(p. 66)
脳にとって身体は世界の一部である
頭蓋骨の中に閉じ込められた脳からすれば、身体は説明することが求められている世界の一部である。 (p. 66)
内受容ネットワークを身体予算領域と一次内受容皮質の二つで考える
単純な説明として、内受容ネットワークを身体予算領域と一次内受容皮質の二つで考えよう。(p.
67)
身体予算領域 (body-budgeting region)
身体予算領域は、身体が次にどのように動くかの予測に基づき身体各部にそのために必要な内部環境 (internal environment) を整える命令を出す領域である(身体予算領域とは比喩に基づく用語であり、これは「辺縁」領域とも「内臓運動」領域
(“limbic” or “visceromotor” region)とも呼ばれる)。(p. 67)
Glossary: “body budget” は、「脳が、身体内でどのようにエネルギーを振り分けるかということに関するメタファー。科学的にはアロスタシスと呼ばれる」 (a metaphor for how your brain allocates energy resources within
your body. The scientific term is allostasis)と説明されている。
一次内受容皮質 (primary interoceptive cortex)
内受容ネットワークの二つ目の領域は、一次内受容皮質であり、これは内受容の感覚を脳に表象する働きをもつ。 (p. 68)
内受容予測 (interoceptive prediction)
身体予算領域と一次内受容皮質は予測ループ (prediction loop) を構成する。身体予算領域が次の動きとそれに必要な身体資源を予測(内受容予測)すると、一次内受容皮質はその予測と実際の身体内の感覚を比較し、予測エラー (prediction error) を修正し、内受容感覚
(interoceptive sensation) を完成させる。 (pp. 68-69)
情動を生み出すのは身体予算領域
情動 (emotion) は身体予算領域から生じる。こおで大切なのは、身体予算領域が情動に反応 (react to emotion) しているのではなく、身体予算領域が視覚・聴覚・思考・記憶・想像などと並んで、情動を予測し準備しているということである。 (pp. 69)
情動が個人的に意味あること (personally meaningful)になる
身体予算領域を活性化し最後には情動を発動させる出来事が個人的に意味あることとなる。
補足:予めどこかに「意味」があって、それが情動を引き起こすのではない。身体内に動きが生じることによって意味が生じるのであり、この点からすれば意味は常に身体的である。(p. 70)
身体変容
(affect)
さまざまな情動に分化する以前の根源的な内受容を感じること (feeling) は、身体変容と呼ばれる。身体変容には直観 (intuition) や虫の知らせ (gut feeling) も含まれる。身体変容は、快-不快に関する快適価 (valence) と、平穏-興奮 (calm or agitated) に関する覚醒価 (arousal) の二つの次元をもつ。(p. 72)
訳注:
“affect”を私はこれまでダマシオにならって
emotion(情動)と
feeling (感情) を総称するという意味で「情感」と訳してきたが、この本を読んでもスピノザの
『エチカ』の英語版を読んでも、
“affect” とは身体の変化によって影響を受けている
(=affected) 人間の情動・感情という意味が強いように思えるので、ここでは思い切って「身体変容」と訳してみた。
補記(2020/02/14):その後出た
翻訳書では、「
気分」と訳されていました。たしかに日本語としては「気分」の方が自然です。
Glossary: “affect”は、「快と不快、平穏と興奮の間で常に変動しているもっとも単純な感情」 (Your simplest feeling that continually fluctuates between pleasant
and unpleasant, and between calm and jittery)と説明されている。
身体変容は意識も含むすべての生命活動の基礎的側面
じっとしていても寝ていても意識的であっても、身体変容は人間が生きる上での基盤となっている。 (p. 72)
身体変容は身体変容性ニッチに目を向けさせる
身体変容によって身体予算のあり方がバランスを欠いていることがわかれば、脳はそれが何によって生じているかを説明しようとして、このような時の打開策には何があったかを過去の経験の中から探し出す。そこで見つけた、身体予算と身体変容のあり方を変えてくれると思われる対象や出来事 (objects and events) は身体変容性ニッチ (affective niche)となる。当座はこのニッチ以外の対象や出来事はそのヒトにはノイズにしか思えなくなる。 (p. 73)
Glossary: “affective niche” は「今この瞬間に身体予算と何らかの関連をもっているすべて」 (everything that has any relevance to your body budget in the
present moment)と説明されている。
身体変容に基づく実在主義
自分の身体変容が何によって引き起こされたのか自覚できない時には、その身体変容は世界に関する情報であると考えてしまう。これが身体変容に基づく実在主義 (affective realism) である。これは一種の素朴な実在主義であり、よく見られるが強力な働きをもつ。これによって人は、自分の感覚は常に世界についての正確で客観的な表象であると信じてしまう (a common but powerful form of naïve realism, the belief that one’s
senses provide an accurate and objective representation of the world) 。(p. 75) しかし嫌な気持ち (a bad feeling) が常に何かがおかしいことを意味しているわけではない。それが意味しているのは、単に身体予算が枯渇しているということかもしれない。 (p. 76)
訳注:75ページの脚注部分でaffective realismは一種の錯誤として描かれているように思えるが、Glossaryでは「内受容が視覚や聴覚やその他の知覚に影響を与える現象」(the phenomenon that interoception influences what you see, hear,
and otherwise perceive) と中立的な説明が与えられている。
感情は脳の予測に基づく
人は脳が信じていることを感情として認識する。身体変容の主な出どころも脳の予測である
(In short, you feel what your brain believes. Affect primarily comes from prediction.)
。人が感情として認識することはすべてその人の知識と過去の経験からの予測に基づいている。人はまさに、自らの経験を作り上げる建築家である (Everything you feel is based on prediction from your knowledge and
past experience. You are truly an architect of our experience. Believing is
feeling)。 (p. 78)
内受容は外世界よりも影響力をもつ
刻一刻の内受容は、外世界よりも人の知覚そして行動に対して影響力をもつ
(Interoception in the moment is more influential to perception, and how you
act, than the outside world is.) (p. 79) 脳は身体予算に耳を傾けるように配線されている。運転手席にいるのは身体変容であり、合理性 (rationality) は乗客であるにすぎない。 (p. 80)
どんな決断も行為も内受容と身体変容から自由でありえない
解剖学的にも、人間の脳が内受容と身体変容から自由に決断や行為をすることはありえない。人が構築するあらゆる思考・記憶・知覚・情動には身体の状態に関する何らかのもの、少しばかりの内受容が含まれている (Every thought, memory, perception, or emotion that you construct
includes something about the state of your body: a little piece of
interoception.) (p. 82)
脳は過去の身体状況に基づいて予測をする
視覚的予測は「前に私がこの状況 (situation) にいた時に見たものは何か?」という問いに答えてなされるのではない。問いは「私の身体がこの状態だったとき (when my body was in this state) に見たものは何か?」である。 (p. 82)
補注:外国語習得で言うなら、丸暗記力した単語が実際にはなかなか使えないのは、丸暗記された単語は、その単語にふさわしい身体的記憶が伴っていないから。それに対してその単語に適切な情動的な体験を伴って単語を身につけた--そうまさに「身につけた」--場合は、その身体的記憶に近い状態が再び生じた時、すなわちその単語使用にふさわしい状況に身体がなった時に、自然と、どこからともなくその単語が口から出てくる。日本の英語教育では、非身体的な丸暗記単語学習が当たり前となっているし、英語教師にもこのような丸暗記で得た知識を「語彙力」と思っている人が少なくないので、このような身体と認知の関係を語ってもなかなか理解してもらえない。
ちなみにこのような身体的側面について述べた拙著も、第三刷を出版することができました。「少なくとも10年間は読む価値のある本を書こう」と思っていたので、これまでこの本をお読みくださったすべての皆様に感謝すると共に、まだ手にとっておられない方にはぜひ一読していただけたらと思います。また、以前読みかけて「難しい」と読み止めてしまった方も、こういった身体的側面の重要性について学んだり、どんどん各種試験が権力をもっていく過程を理解したりすると、この本も面白く読んでいただけるかもしれません。
内受容が世界の意味を作り出す
内受容がなければ物理世界は意味のないノイズ (meaningless noise) となってしまう。内受容に基づく予測 (interoceptive prediction) は、身体受容の感情
(feelings of affect) を生み出し、今この瞬間に何を気にするか (what you care
about in the moment) --身体受容性ニッチ—を決定する。脳の立場からすれば、身体受容性ニッチにあるものはすべて身体予算に影響を与えうる重要な事柄であり、その他のことは重要ではない。(pp. 82-83)
人の環境はその人自身が作り出している
あなたはあなたが生きる環境を構築している (you construct the
environment in which you live.) 。環境はあなたとは無関係に外の世界に存在しているのだというのは神話に過ぎない。 (p. 83)
内受容と身体変容だけでは具体的な予測ができない
実生活で有用な具体的な予測をするためには内受容からの身体変容だけでは不十分である。身体変容よりもはるかに複合的
(complex) な感情を認知することが必要である。言い換えるなら、脳がもっと具体的な行動を取れるように、あなたは身体変容を
意味あるものにかえなければならない
(You
must make the affect meaningful so
your brain can execute a more specific action)。その一つの方法が情動の一事例を構築すること
(construct an instance of emotion) である。
(p.
83)
補注:上では身体変容の一例としての "a gut feeling"に「虫の知らせ」を充てたが、そのことばに即して説明すると、虫の知らせ(あるいは直観)といった身体変容は、せいぜい「善いか悪い」や「大変か大変でないか」ぐらいのまだまだ十分に特定できないメッセージにすぎない。虫の知らせを感知した人は、「はて、これはどういうことだろう」と過去の記憶を探ったりしているうちに、より具体的な情動を認識するようになり、その情動からこれからどうするべきかという予測をより細かなものにしてゆく。身体変容から情動を知覚し、その情動の知覚(ということは「感情」(feeling))と共に思考が深まってゆくのが私たちの認知とまとめられるだろう。
情動的細密性 (emotional granularity)
身体変容をどのように事細かに情動として分化 (differentiate) することができるかという情動的細密性 (emotional granularity) (p. 3) は、生きる上でも重要である。
TED Talk by Lisa Feldman Barrett
You aren't at the mercy of your emotions: your brain creates them
追記:
上のTED動画につながっていた下の歴史家によるTED Talkも面白かったのでついでに紹介しておきます。
TED Talk by Tiffany Watt Smith
The history of human emotions