2024/09/20

今井むつみ (2024) 『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』『きょう、ゴリラをうえたよ』

 

この記事では今井先生の近著についての私の感想を書きます。


『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』


「伝わる文章とは何か」という問いは、英語ライティング教師である私にとって常に考えなければならない問いです。私はライティングを語法・文体・ストーリーの3つの観点から考えますが、語法と文体についてはAIでずいぶん学習者は支援を受けることができるようになりました。残る課題はストーリーです。

ストーリーについては、Context-Problem-ResponseやWhy-What-So Whatあるいは起承転結などの一般論で、ストーリーの全体像についてある程度指導はできます。ですが学生の英文の中には、これらの枠組みに即しているようで、どうも分かりにくい文章が少なくありません。また、ストーリーの細部、例えば1つのボディパラグラフの中の論証が理解しづらいことも多いものです。教師としては学生の英文をしばらく読んで、「はぁ、つまり◯◯を立証したいわけ?それならこの情報を先に提示してくれないと読者は混乱するよ。また、この情報はむしろ読者の誤解を招くから削除した方がいいよ」などと助言します。ライティング教師として、私は「伝わる文章」を書くためのストーリー展開の指導には大幅な改善が必要だと思っています。

今井むつみ先生の『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』は、仕事や家庭や学校でコミュニケーションの困難を覚えている人々--ということは私たちのほとんど--のために書かれた本であり、ライティングのストーリー展開を考える点でも非常に有益な本です。

「これだけ言っているのにどうしてわからないのだ!」と不満を募らせる人は、人間は相手の話した内容をそのまま脳にインプットしているわけではないということを理解していません(p. 22)。人間には「知識や思考の枠組み」(スキーマ)があります。この枠組みは、一人ひとりの学びの経験や環境、興味や関心、そして言語が異なれば、それぞれに異なってくるものです (p. 30)。上記の不満を抱く人の多くは、自分と相手の知識や思考の枠組みがそもそも異なっていることが分かっていません。一部の人は違っているということ自体は分かっていても、枠組みのどこがどのように異なっているのかを具体的に把握できていない。だから、自らの説明法を変えたり、別の事例をもってきたりすることができません--はい、私のことです(苦笑)。

「伝わる文章」を書くためには、まずは人間のさまざまな思考法と興味関心を一般的に学んでおいておかねばなりません。次に、今・ここで自分が面している相手がどのような思考法と興味関心を抱いているかを理解し、その相手に最適な論理展開で論証をする必要があります。さらには今後のために、その思考法と興味関心を有する人にとって、その論理展開が最善だったかを反省しなければなりません(ソクラテス『パイドロス』p. 118; 「AIの言語生成と人間の言語使用の違い:AI時代の言語教育のための考察」(2024年2月10日 言語系学会連合公開シンポジウム)  

この『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』を読むと、私たちの日常生活での誤解の原因が具体的にわかり非常に勉強になります。専門家の偏りや認知バイアスについて、私たちはもっと理解を深めるべきでしょう。また名著『英語独習法』を書いた英語の使い手として今井先生が説明しているwear/put onやa/theの違い(それぞれ p. 34と p. 132)は中学生にも理解してほしいことです。

人間の価値観が多様化し、人間の交流がグローバル化するにつれ、相手に伝わるコミュニケーションを行う力は重要になります。そのようなコミュニケーション力は、機械的な学習を繰り返すことではおそらく獲得することがでません。他人に的確に伝えることは、人間の思考法と興味関心についての該博な知識に基づいて、目の前のコミュニケーションをメタ的かつ動態的に分析することによって達成できるのでしょう。そんな力をもつ人こそ教養ある人と呼ぶべきです。本書は現代社会における教養を身につけるための本ともいえます。




『きょう、ゴリラをうえたよ』


今井むつみ先生について驚くことは多岐にわたりますが、その1つが発想の柔軟性です。国際的学術誌に専門的な論文を執筆すると同時に、上の『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』のように一般読者に伝わる本を書けるということは、実は容易なことではありません。どちらかのジャンルなら書けるけど両方で書ける人は稀有といえるでしょう。

この本は、「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴先生がまとめ、吉本ユータニキさんがイラストを添え、今井先生が監修し解説を加えた、子どもの言い間違えについての本です。読んで笑いながら、なるほどなるほどと言語の本質的な特徴について考えることができる知的エンターテイメントといえるでしょうか。

知識人とは、学界での興味関心事においてだけでなく、日常生活においても知的分析を行うことができる人なのだと思わされます。




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下の拙論は、オープンアクセスが始まった月には2万件以上のアクセスをいただき、その後も細々と読み続けられているライティングについてのまとめです。最新のAI技術を追うのではなく、「少々のAIの進展では克服し難い、日本語母語話者が英語という外国語で考え書くという難題を克服するために注意すべき点」についてまとめたのが功を奏したのかもしれません。


柳瀬陽介 (2023)

「AIを活用して英語論文を作成する日本語話者にとっての課題とその対策」

『情報の科学と技術』73 巻 6 号 p. 219-224

https://doi.org/10.18919/jkg.73.6_219


抄録:本稿は,日頃英語で書く経験が乏しい日本語話者が,短期間で英語論文を執筆する方法について解説する。作業手順は,日本語による構想と原稿執筆→AIによる英語翻訳→AIによる文体改善→著者による最終校閲である。一貫している原則は,人間が,AIが不得意としている領域の作業に最善を尽くすことで,最終成果物の質を上げることである。作業の際の留意点は,ストーリー・文体・語法の3つの観点別に説明する。それぞれの強調点は,ストーリーでは戦略的な構想,文体では英語の発想に即した表現法,語法では日本語話者が不得意とする領域である。本稿は総じて,人間とAIが相互補完的に作業を進めることを推奨する。


 

2024/09/02

「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

 

8/30(金)の19:30-21:30にSomatics and SEL研究会主催の公開オンライン研究会で50分の講演をしました。その後の約1時間はすべて質疑応答に使うという贅沢な会でした。事務局と参加者の皆様に改めて感謝いたします。

私の講演タイトルは「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」でした。一般の方々はしばしば「外国語なんて、現地で暮らせばだれでも身につけることができるよ」と言います。それを聞いた言語教育関係者は、自分の存在意義を疑われたと怖れて動揺しながら「そうはいっても、教室と現地は違いますから」と言います。その弁明は正しいのですが、言語教育関係者の多くが行うことは、教室の学習ひいては評価の体系化であり「科学化」です。

しかし「言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について」の記事 (https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/05/blog-post.html) でも触れたように、私は過剰な体系化や浅薄な「科学化」の方向性には賛成しません。それよりも、上の一般人の述懐の含意を丁寧に考えてゆくべきだと私は考えます。


今回の講演では、上の「現地で暮らす」こと、つまり現実世界で言語を使うことの重要な側面として、使用する言語のリスクと責任を取ることを取り上げて考察しました。その考察から、安直な科学化を施した研究が謙虚さを失った結果をかなり批判しました。この批判は、下の考察からの流れに基づいています。



「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」 (https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11)


「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」 (https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83


「柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021)(https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html)



今回の講演のスライドはここからダウンロードすることができます。(https://app.box.com/s/jvyka8gsznljxo0vbourf9murfhje2o7)。講演の予行演習動画は下から見ることができます。ご興味のある方は御覧ください。






質疑応答の中で特に私にとって勉強になったのは、「実践者の報告の中にも硬直したことば遣いで、相互理解を拒むものもあるのではないか」と「PPPのような機械的な言語操作練習にも一定の意義があるのではないか」というものです。これら2つはもっともなご指摘で、私の説明不足を補ってもらうものでした。

実践者の中にも頑なな態度で、他の実践者から学ぼうとしない人がいるというのは、残念ながら事実だと思います。そういった方は時折「◯◯さえすればよいのだ!」とご自身の実践を過剰に一般化した主張をされます。もしそういった方の実践にみるべきところがあれば、周りの人たちはその方の教条化した表現を、他の人にもわかるように具体的に言い換えて、その方の実践の価値と限界を明確にすることができるでしょう。私たちは言語教師なのですから、研究を語る際も、できるだけ丁寧にことばを使うべきです。

後者の指摘の、機械的な言語操作練習にも一定の効用があるというのも、まったくその通りです。この点は講演でもっと強調しておくべきでした。楽器の演奏やスポーツのパフォーマンスと同様、自由に "play" するためにはある程度の定型的な練習は不可欠です。

しかし、多くの授業が機械的な練習だけで終わっています。何のために機械的な繰り返しを行うのかをはっきりさせていません。ですから、一部の授業は、機械的な練習を過剰に行いそれを厳密に評価することばかりに力を注いでいます。まさに手段が目的になってしまっています。

そうではなくて、自由に、そして自分のために言語を使うために、機械的な作業を必要最小限に留めるべきと私は考えます。そして定型的作業設定に比べてはるかに困難な自由度の高い課題を適切に設定することが、そしてその課題達成のための学習者の意欲を高めることが、言語教師として大切ではないでしょうか。


ともあれ、講演の最後の方で私は「リスクと責任を取っている実践者(現場教師)の声に真剣に耳を傾けよ--たとえその意見が、学会で「正統」だとされている合理化主義者 (rationalizer) の知的枠組みに収まらなくても--」と主張しました。私としては、せっかくの学会という組織が、もっと実践者の日々の葛藤を丁寧に拾い上げることを願っています。


【Ver. 1.1に改訂】Caring Conversation with an AI Counsellor: 英語でお悩み相談をするChatGPTプロンプト

  2024/11/27 :Ver. 1.1にして、ChatGPTが最後に対話の要約を自動的に提供するようにしました。最初はChatGPTが中途半端な要約しか提供しなかったので、要約についての指示を詳細にしました。また、ChatGPTが対話の途中で勝手にWeb検索をすることを禁じ...