2022/05/04

『荒木飛呂彦の漫画術』を読んで、実践報告における人間の描き方について考えました


 

『荒木飛呂彦の漫画術』は、『ジョジョの奇妙な冒険』で有名な漫画家の荒木飛呂彦先生が舞台裏を明かす本です。漫画という売れることを運命づけられているジャンルでの創作の原理を説明します。

 

ちなみに私は今改めて「人間を描く」ということについて考えています。ある実践報告を書いているからですが、その原稿を書き進めるためにもこの本についてのノートを作っておいた方がよいと思い、ここにまとめる次第です。もっぱら教育の実践報告(実践研究)において人間を描くために役立つと思われる箇所についてまとめました。インデントされている箇所が、この本からのまとめ(間接引用)です。「=>」からの記述は、私の蛇足です。

 

 

■ 創作の柱:キャラクター・ストーリー・世界観・テーマ、そしてそれらを表現する絵とセリフ

 

概要

漫画の「基本四大構造」は、(1) 「キャラクター」、(2) 「ストーリー」、(3) 「世界観」、(4) 「テーマ」である。また、これらを統括しているのが「絵」で、補助するのが「セリフ」である。 (p. 36)

 

逆に言うなら、読者が直接目にするのは「絵」と「セリフ」であるが、その背後に基本四大構造が読者に感じられるようになっていなければならない。 (p. 37)

 

=> 実践報告などで人物を登場させても、多くの場合は「最初にAを行い、次にBを行い・・・」といったように「ストーリー」の骨組み(筋)だけしか記述しない場合が多い。しかもその話の筋には「X教授法の効果を測定する」といった程度の「テーマ」しかないので、読者は良い意味でも悪い意味でも淡々と読み進めるしかなくなる。

 

加えて人物の「キャラクター」の描写も所属校や教師経験年数ぐらいの表面的なものにとどまることが多い。加えて「世界観」(≒背景状況の描写。詳しくは後述)も「郊外の比較的落ち着いた学校」といった類型的なものとしかなっていないことがほとんどである。

 

実践報告においては「絵」は「文体」に、「セリフ」は登場人物の「発言引用」に対応するのかもしれない。だが少なくとも私は「文体」にも「発言の引用」についてもあまり自覚なくこれまで書き書き進めてきた。

 

もちろん実践報告は、「いいね」の数を稼ぐエンターテイメントではないので、これらの要素を人気取りのために操作してはいけない。だが、実践報告が読者(その多くは実践者)に共感を生み出し、「自分ならこうするかもしれない」といった「読者による一般化可能性」生み出すためには、これら4つの要素を自覚的に書き出す必要があるのではあるまいか。

 

関連論文

柳瀬陽介(2018)

「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか:読者・利用者による一般化可能性」

『言語文化教育研究』 16 p. 12-32

https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12

 

 

■ キャラクター

 

概要

キャラクターは漫画でもっとも重要であるが、その設定で必須なのがキャラクターの行動の「動機」を描き出すことである。この描写が曖昧だと読者はキャラクターに感情移入できない。(p. 44) またキャラクターの長所だけしか描かないと「立体感」が失われる。 (p. 61)

 

「立体感」を出すためには、キャラクターについての「身上調査書」を予め作成しておく。これは60近く項目があり、これらを埋めることによって、矛盾なく他のキャラクターとかぶることのないキャラクターを描き出すことができる。 (p. 58)

 

=> 実践報告で人間を登場させても、それは次の2つのパターンのどちらかの記述でしかないことが多いように思える。1つのパターンは、「教師A」といった呼称が端的に示しているように、登場人物を容易に代替可能な存在としてしか描かないことである。

 

たしかにある教授法の有効性を立証しようとする量的な比較実験研究では、教師といった要素は交換可能な存在でなければ困る。「この教授法なら誰がやってもいい結果が出る」ことを立証したいからである。だが、質的記述も含むべき実践報告が、量的研究のそのような流儀に従えば、それは「比較対象も何もやっていない欠陥研究」に成り下がってしまう。実践報告は、登場人物の動機を始めとした側面を描き出さなければならない。

 

もちろんそういった描出は限りがない。何をどこまで描き出すかという決定は、「その実践報告の「テーマ」を適切に伝えるため」という基準によって設定するべきだろう。

 

実践報告の人物描写に見られる2つ目のパターンは、主人公となる教師をひたすら善人としてしか描かないことである。その場合の「ストーリー」も、「善人の登場-善人が直面する問題-問題の激化-苦難の解決」といった単純なものになる。他人を描く場合、その人の短所を描くことは容易ではないが、人間の弱みや限界を描かないままだと「いい話」すぎて、読者がその報告に触発されて実践を開始した時の指針となりがたい。

 

だが良質のノンフィクションは一人の人間のさまざまな側面を描く。優れたノンフィクションライターは、取材相手と信頼関係を築くことを徹底する。取材相手が本来なら書いてほしくないかもしれないことも「これだけ自分を理解してくれているこの人になら書いてもらってもいい」と思ってもらえるまで、徹底的に話を聞く(もちろん、原稿の公開前には取材相手の最終許可を得る)。

 

私はノンフィクションをそれほど読むわけではないが、以下の本の記述は多面的かつ重層的だった。読後に、私は描かれた人物について安直に要約することができないと感じた。もちろんその「ことばにできない」ということは、私の心の奥にあるさまざまなトピックについて私が考えさせられたということであり、その本が私に深い影響を与えたということである。

 

田崎健太

「真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男 」

集英社文庫

https://amzn.to/3v8aPWy

 

 

他方、自らの実践を報告する場合は、短所も書きやすい。だが、いたずらに過度に自虐的な記述を重ねてしまうことある。逆に、自認する短所とは、自己防衛のフィルターを経たものであることが多いので、自分では客観的に書いたと思っても、その人をよく知る人からすれば不十分となることもある。(もっとも、その知人の理解こそが「客観的」ということでもないのだが)。つまりは、実践報告で自らを記述する場合も容易ではない。せいぜい、自己観察の記述を、時間をおいて読み直し、最初の自己観察では気づけなかったことに気づくという二次観察を行うということぐらいしか今の私には打開策が思いつかない。

 

 

関連記事・論文

ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

 

ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html

 

柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 p. 83-93.

 https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

 

実践報告も「こうしたらこうなりました」といった、わかりやすいが底の浅い報告ではなく、読者にさまざまなことを思い起こさせ考えさせる読み物となることを目指すべきではないのか。そのためには登場人物(キャラクター)を適切に描くことが必要となる。だが人間を描くということは、それが他人であれ自分自身であれ、容易なことではない。だからこそその困難に対して自覚的に執筆を進める必要がある。

 

 

■ ストーリー

 

概要

ストーリーの基本は「起承転結」である。 (p. 82) 「ストーリー」は、一話毎の「エピソード」で構成されている。 (p. 81)

 

一話は複数のページで構成されるが、ページの下位構成要素が「コマ」である。コマ割りは理論やルールよりも、作者のセンスによるリズムによって決められる。 (p. 177)

 

漫画の外から作者がメタ的なコメントを入れるとマニアは喜ぶかもしれないが読者は漫画から現実に引き戻されてしまうので止めた方がよい(p. 94)

 

=> ここでいう「ストーリー」とは、数十話に及ぶ漫画全体を指すと思われるが、一話毎の「エピソード」にも起承転結という「ストーリー」があると考えるべきだろう。

 

実践報告を行う研究者(あるいは省察的実践者)も、一つ一つの実践報告という「エピソード」でストーリーを描きながら、少なくとも数年かけて発表する一連の実践報告でより大きなストーリーを表現する。

 

だが研究者が、複数の実践報告で表現される大きなストーリーを自覚していないことはしばしばある。(これは研究者が後述する「テーマ」を十分に把握していないことから生じる)。

 

もっとも逆に、大きなストーリーを十分に自覚してそれらを長年に渡って展開する場合にも落とし穴がある。それは読者や出版社への「受け」を狙いすぎ、ストーリーを過度に単純すぎるものにしてしまうことである。

 

人気がなくなれば連載が打ち切られる漫画においては、ひたすらプラスのエピソードを重ねてゆくことが必要であると荒木先生は断言する(典型的な例が、主人公がひたすら勝ち続けてゆくストーリー展開である)。

 

たまたま読んだThe New York Timesのコラムでは、narrativeがテーマであったが、そこでは以下のように書かれ、ハリウッドというこれまた売れることが必須の場所で作られるストーリー (plot) はどうしても同型のものになることを伝えている。

 

見解

In popular culture, a successful plot is a recognizable plot — the hero’s epic journey, the marriage’s inevitable consummation, the dashing warrior who slays the monster. Some narratologists argue that there are no more than a handful of basic plots — story lines that are recycled again and again, such as “the quest,” “rebirth” and “rags to riches.” Hollywood producers tend to agree, as illustrated by an old industry joke my father, a screenwriter, once told me about the head of production who demands a movie plot that is exactly the same as the last one — except different.

 

Frederick Kaufman

How Covid Breaks All the Rules of Human Narrative

April 23, 2022

https://www.nytimes.com/2022/04/23/opinion/covid-plot-tv-movies-books.html

 

だが実践報告において、このストーリーの単純化が進み、さらにはテーマ・キャラクター・世界観までもが底の浅いものになったら、「売れる」かもしれないが、実は読み応えがなく、読者の実践者を深いところから変える読み物にはならない恐れがある。

 

実践報告においても、ストーリーは重要である。だが、それが単純すぎるものにならないように気をつけなければならない。仮にストーリーがやや単純と思えるものであったとしても、キャラクターと世界観の記述を充実させて、ストーリー(ひいてはテーマ)の骨格に血肉をつけなければならない。

 

関連論文(再掲)

柳瀬陽介(2018)

「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか:読者・利用者による一般化可能性」

『言語文化教育研究』 16 p. 12-32

https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12

 

付記:

荒木先生は、漫画ではストーリー展開の中で、作者がメタ情報を入れることを控えるべきだと警告しているが、実践報告なら脚注で舞台裏情報を提示することも考えられる。とはいえ、読み物として考えれば、実践報告についても種明かし的なメタ情報は、提示するにせよ最後に示した方がよいのかもしれない。

 

 

■ 世界観

 

概要

漫画における「世界観」は、背景描写で浮かび上がるリアリティで示される (p. 148)。背景描写は表層的なものだけにとどまらず、キャラクターが関係する組織や社会などの構造や歴史から具体的な詳細にいたる幅広いものである。世界観が示されるぐらいに描写を行うためには実際に現場に行く必要がある。 (pp. 152-156)

 

=> 実践報告においても、主要登場人物が所属する人間関係や学校や地域などの背景を描き出すことが重要である。だがこの描出にも限りがない。延々と背景記述が続いても読者は辟易するだけである(そもそもの掲載誌のページ制限を超えてしまうだろう)。

 

背景記述も、キャラクター・ストーリー・テーマとの関連の中で決める必要がある。言うまでもないが、四大要素もバラバラで存在しているわけではない。執筆者は、これらの要素を統合した形で自分のものにして、そこから生じてくる感覚(センス)にしたがって、背景記述を行う必要がある。ストーリーのところで出てきた「コマ割り」同様、執筆者は日頃からよい作品を読んで、自らの感覚を高めておく必要がある。言語教育によい実践報告がまだあまりないとしたら、良質のノンフィクションを読むことでもいいのではないか。

 

 

■ テーマ

 

概要

「テーマ」は、「自分がどう生きるべきか」という作者の物の考え方である。これは作品の根元に据えられるものであり、作品を通じてぐらついてはいけない。 (p. 163) 「テーマ」はストレートに表現されるものではないが、いわば「影のリーダー」として漫画を導く。 (p. 162) 自分があまり興味がないのに、世間に合わせて「テーマ」を決めるとやがて壁にぶつかってしまう。 (p. 166)

 

=> 私の好きな漫画作品の1つは『ONE PIECE』であるが、そのテーマは「人間の尊厳」あるいは「人権」だと私は解釈している。もちろん漫画の中にはこのような正しすぎて野暮に聞こえてしまうことばは出て来ない。だが、このテーマが『ONE PIECE』を動かしていると私は感じている。

 

言語教育の実践報告における「テーマ」とは何だろうか。しばしばそれは「英語力の向上」といった、世間ではよく語られるが、実はその実質がよくわからないことばで表現される(そしてそれはしばしばResearch Questionと呼ばれる)。だが、およそ教育実践である限り、テーマは究極的には「人間がどう生きるべきか」ということに関係するものになるべきではないだろうか。

 

もちろんこの場合の「人間」は学習者と教師である。だが、学習者と教師的という社会的役割を演じているにすぎない存在ではない。社会的役割の中で充実と葛藤(あるいは苦悩)を感じている生身の人間である。そういった人間がどう生きたらいいのだろうかというテーマが底流にある時に、実践報告も読者を動かすものになるのかもしれない。

 

ただテーマがあまりに直接的なことばで語られてしまっては、作品の底が浅くなる。読者は興ざめするだけだろう。人権概念を人類の叡智と考える私も、『ONE PIECE』の主人公(ルフィー)が「人権は大切だろう、みんな!」と説教するコマは見たくない)。テーマはあくまでも「影のリーダー」として作品を導かねばならない。

 

以下に引用するのは、小説家の村上春樹氏が語る物語論の一部である。作者は自分の作品が何かを意味・象徴・暗示しているかを感じてはいるが、それが何かを明確なことばにして把握しないと語っている。作家が評論家のように物語のテーマを言語化してしまうと「つまらない」というのが村上氏の見解である。

 

引用

世の中がどう変わっても小説を書く意味というのは物語をたどることで、それは昔から一貫して変わらない。その時々の空気によって少しずつ物語の質が変わっていく、物語の進む道筋が変わっていくというだけで、やっていることは本質的には変わらないですね。ただ物語を追って、それを文章にしていくことです。その物語が何を意味するのか、何を象徴するのか、何を暗示するのかということは僕自身には分からない。でも何かを象徴し、何かを暗示しているということは分かる。だって、それが分からなければ書いている意味はないから。

 

 そこで、読者がそれをどう感じ取ってくれるかが大事なんです。はっきりとここはこれを暗示しています、ここはこれを象徴していますというのではなくて、何かを暗示し、何かを象徴しているのはよく分かるな、何かを感じるなというのがあればいいと思う。書くほうもそれを感じていて、そのことを意識しながら書いているわけだから。言葉にするのは評論家のやることで、作家がそれをやってしまうとつまらない。漠然としたものを手渡して、漠然と受け取ってもらうしかないんです。さっきから言っているように、僕はコメンテーターじゃないし、評論家でもないし、意見はないし、分析もできない。意見を言えないし、分析もできないものを渡すのが(僕の)仕事です。だから、基本的には何が起ころうと、影響は受けるけど、やっていることは変わらないですね。

 

大井浩一

「村上春樹さんインタビュー(後編)「戦争をやめさせる」音楽に心託す」

毎日新聞 2022/4/23

https://mainichi.jp/articles/20220422/k00/00m/040/228000c

 

実践報告も、広い意味で人間の生き方についてのテーマを自覚して書くべきだ。かといってテーマを露骨に表現しても、逆に底が浅くなる。実践報告を書こうとする者は、やはりすぐれた物語(小説・神話・絵本・漫画・映画・オペラなど)に接し、テーマの間接的あるいは抑制的な表現法について学ぶべきだろう。

 

 

■ 絵

 

概要

漫画における絵は、「超重要事項」「必殺技」「神」である。「絵」は「世界観」と「テーマ」に直結しており、「キャラクター」と「ストーリー」の表現の鍵である。(p. 115)

 

=> 実践報告における「絵」とは「文体」であろうか。語彙の選択、語彙の配列、文のリズムなどの表現のセンスは、それが前景化されて注目されることは少ないかもしれない。だが、実践報告も要は言語表現である。キャラクター・ストーリー・世界観・テーマも、言語で伝えるしかない。そして言語を読ませるものにするか退屈なものにするかにおいて、文体は決定的に重要である。

 

しかし漫画の「絵」と同じように、「文体」も凝っていればよいというものではない。「ヘタウマ」の絵がかえって何かを伝えるように、必ずしも高尚でも技巧的でもない文体が、テーマをより伝えることもある。文体 (style) も、表面的な巧拙よりも、執筆者の生き方の反映であることの方がはるかに大切であろう。

 

 

■ セリフ

 

セリフは、そのキャラクターにとってもっとも自然と思われることばにする。 (p. 105)

 

=> フィクションである漫画において「セリフ」とは作者が考案するものであるが、ノンフィクションである実践報告における「セリフ」は登場人物の「発言引用」に相当するだろうか。

 

直接引用なら、それはその登場人物の人となりをもっとも適切に表す発言を引用するべきだろう。執筆者が書き直し・要約 (paraphrase/summarize) を行う間接引用にしても、発言者の人柄が残されているような書き方にするべきだろう。よく言われるように、執筆者が自説の証拠として他人の発言を濫用することは許されない。

 

 

■ まとめ

 

この記事では漫画という「売れてナンボ」のジャンルの創作原理を分析した荒木飛呂彦先生にしたがって、キャラクター、ストーリー、世界観、テーマ、絵、セリフという6つの観点で要約した。その要約の中で、実践報告を執筆する際にも参考になるのではという点について私なりの考えを多少述べた。

量的研究者からすれば方法論的同一性を欠く質的研究について、こともあろうに漫画を参考にするなど噴飯ものかもしれない。だが私は大学に長くいればいるほど、大学人(特に人文・社会系の研究者)の考える「知」とは1つのジャンルに過ぎないと思うようになった。その時々の学界で流行している枠組だけで物事を判断することは愚かであるとも感じている。市井でたくましい生命力を保っている漫画といったジャンルからも謙虚に学び続けたい。





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