2019/08/07

B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP





例えば人が何かを話すということ―この「行為」は不思議だと思いませんか?単純な考え方をする人なら、話者が話そうとする意志をもって、その意志を発動したから、その意志に含まれていた計画に基づいて発話が行われるというように説明するかもしれません。しかし、例えば自分を内省しても、ある集まりの中での誰かを観察しても、発話という行為はそんな単純なものではないように思えます。

他人の発言が、あるいは他人の発言の中の一言がきっかけとなる。あるいは、そういったさまざまな人の発言の断片が特定の形で重なったことがきっかけとなる。もしくは、他人のいらいらとした表情や自分の中の不快感、もしくは時計が示す時刻がきっかけとなる。または、自分の中にめばえた想いがきっかけとなり一言述べたら、その一言が自らの思考を活性化し、さらなるきっかけとなる―というよりは、そういったさまざまなきっかけが相互作用を起こす中で、気がついたら自分がしゃべりはじめている―こういった記述の方が現実を捉えていませんでしょうか。

学習者が勉強をするという行為をとっても同じです。ある種の人々は、その行為の有無を学習者の意志や意欲の問題に還元してしまって、勉強を学習者個人の問題と考えます。あるいはある一定の働きかけをすれば、学習者はほぼ必ず(あるいは、統計的に有意な程度に)勉強を開始するものだと想定しています。しかし学びの現場を見てみれば、教室に冷房が入ったり、慢性の睡眠不足が解消したりしたことで急に勉強に熱が入ったり、急に勉強を始めた友人やテレビで聞いた一言に触発されて勉強が始まったり、ある一問がわかったことで、あるいは逆にわからなかったことで向学心が高まったり、提示されたご褒美で意欲が増したりあるいは減退したりします―いやそれらの複合的な相互作用が勉強という行為が生じる母体と考えた方が現実的ではないでしょうか。

英語教育を単純な行為理論で説明し、発話や学習を個人で完結する行為とみなす。教師は学習者に個人的に働きかけ、もしそれがうまくゆかなければその失敗を学習者個人の責任とする―こういったことは多く見られますが、そういった理論は、比較的短時間で多くの研究論文を量産することを可能にはしてくれても、現場の役には立たず、場合によっては、教育の可能性を損ねてはいないでしょうか。

少なくとも行為を個人的に考えるのではなく、社会的に考えるべきではないでしょうか。

そういった観点からすると、このラトゥールの著書は非常に興味深いと思います。

私としては、ここ最近勉強してきた中動態や物語論をさらに展開させてくれる非常に有効な理論としてこの本を読みました。また行為を確固たる基礎要素として考えない点ではルーマンの社会学ともつながっています(ちなみにアフォーダンスの考え方と通じている理論でもあります)。

関連記事

柳瀬陽介 (2018) 「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか読者・利用者による一般化可能性」 『言語文化教育研究』第16巻 pp. 12-32

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)


この本で説明されている actor-network-theory (ANT) は、質的研究や実践研究・実践者研究の記述の仕方の指針を示してくれていると私は理解しています。

ちなみにこのANTについては以下のサイトが便利です(といっても私はまだ活用できていませんが)。

The Actor Network Resource: Thematic List


私はこの理論を、最初に伊藤嘉高先生の翻訳で読みました。噂にたがわず、すばらしく丁寧な翻訳でした。一読後にすぐに読み直し、アンダーラインを引いたところは原著(英語)でも読み直しました。伊藤先生の翻訳は正確さとわかりやすさを同時に追求したもので、特に “action is overtaken” “dislocation” といった表現は、私は英語で読んでいたらわからなかったのではないかと思います。また訳注も非常に充実しておりとても勉強になります。

以下は、この本の序論と第一部の一部を私なりに翻訳したものを「お勉強ノート」として掲載したものです(それ以外の箇所のまとめは今後時間があれば行います)。伊藤先生のすばらしい翻訳があるのに、拙訳を試みたのは、いつものように「翻訳してみないとどうも心底わかったような気持ちになれない」という私の癖からです(苦笑)。

勉強の足りない私の訳文ですから間違いもあるかもしれません。ですから、本書に興味をもった方はぜひ伊藤先生の翻訳書を読んでください。この翻訳書を読めば難解をもって知られる英語原著も比較的容易に読み進めることができるのではないでしょうか(もっともある程度の基礎知識、知識人にしばしば見られる逆説的な文体に対する慣れ、そして何より冒頭で私が書いた「行為」関する問題意識などは必要かもしれませんが)。

拙訳を提示した後のこの記事の末尾には、この翻訳を通じて学んだことを、私なりのことばでまとめた箇所があります。もしこの理論の概要を知りたい方があれば、その末尾部分を最初にお読みいただいた方がいいかもしれません。しかし、専門家の方々が先にそのまとめを読むと、翻訳語の違いなどが気になるかもしれません。この理論をよくご存知の方は、下の拙訳(および訳注)を最初に読まれた方がいいかもしません(そして私の誤解などをご指摘いただければとてもありがたい限りです)。

訳の末尾にある数字、例えば (5, 15) は訳の原文が原著の5ページにあり、伊藤先生による翻訳は翻訳書の15ページに見いだせることを示します。訳文中に挿入された[ ]内の表現は私が補った語句です。翻訳が問題となりかねない箇所には( )内で原文を補っておきました。



***以下、抜粋翻訳***



序論
つながりをたどるという課題をいかにして再開するか
Introduction:
How to Resume the Task of Tracing Associations


 「社会的」とは異質な要素がつながること

訳:ほとんどの社会科学者は「社会的」 (social) なるものを均質なもの (a homogeneous thing) とすることを好むだろうが、「社会的」ということばで異質の要素 (heterogeneous elements) の間のつながりの経路 (a trail of associations) を指すこともまったく可能だ。どちらの場合においても「社会的」ということばは同じ語源(ラテン語のsocius)を有しているのだから、社会科学の元々の直感的な理解に忠実に、社会学を「社会的なるものの科学」 (science of the social) ではなく、つながりをたどること (tracing of associations) と再定義することもできる。この意味において「社会的」とは、白羊の中にいる黒羊といったように、他のものの中にあるあるものを指すのではなくて、それ自身は社会的でないものの間の一種の結びつき (a type of connection) を指し示す。(5, 15)

補注:ラトゥールは、彼が批判する社会学を「社会的なるものの社会学」と呼び、自らが提唱する「つながりの社会学」 (sociology of association) と区別している。彼は後者の理論を、昔に採択した名前である「作用項-ネットワーク-理論」 (actor-network-theory) と呼んでいる[訳注1]。またラトゥールはこの理論の頭文字がANTとなり蟻を意味することを非常に喜んでいる。地面に張り付いたままその時々にさまざまな手がかりをもとに歩き回る様子に、自らの社会学における記述と似たものを見出しているからだ。(9, 21-22)

訳注1:この “actor-network-theory” は思い切って「作用項-ネットワーク-理論」と意訳した。私は原則として日本語として定着していないカタカナ語を使うのはできるだけ避けることにしているので、「アクターネットワーク理論」という訳語は使わなかったし、その他の用語でも「エージェンシー」といったカタカナ語は避けている。「作用項-ネットワーク-理論」という訳のポイントは、 この理論が全体として意味することを優先し、actorと理論的にはほぼ同義で、かつ汎用的な「作用項」(後に説明するactantの訳語)をactorの代りに使ったことである。社会学の専門家からは怒られるかもしれないが、私としては少しでもわかりやすい日本語を選んだ。


 社会科学者は行為者に何かを教えるのではなく、社会学者が行為者に学ぶ

訳:[社会科学者の]課題はもはや、何らかの秩序 (order) を上から与えたり、[社会科学的説明において]認められる対象 (entities) は何から何までという範囲を教えたり、行為者 (actors) は実は何であるのかを行為者自身に教えたり、行為者がやみくもに行っている実践に再帰性 (reflexivity) を付け加えたりすることではない。ANTのスローガンを使うなら、社会科学者は「行為者自身に従う」 (to follow the actors themselves) ことをしなければならない。行為者がしばしば行うとてつもなく革新的な行動 (wild innovation) に追いつき、行為者自身から以下のことを学ばなければならない―行為者はどのような集合的な存在 (collective existence) となり、そこに落ち着くまでにどんな方法を工夫し、そうやって確立せざるをえなかった新たなつながりをうまく定義するのはどのような報告か (which accounts could best define the new associations that they have been forced to establish) である。 (11-12, 27-28)



第一部
社会的世界についての論争をいかに展開するか
PART I
How to Deploy Controversies About the Social World


 行為者に理論を押しつけず、行為者がもっているさまざまな理論をまずは展開させる

訳:ANT  [=作用項-ネットワーク-理論] は、行為者が投げ込まれているあらゆる論争を行為者に展開させたの方が、秩序をうまく見つけられると考えている。あたかも行為者にこう言っているようである。「皆さんを訓練して、私たち [=社会科学者] のカテゴリーにうまく自分自身を当てはめさせるようなことはしません。皆さんそれぞれの世界を (your own worlds) 展開してください。その後で私たちは皆さんがどうやってそこに落ち着いたか説明してもらうように求めます」。― 社会的なるものを定義し秩序づけるという課題は行為者自身に委ねられるべきであり、分析者によって行われるべきではない。だから、何らかの秩序の感覚を取り戻すための最上の方法は、のように論争を鎮めるかを[社会科学者が]決めようとすることではなく、さまざまな論争のの結びつきをたどることである。 (23, 47)




第一の不確定性の発生源:
グループはなく、グループ形成のみがある
First Source of Uncertainty:
No Group, Only Group Formation


 「社会的」であることを普遍的に説明するようなグループはない

訳:私たちが学ぶべき第一の不確定性の発生源は、社会的な集合体 (social aggregates) を作り上げていると称するに適したグループ (relevant group) はなく、議論の余地なく出発点としてつかえる既に確立した構成要素 (established component) もないということである。 (29, 56)


 グループは、何がグループを構成しているのかという声によって形成されている

訳:グループとは物言わぬ対象 (silent things) ではなく、何がグループであり誰が何に関係しているかということに関する数多の相互矛盾する声 (contradictory voices) から生じる絶え間ない唸り (constant uproar) がとりあえず作り出しているもの (provisional product) である。(31, 62)


 グループ形成が止むことはない

訳:もし人々が祭りをやめたり新聞を発行することをやめたりするならば、グループ形成 (grouping) がなくなってしまうことになる。グループ形成とは、修復が必要な建物ではなく、継続 (continuation) を必要とする運動 (movement) なのである。ダンサーが動きを止めればダンスは終わる (If a dancer stops, the dance is finished)(37, 73)


 中間項と媒介項の違い

訳:私の用語法において中間項 (intermediary) とは、意味や力を変形させることなく移送する (transports meaning or force without transformation) するものである。[中間項においては] 入力 (inputs) を定義すれば出力 (outputs) が定義できる。実用上の目的からすれば、中間項は一つのブラックボックスとみなすことができる。たとえその内部には多くの部品があったとしてもである。他方、媒介項 (mediators) は、単に一つのものとして数えることができない。媒介項は一つとして数えられるかもしれないし、存在しないともされるかもしれないし、数多くあるとも、無数にあるともいえる。媒介項の入力で媒介項の出力を予測することはできない。私たちは媒介項の特定性 (specificity) を毎回考慮しなければならない。媒介項は、自らが担う意味や要素を変形し、翻訳し[訳注2]、歪曲し、修正する (transform, translate, distort, and modify)。中間項はいかに複雑 (complicated) [訳注3]であっても実用上の観点からすれば単に一つのものとして数えられるだろうし、あるいはないものとされるかもしれない。なぜなら中間項の存在は容易に忘れられるからである。媒介項の場合は、一見どんなに単純に見えても複合的 (complex) になるだろう。媒介項は多方向に発展し、それに帰属している相互矛盾的な報告のすべてを修正するかもしれない。正常に機能しているコンピューターは複雑な中間項の例であり、何気ない会話は媒介項のおそろしく複合的な連鎖 (complex chain) となるかもしれない。会話ではさまざまな情熱や意見や態度が、会話が展開するごとに分岐してゆくからである。 (39, 74)

訳注2:ラトゥールのいう翻訳 (translate) とは、やや特殊な概念で、後に第四の不確定性の発生源の章で説明される。

訳注3Complicatedcomplexについては、いつものようにルーマン系の翻訳慣行にしたがった。たとえば長岡 (2006, p.91) は「多くの場合、システム理論では、システムを構成している要素の数(ないしは異質性の程度)にかかわる事態を複雑性と呼び、要素間の関係の数(ないしは種類)にかかわる事態を複合性と呼んできた」と説明している。(長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房)


 社会的なるもの社会学は中間項を用い、つながりの社会学は媒介項を重視する

訳:社会的なるものの社会学の研究者は、ある一つの特定の種類の社会的集合体の存在を信じて、媒介項はほとんど想定せず、中間項を多く想定している。ANTにおいては、社会的集合体において好まれる種類は何もないが、媒介項は限りなく存在する。媒介項が忠実な中間項に変形されることがあっても、それはよくあることではなく珍しい例外であり、特別な努力でもって報告されるべきことである。そしてその報告においてはしばしばより多くの媒介項が動員される。 (40, 78)





第二の不確定性の発生源:
行為は行為者を越えている
Second Source of Uncertainty:
Action is Overtaken


 行為は行為者の意識が開始し終結させるものではない

訳:行為は意識の完全な管理下においてなされるものではない (Action is not done under the full control of consciousness)。行為は、作用起因性の驚くべき集合の結節点、結び目、団塊として感じられるべきものであり、それは少しずつ解きほぐされてゆかねばならない (action should rather be felt as a node, a knot, and a conglomerate of many surprising sets of agencies that have to be slowly disentangled)。行為とは、私たちが行為者-ネットワーク (actor-network) という奇異な表現で再び活性化させたい不確定性の古来の発生源である。 (44, 84)
補注:アレントの「行為」 (Handeln) に関しては以下の記事をご参照ください。ラトゥールの考えに通じるようなことを、彼女は複数性と複合性の観点から述べていると私は理解しています。
アレントの行為論 --『活動的生』より


 行為者とは、多くの他のものによって行為するように仕向けられたものである (An actor is what is made to act by many others)

訳:ハイフンで結ばれた “actor-network” という表現における “actor” とは、行為の発生源 (source) ではなく、行為に向かって群がる対象の一連なりであり、しかもそれは動いている (the moving target of a vast array of entities swarming toward it) “Actor” の多元性 (multiplicity) を引き出すためのもっとも簡単な解決法は、これまで私が無害な代替記号として使ってきたこのことばに込められた比喩を再活性化することである。(中略)[「役者」の意味をもつ] “actor” という語を使うことが意味しているのは、私たちが行為するときは、誰がそして何が行為しているかが決して明らかではないということである。なぜなら舞台上の役者は行為[=演技]において決して一人ではないからである。劇中の行為[という比喩]で、行為を行っているのは誰なのだという問いが底知れない (unfathomable) 問いとなってしまう困惑 (imbroglio) に私たちは捉えられてしまう。劇が始まるやいなや、アーヴィング・ゴフマンがしばしば示したように、何もかもが確かでなくなる。―これは本物なのか、偽物なのか。観客の反応も勘定に入るのか。照明はどうだろう。裏方は何をしているのか。劇作家のメッセージは忠実に伝えられたのか、それとも無残なほどに伝えられなかったのか。主要登場人物は印象に残ったのか [“is carried over ― この訳には自信がありません]、もしそうだとしたらそれは何によって。共演者は何をしているか。プロンプターはどこにあるのか。― もし私たちがこの比喩を展開することに同意するなら、 “actor” ということば自体が、私たちの注意を、行為のまったき非局在性 (a complete dislocation of the action) に向けることになる。行為は一貫し、管理され、整然として、境界がはっきりした事態 (a coherent, controlled, well-rounded, and clean-edged affair) ではないということを警告してくれる。定義上、行為は非局在化されているのだ (action is dislocated)。行為は、借りてこられたものであり、分散され、示唆され、影響を受け、支配され、裏切られ、翻訳されている (Action is borrowed, distributed, suggested, influenced, dominated, betrayed, translated.)。もしactoractor-networkであると言えるのなら、それが表現しているのは行為の起源をめぐる不確定性の大いなる発生源である。 “Network” の語については後に述べる。 (46, 89)


 作用起因性の第一の特徴:作用起因性は報告によって表れる

訳:第一に、作用起因性[訳注4]は常に報告において何かを行うものとして提示される (presented in an account as doing something)。つまり、事態に何かの違いをもたらし、Cという試みを通じてABに変形しするものである。報告や試みや違いや変形がないところで、作用起因性について意味ある論証をすることはできない。検知可能な参照枠もありえない。目に見えず、違いももたらさず、変形も引き起こさず、痕跡も残さず報告にも現れない作用起因性は作用起因性ではない。これに関しては議論の余地はない。 (52-53, 101)

訳注4:ここでもカタカナ語を嫌って “agency” を「作用起因性」と訳した(私の日本語理解では「エージェンシー」と言われても正直何のことかよくわからない)。この語はしばしば「行為主体性」と翻訳されるが、そうすると後に述べるように、この概念を人間以外の対象に帰属させることが語感上難しくなる。そこで「行為」ではなく「作用」を、「主体性」ではなく「起因性」を訳語に使った。


 作用起因性の第二の特徴:作用起因性にはさまざまな形象が与えられる

訳:第二に、作用起因性とその形象化 (figuration) を区別しなければならない。行為を行っているものは、報告において常に、どんなに曖昧であれ何らかの形と姿が与えられる肉体や特徴が与えられている。(53, 102) (中略) ANTは、文学研究に由来する作用項 (actant) [訳注5]という専門用語を使う。同じ作用項に形象を与えるのにも四つのやり方がある。「帝国主義が単独行動主義にむかう」、「アメリカ合衆国が国連脱退を望んでいる」「ジョージ・W・ブッシュ大統領が国連脱退を望んでいる」、「米国陸軍の多くの士官と数十人のネオコン的指導者が国連からの脱退を求めている」の四つである。最初の作用項は構造的な特徴、二番目は組織体、三番目は個人、最後は個々人のゆるやかな集合体である。これらの差はもちろん、報告において大きな違いを生み出す。しかし四つのどれがより「現実的」「具体的」「抽象的」もしくは「人工的」であるかということには差はない。どれも異なるグループの確定 (entrenchment) を導き、グループ形成に関する第一の不確定性を解消するのに役立っているだけである。ANTがさまざまな形象化をするからといって難解だと怖れられるべきではない。観念的であれ、技術的であれ、生物的であれ、形態化は形態化である。これは作用項を一人の人間に具現化するのとまったく同じである。(ideo-, or techno-, or bio-morphisms are ‘morphism’ just as much as the incarnation of some actant into a single individual) (54, 102-104)

訳注5Actantという用語は、理論的にはactorよりも中立的で、ANTの意味をうまく伝えると考えたので、ANT (actor-network-theory) の訳を私は前述のように「作用項-ネットワーク-理論」とした。実際、ラトゥールも自らの「つながりの社会学」を ‘actant-rhyzome ontology’と呼ぶことも可能であると述べている(他の呼び方として、 ‘associology,’ ‘sociology of translation,’ ‘sociology of innovation’も提示されている)。 (9, 22)

 作用起因性の第三の特徴:行為者は他の作用起因性を批判し否定しようとする

訳:第三に、行為者は自分以外の作用起因性を批判することにも関わっており、それらは、偽物、古すぎる、馬鹿げている、非合理的である、人工的である、妄想であるなどと非難される。 (56, 106)


 作用起因性の第四の特徴:行為者は自らの行為理論を提示する

訳:第四に、行為者は自らの作用起因性の効果がいかにして及ぶのかを説明するために、独自の行為理論 (theories of action) を提示することもする。


 いかにして、誰かに何かをさせるか (How to make someone do something)

訳:もし私たちがこの第二の不確定性の発生源を受け入れるなら、社会学は誰かに何かをさせる (making someone do something) 場合に必ず考えなければならない非局在性を大切に扱う学問分野となる。しかし、ほとんどの行為理論においてこのような非局在性は見られない。なぜなら第二項は第一項によって予測されるからだ。「原因を与えてくれれば私は必ず結果を生み出す」というわけである。しかし二つの項が媒介項としてとらえられるとこのようにはいかない。[たしかに]中間項なら入力が出力をうまく予測するから謎はない。原因になかったものが結果に表れることはない。[だが]この一見科学的な語り方は常に問題を伴っている。もし本当に入力が出力を予測するのなら、結果は無視して原因にだけ注目する方がいいことになる。原因こそは、すべての興味深いことが生じるところだからだ(少なくとも潜在的には)。しかし、媒介項の場合、状況は異なる。原因は、単に機会・境遇・先行項 (occasions, circumstances, and precedents) を提供するものとなり、結果を演繹するものとはならない。その結果、多くの驚くべき別異項 (aliens) が合間に現れてくる。(58-59, 112)


 人形遣いは一方的に人形を操っているわけではない

訳:操り人形は一見、ただ糸の動きに従うという、もっとも明白な直接的因果性を示すものように思われているが、人形遣いが人形を完全にコントロールすることは稀である。 (puppeteers will rarely behave as having total control over their puppets) 人形遣いはしばしば「人形が、自分では思いもよらなかったことをするように提案してくる」 (their marionettes suggest them to do things they will have never thought possible by themselves) といった奇妙なことを口走る。ある力が他を操作しているからといって、その力が結果を生み出している原因であるというわけではない。その力は、他のものが行為を開始する機会でもある。 (When a force manipulates another, it does not mean that it is a cause generating the effects; it can also be an occasion for other things to start acting). (中略)誰が糸を引いているのだろう。人形遣いが引いているのだが、実は人形も引いている。だからといって人形が人形使いをコントロールしているわけではない。それは因果性の順序を単に逆にしただけだろう。もちろん弁証法を持ち出して問題が解決するわけでもない。この事例が意味していることは単に、この時点での興味深い問いは、誰がどのようにして行為しているのかを決めること (who is acting and how) ではなく、行為の確定性から行為の不確定性に移行し、何がどのように作用しているかを決める (to decide what is acting and how) [訳注6]ことである。作用起因性に関する不確定性のすべての領域を開放するなら、私たちはすぐに社会科学が始まる際に存在していた強力な直感を回復するであろう。(59-60, 114)

訳注6:同じ原語には同じ訳語を与えたいところではあるが、ここではwho/whatの対立を明確にするためactingを行為している/作用していると訳し分けた。この訳し分けは、他の数多くの翻訳と同様、本書の翻訳者の伊藤嘉高先生に倣ったものである。なおANTを「作用項-ネットワーク-理論」と訳す場合には、「作用」を広い意味で取り、人間による行為と人間以外の物体の作用の両方を意味することばとして使っている。


行為は分析者にとっても行為者にとっても謎である

訳:もし行為が局在的なものではないのなら、行為はどの場所にも関係ない。行為は分散され、多様な姿を表し、多元的で、非局在的であり、分析者にとっても行為者にとっても謎である。 (if action is dislocal, it does not pertain to any specific site; it is distributed, variegated, multiple, dislocated and remains a puzzle for the analysts as well as for the actors). (60, 115)



第三の不確定性の発生源:
客体にも作用起因性がある
Third Source of Uncertainty:
Objects too Have Agency

事態に違いを生み出すものはすべて行為者である

訳:これまで客体 (objects) に何ら役割が与えられなかったのは、社会学者が使ってきた「社会的なるもの」の定義だけによるものではなく、これまでもっとも選ばれてきた行為者や作用起因の定義によるものでもある。もし行為が予め (a priori) 「志向的」 (intentional) で「意味に充ちた」 (meaningful) 人間が行うことだけに限られているのなら、ハンマー、バスケット、ドアの鍵、猫、敷物、リストもしくはタグなどがいかにして行為するのかを観察する (see) のは困難だろう。これらは「物質的」 (material) で「因果的」 (causal) な関係の領域に存在しているものであり、社会的関係 (social relations)の「再帰的」 (reflexive) で「象徴的」 (symbolic)な領域に存在するものではないと考えられる。これに対して、もし私たちが行為者と作用起因に関する論争から出発するという決意を守るならば、違いを生み出すことで事態に修正を加えるどんなもの (any thing) も行為者ということになる―もしくは、もしそれが形象化を経ていないなら、作用項ということになる。したがって、行為者ついて問うべきは単にこれだけである。― 他の行為者の行為の成り行きに違いを生み出すか (make a difference in the course of some other agent’s action) 。誰かにその違いを見いださせるような試み (some trial that allows someone to detect this difference) があるか、ということである。(71, 134)




第四の不確定性の発生源:
事実事項と懸案事項
Fourth Source of Uncertainty:
Matters of Fact vs. Matters of Concern

 移送と変形

訳:これらの行為者がどのように結びついているかを私たちはまだ知らない。しかし、私たちが展開 (deploy) するすべての行為者は、他のものに何かをさせる (make others do things) ようにつなげられる (be associated) ということを私たちは研究を始める前の新たな基本設定として述べることはできる。これは、ある力 (a force) を何らかの忠実な中間項として終始同じ (same) に保ちながら移送する (transport) することによってはなされない。これが可能になるのは、変形 (transformation) を生み出すことによる。変形は多くの予期しない出来事 (unexpected events) において明らかになるが、それらの出来事はその後に続く (follow) 他の媒介項によって引き起こされたものである。これが「非還元の原則」 (principle of irreduction) と私が名づけたものであり、ANTの哲学的な意味である。媒介項が連鎖していても、同じ結びつきの痕跡を残すわけでもないし、原因を移送する中間項としてつながっているという[中間項と]同じ種類の説明を要求するわけでもない。(a concatenation of mediators does not trace the same connections and does not require the same type of explanations as a retinue of intermediaries transporting a cause) (107, 201)


 二つの媒介項を共存させる関係としての翻訳

訳:「翻訳」(translation) ということばは、こうしてやや特殊な意味を担うようになる。翻訳とは、因果性を移送 (transport causality) せずに二つの媒介項を共存するように仕向ける (induces two mediators into coexisting) する関係である。(中略)今、私はこのつながりの社会学のねらい (aim) をより正確に述べることができる。社会も、社会的領域も、社会的紐帯もない (there is no society, no social realm, and no social ties)存在しているのは跡をたどることができるつながりを生み出すかもしれない媒介項間の翻訳だけである(but there exist translations between mediators that may generate traceable associations) (108, 203-204)


 事実事項とは区別される懸案事項

訳:事実事項 (matters of fact) ではなく、私が懸案事項 (matters of concern) と呼ぶ概念を導入することで流れは変わる。懸案事項は非常に不確定的であり激しく議論されている (disputed) が、実在的 (real) で、客観的 (objective) で、非典型的 (atypical) で、とりわけ興味を引く (interesting) 作用起因性である。厳密に言うならこれらは客体というよりはむしろ集めるもの (gathering) [訳注7]として捉えられる。(114, 216)

訳注7:この「集めるもの」 (gathering) について、ラトゥールはハイデッガーの『技術への問い』を参照することを脚注で求めている。私はこの本を未読なので、この語―翻訳書の翻訳をそのまま使いました―の含意は残念ながらわかっていません。


 実在的ではあっても、統一的ではなくさまざまな議論を許す事項はある

訳:そのような多元性 (multiplicity)[=多くの科学概念が複数の解釈を許すこと]は、科学者は自分たちが何をやっているかわかっていないとか、すべてはたんなる虚構 (fiction) であるとかいうことを意味しているわけではない。多元性が意味しているのは、科学論 (science studies) において、「自然界の客体的事実事項」 (natural objective matters of facts) という既成概念が慌てていっしょくたにしてしまった (conflate) こと、すなわち、実在性 (reality)、統一性 (unity)、そして議論の余地のなさ(indisputability) を引き離すことができるようになったということである。実在性を追求すれば、自動的に統一性と議論の余地のなさを得られるわけではない。これは、「同じ」とされた物事 (the ‘same’ thing) について多元的な視点 (multiple points of view) を取ることで得られる「解釈上の柔軟性」 (interpretive flexibility) とは無関係である。多元的に展開できるのは物事自体であり (it is the thing itself that has been allowed to be deployed as multiple) 、物事自体が、異なる視点からの把握を許し、しかるのちに統一を求める[科学者の]集団 (the collective) [訳注8]の 力でもって[異なる視点は]統一されるかもしれない。ウィリアム・ジェームズの表現を借りるなら、多元宇宙 (pluriverse) には、これまで哲学者や科学者が想定していたよりもたくさんの作用起因性があるのである。 (116, 219-220)

訳注8:私はまだラトゥールが “collective” という用語で何を意味しているのか正確にはまだよくわかっていません。




第五の不確定性の発生源:
間違うリスクを負った報告を書く
Fifth Source of Uncertainty:
Writing Down Risky Accounts


 客体に関する反論の余地を残すことにより客観的であることを目指す

訳:問題は、客観的テクスト (objective texts) を主観的(subjective) テクストと対置するということではない。自分たちが自然科学の秘密だと信じていることを真似ることで客観的であるふりをしているテクストもあれば、言われていることに反論する (to object) 機会が与えられた客体 (objects) を追いかけることによって客観的 (objective) になろうとしているテクストもある。ANTは、科学であるということが意味すること、および社会的であるということが意味することを刷新することを主張しているので、客観的 (objective) な報告であるということの意味も刷新する。客観的な報告とは、「客体化」を求める冷血で無関心な主張 (cold, disinterested claims to ‘objectification’) を伴う伝統的な意味での事実事項―を意味しない。客観的な報告が意味するのは、懸念事項についての、血が通い関心をもった論争が積み上げられる場である (warm, interested, controversial building sites of matters of concern)。客体性 (objectivity) はしたがって二つの方法で獲得することができる。一つの方法は、観察される客体がないのに客観主義者的なスタイル (objectivist style) を取ることである。もう一つの方法は、客観主義者的なジャンルのパロディを試みることなしに、反論項 (objectors) を多く提示することである。[訳注8(125, 235-236)

訳注8:あきらかにここでラトゥールは、objectおよびその派生形の多義性を活かした議論を展開しているが、それを忠実に日本語にすることはできない。


 正確かつ真実に基づいている「テクストによる報告」

訳:テクストによる報告 (textual accounts) において「テクストによる」 (textual) ということばを前面に出すことは危険である。というのも、科学論や記号論 (semiotics) を知らない人々にとって、テクストとは単なる「ストーリー」 (stories) さらには「単なるお話」 (just stories) と理解されてしまっているからだ。そのように無関心な (blasé) 態度に抗して、私は「テクストによる報告」という表現を、正確であること (accuracy) と真実に基づいていること (truthfulness) の問題を脇に置かないテクストを意味するために使うことにする。 (126, 238)

補注:このあたりのテクストの考え方は、歴史家のヘイドン・ホワイトの考え方に重なる。

Hayden White (1980) The Value of Narrativity in the Representation of Realityの抄訳

ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店
Hayden White (2014) The Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.


 よい報告とは、一連の行為が媒介項としてのさまざまな行為者によってなされるさまを描くものである

訳:私はよい報告を、ネットワークをたどる (trace a network) 報告と定義する。
 このネットワークということばで意味するのは、それぞれの参加項 (participant) [訳注9]が十分な媒介項として扱われている一連の行為である (a string of actions where each participant is treated as a full-blown mediator)。ごく簡単に述べるなら、よいANT報告とは、すべての行為者がただそこにいるだけではなく、何かを行っている (do something) 語り (narrative) もしくは記述 (description) である。結果を変形させることなしに移送する代わりに、テクストのすべてのポイントは分岐点 (bifurcation)、出来事 (event)、もしくは新たな翻訳の起源となりうる。行為者が中間項としてではなく媒介項として扱われると、行為者は社会的なるものの運動 (the movement of the social) を読者に対して可視化する。したがって、数多くのテクスト上の創意工夫 (textual inventions) によって、社会的なるものは再び循環する対象 (circulating entity) となり、かつては社会の一部として通っていた淀んだ組み合わせから構成されているものではなくなる。私たちが定義する社会科学におけるテクストとはしたがって、筆者がどれだけ多くの行為者を媒介項として取り扱い、どれだけ社会的なるものを書き上げることができるかのテストである。(A text, in our definition of social science, is thus a test on how many actors the writer is able to treat as mediators and how far he or she is able to achieve the social.)  (128-129, 243)

訳注9: 参加項 (participant) を、ラトゥールは、形象化 (figuration) される前の行為者として定義している。(71, 135)


 ネットワークとは、テクストが行為者の客体的なつながりを示していることである

訳:したがって、ネットワークとは、そのあたりにある、電話や高速道路や下水の「ネットワーク」のように互いに結びついた点の集まりの形態を指しているわけではいない。ネットワークとは、手元にある話題についてのテクストの質を示す指標 (an indicator of the quality of a text) に他ならない。ネットワークは、ネットワークの客体性 (objectivity) を質的に保証する (qualify) 。ここでいう客体性とは、それぞれの行為者が、他の行為者に意外なことをさせる能力である (the ability of each actor to make other actors do unexpected things)。よいテクストは、翻訳と定義される多くの関係性の跡をたどることを筆者に許し、行為者のネットワークを引き出す (elicits networks of actors when it allows the writer to trace a set of relations defined as so many translations)


 よいテクストは、読者にもっと細部を知りたがらせる

訳:よいテクストはよい読者にこのような反応を引き起こすだろう―「もっと、細部を知らせてくれ。もっと細かいところが知りたい」 (Please, more details, I want more details)。神は細部に宿るが、その他全てのものも―悪魔も―細部に宿る[訳注10]。社会的なるものの重要な特徴は具体的であることである (It’s the very character of the social to be specific) 。大切なのは還元ではなく、非還元である(The name of the game is not reduction, but irreduction)

訳注10:ここでの悪魔 (the Devil) とは、その報告が誤りであることを示す具体的記述ぐらいの意味で解釈している。


追記(2022/04/08)
上では "action" を「行為」以外に「作用」とも訳していますが、後者の代わりに「作動」という訳語の方がよいかとも思えてきました。"Actor" も「作動項」と訳し、"actor-network-theory" を「作動項ネットーワーク理論」と訳すこともできます。
  もっとも "interaction" は通常「相互作用」と約されていますので「作用」という訳語にも良さはありますので悩むところです。(「相互的作動」という訳語は、やり過ぎでしょうか?)






***以下、柳瀬によるANTのまとめ***


■ 前提

社会的 (social) であるということ:「社会的」であるというのは、同質な複数の者が何らかの本質的特徴を共有しているということではなく、異質な複数の者が互いにつながりあい影響関係を結ぶということである。

社会科学者 (social scientists) の務め:社会科学者はもはや自分たちが作り出したカテゴリーを単純に人々に当てはめることを止め、人々(およびその人々が利用している事物)がどのようなつながりをもっているか、およびその人々が自分たちの行為についてどのように語っているかを謙虚に調べるべきである。


■ 用語

行為者 (actor) :伝統的に行為の主体として考えられてきた存在。多くの社会学においては、行為者を意識・意志・意味を有する人間のみに限定しているが、作用項-ネットワーク-理論では人間以外の存在も行為者として認める。この意味で「行為者」という用語を使い続けるのは誤解を招きやすいので、私(柳瀬)は、原則として「行為者」の代りに、ラトゥールが時折使う「作用項」 (actant) を使って説明する。

作用項 (actant):他のものに何らかの影響を与えるもの。人間であるかないかを問わない。グレマス(『構造意味論』)に由来する専門用語。

ネットワーク (network):作用項の相互影響関係を描く記述、ひいては理論。

作用項-ネットワーク-理論 (actor-network-theory) :ある「行為」を引き起こしたとされる行為者は、実は単独で存在しているのではなく、「行為」とは、複数の作用項がネットワークとしてつながっている中から生じているのだということを具体的に記述する理論。私は理論的な意味が伝わることを最優先して、「アクターネットワーク理論」とも「行為者ネットワーク理論」とも訳さず、あえて用語を入れ替えて「作用項-ネットワーク-理論」と訳している。

行為 (action):他のものに何かの影響を与える出来事。通常、人間がその出来事を生じさせたと考えられる場合には「行為」、人間以外のものが生じさせたと考えられる場合には「作用」と呼ばれる(狭い意味での「作用」)。ただし、広い意味で「作用」という語を使う場合は、人間による(とされる)「行為」とモノによる(とされる)「作用」(狭義)の両方を指す。

中間項 (intermediary):中間項とはAからBへ、C(例えば意味や力)を変形させることなくそのまま伝えるABの間に存在する項である。中間項への入力がわかればその出力はわかる。中間項の内部は複雑かもしれないが、ネットワークの観点からすれば中間項は一つのブラックボックスと見てさしつかえない。

媒介項 (mediator):媒介項とはAからBCを伝える際に、Cを変形させてしまう項であり、その変形具合が予想できないという意味で複合的である。作用項-ネットワーク-理論では媒介項の働きを重視する。

作用起因性 (agency):作用起因性は、ある作用を引き起こす契機の一つとして考えられている性質。作用起因性は、主体としての人間だけでなく客体としてのモノにも認められる。作用起因性はそれを説明する報告によってその存在が認められるものであり、その報告において、作用起因性にはさまざまな形象が与えられる(擬人化・擬観念化・擬機械化など)。ある報告における作用起因性は、自らの行為理論を提示し、他の報告における別種の作用起因性を批判し否定しようとするかもしれない。

翻訳 (translation) :二つの媒介項を共存させるつながり。このつながりにおいては、意味や力などが単純に移送されることはなく、それらは何らかの変形を受ける。


■ 五つの不確定性

(1) グループ (group) に関する不確定性:時空を超えて存在し続ける確固たるグループなどというものはなく、絶えずグループ形成の営みが続いているだけである。その営みには、何がグループで何がグループでないかといった語りも含まれる。

(2) 行為 (action) に関する不確定性:行為は行為者の意識から開始されるものではない。行為は、他のものに予測不可能な変化を促す媒介項としての多くの作用項が結びついたネットワークの中において生じる。つまり、行為の始源は非局在的であり分散している。数多くの始源が互いに影響を与えあっているわけである。この意味で、行為は分析者にとっても行為者自身にとっても謎であるように見える。作用項-ネットワーク-理論は、行為を生み出すこの作用項-ネットワークをできるだけ丁寧に記述しようとする理論である。

(3) 作用起因性 (agency) に関する不確定性:作用起因性は、あるものが他のものに違いをもたらしているならば、どんなものにも認めることができる。

(4) 懸念事項 (matters of concern) に関する不確定性:実在的、客観的でありながら、その作用起因性において不確定的で議論を呼んでいる事項。懸念事項は、一つの対象に対して複数存在する。これらは科学が進展するにつれ統一的に説明されるようになるかもしれないが、物理的な実在性が認められたからといって、それが自動的に議論の余地のない統一理論につながっているわけではない。

(5) テクストによる報告 (textual account) に関する不確定性:作用項-ネットワーク-理論は、テクストによる報告で記述を行う。記述は、さまざまな作用項の作用起因性のつながりを描き出す。そこでの客観性は、記述が間違っている可能性を示すことができるような反論項 (objector) を多く提示することによって担保される。具体的な記述をすればするほど、反論の余地は多くなるだろうから、客観性を目指す報告は、詳細な記述を心がける。作用項-ネットワーク-理論におけるテクストとは、単なるお話でも虚構でもなく、正確さと真実性を重んじる記述である。


*****











2019/07/17

ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ


 以下は、ある本の章のために書いた文章ですが、分量が多くなったため削除せざるをえませんでした。しかし捨て去るにはしのびありませんし、その本が完成された折にはURLを示してこの文章をやや長めの脚注として呼んでもらおうと思い、ここにその文章を掲載します。

 ただしルーマンの概念については、いつものように私の誤解を怖れます。なにせ物事を徹底的に考え抜いた学者ですから、私の単純化が彼の精密な意図を裏切ることもありえます。識者の方のご批判は謙虚に受け止めますので、もし何かありましたらこちらにご連絡いただけたら幸いです。

関連記事(旧ブログ)
ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identität - was oder wie? より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html

参考文献
柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93. https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

*****


 多元的な客観性を得る方法は複数の人間を関与させるだけにとどまりません。多元的客観性を担保する原理的な方法として、ここではドイツの理論社会学者のルーマンが提唱する「二次観察」(Beobachtung zweiter Ordnung / second-order observation) を紹介しましょう。二次観察は、ある対象Xに対する観察があった場合、その観察を一次観察として、そのXに対する一次観察を観察対象とする観察です。いわば観察の観察といえるでしょう。

 Luhmann (2002, 2009)で解説されている二次観察は、図1のように表現することができます。



1:二次観察(柳瀬 (2017)の図を改変)

二次観察者は、以下の4つを観察 (sehen/see) しています。(i) 一次観察の観察対象、(ii) 一次観察の観察様式、(iii) 一次観察が観察しえていない対象、(iv) 一次観察者が(iii)を観察していないということをわかっていないこと、です。

  二次観察は、ある対象Xを観察する2つ目の一次観察ではありません。新たな一次観察でしたら、Xをもう一度観察するだけです。1人目の一次観察者が「XAだ」と自分の観察結果を主張すれば、2人目の一次観察者は「XBだ」と異なる主張をするかもしれません。「それなら他の人を呼んでこよう」と3人目を連れてきても、その人がさらに一次観察を重ねるだけでしたら、観察結果は単なる多数決でその正しさが決まるか、「人の数だけ事実がある」といった悪しき相対主義 (“anything goes”) になるだけでしょう。

 しかし、もし2人目の観察者が二次観察をするのでしたら事態は変わってきます。二次観察者は四種類の観察をして一次観察者にこう言うかもしれません。(i)「なるほど、あなたはXを見てAだと判断したわけですね」、(ii)「その際、あなたはαという観点から観察をされました」、(iii)「ですが、その観点からではBという側面が見えていません」、(iv)「そしてあなたは、Bが見えていないことを自覚できていないのではありませんか」というわけです。

 先程は「XBだ」と結論づけた2人目の一次観察者を登場させましたが、その一次観察者は「Aだ」と判断した一次観察者の観察様式αとは異なる観察方法βを取っていたからこそ「B」と主張したのかもしれません。しかし2つの一次観察を両論併記するだけでは、それぞれの観察様式が異なり、それぞれに見えていない無知があり、さらにそれぞれは自分の無知を認識できないわけですから、2人はお互いを愚かと思うだけで2人の間に建設的な対話は期待できないかもしれません。

 その点、2人目が二次観察をするのでしたら、最初の一次観察者は自らの観察の限界を知ることができます。これも客観性です。また、二次観察者は一次観察者と同じでもかまわないというのも重要なことです。ある時にある対象Xに対してAと判断した一次観察があった場合、もう一度Xを観察(2回目の一次観察)するだけでしたら「やっぱりXA」と確信度を高めるだけでしょうが、2回目の観察を、一次観察全体を観察対象にする二次観察にしたならば、その人は自分の観察の限界を自覚し、別種の観察による異なる観察結果についても謙虚に知ろうとするなど客観性を高めることができるでしょう。

 しかし、この二次観察は最終判断ではないことを忘れてはいけません。二次観察は、それ自身としては一次観察に過ぎず、それ自体が別の二次観察の対象となりえます。二次観察にも限界があり、それはその二次観察を一次観察として扱う新たな二次観察によって明らかになります。図2をごらんください。


2:一次観察としての二次観察

 二次観察も1つの観察に過ぎない以上、そこには限界があります。図4の黒色で表示されている観察を二次観察している観察者(図をあまり複雑にしたくないので、その二次観察者は読者であるあなたにしましょう)には、黒色の観察の特徴が見えてきます。あなたはこう言うことができるでしょう。 (i’)「この黒色観察は、たしかに灰色観察を観察し、その観察について(上述の)4つのことを結論づけています」、しかし(ii’) 「黒色観察者の観察方法もある特定のものであり、唯一絶対のものではありません」、なぜなら (iii’) 「黒色観察では (iii’) の部分が見えてない」からです。そして (iv’) 「黒色観察者は (iii’) が見えていないことがわかっていません」。

 もちろんこの二番目の二次観察も、それ自体は一次観察であり、他の二次観察の対象になります。ですから、その新たな二次観察を「三次観察」などと呼ぶ必要はありません。そうすればさらに「四次」「五次」・・・と級数が無限に増えてしまうだけです。そして級数が上がればそれだけ万全な観察であるわけでもないわけですから、用語は一次観察と二次観察だけで十分です。これがルーマンの二次観察の考え方です。



2019/06/27

『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―(中国地区英語教育学会発表用のスライドと配布資料と発表音声)


以下の学会口頭発表のスライドと配布資料をここに公開します。
追記(2019/07/01):口頭発表の音声もダウンロードできるようにしました。

日程:2019年6月29日(土)
場所:広島大学教育学部
名称:第50回中国地区英語教育学会・研究発表会
発表者:柳瀬陽介
タイトル:『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―
発表時刻:15:25-15:55
発表会場:第5室(K114)

当日投影スライド
パワーポイント版


PDF版


当日配布資料
PDF版


学会発表音声
(MP3)



以下は、当日配布資料の内容のコピーです。ご興味のある方はお越しいただけたら幸いです。


『学び合い』における コミュニケーション観の転換
 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―

柳瀬陽介 
(京都大学 国際高等教育院)

1 はじめに
1.1 対話的・主体的・深い学び:コミュニケーションを教える英語科教員は先導的であるべき
1.2 対話的身体仮説:対話を促す教師は一定の身振りを多用しているのでは?
1.3 対話的身体仮説の修正:『学び合い』の教師はほとんど「身振り」を示さなかった
1.3.1 「身振り」(gesture) というより「態度」(manner) において特徴的だった
1.4 本研究の研究課題:『学び合い』実践を具体的起点として、コミュニケーションについて理論的考察をすることにより、学校教育観についての新たな洞察を得る。

2.『学び合い』におけるコミュニケーション
2.1 『学び合い』とは:教師が一斉説明を極力抑えるが、学習者間での活動や話し合いについては具体的に指示する一般的な「学び合い」よりも一歩進み、 学習者の活動や話し合いに関する指示も極力抑えて、学習者の主体的な対話と学びをさらに引き出す実践
2.2 『学び合い』の学校観・子ども観・授業観
2.3 『学び合い』の根本信念:「教師が」ではなく「みんなが」、「一人も見捨てない」
2.4 学びの主体についての考え方の転換:学校教育を、教師自身を含めた学級構成員が学びの共同体として育つ営みととらえる。←問1:しかし、共同体を「主体」として捉えるべきか?

3.中動態的な発話とコミュニケーションのオートポイエーシス
3.1 発話は中動態的な営み:中動態では、何かを「する/される」ではなく、何かが「起こる」
能動態:動詞は主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す。 例:「私はXを曲げた」
中動態:動詞は主語が過程の内部にある過程を指し示す(バンヴェニスト)。あるいは、「動作が行為者を去らずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの」(細江逸記) 例:「私は反省した」「私はXに惚れた/惚れてしまった」
←問2:自然で自発的・即興的な発話(「私は(思わず)X と言った」)は能動態と中動態のどちらで解釈するべきか?(現象学的分析)
主語を「コミュニケーション共同体」とした上で中動態的に考えると、整合的な解釈は可能になる(コミュニケーション共同体における発話はコミュニケーション共同体自身に反照する)。だが、問1が残る。
3.2 互いにケアする共同体:「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れること。「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは中動態で語られるべき。しかしまだ残る問1。
3.3 「主体」という虚構:「主体」は制度的事実ではあるが自然科学的事実ではない。主体概念の使用の短所が明白な場合は、使用を控えるべき(依存症や学習者の沈黙など)。主体概念を共同体に適用するのは危険(「学級王国」や「共同体の意思」)
3.4 コミュニケーションのオートポイエーシス:コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションだけである。意識とコミュニケーションはそれぞれに自己生成するオートポイエーシスシステムであり、両者は互いに触発する関係にあるが、根本的には独立した別々のシステムである。

4 学校教育観の変革
4.1 コミュニケーション観の刷新:コミュニケーションに関する一見自己循環的な命題の理解は重要
4.2 学校教育観の刷新:ケアというコミュニケーションがやがては学びのコミュニケーションを生み出す
4.3 英語教育への示唆: 学習者がさせられる半強制的な発話は、一見「能動的」に見えるが、 実は教師の権力に「受動的」に反応しているだけであり、スピノザ的な意味での「能動」は示していない

2019/06/20

意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ




この記事も、前の記事 https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/2019.html と同じように、学会発表のために慌ててつくった「お勉強」ノートです。ルーマンの英語翻訳の一部を、オリジナルのドイツ語論文と照らし合わせながら翻訳しました。

Niklas Luhmann (2002). How can the mind participate in communication? Translated by W. Whobrey. In W. Rasch (Ed.) Theories of distinction: Redescribing the description of modernity (pp. 169-184). Stanford University Press. 
Niklas Luhmann (2008). Wie ist Bewußtsein an Kommunikation beteiligt? In Niklas Luhmann Soziologische Aufklärung 6: Die Soziologie und der Mensch. 3. Auflage. Heidelberg: VS Verlag für Sozialwissenschaften.


以下の構成は、私のつけた小見出し()に続いて、翻訳(および脚注(※))、そして蛇足コメント()となっております。[ ]は私なりに前後の文脈から補った箇所です。( )内の二つの数字は、最初がドイツ語文献、次が英語文献のページ数です。

私のドイツ語力は低いので、高校一年生が大学院で使われている英語論文を読むような基本的な間違いをしていないか恐れます。また、自分なりに納得できる日本語翻訳を目指しましたが、まだまだ「ルーマン語」で通常の日本語読者には意味不明の箇所も多いかと思います。今回の翻訳を通じて考えたことを、今後時間をかけて日常的な日本語にするのが私の課題です。




 意識がコミュニケーションに「関与」しているということはどういうことか?

 意識 (das Bewußtstein; the mind) がコミュニケーションに関与 (beteiligen; participate) することは議論の余地のないことのように思える。なぜなら意識がなければコミュニケーションはありえないからだ。物質の分子組織がなければ生命もありえないのと同じことである。しかしこの場合の関与とはどういうことだろう。(38, 170)

 この論文は、私たちが自明に思っている「意識はコミュニケーションに関与している」という考えを問い直すこと。結論から言うと、ルーマンは、両者は互いを触発しているが、基本的には別のシステムであり、それぞれがそれぞれに発展している自己生成(オートポイエーシス)システムである、ということ。

 そのようなことを考えることの意味は何かと問われるなら、一つの答えは、例えば教師が教室内でコミュニケーションを育もうとする際に、生徒個々人の意識に訴え、個々人をあまりに意識的にさせてしまうことは有効ではないのではないかといったことについて考えるためというもの。例えば「よく考えて発言しよう」、「勇気をもって間違いを恐れずに発言しよう」といった指示は、コミュニケーションにとっての前提ではあっても、コミュニケーションそのものではない個人の意識を肥大させてしまうかもしれない。

「コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションであり、教師は教室でコミュニケーションを育もうとするなら、コミュニケーションの関係性を作り出すことが肝要ではないか。すなわち非言語的でもいいから何らかの形でコミュニケーションを開始すること、あるいはそれ以前に、互いが「いる」ことが苦痛でないような関係性を作ることが必要といったことを今私は(安直に)考えている。

前の記事:東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院



 複数の意識を統一して作動させている意識などない

 [細胞や器官や脳などと]同じように、私たちが意識として経験 (erleben; experience) していることは閉ざされた自己生成システム (geschlossens autopoietisches System; isolated autopoietic system) として作動している。ある意識と別の意識を結ぶ意識的なつながりはない。複数の意識システムを統一的に作動しているもの (Einheit der Operationen mehrerer Bewußtseinsysteme; operatonal unity of more than one mind as a system) もない。「合意」 (Konsens; consensus) と思えるものは、一人の観察者が構築しているものであり、その人がなしたことにすぎない。(39, 170)

 「コミュニケーションを行っているのは、個々人でも個々人の集合でもなく、全体としての共同体である」といった言い方は有効だが、その共同体は「意識」をもった存在ではないことに注意したい。「意識」がないのだから、当然、「共同体の意思」などというものもない。ただコミュニケーションが続くこと(あるいは止むこと)が共同体の現実である。



 ある意識が自らはコミュニケーションをおこなっていると想像しても、それがコミュニケーションであるわけではない

 意識が意識的なコミュニケーションをすることはない (Das Bewußtsein kann also nicht bewußt kommunizieren; The mind cannot consciously communicate)。もちろん意識が自らはコミュニケーションをしていると想像することはできるが、それはその意識システム自体の中にとどまるものであり、自らの思考過程をさらに続けることを可能にしている内的な作動である。だがそれがコミュニケーションであるわけではない。(39, 170)

 ある人が「これこそが私たちの思いだ」などと考えても、それは個人の考えに過ぎない。意識とコミュニケーションの間に垣根をなくして、両者を連続的に考えること、あるいは等価に考えることは間違い。



 システムが自分自身を定めることができるのは、自らの構造を通じて環境に接触しているかぎりである。

 システムが自己生成的な再生産 (autopoietischen Reproduction; autopoietic reproduction) を行い、自らが作動する領域に自らを適応させてはじめて、システムは自らの構造を通じて自らを定める (determinieren; determine) ことができる。システムは、自らの構造的カップリング (in einem laufenden structural coupling 英語では明示的には訳されていない) で自らの構造を通じて自らの環境に接触している限りにおいて、自ら固有の作動を続けることができる。 (41, 172)

 自己生成(オートポイエーシス)システムは、自らの構造を通じて環境に触発され、自己展開する。ある人の意識はその人の意識なりにしか変容しないし、あるコミュニケーションはそのコミュニケーションの歴史に根ざしたようにしか展開しない。教師が生徒に自らの意識を移入しようとしても無理だし、ある共同体が別の共同体に自分たちのコミュニケーションのやり方ををそのまま採択させようとしても無理。



 コミュニケーションは自らの環境に適合し自己再生産を行うが、その際に特定の意識に適合するかしないかは、コミュニケーションが目的とするところではない。

 再生産は生じるか生じないかのどちらかでしかない。コミュニケーションは継続するか停止するかのどちらかである。継続する場合、コミュニケーションはそれ自身の動態性においてどのように進行しようと、自らの環境に適合している。しかし、コミュニケーションが自らを煩わせている意識[だけ]に適合するというのはコミュニケーションの目的 (Ziel; goal) ではない。事態はむしろ逆で、コミュニケーションは継続している時あるいは継続している限り、意識を魅了したりその注意を引いたりしている。これ[=コミュニケーションが意識に適合すること]は、コミュニケーションの目標 (Zweck; purpose) でも意味 (Sinn, meaning) でも機能でもない。それ[=コミュニケーションが意識に適合すること]が生じることもあれば、生じないこともある、ただそれだけである。 (41, 172)

※ ここではEs ist also nicht etwa das Ziel der Kommunikation, sich dem Bewußtsein, das in Anspruch genommen wird, anzu passenの解釈(特にAnspruchのあたり)に自信がありません。

 コミュニケーションは、ある人の意識に納得されることを自己目的として展開するわけではない。コミュニケーションはコミュニケーションの流れにそってしか展開しない。その過程である人が一時的に激しく同意したり、別の人が急にわからないと言い始めたりするかもしれない。コミュニケーションがそのまま直接的に意識を変えるとは考えない方がいい。コミュニケーションは意識を触発するが、意識が「わかった」という理解の感覚に到達するまでにはその意識が自己展開するのを待たねばならない。教室場面で言うなら、理解できていない生徒に、教師が自分の意識にぴったりと沿った形の言語をコミュニケーションとして発話しても、生徒がそれをそのまま理解するとは限らない。



 コミュニケーションが自己展開する時、その可能性は、コミュニケーションの流れという点では狭まるが、意味という形式を使うことで広がりもする

 何かを言うことによって、コミュニケーションは自らが自らとどうつながってゆくかについての可能性を縮減する。しかし同時に、意味という形式において、コミュニケーションのつながりの可能性をより広げる。その可能性には告示された情報 (mitgeteilte Infromation; received communication) を否定したり再解釈したりすることや、それが真でないとか歓迎されないことを明らかにすることも含まれる。社会的システム[=コミュニケーション]の自己生成[=オートポイエーシス]とは、自らをどうつないでゆくかに関する可能性を常に縮減すると同時に拡張するプロセスに他ならない。(41, 172)

※ Mitteilenはルーマン自身も言うように翻訳しにくい語ですが、私は今のところ「告示」と訳しています。「コミュニケーションにおいては、ある情報とその情報が告示しているものが区別され、そのどちらに重きをおいた理解をするかという選択が常に迫られる」といったようにルーマンのコミュニケーション論を表現できないかなと考えています。

 話の流れによって、ある話題が発展することなく見捨てられるという可能性の減少はあるが、同時に意味の「可能性」に導かれて、話題は広がったり深まったりもする。

関連記事:「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論―英語教育における意味の矮小化に抗して―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62



 コミュニケーションに意識は関与しているが、(たいていの場合において)コミュニケーションはその意識をコミュニケーションのテーマとしないことによって、意識をコミュニケーションに関与させている
 
 まさに光や空気そのものが見えないし聞こえないからこそ、視覚や聴覚は光や空気をメディアとして使用している。それとまったく同じように、コミュニケーションは自らが煩わされている意識をテーマとしないことによって、意識をメディアとして使用している。比喩的にはこう言うことができる。コミュニケーションに関与している意識 (beteilgte Bewußtsein; the mind in question) は、コミュニケーションにとっては不可視である。(43-44, 175)

※ ここでもgerade weil es das jeweils in Anspruch genommene Bewußtsein nicht thematisiertの箇所の解釈に私は自信がもてません。

 光や空気が視覚や聴覚の前提とはなっているが、視覚や聴覚は光や空気そのものについてのことではないように、コミュニケーションは意識を前提とはしていても、意識そのものを話題にしているわけではない。もちろん「そんなこと言いながら、君は心の中ではよからぬことを考えているのだろう」とある人の意識をコミュニケーションの話題とすることもできるが、話題となったその意識は、コミュニケーションにおいて語られた意識であり、ある人の心の中にある意識そのものではない。



意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたメディアとしてのみである
 
 コミュニケーションは自己生成システムとしてのみ可能である。言語の助けを借りて、コミュニケーションはコミュニケーションからコミュニケーションを自己再生産するが、その自己再生産の構造的条件を利用し、メディアとしての意識を必要とする。したがって意識がコミュニケーションに関与するのは、構造的に限定されたシステムおよびメディアとして[のみ]である。このことが可能であるのは、ひとえに意識とコミュニケーションつまり心的システムと社会的システムが、決して融合することも部分的にすらも重なることがない、完全に切り離された、それぞれ自己言及的に閉ざされた自己生成-再生産システムであるからである。前にも述べたように、人間がコミュニケーションをすることはできないのだ。(Menschen können nicht kommunizieren; humans cannot communicate) (45, 176)

※ ここでもSie reproduziert mit Hilfe von Sprache Kommunication aus Kommunikation und benutzt diese strukturelle Bedingung ihrer Reproduktion zugleich, um Bewußtsein als Medium in Anspruch zu nehmen.Anspruchについて今ひとつよくわかった感じがしません。Anspruchがこの文脈でもっている具体的な意味をどうもうまくイメージできません。

 「人間」とは、生命維持もし意識ももちコミュニケーションにも参加するといった多元的な存在であるが、そのように多義的な存在をコミュニケーションの主体あるいは参加者として考えてしまうと、特に意識をコミュニケーションと混同して論が進んだりするので好ましくない。現実世界でも、すぐれた司会者などは会議で、参加者それぞれの意識は意識として配慮しながらも、あくまでもそのコミュニケーションの場で語られたことに忠実に話を進めているのではないだろうか。



意識システムとコミュニケーションシステムは互いに独立しているからこそ、互いを触発すれど決定してしまうことのない相補的な関係性にあることができる

 意識システムとコミュニケーションシステムは互いにまったく独立して存在している。しかしながら同時に二つは構造的相補性 (struktureller Komplementarität; structural complementarity) の関係にある。それぞれが具現化し特定化できる (aktualisieren und spezifizieren; actualize and specify) のは自らの構造だけであり、それぞれが変えることができるのはそれぞれ自身にすぎない。[しかし]これらの構造的変化をもたらすために、それぞれは互いをつかう。コミュニケーションシステムは概して意識システムのみから触発される (reizen lassen; be stimulated)。意識システムの方は、言語によって非常に明瞭にコミュニケーションされていることに著しく気を取られる。私たちの議論はこうである。それぞれの閉ざされたシステムが独立していることが、構造的相補性のためには必要である。そうでないと、互いに触発しながら(しかし決定してしまうことなしに)それぞれの構造を具現化することはできない。 (46, 177)    

 ある人の意識を変えることができるのは、その人の意識の働きだけ。逆に、ある人がどんなに熱い想いをもったとしても(「この授業での話し合いを成功させたい!」)、コミュニケーションを変えることができるのはそのコミュニケーションの流れだけ。コミュニケーションをうまく発展させたいとすれば、自己意識を意識化したりして意識の働きを肥大化させるのではなく、意識しているかしていないかは別にしてコミュニケーションの流れに言語的であれ非言語的にであれ反応してコミュニケーションの流れを作り出す方がよいと考えられる。とはいえ、コミュニケーションがある人が思ったとおりには必ずしも発展しないのは周知の通り。しかし、だからこそコミュニケーションは面白いといえる。


コミュニケーションに関するルーマンのことばとしては「コミュニケーションだけがコミュニケーションを行うことができる」(Nur die Kommunikation kann kommunizieren; only communication can communicate) というWas ist Kommunikation?の論文の表現が有名ですが、今回はあえてそちらの論文ではなく、こちらの論文についてまとめました。「コミュニケーションとは何か」の論文は全訳を試みていたのですが、挫折したままになっています。おそまつ。                                               






前ブログ「英語教育の哲学的探究2」におけるルーマン関連の記事





東畑開人 (2019) 『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院



■ はじめに

以下は、2019年6月29日(土)に広島大学教育学部で開催される第50回中国地区英語教育学会での研究発表(個人)のための準備の一環として作成した「お勉強ノート」です。

タイトル:『学び合い』におけるコミュニケーション観の転換 --近代的主体からオートポイエーシスへ--
要旨:主体的で深い対話をもっともよく達成している学校教育実践の一つの『学び合い』では、教師は授業中の介入を極力控えている。この逆説的な状況を理解するには、コミュニケーション観の転換が必要であろう。本発表では、私たちの多くが前提としている近代的主体概念を批判的に検討し、オートポイエーシスによるコミュニケーション観を提示する。

下のまとめは、著者も言うように本来なら「エッセイの言葉」(あるいは物語・ナラティブの言葉)で丁寧に語られるべき事柄を単純にまとめたもので、かつ、本書の謎解きの部分についても触れていますので、この本をいつか大切に読みたいと思われている方は以下はお読みにならないことをお勧めします。


■ セラピーとケア

セラピストとして訓練を受けた著者は、あくまでも実践の現場でセラピーを行いたく就職活動にいそしみますが、苦労した上で得た職場は、セラピーよりもケアの側面の方が多い場所でした。

ここでセラピーとケアについて整理しておきましょう。

セラピーとは、傷ついた相手に対してその傷に向かい合うことを促す営みです。セラピストが相手に積極的に介入し、傷はどんなニーズが満たされていないことから生じているかを解明し、そのニーズをその相手が自分自身で変更できるように仕向けます。その人は非日常的な葛藤に苦しむかもしれませんが、そうすることで成長し、個人として自立します。(p. 276)

それに対してケアとは、相手のニーズを満たすことによって、相手を傷つけないようにすることです。その相手を支え、相手がケアする人に依存してくることを引き受け、その人の安全を確保し生存を可能にします。相手が日常という平衡状態を享受することを目的とします。 (p. 276)

著者は当初張り切ってセラピー(カウンセリング)を行おうとしますが、就職した場所は、社会に「いる」のが難しい人たちのための場所でした。著者は次第に、自分の仕事とは、「いる」のが難しい人と、一緒に「いる」ことだということに気づきます。 (p. 43)

それでは「いる」とは何か?一つの答えは、「いる」とは互いにケア(お世話)を受け入れることです。(p. 209) 著者は入居者にケアをしますが、そのケアを入居者に受け入れてもらうことによって著者もケアされます(「自分もここにいていいのだ」という思いを得ます)。また、著者が入居者から逆にケアされてそのケアを受け入れることは、その人をケアすること(入居者に自身の有用感を覚えてもらうこと)にもなります。(p. 205) 「いる」とは、そういった相互依存関係が日常化し当たり前のようになってこそ達成されるものです。

このような「いる」ことがそれほど容易でないことは、精神疾患に関する現場だけでなく、学校や職場、あるいは家庭の現場でも時に感じられることは、さまざまな人々の人生で実証されているとおりです(一緒に食事をすることはおろか、同じ場所にいることすら苦痛という人は残念ながら人生に何度かは現れるものでしょう)。セラピー的な問題解決が志向される場でも、ケアの側面は必要です。そしてケアが重視される場にもセラピー的な要素が入る場合もあるでしょう。

しかし、私たちは今、自立している個人を前提とした社会に生きています。(p. 106) ですから、ケアの価値、ただ「いる」ことの意味が見失われてしまっています。これが本書の基底に流れているテーマの一つです。


■ ケアの自己生成

さて、「いる」ということ、ケアしケアされるということが相互依存的あるいは同時成立的・相即的であるなら、私たちは「ケアすること」と「ケアされること」、あるいは「ケアをする人」と「ケアされる人」を分離して固定的に考えるべきではないとなるでしょう。

職員とは常に入居者のケアするものであるという前提に囚われていたら、職員は入居者からのさりげないケアに戸惑うでしょう。また、ケアを受け入れない入居者を、職員は問題とみなすかもしれません。あるいは、職員はなすべきケアを列挙したリストを求め、それらを常に遂行し、それら以外のことは職務外のこととして拒否することがプロフェッショナリズムだと思いこんでしまうかもしれません。しかし、ケアあるいは「いる」とはそういったことではないでしょう。ケアを与える/受け入れるということが、どちらからともなく自然に湧き出るのが、人間が生きるということではないでしょうか。

著者は、「援助者療法原理」(リースマン) や「傷ついた治療者」(『ユングとポスト・ユンギアン』) といった理論で、ケアをするという能動とケアが受け入れられるという受動がいかに分かちがたく絡み合っているかを指摘しますが、それを踏まえた上でさらに一歩先に進みます。著者は言います。

だけど、僕らがデイケアウォッチングで観察してきたのは、じつはそれ以前のことだったのではないか。つまり、個々人の「する/される」以前に、デイケアというコミュニティに必要性が生じて、それに対応するために自然とケアが生じていたのではないか。主体はコミュニティにあったのではないか。(p. 221)

つまり、ケアは能動的な主体としてのAさんが行い、それを受動的な客体としてのBさんが受け取ると考えるのではなく、AさんとBさんが共に心地よく「いる」ことができる関係性がケアを生み出すと考えるわけです。ケアの主体は個人でなく、関係性を構築した共同体だという考え方です。

著者は、次のアナロジーも使います。

足が痛いから右手でそこを押さえる。背中が痒いから左手がそこを掻く。その時、右手と左手がケアする部分で、足と背中がケアされる部分、なわけがない。「する/される」を超えて、体そのものにケアが生じているのだ。(p. 221)

ここではケアが、「する/される」ものではなく「生じる」ものとされています。ということは、ケアとは能動態/受動態で語られるべき営みではなく、中動態で語られるべき事態となってきます。

この章で「ケアする/される」という能動態/受動態で語ってきたことは、中動態で語られるべきだったのだ。
デイケアにケアが生じて、それがデイケアに作用する。(p. 224)

関連記事:國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html

このようにケアの主体を個人ではなく共同体と考えることは、いろんな意味でより自然な認識かと私も思います。ただ「主体」ということばには、「自由意志」やその前提となる「意識」という含意が伴いがちです。これらのことばをそのまま共同体に帰属することは難しいでしょう。

ですから、私はここはルーマンの「コミュニケーションをするのはコミュニケーションだけである」 (only communication can communicate; nur die Kommunikation kann kommunizieren) という命題に倣って、「ケアをするのはケアである」あるいは「ケアという関係性が、ケアという関係性を生み出す」 と表現してもいいのではと考えています。自己循環的で何も述べていないような命題に思えるかもしれませんが、これはこれでオートポイエーシス(自己生成)について述べた表現にもなっているのではないでしょうか(希望的観測)。上に述べた学会発表ではこのあたりを論じたいのですが、なかなか準備ができていません(汗)。

参考記事:
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post_73.html
https://doi.org/10.18983/casele.48.0_11
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post.html
https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83


■ 現代社会に浸透する会計監査文化

職場に少しずつ慣れてきて、そこではセラピーよりもケアが優先されることを少しずつ学んだ著者でしたが、それでも「それでいいのか?それは価値を生んでいるのか?」(p.11)、「それでいいのか?それ、なんか、意味あるのか?」 (p.13)といった声が自らの内から湧き上がってくることに著者は苛まされます。この声は現代社会にはびこる会計の原理から発せられると著者は喝破します。(p. 317) 資本の自己増殖という「成長」を運命づけられた資本主義的生産社会は、変化をもたらし、効果があり、(商品)価値を生み出すことを是とします。それをチェックするのが会計の声です。

関連記事
マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/20121993.html

こういった会計の声が四方八方から寄せられ、ついには私たち一人ひとりがその声を内面化してしまった文化は「会計監査文化」とも呼ばれます。

ストラザーンという人類学者は、そのような世界のあり方を「会計監査文化 audit culutre」と呼んでいる。それは、ありとあらゆるものに会計係の監査が向けられる世界だ。大学も、病院も、中学校も、会社も、コミュニティセンターも、幼稚園も、ありとあらゆるところに会計の透明性が求められる。(p. 323)


この声に対して、日常の平衡を保つだけの「いる」こと、そしてその「いる」ことを可能にしているケアという営みは、自らを正当化することがなかなかできません。会計の声を使っては反論し難いのです。

著者は以下のことばで、本書が学術書でありながら型破りな文体で書かれた理由を説明します。
それはエッセイの言葉で語られるしかない。「ただ、いる、だけ」はそれにふさわしい語られ方をしないといけないのだ。そしてそれは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。(p. 338)

総じて、大変に考えさせられる本でした。現代の主流文化に抑圧された人間の営みに関する良書を医学書院がさらに出版してくれることを楽しみにしています。





追記

以上のまとめから、学校教育におけるケアとセラピーの両側面についても再考したく思っています。教室でのコミュニケーションの「主体性」を教師個人にも学習者個人にも帰属させてしまわずに、まずはケアを重視することから教師も含めた「学びの共同体」を作り、次第にセラピー的にそれぞれの問題に向き合うようにするというのがこのまとめから導かれる筋道の一つかと思います。

これはまずは学級づくりを大切にする熟練教員の知恵を難しく言い換えただけのように思えるかもしれませんが、会計監査文化のように妙に浅薄な言説がもてはやされる現代においては、現場の知恵をさまざまに言語化して対抗言説を作っておくことは重要だと私は思っています。でも、学会までに十分な準備ができるかなぁ。新しい職場は非常にやりがいがあり毎日はとても充実していますが、充実しすぎて睡眠時間と研究時間がなかなかとれないのが贅沢な悩みです。


2019/06/08

知的な英語を使いこなせるようになりたい大学生のために

追記
私が所属する京都大学・国際高等教育院・附属国際学術言語教育センター・英語教育部門のウェブサイトでは、学生さんの自律的な英語学習・使用を支援するための情報を多く提供しています。特に以下のページなどをご参照ください。


京都大学自律的英語ユーザーへのインタビュー

英語学習相談:よくある質問



IPA発音記号はワープロに単語登録してしまおう!

  IPA発音記号をワープロやエディタに表記させるのは案外面倒です。私はWordの記号の挿入を使っていましたが、いちいちIPA記号を探すのは手間がかかりすぎです。 もっとも 単純な解決法は、ワープロのIME (Input Method Editor)に単語登録してしまうこと かも...