2026/07/16

学生さんが書いた約50行のプロンプトから考えた--AIを使えば、学習者は自らの教師になりうる

 


「AIを使うと、学生さんの思考力が低下する」という懸念には一理ある。実際にその傾向を示す学習者も少なくない。

しかし、技術そのものが主体性を奪うと断定するのは早計だろう。
私の英語の授業では、毎週「好きな英語のYouTube動画を見てレポートを書く」という宿題を課している。
今週、ある学生さんが示した実践は、AIがむしろ「自律的な学習支援具」になり得ることを示していた。

手書きノートと50行のプロンプトでAIを動かす学生さん

その学生さんは、学術的なYouTube動画を視聴する際、前週に学んだ「コーネル式ノート作成法」でノートを取った。
印象的だったのは、その後のリスニング理解度の検証方法だ。
彼は、自ら設計したマークダウン記法による約50行の英語プロンプトを使用し、動画のURLと、手書きノートをスキャンした画像をAIに入力した。
AIは、学生さんがあらかじめ設定した詳細な判定基準と出力様式に従い、ノートの出来を100点満点で評価し、コメントを加えた。
学生さんによれば、そのAI評価はきわめて妥当であったという。
自身のリスニングプロセスを省察する、良いきっかけになり、彼はそのフィードバックを手に、もう一度同じ動画の視聴に臨んだ。
学習の目的——なぜこの勉強をするのか——を自覚している学習者にとって、AIはこれ以上ないパートナーとなる。
私の授業の宿題では、動画の選定も視聴方法も学生さんに一任している。
学生さんが「自らの教師」となることを求めているからだ。彼はそれに成功していると私は思っている。

「技術的にできること」が私の「教師の信念」を一瞬揺るがせた

しかし、面白かったのは、このエピソードが教師である私自身に、ある誘惑を与えたことだ。
「この仕組みを応用すれば、私も期末試験の自動採点ができる」という誘惑だ。
慌てて述べると、私は、AIによる評価の自動化には明確に反対の立場をとっている(詳細は『早稲田日本語教育学』第35号の拙稿「『英語力』をこれ以上商品化・貨幣化するためにAIを使ってはならない」を参照されたい)。
価値を見出すという行為は、人間に残された最後の拠り所の一つだ。それを安易に機械化・自動化してはならない----それが私の信念だ。
しかし、「客観的に採点できればいいんでしょ」と割り切ることもできる。そうすれば、現在のコンピュータ上のAIだけでも、私の採点時間は大幅に削減される----一瞬私はそう思ってしまった。
だがそれは、教師として大切なものを失うことを意味する。私は「一人ひとりの学生さんの傾向と良いところを見出し、次の教育に役立てる」という信念を放棄してしまう。

「効率」の先に何を望むのか

AIは薬にも毒にもなる。
その境界線を決めるのは、テクノロジーの性能ではない。
私たちの「大局観」と「自らが求める価値への反省的な検討」だ。
教育における「効率化」が叫ばれる今、「評価の自動化」を無批判に進めるべきではないと私は考える。
もし自動化を部分的に受け入れるとするならば、教師は「効率」によって浮いた時間で、どのような「人間にしかできない価値」を実現すべきか考え、試行錯誤するべきだ。そして、学習者にいかにして「自らが自らの良い教師となること」を教えるべきか。
私たちは、この問いを考え続ける必要がある。
反省的な理性のないところに、強力な道具が与えられることは怖い。

【補記:上の文章の作成の一部において、実験的にAIを利用しました】

学生さんが書いた約50行のプロンプトから考えた--AIを使えば、学習者は自らの教師になりうる

  「AIを使うと、学生さんの思考力が低下する」という懸念には一理ある。実際にその傾向を示す学習者も少なくない。 しかし、技術そのものが主体性を奪うと断定するのは早計だろう。 私の英語の授業では、毎週「好きな英語のYouTube動画を見てレポートを書く」という宿題を課している。 ...