2020/02/13

ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ




以下は、ルーマンの意味に関する論考(『社会の社会』第1章第3節:意味 (Sinn / meaning)の一部の拙訳と解釈です。

私は外国語で書かれた難解な書を読む時には、(1) 自分なりに翻訳できるか、さらに (2) その翻訳から具体的な解釈を生み出せるか、という手続きを踏むことが多いです。これらができて、はじめて自分は(少しは)理解したといえるのではないかと考えているわけです。
(1) (2) は次のように言い換えることもできます。

(1) 翻訳可能性:ある言語で表現された理にかなった命題は、別の言語でも理にかなった命題として翻訳できるはずである。

(2) 命題生成可能性:ある理にかなった命題は、その理に基づき、数多くの理にかなった命題を生成できるはずである。

もし私のドイツ語理解力(および哲学的思考力)が十分だったら、私は(2)の命題生成可能性に基づき、ルーマンの命題から、数多くの例示的命題を即座に派生させることができるでしょう。

しかし私のドイツ語力は非常に乏しいので、(1) の翻訳可能性に基づき、まずは、ドイツ語原文を自分にとってもっとも精確な思考媒体である日本語に翻訳します。その日本語翻訳が意味の通るものなら、自分のルーマン理解はそれほど間違っていないのではないかと思うわけです(もっともこの段階で、ドイツ語文法を体得していない私は非常に苦労するのですが)。
その上で、(2) を信じて、自分の日本語翻訳から、その意味を保った上でのさらなる書き換えや例示ができるかどうかを試します。そういった解釈が楽に出てくるなら、私はそれなりに、ルーマンが言っていることを理解できているのではないかと思うことができます(もっともこの段階で、頓珍漢な例示などを出す可能性は高いのですが)。

そんなことをせずとも、きちんとした日本語翻訳があれば、それを読んでそこから解釈を導き出せばよいのではないか、という声も聞こえてきそうです。しかし、(後述する用語を先取り的に使うならば)、日本語翻訳の文字通りの「顕在的意味」だけを読んでも、それは翻訳者がその翻訳語を紡ぎ出した時に経験していたはずの「潜在的意味」がわからず、私の理解はしばしば上滑りに終わってしまいます。潜在的意味の経験が薄い読解は、なかなか展開的な解釈を生み出してくれません。だから、私は無駄に思えても、できるだけ原文を日本語に翻訳しようとします。

以下の「拙訳」は (1) を、「解釈」は (2) を私なりに示したものです。正直、自分でも翻訳・解釈に自信をもてていない箇所も含まれています。(1) (2) が誤っていれば、私はそれなりにルーマンを理解しているという仮説は間違っていることになります。恥ずかしながら私のドイツ語力では、このような手続きを踏まないと、ルーマンを少しはわかっているのかそれともまったくわかってないのかについて、自分で見当をつけることもできないので、以下に「拙訳」と「解釈」を提示する次第です。

なお、これらを作成するにあたり、英語翻訳書日本語翻訳書をひっきりなしに参照しました。ですが、最終的には自分なりの日本語で翻訳したつもりです(もちろん、日本語翻訳書と結果的に似ている箇所は多数あります)。

また、私がこれまで採択してきた訳語と異なる訳語を今回使ったので、その主な点2つについて述べておきます。

 “Aktualität / actuality” “Potentialität / potentiality” もしくは “Möglichkeit / possibility”について:これまで私は、ルーマンの意味理論における “Aktualität / actuality” を「現実性」と訳し、 “Potentialität / potentiality” および “Möglichkeit / possibility” を「可能性」と訳してきました。しかし、この記事からこれらの用語を、それぞれ「顕在的意味」と「潜在的意味」と訳すことにします。これらが意味理論の用語であることを明確に示すためです。また “Aktualität / actuality” の形容詞形と動詞形についても「顕在的な・顕在化する」などと訳します。ただし、これらが意味理論以外の文脈で一般的に使われている場合はこの限りではありません。
ちなみに、“Potentialität / potentiality” “Möglichkeit / possibility” をルーマンがどのように使い分けているのかというのは、私の長年の疑問ですが、この節を読んでもその疑問は解決しませんでした。ですから、両者ともに同じ日本語翻訳を充てています。

“Selbstrererenz  / self-reference” “Fremdreferenz / other-reference”について:これらの語は通常、「自己参照」と「他者参照」(あるいは「自己言及」と「他者言及」、もしくは「自己準拠」と「他者準拠」)と訳されますが、今回、私はこれらを「システム内参照」と「システム外参照」と翻訳してみました。「自己」もしくは「他者」という日本語は、どうしても人格的な存在としての人間を連想させ、ルーマンが議論しているのはシステムであることを忘れがちになるからです。そもそも “Selb / self” とは、人間(たとえば “himself” “herself”)だけでなく、モノ (たとえば “itself”) にも使われる語ですが、「自己」という語は、後者への適用にはふさわしくないものです。「彼の自己」とはいっても、「モノの自己」とは通常いいません。せいぜい「そのモノ自体」でしょう。
とはいえ、私はこれまでわかりやすさを優先して、“autopoiesis” を「オートポイエーシス」ではなく「自己生成」と訳してきました。この「自己」は上の原則に反してしまいますが、他にいい訳語が見つからないので、下では “autopoiesis” を「システムの自己生成」と訳しています。ルーマンの専門家以外にも理解できる日本語で翻訳したいというのが私の願いです。

それでは前置きばかり長くなりましたが、以下、『社会の社会』第1章第3節(意味)の中で私が気になった箇所の翻訳と解釈を示します。■印の後に続く太字部分は、私が勝手につけた小見出しです。(D44 / E18 / J33) といった表記は、それぞれドイツ語原著英語翻訳書日本語翻訳書の対応ページ数を示します)


以下の拙訳と解釈に間違いがあれば、ご指摘・ご教示いただければ大変ありがたく思います。(メールはこちらから送れます)。

*****

■ 意味は、意味システムが作動している限りにおいてそのシステムにとって存在する。

拙訳:意味は、それを利用している [システムの] 作動の意味として存在しているだけである (Sinn gibt es ausschließlich als Sin der ihn benutzenden Operationen. / Meaning exists only as meaning of the operation using it) 意味は、[システムの] 作動によって確定された瞬間に存在するだけであり、その前後に存在しているわけではない。したがって意味は意味を使う [システムの] 作動の産物 (Product / product) であり、神による創造や基盤や起源といったものに期することができる世界の特性でなない。(D44 / E18 / J33)

解釈:意味は、世界の永続的な特性ではなく、意味を用いる意識やコミュニケーションという意味システムが作動している限りにおいて現れるものである。


■ 意味システムの作動は、システム自体とシステム以外を区別する。

拙訳:心的システムと社会的システムの作動は、自らを環境と区別することを可能にする観察性の作動 (beobachtende Operationen / observational undertakings) として形成される。これは、その作動がシステムの中でしか起こらないにもかかわらず可能になっていると言えるが、私としてはそれがゆえに可能になっているとも言いたい。別の言い方をするなら、これらのシステムはシステム内参照とシステム外参照 (Selfstrererenz und Fremdreferenz / self-reference and other-reference) を区別している。これらのシステムにとっての境界は、物質的な構築物ではなく、2つの側をもった形式 (Formen mit zwei Seiten / forms with two sides) である。 (D45 / E19 / J34-35)

解釈:たとえばある人がある知的難問について懸命に考えているとしよう。その人の意識は、できる限りのことを意識内で想起して問題解決を図ろうとする。しかし、長い間その想起と考察を続けているその意識は、意識内を観察しながらも、同時に問題の解決の糸口が自ら(意識)を超えた領域--それは無意識かもしれないし、その意識がいまだ知覚したことがない知識かもしれない--にあるかもしれないことを自覚している。かくして、その意識というシステムは、システム内を参照しており、そのことによってシステム内(つまりは意識自体)とシステム外(意識を超えた領域)を区別している。
 同じように、ある複数の人々が、ある問題について熱心に話し合っているとしよう。その人たちのコミュニケーションの中でさまざまな解決方法が言及されるのだが、どれも問題解決法としては不十分である。そうなると、そのコミュニケーションは、「これまで話し合った論点だけで十分だろうか」というコミュニケーションシステム自体を参照しはじめるかもしれない。そのシステム内参照は、システム自体を観察することによって、「これまでコミュニケーションに登場しなかった論点」というシステム外をシステム自体とは区別していることになる。


■ 区別の再参入は、意識では自覚(自己意識)において、コミュニケーションではコミュニケーションの展開において行われる。

拙訳:抽象的に述べるなら、これは、自らが区別している事態に区別を「再参入」させることである。 (Abstrakt gesehen handelt es sich dabei um ein >>re-entry<< einer Unterscheidung in das durch sie selbst Unterschiendene. / In abstract terms, this is a “reentry” of a distinction into what it has itself distinguished.) ここではシステム/環境の区別が2回行われる。最初はシステムを通して生産された区別としてであり、次はシステムの内で観察された区別としてである。 (als durch das System produzierter Untershield und als im System beobachteter Unterschied / as difference produced through the system and as difference observed in the system) (D45 / E19 /J35)

解釈:たとえば、ある意識が、「あそこに梅の花が咲いている」という区別(梅の花という存在/梅の花以外の存在)を行うとき、その区別はその意識というシステムを通じて行われるものであるが、その区別が意識によって確認されたときに再参入が行われる。「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別をしていることを、意識は「梅の花という存在/梅の花以外の存在」という区別の自覚によって行うからである。コミュニケーションにおいても、話者Aが「あそこに梅の花が咲いている」という発言で、「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別をした後に、話者Bが「そんな時期になったね」という反応で「梅の花が咲いているという話題/それ以外の話題」という区別によって梅の花が咲いているという話題を選んだなら、ここでもその区別にその区別が再参入したことになる。
※ 再参入については、こういった解釈でよいのか、今ひとつ自信がもてません。


■ 意識もコミュニケーションも、再参入によって、自らが自らを活性化するから、さらに複合的になり、予測不可能になる。

拙訳:[再参入によって]システムはそれ自身にとって計算不可能になる。システムは外部の効果(独立変数)が予測不可能であるがゆえの不確定性 (Unbestimmtheit / indeterminacy) ではなく、システム自体に由来する不確定性という状態にいたる。ここで、過去に行った選択の結果を現在の状態に対して利用するために記憶 (Gedaächtnis / memory) もしくは「記憶機能」が必要となってくる(現在の状態では忘れることと思い出すことが役割を果たす)。また記憶によってシステムは、肯定や否定になる作動の間とシステム内参照とシステム外参照の間で振幅する状態に置かれる。さらに記憶は、自分では決定できない未来に直面する。記憶は、未来の予期できない状況に対する適応素材のようなものを貯めているわけである。
これ以降は、この再参入によって生じる帰結がシステム自身にとって明らか (sichtbare / apparent) である結果を指して、それを「意味」とする。 (D45-46 / E19 /J35)

解釈:意識が、自らが行っていることを参照する時、およびコミュニケーションが、自らが行っていることを参照する時、再参入は行われるわけであるが、その再参入には記憶が伴い、そのことによってシステムが不確定的になる。記憶により、システムが行う区別に伴う潜在的意味が活性化されるからである。意識もコミュニケーションも、その先行きを完全には予測できないのは、それらが予測できない外部要因によって影響を受けるからというよりは、再参入という形で内部要因がますます複合的になってゆくからである。


■ 世界自体が、意味を有しているのではないし、意味を生み出すのでもない。

拙訳:意味システム (Sinnsysteme / meaning systems) にとっての世界とは、ある状態から別の状態を産出してシステム自身の状態を決定してしまう巨大なメカニズムではない。世界は、思いがけない事態 (Überraschung / surprises) を生み出す測り知れないほどの潜在的可能性 (Potential / potential) である。世界とは、事実上の情報 (virtuelle Information / virtual information) であり、その情報を産出するためにはシステムが必要である。より正確に言うなら、世界とは、選択された刺激 (Irritationen / irritations) に情報という意味 (Sinn von Information / sense of information) を与えるためにシステムを必要とする事実上の情報である。(D46 / E19 /J36)

解釈:世界は、意味システムが意味を生み出すために利用する潜在的可能性である。意味システムが意味を有しているのであって、世界が意味を有しているわけではない。厳密に言うなら、世界は情報を有しているわけでもない。情報もシステムの作動によって成立する概念であり、世界が有しているのは、いわば情報の前段階(事実上の情報)である。それはシステムに利用されてはじめて情報となり、意味となる。


■ 過去も未来も、意味システムが生み出す。

拙訳:意味のある同一性 (sinnhafte Identitäten / meaningful identities) (たとえば経験する対象 (empirische Objekte / empirical objects) 、象徴、記号、数字、文、等など)が、回帰的にしか産出されない (nur rekursive erzeugt werden / be produced only recursively) ということは、多くの認識論的帰結を生み出す。一方で、そのような対象の意味が、観察の瞬間だけにとどまらないことは明らかである。他方、対象が観察されない場合にはそれらの対象が「存在」しないということにはならない。(中略)回帰 (Rekursionen / recursions) が過去(確証され、知られている意味 (to bewährten, bekannten Sinn) / tried and tested, known meaning))を参照するとき、回帰は、その結果が現在のところわかっている偶発的な作動を参照しているだけであって、何かを実質的に生み出す原初 (fundierende Ursprünge / substantiating origins) を参照しているわけではない。回帰が未来を参照するとき、回帰は、無数の観察の可能性 (obachtungsmöglichkeiten / possibilities for observation)、つまり、事実上の実在としての世界 (Welt als virtuelle Realität / world as virtual reality) を参照している。また、これらの可能性が、観察という作動によってシステムに組み込まれるか(またどのシステムに組み込まれるか)を私たちは現時点で知ることはできない。したがって、意味とは徹底的に歴史的な作動形式であり (ein durch und durch historische Operationsform / a thoroughly historical form of operation)、意味が使用されることによってのみ、偶発的な創発と未来の使用の不確定性 (kontingente Entstehung und Unbestimmtheit künftiger Verwendungen / contingent emergence and indeterminacy of future uses) を束ねることができる。 (D47 / E20 /J36-37)

解釈:過去とは、確固たる原初--何かを次々と生み出す始原--ではない。過去とは、意味システムが自らに回帰して、現在のシステムの状態につながっているとみなす自らの過去の状態である。未来とは、意味システムが回帰して現在のシステムが到達しうるとみなす多数の観察可能性である。これらの可能性のうち、どの可能性がどのように、意味システムに将来組み込まれるかは現時点ではわからない。


■ 意味は、それが直示している顕在的意味を通じて、それが暗示している潜在的意味も参照する。

拙訳:意味とは、現在、直示されているものにおいてはすべて他の可能性への参照も暗示され共に把握されているということである (Sinn besagt, daß an allem, was aktuell bezeichnet wird,Verweisungen auf Möglichkeiten mitgemeint und miterfaßt sind. / meaning implies that everything currently indicated connotes and captures reference to other possibilities.)  (中略)要するに意味とは、共存する世界参照として顕在化されたもの (was akutualisiert wird, als Weltverweisung co-präsent / co-present as reference to the world in everthing that is actualized) である。つまり、顕在的に「間接提示」(注)されている (akutuell appräsentiert / “appresented” in actuality) )わけである。この参照には、自らの能力の条件 (Bedingungen eigenen Könnens) 、つまり、自らが世界において達成しうる能力と限界も含まれている。 (D48 / E20 /J35)
(注)「間接提示」とは、日本語翻訳の注釈 (853頁)によれば、フッサールの概念である。その意味するところは、他者は、本来私たちにとっては未規定の潜在性にとどまる存在だが、その存在は、その他者の身体という現実に現れたものを知覚することによって間接的に提示される(あるいは付帯的に現前化される)ということである。

解釈:意味とは、意味システムが直接的に示している顕在的意味と、それが間接的に示している潜在的意味の両方を同時に参照する作動である。意味システムが参照する先には、意味システム自身が可能なことおよびその限界も含まれる。


■ 意味は、それが明示(直接的に参照)する確定的な顕在的意味と、それが暗示(間接的に参照)する不確定的な潜在的意味が、区別された上でつながっている参照複合体である。

拙訳意味は、現象学的には、顕在的に与えられた意味から到達できる参照先が過剰にあることと記述できる。 (Man kann Sinn phänomenologisch beschreiben als Verweisungsüberschuß, der von aktuell gegebenem Sin aus zugängliich ist. / meaning can be described phenomenologically as surplus reference accessible from actually given meaning.) したがって意味とは、ある決まったやり方で到達し再現することができる、無限でそれゆえに不確定な参照複合体である。(ein endloser, also unbestimmbarer verweisungszusammenhang, der in bestimmer Weise zugänglich gemacht und reproduziert werden kann. / an infinite and hence indeterminable referential complex that can be made accessible and reproduced in a detemined manner.) --私はこの逆説的な定式化は重要だと考えている。意味の形式は、顕在的意味と可能性の差異 (Differenz von Akutualität und Möglichkeit / difference between actuality and potentiality) であると言えるし、この区別こそが意味を構成している (Sinn konstituiert / constitutes meaning) と言える。

解釈:たとえばある一つの語を使って、毎回ほぼ一定の事柄について直接的に言及することはできる。だが、その語の使用は同時に、毎回違ったように使用されることによって、それぞれ異なったやり方で、無数の他の潜在的可能性も間接的に言及しえる。意味は、直接的で確定的な言及を繰り返しながら、使われるたびに間接的かつ不確定的にさまざまに異なる物事を言及する。


■ 意味システムで再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的意味と潜在的意味が刷新される。とりわけ潜在的意味はさまざまに更新される。

拙訳:もう少し具体的に述べるなら、再参入は次々に行われ、そのたびに顕在的な意味の処理 (akutuelle Sinnnbehandlung / treatment of actual meaning) が再現され、[意味の]可能性が予見される (vorgegriffen / anticipated)。たとえてみるなら、顕在的意味とは線路のようなものであり、そのうえに最新のシステム状態が次々に表現され実現される。 (projektiert und realisiert werden / are projected and realized) したがって、システムにとっては、顕在的意味は一瞬存在するように思えるだけであり、顕在的意味が自分自身をテーマとすることによって、(それがどれだけ束の間のことであろうが)ある程度の持続性 (Dauer / duration) を有するにいたるにすぎない。そのようなシステムは、再参入という構造的帰結を免れることができない。とりわけ避けがたいのは、どんな観察や記述でも全貌をとらえることができず、選択をせざるを得ない事態 (Selektivität / selectivity) としてしか観察できないぐらいに、システムが過剰なほどの可能性にみまわれることである。 (D51 / E22 /J40-41)

解釈:意味システムが、顕在的意味を処理するたびに、さまざまな潜在的意味が生み出され、やがてある顕在的意味は過剰なほどに多くの潜在的意味を有するようになる。突飛な例に思えるかもしれないが、愛する者の固有名がもつ潜在的意味を考えてみればわかりやすいだろう。あるいは濃密なコミュニケーションを取り続けた小集団の言語使用が、同じ言語(例えば日本語)使用者にすら容易に理解できない特殊な意味をもつことを考えてもよい。


■ 意味は意識システムとコミュニケーションシステムの普遍的なメディアであり、システムの自己生成と共に刷新される。

拙訳: 意味は、すべての心的もしくは社会的、すなわち意識かコミュニケーションによって作動するシステム (bewußt und kommunicativ operierenden Systeme / consciously and communicatively operating systems) にとっての普遍的なメディアであり、意味はこれらのシステムの自己生成 (Autopoiesis / autopoiesis) と共に、造作なく自ら自己革新する (regeneriert / regenerate)。 (D51 / E23 /J42)

解釈:意識もコミュニケーションも、意味を基盤として展開する(システムの自己生成)。意識やコミュニケーションが展開するにつれ、意味も同時に刷新される。


■ 意識もコミュニケーションも時間化されたシステムである。

拙訳:意味は、ある種の(つまり意識的か社会的な)システムの「固有行動」 (Eigenbehavior / eigenbehavior) として生成し再生産される。なぜなら、これらのシステムは、自らの究極の要素を出来事として生産するからである。出来事は、ある時点で生じてはすぐに消滅し、持続性をもちえない。出来事が生じるのはそれが最初で最後である。意識システムや社会的システム[=コミュニケーションシステム]は、時間化されたシステム (temoralisierte Systeme / temporalized systems) であり、その安定性は動態的安定性 (synamische Stabilität / dynamic stability) という形でしか達成されない。つまり、束の間の要素を、他の新しい要素と常に取り替え続けることによってしか安定しないのだ。 (D52 / E23 /J43)

解釈:意識およびコミュニケーションの究極の構成要素は、生じては消える出来事である。意識やコミュニケーションがある程度安定しているとしたら、それはそれらが作動つまりシステムの自己生成を続けているからである。


■ 顕在的意味と潜在的意味は、それらの参照先においても参照様式において異なる。また、意味のすべてを顕在化させることはできない。

拙訳:問題は次のようにまとめることができる。瞬間ごとの顕在化が、いかに明瞭(あるいは不明瞭)で、独自で、事実としては抗弁の余地がないとしても(ここで思い出されるのはデカルトである)、意味が表象できるのは、その視点から得られる過剰な参照 (Verweisungsüberschuß / surplus of reference) としての世界だけである。つまり、意味は世界を、選択の強制 (Selectionzwang / selection constraint) としてしか表象できない。顕在的に専有したもの (Das akutell Appropriierte / What has actually been appropriated) は確か (sicher / secure) であるが、不安定である (unstable / instabil)。意味形式の反対の部分は安定しているが不確かである。なぜなら、次の瞬間に何が意図されているかによってすべてが決まるからである。すべての可能性 (Möglichkeiten / possibilities) の総体の統一 (Einheit / unity) が顕在化されることはない (aktualisiert warden / be actualized) もちろん、[意味の]形式の統一、すなわち顕在的意味と潜在的意味 (Potentialität / potentiality) の統一が顕在化されることもない。意味は、世界を与えることはしないが、選択を強制する処理 (selektives Prozessieren / selective processing)は参照する。 (D55 / E25 /J45-46)

解釈:デカルトが述べたように、意識は疑いのないほど明瞭な現象である。だが、その明瞭さは、瞬間ごとのものである。意識の明瞭性とは、意識が区別という作動を絶え間なく自らに再参入させているからこそ達成されている。その絶え間ない作動に伴い、潜在的意味がその度毎に新たに参照される。(何かをずっと注目しながら「・・・ということはこういうことか」と、潜在的意味の一部が活性化し、顕在的意味となる経験は多くの人が経験するものであろう)。
 顕在的意味は明瞭であるが、不安定である。なぜなら、次の瞬間には、活性化された潜在的意味が新たな顕在的意味となるかもしれないからである。逆に、潜在的意味は、潜在的な参照先としてずっと存在しているという点で安定しているが、現時点では顕在化しておらず不明瞭である。
 ある意味システム(意識やコミュニケーション)が有している潜在的意味のすべてが、ある瞬間に統一的に顕在化されることはない。それは意味システムの処理能力を遥かに超えている。意味システムができることはせいぜい「すべての可能性」といった表現で、その意味を総称的に(あるいは超越論的に)顕在化させるぐらいであろう。
 また、ある意味システムは、ある瞬間の顕在的意味を顕在化することはできても、その瞬間の顕在的意味と潜在的意味のすべてを統一的に顕在化することはできない。この処理も実現不可能であり、意味システムができるのは「すべての意味」といった表現を使うぐらいである。
 意味は、世界すべてを顕在化することはできないが、潜在的意味の参照を通じて、理論的には世界すべてに及びうる参照先の中から何かを選択する処理をシステムに提示することはできる。


■ 意味の経験は、必然的ではなく偶発的であり、選択を伴うものである。

拙訳:顕在化された意味とは、例外なく、選択的に実現されており (selektiv zustandgekommen / comes about selectively)、さらなる選択を例外なく参照する。顕在的意味が偶発的であるということは、意味を含んだ (sinnhaften / meaningful) 作動にとっての必要な契機なのである。 (D55 / E25 /J46)

解釈:ある意味システムが、潜在的可能性としての世界 (D46 / E19 /J36) の中からある事象を顕在的意味として焦点化することは、たいていの場合偶発的なことである。焦点化された顕在的意味は、前の瞬間の顕在的意味に伴っていた潜在的意味の一部が選択されたものかもしれないし、その意味システムがたまたま世界から選択的に焦点化したものかもしれない。意味の経験とは、それ以外の選択肢がない必然的なものではなく、「他でもありえる」偶発的なものである。


■ 顕在的意味と潜在的意味の区別という形式の再参入

拙訳先ほど述べたことを、意味に特有の形式、すなわち、顕在的意味と潜在的意味の区別に適用して述べるなら、意味が作動可能になるのは、形式を形式に再参入させるからであるということになる。意味の形式の内側は、この再参入を受け入れなければならない。束の間の顕在的意味と開かれた潜在的意味 (offener Möglichkeit / open possibility) の違いは、意識とコミュニケーションのどちらか・もしくは両方においても顕在的に観察される (verfügbar / available) のでなくてはならない。どのようにしてこの境界をまたぐことが可能なのか、そして、次にどのような段階がくるのかを私たちはあらかじめ顕在的に知ることができなくてはならない (Man muß aktuell schon sehen können / We must be able to see in actuality)。しかしこのことは、「可能なすべて」という「マークされていない空間」が、顕在的に示されているものという「マークされている空間」の中に収容されるということではない。というのも、「マークされていない空間」が顕在的なもの (Akutuelle / what is actual)  となるのは、これが顕在的なものを越えるからである。 (D58 / E27 /J50)
訳注:「観察される (verfügbar / available)」は、(D45 / E19 /J35) の理解をもとにして意訳した。

解釈:顕在的意味と潜在的意味の区別という形式は、意識システムもしくはコミュニケーションシステムが遂行した作動に再参入し、新たに顕在的意味を潜在的意味から区別する。この区別により、現在の顕在的意味とは異なる顕在的意味が次の瞬間に生まれうるということ(つまりは、顕在的意味と潜在的意味の境界が越境されるということ)が顕在的になる。




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中原淳・長岡健 (2009) 『ダイアローグ 対話する組織』 + 細川英雄 (2019) 『対話をデザインする』(ちくま新書)



現場で不足しながらも、実は不可欠なものの一つは、対話である。少なくとも私はそう考えている。

現場では、利害だけでなく価値体系や思考法までもが異なる人々が集う。一方的な情報伝達だけでは、現場は動かない。
現場では、多くのことが同時進行する。「他の条件が変化しないと仮定して・・・」といった前提での理論は、現場では通用しない。

それゆえ、一つの視点・価値体系・思考法・問題解決法だけに固執していては、現場では役に立たない。

複数のそれらをいったんは受け入れた上で、それらをうまく調停して、実行可能な解決手段を探さなければならない。

それが現場だ。

だから対話が必要である。


それでは「対話」とは何だろう。

対話にもいろいろな理論体系があるが(注)、ここでは以下の2冊に即してまとめてみる。以下に書かれているページ番号は、それぞれの本での引用元ページ番号を指す。


*****

中原淳・長岡健 (2009) 
『ダイアローグ 対話する組織』
(ダイヤモンド社)


対話は、会話とは異なる。会話はたんなるおしゃべりにすぎない (p. 7)。

対話は、一方的な通達でもない。よく人は「そのことは何度もお伝えしたんですけど」と嘆くが、それは、一方通行の「独り言=モノローグ」 (p. 91) をしただけであり、対話をしたとはいえない。「理解のプロセスを経て、行動や思考が変わる」(p. 45) ことが対話には必要だ。そして、変化する行動や思考は、聞き手のものばかりではなく、話し手のものでもある。

対話が成立するために必要なことの一つは聴くことである。

だが、他人の発言をきちんと聴くことができる人は意外に少ない。「聴いているつもり」でも「実は聴いていない」ことが多いのだ。(p. 91)

相手の話をさえぎって自分が発言権を取るということは、一般的には無作法とされているが、この不作法はしばしば見られる。

仮に相手の発言権を尊重して黙っているにせよ、終始首を横に振ったりしかめっつらをしたりして「即時の自分の判断」を留保することをしない。

表情の発露を抑えたにせよ、実は頭の中では、相手の発言が終わった時に何を言うかということばかり考えている。

要は、自分とは異なる相手を尊重し、その違いを少しでも理解するために謙虚に忍耐強く相手の話に即して自らの思考の可能性を変容させるという知的努力を怠っているのだ。

かくして「対話」としてスタートしたはずの話し合いも、モノローグが応酬し、双方ともに相手の愚をなじる場となり、しばしば事態は悪化さえしてしまう。

相手の話を丁寧に聴き、互いに対話の関係に入ることは、実は、忙しい現場にこそ必要だ。

忙しい現場では、日々さまざまな問題が生じ、人々はその対処に追われる。

有能な人であればあるほど、周りから頼られ日々の仕事に忙殺される。その結果、自分自身の行動や思考を振り返る余裕をなくす。そして、しばしば「対話なんて」と冷笑的な態度を取る。

だが、そういった目の前の問題を次々に片付ける人々は、実は「突貫工事のエキスパート」 (p. 132) になってしまっているのかもしれない。

ベトナム戦争時のアメリカ政権のブレーンであった「最良にして、最も聡明な人々」(ハルバースタム)は、少なくとも、戦争の悪化という状況の中でも卓越した対応力を示し、トラブルをなんとか片付けていった。

だが、そういう目の前の対応に追われる中で、長期的なビジョンの誤りに気づけず(あるいは気づいていたとしても対応できず)、長い目で見ればアメリカの舵取りに失敗してしまった。 (p. 132)

長期的とまではいかない数ヶ月単位の中期的な視点で考えても、対話を怠ることのコストは高くなりうる。現場で一方的な通達の効率を上げるだけでは、「最良にして、最も聡明な人々」の意図はなかなか伝わらない。さまざまに異なる人々が集うのが現場だからである。

その結果、気がついてみたら本来意図していなかった事態が出来し、人々はその修復に多くの時間を費やさざるを得ないことはめずらしくないだろう。

「急がば廻れ」ではないが、効率的な情報伝達と比べると短期的には時間のムダのようにすら思える対話こそが、中期的な効果、長期的な成功を得るためには必要ではないだろうか。

対話は、日々のコミュニケーションの中でも導入できる。自分の話が伝わらない時、相手の話が納得できない時、「なぜ伝わらないのだろう」、「双方の考えの違いはどこにあるのだろう」といった問い (p. 137) を自分に問い続ける姿勢を保つことがその第一歩だ。

主な読者層を、ラインで働く現場のマネジャーなどとしている本書は、職場における対話の効用を読みやすい形でまとめている。時間のない人が最初に読む対話に関する本として薦められるのかもしれない。



細川英雄 (2019) 
『対話をデザインする』
(ちくま新書)


対話とは、話し手と聞き手が変わることであり、それは同時にコミュニティが変わることである。著者は「相手との対話は、他者としての異なる価値観を受け止めることと同時に、コミュニティとしての社会の複数性、複雑さをともに引き受けることにつながります」と端的にまとめる(p. 23)

この本でも聴くことの重要性が説かれる。他者理解は次のように説明されている。 (pp. 123-124)

1 相手の話を聴く。
2 ことばの表現から相手の言いたいことあるいは言おうとしていることを受け止める。
3 相手の言っていることに納得がいけばそれを受け入れる。
4 もし納得がいかなければどこの部分がどのように納得がいかないかを内省する。
5 自分にとってわからないところは、なぜわからないのか、あるいは相手がなぜそのように考えるのか、相手の言いたいことの背景や事情について考えてみる。

こうして「自分に向き合う」ことができてこそ、自分のことばで相手に伝えることができるとも著者は述べる。(p. 37)

この本は、メールマガジン「ルビュ言語文化教育」 の記事を基盤にしていることもあり、対話という観点から言語教育を見直す書にもなっている。また各章の最後に付けられている具体的なエピソード記述が抜群に面白い。数々の実例が、言語教育のあり方に対して鋭い問いを投げかける。

上の本がビジネスマン向けとしたら、この本は言語教師向けといえるだろう。どうやって対話のテーマを見つけるかといった問題設定は、対話のテーマが現実問題として有無を言わせず到来するビジネスの現場にはない発想で、とかく言語形式の指導と評価にばかり拘泥しがちな言語教育者がもっていなければならない発想だろう。「何のためのことばの教育か」 (p. 225) という問いを立て続ける著者ならではの本といえるかもしれない。


*****

以上2冊の本を読んでみると、対話の開始とは、まずは聴くことであり、聴くこととは、自らのエゴを自制し、一見理解不能な見解を理解するよう試みるという知的訓練を自らに課すことだと思えてきた。そうやって自分が変われば、相手も変わってくれるかもしれない。

もし相手のエゴによって対話が困難になっているのなら、相手のエゴをまずは認めればよい。その方法の一つは、自分が自分のエゴを抑えることだろう。つまり聴いて、考えることである。そうやって自分が変わることによって相手も変われば、コミュニティ全体も変わり始めるかもしれない。

忙しい現場でこそ対話を大切にしたい。


(注)
対話については、例えば私は、オープンダイアローグや当事者研究、あるいはボームの理論などについて興味をもっています。ご興味をおもちの方は、このブログの1つ前の版(英語教育の哲学的探究2 http://yanaseyosuke.blogspot.com/)の検索欄を使ってお調べください。








2019/10/16

第7回こども英語教育研究大会(10/20)での講演スライド + 11/16 JACET講演の予告


2019年10月20日に神戸学院大学附属中学校・高等学校で開催される第7回こども英語教育研究大会 (10:00-18:00) で講演をさせていただくことになりました (17:00-17:50)


こども英語教育研究大会ホームページ


そこで投影するスライドをここでも公開します。
ご興味のある方は御覧ください。




この度第3刷が発刊された岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』で提示した「からだ・こころ・あたま」の枠組みを継承・発展させた試みです。




今回は特に、Lisa Feldman Barrettの論を自分なりに取り込みました。

とはいえ、この会は実践者中心の集まりですので、自分としてはできるだけわかりやすい説明を試みたつもりです(苦笑)。

参考記事
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html


ついでながら、11/16(土)に同志社大学で開催されるJACET関西支部大会では、以下の講演をさせていただきます。ご興味があればぜひお越しください。



Emotions, cultures, and stories: 
Against the impoverishment of meaning

Yosuke YANASE 
(Kyoto University)

An assumption penetrating into the minds of the general public due to the widespread use of standardized tests is the notion that multiple-choice format can successfully measure understanding of meaning. This belief leads people to suppose that sense-making is only a common reaction and to regard meaning as definite, static, and monologic. This view, however, impoverishes meaning to the loss of its potential in communication. In this presentation, I argue that understanding meaning is proactive and that meaning is indefinite, dynamic, and dialogic by considering some origins of meaning: emotions, cultures, and stories. Emotion is both biological and cognitive, not just a fixed reaction to a stimulus, but a proactive driver of dynamic meaning. Cultures enable individuals to exploit meaning socially without completely realizing its potentiality; meaning is thus indefinite to its users. Stories as a powerful genre of language use expand the dialogic nature of meaning in a complex situation. Meaning, therefore, is a bio-cognitive guide to future actions, a social resource to deal with unforeseen states of affairs, and a source of wisdom to thrive in complexity and plurality of the human world. Language teachers need a better understanding of meaning and should be critical of the extensive use of standardized tests.


2019/09/13

コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ


以下は、長岡克行先生の『ルーマン 社会の理論の革命』(2006年 勁草書房)の第8章「社会システムの形成」(pp. 255-278)の論考を私になりにまとめて若干の書き足しをしたものです。論点と論点の順番は長岡先生のものにしたがっていますが、論点の表現は大胆に変えた箇所もありますし、付け加えた具体例は私が自分の興味に引き寄せて考えたものです。私としては自分の誤読・歪曲を恐れますので、ご興味のある方は必ず原著をお読みください。








コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか




 言語教育に関わる者にとって「コミュニケーションとは何か」とは常に重要な問いであるが、ここではまず長岡 (2006, pp. 255-278)の論考に即しながら「コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか」について考えてゆきたい。コミュニケーションを日常茶飯事の自明なことと考える者にとってこの問いはいかにも無用のように思えるかもしれないが、異文化間での交流や、互いを社会から排斥したいと相互に考えている党派性の高い集団間でのやり取りや、離婚前の夫婦の会話を想像するなら、そもそもどうやればコミュニケーションは成立しうるのだろうかという問いは重要になるだろう。学校現場なら、学校教育という秩序に信頼を失いかけた学習者とどう対話をするかという課題を例えば考えてほしい。あるいは「アクティブラーニング」が流行語になりグループ活動を入れたものの、発言する者も発言の様式も固定化してしまった授業を考えてみてもいい。コミュニケーションに関する理論的な問いは実践的でもある。


■ 二重の偶発性

 コミュニケーションについて考える際に二重の偶発性 (double contingency)の問題を検討することは、ルーマンがパーソンズから継承し発展させたことであった。それではその二重の偶発性とは何であろうか。たとえば私と誰かがコミュニケーションを取ろうとしていると考えよう(上に述べた困難な状況を想像してほしい)。私は、相手がどう発話してくるかわかれば自分もどう発話してよいかわかるが、相手がまだ何も言わない以上、何をどう言えばよいかわからない。私の発話は相手に依拠 (contingent) しているという点で私の発話は偶発的である。この事情はおそらく相手においても同じである。そうなると二者の間では二重の偶発性があることになる。双方ともに相手の出方がわからず発話できないという葛藤が生じる。

 だが大抵の場合に私たちは困難な状況ですらコミュニケーションを試みる。もちろんそれが破綻することもしばしばではあるが、ここではコミュニケーションが成立する場合を考えよう。コミュニケーションの参加者はどうやってこの二重の偶発性という困難を克服するのであろうか。ルーマン以前の説明をきわめて単純化するならそれは、参加者双方が互いにこの二重の偶発性という葛藤を承知しているので、共通の価値体系に依拠することによってコミュニケーションを成立させるということだ。実際、私たちの日常においても、組織体での会議なら提示された議事次第を参照しながら行われるし、その組織体では発言に関するさまざまな規則も明示的・暗示的に共有されている。授業というコミュニケーションなら、その一部が「本日のねらい」として板書される教師の授業計画(教案)が共有すべき秩序体系として存在している。学習者は、その秩序体系ではどんな発言や行動が許されるかを知るあるいは推測することが求められている。だが私たちがここで考えようとしているのは、そのような共通の価値体系や秩序体系の共有が危ぶまれている場合、あるいはほとんど存在しない場合であった。そのような場合にコミュニケーションはどのように形成されるのだろうか。


■ 二重の偶発性の3つの側面

 ルーマンは偶発性を「必然的でもなければ不可能でもない」 (neither necessary nor impossible)、あるいは「可能ではあるが必然ではない」 (possible, but not necessary)、もしくは「こうではあるが他のようでもありうる」 (as it is, but as it can be otherwise) ととらえる。このように原理的な議論に立ち返ることで、コミュニケーションの結果であったはずの「社会的に共有されている共通基盤」をコミュニケーションの形成の説明に組み込むことを避けるのがルーマンのやり方である。長岡のまとめを筆者なりに言い換えるなら、コミュニケーションにおける二重の偶発性は、自らの複合性、相手の不可知性、互いの相違性の3点で考えることができる。

1 自らの複合性
 コミュニケーションを開始するにあたって何をどう発話してよいかわからない自分であるが、その自分には多くの話題と語り方という要素がある。また、その要素は他のどの要素と組み合わさるかによって実に多くの展開例が生まれる。要素が多く、それらの要素間の関係性が量的にも質的にもさまざまであるという点で、コミュニケーションの参加者はそれぞれ自分の中に複合性 (complexity) を有している。複合性においては、すべての可能な展開例(=要素の組み合わせ)を一望して比較検討することができないため、そこでは選択が行われる。選択とはもちろん「必然的でもなければ不可能でもなく」「他でもありうる」偶発的なものである。この自分に関する複合性を第1の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

2 相手の不可知性
 このようにどんな参加者も複合性ゆえに自分の心を見通すことができないが、相手の心は意識の唯我論的存在性というまったく別の理由が加わるゆえに一層に不可知である。私の意識にアクセスすることができるのは私だけであり、いかなる他人も私の意識を直知することはできない。同じように相手の意識を私は直接に知ることはできない。せいぜい私なりに想像するだけであり、相手は基本的には不可知である。しかも相手の意識も複合的なものであろうから、相手の心はより一層不可知である。だが相手の不可知性も、完全な不可能性ではない偶発性としてとらえるべきであろう。相手の心は「こうかもしれないし、こうでないかもしれない」ものである。「必ずこうだ」と断定できるものでもないが「ありえない」ものでもない(社会的に「ありえない」として排除・隔絶される心のあり方についての議論はここでは割愛する)。このような相手に関する不可知性を第2の偶発性と呼んでもいいかもしれない。

3 互いの相違性
 二重の偶発性については、相手は自分とは異なる知識と考え方をもっているという側面も強調されるべきだろう。自分と相手は違うというのが、近代社会の人々が経験から学んでいる前提であるとすれば、コミュニケーションについて考える場合においてもこの前提を踏襲するべきだろう。「相手と自分の知識と考え方が完全に一致することがない」という前提から近代人が学んだ社会のあり方は、大きく分けるなら、相手を自分と同じようにするか、相手と自分が異なったままに共存共栄することであろう。前者は小規模では一方的な説得となるが、それが権力者によって大規模に行われるなら全体社会の形成につながる。そうなると、グローバル化により異文化間の交流が増え、人間の多様性に関する認識の深まりによりさまざまな生き方が認められ尊重されるようになった現在、求めるべきは後者の互いの差異を否定しないコミュニケーションだろう。もちろん自他の違いを排除しないといっても、双方に部分的な共通点を見出すことはしばしばある。ここでも自他の違いは必然的でもなければ不可能でもない偶発的なものである。


■ 3側面からの3つの指針

 上記の二重の偶発性の3側面から、コミュニケーションの指針らしきものを見出すことができる。以下、私の主関心である授業でのコミュニケーションを例にして若干解説したい。その際に誤解を避けるため、筆者が想定している「授業でのコミュニケーション」について予め述べておきたい。現在の多くの学校の授業はまだ知識伝達型であり、授業では伝えられるべき知識が説明されその記憶・理解がテストされることがほとんどであろう。説明も一方的であり、教師は伝達事項を自分が理解しているような形で学習者が記憶してくれるように望む。ゆえに教師の発話はきわめて目的合理的であり、これを「コミュニケーション」と呼ぶことは難しいと筆者は考える。とはいえ大学・大学院の少人数ゼミではそのすべてにおいてではないにせよ、コミュニケーションということばにふさわしい言語使用が見られることもあるだろう。小中高においても「学び合い」「協働学習」「アクティブラーニング」の一部では学習者はまさにコミュニケーションしているといえるような姿が見られる。筆者はそのような、現代学校文化ではまだ例外的な―しかし今後は主流となっていかざるを得ないような―授業でのコミュニケーションを想定して以下の3つの指針について語る。

1の自らの複合性については、発話の選択性を肯定するという指針が導きだせる。自分の発言はあくまでも自分が選択した偶発的なものであり、必然的なものである必要はないという認識を積極的に認めるということである。現状の多くの教室において学習者は「教師が求めていること」を察知しようとする。このような背景もあり、教師の意図が明確にわからない時に学習者はできるだけ言動を避ける。もちろん正解を求める発問の場合は教師の意図は明確であるが、その場合でもその正解に確証がもてない学習者は手をあげようとしない(正解を知っているが他の学習者の目を気にして挙手しない学習者についての考察はここでは割愛する)。この場合の解決法の1つは、権力者である教師が、学習者の発言を学習者が自らの可能性の中から選択するものなるように仕向けることである。言い換えれば、教師が学習者の発言を、必然的(正解)であるから褒められ不可能(不正解)であるから罰せられるような正否を問う発問ではないようにすることである。正解を求める発問ではなく、学習者それぞれの判断を尋ねる発問にすることである。教育手法の点から補足するなら、正解がある場合でもその正解はいつでも学習者が参照できる状態にした上で発問するというやり方が考えられる。学習者の発言を「正解/不正解」(必然/不可能)の二区分で峻別できるものにせずに、「こうもありえるし、他のようでもありうる」偶然性を有する発言を奨励するように教師権力を使うことが教室内のコミュニケーションを増やす1つの方法であろう(ただ後述するように、発言はそれまでの発言とある程度の関連性を有するものでなくてはならない)。

 2つ目の相手の不可知性については、教室の成員相互に「自由」を認めるという指針が考えられる。相手が自分の考えとは違うことや自分が予想もしなかった行動をしたとしても(つまり相手が自分にとっては必然としか考えられない言動をしなかったとしても)、その発言が「ありえない・許してはいけない」非倫理的・反社会的なものではない限り、それを受け入れるということである。自分にとっての必然性が他人から生じなかったとしても、それは自分が他人を知り尽くすことができないことから生じる偶発性が現れただけと考えるわけである。こうして相手に言動の自由を認めた上で、自らも自分の言動に関する選択の自由を行使するという文化を志向するということになる。教室の例で言うなら、学習者が学校文化を受け入れがたく思っている場合も、「ありえない」非倫理的・反社会的な言動を禁じながら学習者の偶発的な言動という自由を認め、後で述べるようにいかに「私たち」を作ってゆくかということになるだろう。

 第3の互いの相違性からは、どの個人にもコミュニケーションを決定してしまう権利を与えないという指針を導くことができる。抽象的に言うなら、コミュニケーションの個人帰属性の否定と表現できるだろうか。ある個人が自他の違いを否定・根絶しようとして、他の者をその個人のあり方に強制的に変える方法は、今後も限定的にはあり続けることかもしれないが、現代社会においては原則として慎むべきだと上では述べた。教室で言うなら、授業でのコミュニケーションの具体的展開は教師個人が計画したようになるべしということを前提とはせず、コミュニケーションは誰もが完全には予想できなかった展開をするということを前提とする指針である。一部の教師教育現場では、今なお「教案」という形で、教師が授業前に学習者の具体的な発言を予想した上で授業展開を書かせることもある。そのような教育を受けた学生はしばしば教育実習などで、自分の予想外の生徒の発言に困惑し、それらを無視するか強引に自らの解釈に引き込むかなどして、授業でのコミュニケーションづくりに失敗する。教師にすらも授業のコミュニケーションを1人で設計・構築してしまう権利を認めず、コミュニケーションを形成するのは教師ではなく、教師と学習者が作る「私たち」であるという認識を教師が具体的な言動で示し続けることが1つの指針であろう。

 以上の3つは授業におけるコミュニケーションを成立させるための実践的な指針であるが、以下では再びコミュニケーションについての一般的考察に戻り、コミュニケーションに関する理解を深めることにしよう。


■ コミュニケーションでは何が起こっているのか

 コミュニケーションではいったい何が起こっているのだろうか。ここでも長岡 (2006) の論考に即しながら3つの論点を提示する。コミュニケーションにおいて起こっていることのうち重要なのは、発話の関連性の継続、期待による学習と不可知性の縮減、社会的な「私たち」の創発であるというのがここでの主張である。

A 発話の関連性の継続
 コミュニケーションにおいて私は自らの複合性から生じる多数の可能性から1つを選択しそれを発話とするわけであるが、それは無思慮の決断ではない。相手の心は原理的には不可知ではあるが私はそれを自分ができる範囲で観察し推測する。その上で相手が自分の発話を相手にとっての関連性があるようにして私は発話を行う。そうしてこそ相手も私の発話を、時折の疑問や躊躇があるかもしれないが、さまざまな程度の関連性を認めるだろう。そして相手も私に対して同じことを試みる。コミュニケーションとはこの過程が連続することである。私の発話は相手によって規定され、相手の発話によって定められる。聞き手にとっての関連性の高いと思われる発話を話し手が自らの可能性の中から選択するのがコミュニケーションである。ここには、言語学の関連性理論 (Relevance Theory) が強調している原理が見られる。

B 期待による学習と不可知性の縮減
 そのように発話の継続的発展という経験が重なるにつれ、双方はそれぞれに相手に関してそれなりに学習し、相手の行動に対するある程度の期待をいだくようになる。相手の反応を自分なりに予想できるようになるわけである。もちろん期待はしばしば裏切られるが、その失敗経験も相手に対する期待についての新たな学習となる。双方がそれぞれに学習すれば、双方の期待もそれぞれにより信頼できるものとなり、2人の間にはそれなりの秩序が生まれ始めるだろう。もちろん期待は予想に過ぎず予知・予見ではない。ゆえに期待が裏切られ秩序が破壊される可能性は常に存在する。とはいえ、コミュニケーションの経験の蓄積から、2人はそれぞれに互いに対する期待を学習し、コミュニケーションの不可知性は少しずつ縮減する。

C 社会的な「私たち」の創発
 コミュニケーション不可知性が少しは低減したとしても、実際に話し手の発話を聞き手が関連性のあるものとして受け入れるかどうかは聞き手次第であることに変わりはない。つまりコミュニケーションにおいては、双方が相手に由来する期待をもとに発話し、その発話の解釈を相手に委ねる。「自らの行為」と私達が通常想定している発話は、実は相手がなくては準備も実行も完遂もできない行為である。ここでもって相手は自分にとって不可欠であるという認識が双方に生じるだろう。ここで、2人は別々の個人ではなく「私たち」となる。「私たち」は個人には還元できない社会的な自己である。その「私たち」を自己参照しながらコミュニケーションは継続する。「私たち」とは私たちのこれまでのコミュニケーションから想定されている概念であり、「私たち」はその過去のコミュニケーションに基づき、かつこれからの私たちのコミュニケーションを予期しながら、コミュニケーションを重ねる。コミュニケーションこそが「私たち」という概念の母体である。


■ まとめにかえて

 これまで説明してきたことに基づきコミュニケーションについてすこし発展的にまとめるなら次のようになるだろう(ここでも話を単純にするため2人の間でのコミュニケーションを考える)。

 コミュニケーションは、自分も相手も互いを基本的にはブラックボックスと考え、自分ができる範囲で相手を観察することから始める。その上でどちらかがまずは自分ができることとして自らの発話を選択する。その発話はその人なりに相手にとって関連性があると思った発話である。その発話を受けた相手もその人なりに観察・推測し発話を返す。双方がそれを行い続ければ、2人それぞれにコミュニケーションのあり方について学習し、そこには一種の社会的な秩序ができてくる。このコミュニケーションはどちらかの個人だけで準備・実行・完遂できるものでもないし、2人の個人(の思考と行動のレパートリー)の単純な合算によって作られたものでもない。コミュニケーションは、相手を自分の発話行為を定めるための必須の要因として観察・推測し発話しあう2人という新たな単位によって行われる。コミュニケーションを個人に帰属させることはできない。コミュニケーションは、コミュニケーションを行う「私たち」に帰属させるべきものである。あるいは少し異なる言い方をすれば「私たちのコミュニケーション」を自己参照しながら形成されるものである。だからといって「私たち」とは均質な存在ではない。2人が生物学的に1つの生物になるわけでもないし、同一の心理を有しているわけでもない。それぞれは別の生物学的・心理学的存在であり、それぞれに自分なりの複合性を有し、それぞれが互いを知り尽くすことはない。しかしながら、コミュニケーションによって結ばれた2人は、それまでの生物学的・心理学的個体としては経験できなかった自己をそれぞれに実感する。それは「私」というよりも「私たち」という自己と呼ぶべきかもしれない。これは個々人の生物学的・心理学的な実在性 (reality) を超えた、社会的な現実性 (actuality) を有するものである。こうしてコミュニケーションは社会的に形成され、そこには社会的な現実性が生じる。


関連記事
意識とコミュニケーションの関係についてのルーマン論文のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/blog-post_20.html




2019/09/02

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ



この記事は下の二つの記事の続きとしての「お勉強ノート」です。第6章の “How the Brain Makes Emotion” をまとめました。まとめ方は私の関心にしたがったもので、かつ、私の解釈も入っていますので、ご興味のある方は必ず原著を御覧ください。


Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html




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カテゴリー事例の決定 (categorization)
 ある状況において、ある人の脳の中に大きく「怒り」と表象できる概念 (concept) が活性化したとしても、その概念には実に多くの事例が含まれている。それらのうち、その人の身体の内受容 (interoception) やその他の感覚も含めた今の世界のあり方としてもっとも適したものとして選ばれる勝ち残り事例 (winning instance) を脳が決めることをカテゴリー事例の決定 (categorization) と呼ぶ。カテゴリー事例の決定がその人にとっての知覚 (perception) となりその人の行為を導く。 (pp. 112-113)

情報の要約 (summary) としての概念
 人間の脳にはさまざまな物理的・生物的制限があるので脳は効率的な情報処理をしなければならない。たとえばある種の点の連なりは「線」という概念で要約 (summarize) することができる。その概念を表象するニューロンの数は、さまざまな点の連なりそれぞれを表象するニューロンの数よりはるかに少なくて済む。「線」概念が重なったさまざまの事例の一部は「角度」概念として要約できる。要約を続ければ「目」概念、「顔」概念などとその抽象度を上げることができる。抽象度の高い概念はそれだけ効率的な情報の要約 (more efficient summaries of the information) である。 (p. 115)

補足:「顔」概念での知覚は、「目」概念での知覚と異なり、「目」概念以外の「鼻」概念や「口」概念なども含めて統合した知覚である。「顔」概念に必要なニューロンの数は、「目」「鼻」「口」などの「顔」を合成する諸概念のニューロンの数の合計よりもはるかに少ないだろう。ましてや、それは、「目」概念などを構成するさまざまな「角度」や「線」の概念のすべてを表象するニューロンの合計数よりも断然少ない。抽象度の高い概念をもつことにより、人間は効率良い情報処理ができる。

補足2:多層構造に関しては、私は下の記事をまとめた際に参照した動画からアナロジー的に理解しました。文系の悲しさで、きちんとした理解ができていないことを恥じます。

松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』




概念はマルチモーダルであるし非常に抽象的でもありうる
 上には視覚の例だけを出したが、もちろん概念には他のモードの感覚(たとえば聴覚、嗅覚、内受容感覚など)も含まれるという意味で多感覚的 (multisensory) であるし、「母」といった極めて抽象的な概念も含まれる。 (p. 116)

補足:「母」という概念は、例えば自分の母親に関してのさまざまな姿・声・匂い・内受容などの事例を含むだけでなく、これまで自分が接してきた他の人の母親に伴う事例、これまで接したことはないが自分の経験や記憶から想像できる母親についての事例、さらには「新宿の母」「母としての自然」といった比喩的表現に伴う事例も含んでいる。それぞれの「母」の事例にはさらにさまざまな下位概念を含むことを考えると、「母」概念は莫大な量の情報を要約している非常に抽象的な概念であることがわかる。

概念と予測はコインの裏表
 「ある概念の一事例を構築する」 (construct an instance of a concept) ことは、「ある概念の予測を出す」 (issue a prediction) ことと同じである。予測とは概念を「適用」することと考えることができる (Think of prediction as “applying” a concept)。この予測においては、さまざまな知覚入力を通じての修正や洗練 (correcting or refining) が行われる。(p. 118)

予測においては、細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じる
 たとえば今・ここでの諸感覚から「幸せ」という概念を想起し、その概念を基にして直近の未来のあり方を予測しようとすれば、その概念から数多くのより小さな(=低次の)概念が想起され、それらはそれぞれにさらに小さな概念を想起させ・・・といったことが何層にもわたって行われる。つまり諸感覚入力の要約 (a summary of all the sensory input) である「幸せ」概念を開いて (unpack) 、さらに細かな予測という巨大な滝の流れ (a gigantic cascade of more detailed predictions) が生じさせる。(p. 119)

補足:原著とは異なる図を私なりに作ってみた。最初に細かなお断りを入れておくと、この三層の図は極端な単純化で、本来、ニューロン(印)は何十・何百もの層にも重なっているはず(「何十・何百」という規模でいいのか自信がないのですが、それはそれとして)。また図としては本来、第一層のすべてのニューロンが第二層のすべてのニューロンに、第二層のすべてのニューロンは第三層のニューロンに線でつながれているべきなのですが(線は0から1までの間の重み付けをもつと仮定する)、面倒なので省略しました。



 もし諸感覚の入力から「幸せ」概念のニューロン(本来はニューロン集合でしょうが、ここでは議論を簡単にするために単一のニューロンとする)が活性化したなら(=頂上の印が活性化したなら)、それは第二層の多くのニューロンさらには第三層のさらに多くのニューロンを活性化させる。その活性化の過程でも諸入力は次々に入り続けるので、それらの諸入力ともっとも適合的なニューロン(=第三層のどれか一つの印)が活性化する。それが予測である。
 逆のプロセスを取るのが概念を形成することである。人はさまざまの事例(=第三層のさまざまな印)を経験し、それらは抽象化(=第二層のニューロンで表現)され、また周囲の人々の「それは幸せなことだったね」といった発話に教えられ、独自の「幸せ」概念(=第三層のニューロン)を作り出す(また、この概念形成は終結することなく、その時々の状況にもとづくゴールによって概念は新たに作られる)。

滝の流れの始まりと終わり
 概念の滝の流れは、内受容ネットワーク (interoceptive network) から始まり、一次感覚領域 (primary sensory regionの訳語として適切かどうかわかりません)で終わる。このことからあらゆる予測やカテゴリー事例の決定は、その人の身体の状態が関わっていることがわかる。 (pp. 121)

補足:内受容ネットワークについては下を参照

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

情動的細密性 (emotional granularity) が高いことの長所
 「心地よい」 (pleasant) といった幅広い(情動)概念が活性化すると、それだけ数多くの事例が予測されるが、これは脳に負担をかけることになる。他方、(情動)概念が細密化されていると(=高い細密性 (high granularity) をもつと)、可能な予測事例の数は少なくなり、予測はより効率よく (efficient) かつ精密 (precise) なものになる。 (p. 121)

補足:これも私なりに図を作ってみた。三角形の高さは前の図の三角形よりも高いが、両者の高さは実は同じものだと仮定してほしい。前の図が一つの三角形でカバーしていた領域を、この図の五つの三角形がカバーしていると想像してほしい。言い換えるなら、この図は前の図が表象していた概念をさらに五つに細分化しているわけである。



 このような細分化された概念を有する人は、より短時間でより精密な予測ができることになる。大胆に言い換えるなら、より多くの語彙を使いこなせる人は、より速くより緻密な予測ができることになる。もちろん概念はすべて言語化されていなければならないのではないのだから、例えば人の動きをより細密に識別できる武術家は、より素早くより効果的に相手を制することができるともいえるだろう(もちろんこの識別が意識的である必要はない)。

概念も母集団思考 (population thinking)
 補足:ここの解釈は私の考えがずいぶん入っていますので、この項の記述は「補足」といたします。この解釈を出した元は122ページの最初の段落です。
 概念も母集団思考で考えるべきである。ある概念はさまざまな事例から構成されており、その母集団をもって概念となしている。だが、人がある概念を活性化したとしても、それはその人がその概念のすべての事例をすべて想起しているといったことは意味しない。概念は事例の要約に過ぎない。
 また、異なる状況で違うゴールをもった場合は、別の仕方でその概念を活性化するだろう。つまり、その際にその概念に含まれる事例は前の時の事例とは異なっている可能性がある。したがってこの場合の予測は、前の場合の予測には含まれなかったようなものになる可能性がある。
 この意味で、事例の “population” という用語は、単なる「集団」ではなく、理念的な想定である「母集団」と訳した方がよいと私は考えます。
 とはいえ、私は進化論に関しての理解は非常に浅いので今後勉強を重ねてゆきたいと思っています(本を読む時間がほしい)。

実際の予測は、同時並行的かつ確率的に大量に行われる
 脳は刻々と何千もの予測を同時並行的に出している。予測はイチかゼロかといったものではなくどれも確率的 (probabilistic) であり、どれか一つだけの予測が100%正しいとしてそれに固執 (linger on) するようなことはない。

補足:武術オタク的にいうと心身が「居着く」と、100%とは言わないにせよ、ある状態が到来する可能性しか予測できず、心も身体もその準備にばかり動員されて、状態変化についてゆけなくなる。(参考:『古武術の極み: 身体の使い方には理がある 柔術稽古覚書其ノ一』)

数多くの予測を管理するコントロールネットワーク
 あまりに多くの予測が生じると脳は混乱するが、その混乱を解消するのがコントロールネットワーク (control network) である。たとえばある有名な図では、ACに挟まれればBと見え、1214に挟まれれば13に見える記号があるが、この場合、それぞれ二つの文脈に応じてコントロールネットワークが働いていると言える。ただしコントロールといっても中央管理ではなく、適当にいじくっている (tinker) といったイメージの方が実際に近いだろう。 (p. 123)

意味を作り出すという現象
 脳は、過去の経験に基づいて、次の瞬間に世界がどうなるか予測するメンタルモデルを常に有している。これが概念を用いて世界と身体から意味を作り出すという現象である。人が起きている時に脳は過去の経験を用い、それを概念として組織化して、次の行動を導くと共に感覚に意味を与える。 (Your brain has a mental model of the world as it will be in the next moment, developed from past experience. This is the phenomenon of making meaning from the world and the body using concepts. In every waking moment, your brain uses past experience, organized as concepts, to guide your actions and give your sensations meaning.) (p. 123)

補足:ここで私が思い出したのが「意味の流れ」 (a stream of meaning) を強調したボームの論です。ボームは、意味の流れが人々を結びつけるし、一見矛盾するような複数の考えも、それらの意味の流れが連動すれば、それだけ私たちはより真理に近づくとも述べます。予測とは、過去の経験に基づく「想起された現在」 (“the remembered present” by Gerald M. Edelman) と次の瞬間をつなぐ流れであり、かつその流れはどんどん到来する諸感覚入力により刻々と修正・洗練されながら連綿と続くものです。「意味とは流れである」という表現はそれほど間違っていないと私は考えます。

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David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

 他にも意識の統合情報理論は、意味の動態性を強調しました。

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J-STAGE: 中国地区英語教育学会研究紀要
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 意味については、下のような論考をまとめたこともあります。

「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17

意味についてはいつかしっかりとまとめた論考を書きたいと思います。心身を整えて「忙中閑あり」で時間を見つけてゆきたいと思います。

意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということ
 意味を作り出すということは、与えられた情報を超えるということである (To make meaning is to go beyond the information given)。心臓の早い鼓動には、走れるように四肢に十分な酸素を与えるといった物理的な機能がある。しかしカテゴリー事例の決定は、そういった身体変容が、幸せや怖れといった情動的な経験となることを可能とし、それにその人の文化内で理解された意味と機能を付け足す。カテゴリー事例の決定は、生物学的な信号に新たな機能を付け加えるが、これは物理的性質ではなく、その人の知識と周りの状況によって付け加えられるのである。 (p. 126)

情動は意味である
 情動は意味である (Emotions are meaning.)。情動は、内受容とそれに伴う身体変容性の感情 (affective feelings) を状況に応じた形で説明する。情動は行為の処方箋でもある。内受容ネットワークやコントロールネットワークといった概念を実行する脳システムは、意味を作り出す生物学的現象 (the biology of meaning-making) である。 (p. 126)

補足:繰り返しになるかと思いますが、このようにして考えると意味は生物的であり文化的であり、個人的であり社会的であり、生理的であり認知的であり、現在から過去を参照しつつ未来を志向しているといえるでしょう。
 意味を訳語に還元してしまうような単語集の丸暗記実践や、誰でも同じように同定できると想定する多肢選択試験に強烈な違和感を覚える私としては意味についての理解を深めてゆきたいと思っています。






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