2021/03/05

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈

  

 

はじめに

 

以下は、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の1-88節の個人的解釈をまとめた「お勉強ノート」です。読解を進める際には、鬼界彰夫先生の新訳に依拠しながら、重要な箇所については原著を参照しました。


 


 

 

この『哲学的探究』--私はこの本を『哲学探究』ではなく『哲学的探究』と呼び続けてきたので、ここでも私なりの言い方を踏襲します--は、「思考が一つの主題から別の主題へと自然に切れ目なく進む」(序)ようになっています。複雑で絡み合った主題群について書く際には、これがよい方法かと思いますが、私のまとめは、ウィトゲンシュタインの立論を言語教育での論考に使うためですので、以下、この本の節の順番を若干入れ替えています。

 

さらに注意すべきは、私はウィトゲンシュタインが使った比喩を、よりわかりやすくするために、少し変えたりすらしています。ですから、下の記事に「概略」とあっても、それがウィトゲンシュタインの論説の忠実な要約とは決して考えないでください。ウィトゲンシュタインの議論に少しでも興味をもった方は必ず上の翻訳書や原著をご参照ください。

 

また、本来はこの後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』をきちんと理解するためには、彼自身も言うように前期の『論理哲学論考』--これも『論理的哲学的論考』と呼ぶべきなのかもしれませんがそれはさておき--をきちんと参照しなければなりません。しかし以下のまとめではその作業を怠っていることもご承知おきください。

 

ちなみに私がこれまでウィトゲンシュタインについてまとめた記事には以下のものがあります。

 

関連記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から

 https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

 

 

「=>」の記号以降は、明らかな私の加筆(あるいは蛇足)です。ですが、上にも述べましたように、「=>」以前にも、私の補筆が多々含まれています。繰り返しますが、この記事のいかなる記述も、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の忠実な要約ではありませんので、お気をつけください。

 

 

 

 

古典的な言語観の批判

 

■ 古典的な言語観(第1節):

 

概略:言語の中の語 (Wörter / words) とは対象 (Gägenstande /objects) の名である。文とはそれらの語の結合である。すべての語には意味 (eine Bedeutung / a meaning) があり、それは語が表す対象である。しかし、古典的な言語観は名詞をもっぱら考えている

=> こういった古典的言語観は、英語学習で単語集の暗記(学習する英単語とその訳語の一対一対応暗記)を学習者にやらせる教師にも引き継がれている。その結果、学習者もことばを学ぶのはこういうものだと信じるようになる。

 

 

■ 学校で再生産される古典的な言語観(第7節):

 

概略:学校でも、教師が対象を指差すと学習者がその対象の名を発音する指導や、さらに教師がその名を手本として発音してそれを学習者が繰り返す指導がある。

 => 日本の英語教育(特に中学校)でもまさにこのような活動が見られるのは周知の通り。

 

 

■ 名詞以外の語についての古典的言語観(第14節):

 

概略:「名詞以外の語にも、名詞と同じように対象という意味がある」という主張をすることも不可能ではない。動詞や形容詞、はては前置詞や接続詞などにも、それらの語が指している「対象」があるというわけである。しかしそれは、「あらゆる道具は何かを変えるのに役立つ。例えばのこぎりは板の形を変形させ、ものさしは物の大きさに関するわたしたちの知識を変化させる」と主張するようなものだ。そのような理屈を立てることは確かに可能だが、そのような立論にはどのような利点があるのだろうか。実践上有益な利点があるとは思えない。

 

関連記事

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

 

=> 「名詞以外の語の意味も、その対象を指示することで示される」という考え方は、たとえば動詞の意味を、ある種の表象(図示記号での表現)で表し、その表象は神経細胞のレベルでも存在するはずだという主張にも見られる。このような意味観では、あらゆる語の意味は、神経細胞のレベルで一義的に特定できる物理学的(あるいは生理学的・生物学的)対象であるとなる。だが、神経科学では、一般に、ある概念を想起している人間が、常に特定の神経細胞単体や神経細胞の集まりを活性化させているわけではないことを示している。たとえば、自分のおばあさんを表象している特定の「おばあさん細胞」といった単一の細胞は存在しない。縮重・縮退 (degeneracy) と呼ばれる現象は、ニューロンのさまざまな組み合わせ (combinations) が同じ結果(outcome) を出しうることを示している。

もちろんある語の意味を、ある表象(図や記号での表現)で説明することはできる。しかし、それは後に述べるように、可能な説明の一つであり、ある種の困惑を抱えている人々のために最適なものとして考案され使用されるものに過ぎない(第29節、第87節)。そういった表象は、一つのモデルあるいは「比較の対象」(第131節)として捉えられるべきである。モデルは現実を単純化・歪曲化した表現であり、比較の対象は現実を理想化した表現である(例えば物差しが現実世界にはほとんど見られない直線や1センチといった特定の長さを理想的に表現しているように)。モデルも比較の対象も現実の忠実な表現ではない。

 

関連記事

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

 

 

■ 名詞についての古典的言語観(第28節):

 概略:名詞以外の語についてはともかくも、名詞については「これがXである」や「これをXと呼ぶ」という形で、対象を指差しながら「X」という語(名詞)を定義できる(直示的定義: hinweisende Definition / ostensive definition) と古典的言語観をもつ者は主張するかもしれない。しかし例えばドイツ語教師が赤ペンと黒ペンが書かれてある図を示して “zwei” と言ったとしても、 “zwei” は「2」ではなく「筆記用具」を意味すると解釈する学習者もいるかもしれない。直示的定義ですら、定義者の意図以外の解釈を許す可能性があることを忘れてはならない。

 => 上の例はそれほど説得力があるようには思えないかもしれないが、クワインの根源的翻訳やデイヴィッドソンの根源的解釈の立論は、説明を受けた者が定義者の意図とは異なる解釈をしてしまう可能性について述べている。もっとも定義者と説明を受ける者が、十分に生活を共にし、お互いの興味関心のあり方を知るようになればそのような誤解は少なくなると考えるのが常識的なところだろう。

 

Wikipedia: Radical translation

https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_translation

Wikipedia: Radical interpretation

https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_interpretation

授業用スライド

https://app.box.com/s/my02oalacetso38t4vsz

二項対立の間でデイヴィドソンを考える

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/blog-post_13.html

「コミュニケーションの極から考える」(2001/8/3)および「コミュニケーションという革新」(2001/5/20)

https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay01.html

のページにあります。スクロールかCtrl+Fで探してください。

デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00027396

コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028105

 

 

■ 名詞についての古典的言語観の続き(第29節):

 概略:「2」についての直示的定義を「この数が『2』だ」と「数」という語を補って行えば、たしかに誤解の可能性は低くなるだろう。しかし今度は「数」という対象をどのように直示的に定義するかという問題が生じてくる。私たちは「すべての名詞の対象は直示的定義をすることができる」という考えをそろそろ捨て去るべきではないだろうか。

 => 「これがXである」という直示的定義は、たしかに語の定義や説明のプロトタイプ(典型例)として私たちが考えるものかもしれない。だが当然のことながら、プロトタイプをすべての事例に当てはまると考えるのは間違いである(日本人の多くが雀を鳥のプロトタイプと考えたとしても、雀がもつ特徴をダチョウやペンギンを含めたすべての鳥が有しているわけではない)。直示的定義がすべての語について可能であると主張することについては、「『X』の語の意味は、この一定のニューロン群の活性化である」という主張も含めて、私たちは懐疑的になるべきではないだろうか。

  

■ 説明は、説明を受ける者やその時の状況次第である(第29節):

 概略:また重要なのは、上の「2」についての直示的定義で「数」という語を補ったことは、相手がどのような誤解をするかを定義者が推測できていたからこそだということに気づくことである。直示的定義に何か別の語を補うにせよ、どの語を補うかは、相手や状況次第である。どんな相手や状況でも補うべき語を想像することは容易ではないし、もしそのような語があったとしても、今度はその語をどのように直示的定義するかという問題が残ることは上で述べたとおりである。

 => 教師がしばしば経験することは、教師が完璧な定義と思う説明をしても、それを誤解する学習者は必ずといっていいほど存在することである。頭でっかちの教師は完璧な説明を目指すが、有能な教師は学習者の反応を日頃からよく観察し(というよりうまく引き出し)、学習者がどのような誤解をしやすいかを学ぶ。その上で、自分が担当する学習者のための説明を考案する。さらには、学習者仲間で話し合わせ、学習内容を理解した学習者が理解につまずいている仲間のために行う説明を促す。学習者仲間の説明は、教師による説明よりも有効であることは珍しくはないことは、『学び合い』の実践も伝えるとおりである。

 

関連記事

<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して—

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

 

 

■ 説明された語をどう使うかによって、その人が語をどのように理解しているかがわかる(第29節):

 概略:ある語について説明を受けた者が、その語を正しく理解しているかは、その人がその語の定義(あるいは対象の名)を再生できることだけではわからない。理解は、その人がその語をどのように使うかによってわかる。

 => 単語集や単語テストを偏愛する教師は、学習者がある英単語の日本語(もしくは英語による定義)を再生したり特定したりできたら、学習者はその語を理解(あるいは獲得)できたものだとみなす。かくして学習者は長年にわたり単語テスト対策の勉強を続ける。優等生は単語テストで高得点を取り続けるが、その優等生ですらその単語をスピーキングやライティングで使うことができないことは珍しくはない。それどころか、リーディングやリスニングでも暗記した訳語(あるいは定義)に引きずられるあまりその語の意味を誤解し、正しくその語が使われている文の意味を理解できない場合もある。

 おそらく単語テストを学習者に与え続ける教師も、単語テストだけでは語の理解や獲得は正しく評価することはできないことを知っているのだろう(この場合の「正しく評価」とは、その語を使えるかどうかを評価できるかということである)。ただ単語テスト以外に学習者を簡単に管理できる方法がないから単語テストを続けているだけなのかもしれない(ここには「教育とは学習者の管理である」という考えが隠れているが、この根強い偏見についてはここではこれ以上述べない)。しかし、こういった教師は、自らの「教育的指導」が学習者にどのような長期的影響を与えているのかを重々に理解するべきでる。

  

■ その語がどのような役割を果たしているかをすでに理解している者には直示的定義が成功する(第30-31節):

 概略:例えば、「これがオーディオインターフェイスだよ」という直示的定義が何らかの有用性をもつのは、「オーディオインターフェイス」とは音楽再生のために使われる機器の一つであり、入力機器と出力機器をつなぐ役割を担っている、などの理解をもっている人だけだろう。そのような理解をもっていない人は、いくら説明者が機器を(必要ならば何種類もの機器を)正しく指差しながら、「これがオーディオインターフェイスだよ」と直示的定義を繰り返しても、その語について理解を深めることはできない。

 => 「 “take” は『取る』だよ」と、 “take” の意味とされる「取る」という対象を学習者に直示的定義し続ける教師(あるいは単語集や単語テスト)は、「取る」という日本語が “take” という語の役割を十分に説明すると想定している。だが「取る」は“take” の役割のごく一部を説明するだけである。ここでもプロトタイプをすべての事例に当てはめる間違い(ステレオタイプの過剰な一般化)が見られる。だが、ひょっとしたら英語に教科書と問題集でしか接しないごく一部の英語教師は、訳語の提示はそれほど悪くないと思っているのかもしれない。

 

 

■ 意味の使用説の提示(第43説):

 概略:たしかにある語の「意味」を、その語が指し示している対象として説明することが可能な場合はある。しかし、大多数の場合においては、語の意味は、その語がその言語の中でどのように使われているかによって説明できる (die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. / the meaning of a word is its use in the language) と言うべきであろう。

 => 意味をある対象に求める静態的な意味観から、意味はその語がどのように使われているかを理解するという動態的な意味観へ転換することは、大転換である。意味を、たとえば訳語や定義(あるいは意味の心的モデルや神経学的実体)といった確固たる実体ではなく、「ああ、この文ではこのように使われている」、「この文ではこのような役割を果たしているのだ」といったとらえどころがなく、いつ終わるともしれない過程に求めることだからである。この転換は、意味理解のカテゴリーが変わる大きな認識論的な変化であり、古典的言語観に囚われている者にとっては容易なことではない。

 

関連論文

柳瀬陽介 (2018) 「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論 ―英語教育における意味の矮小化に抗して―」

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53

 

 

  

言語ゲーム論

 

■ 語が標準化されて認識されるところに混乱の源がある(第11節):

 概略:語は、語りの中の音声で使われている時でも、手書きの文字で使われている時でも、広範囲に配布される印刷物の中の活字で使われている時も、「それらはそもそも同一の語だろう」という考えから、まったく同じものとして扱われることが多い。語の使われ方が、とらえどころがなく流動的なので私たちの認識からこぼれ落ちがちであり、語の使用の代わりに、語の形ばかりが(私たちの頭の中で理想化・標準化されて)語の特徴として認識される。

 => ウィトゲンシュタインは、とりわけ哲学者が、さまざまに使われている語をおしなべて一様に認識してしまうと述べているが、この認識は言語学者や言語教師も共有していると言うべきだろう。言語学者や言語教師の多くは、音声も手書き文字も、あたかもすべて活字に変換して認識しているようである。これらの「学識者」は言語の周囲や前後を取り巻く非言語的な要素を見事なほどに見落とすことによって、自分たちの研究や指導を成立させている。だがそういった偏った認識を克服することが、古くて新しい問題なのではないだろうか。

 

 

■ 「言語ゲーム」という用語の導入(第7節):

 概略:ことばと、それと折り合わされている活動の総体を「言語ゲーム」 (Sprachspiele / language-games) と呼ぶこととしよう。

 =>この表現を、「言語ゲーム」という語の意味を十全に伝える「定義」(という対象)とみなすことは、これまでの議論を否定することである。私たちはウィトゲンシュタインが、この語をどう使うか、そしてその使用によってわたしたちの認識がどう変わるかということを観察し、その結果、この「言語ゲーム」という用語を使うことが有用だと考えるならばこの語を自らも使うべきだろう—そうやってこの語を使うことが、この語の「意味」である。

  ここで第120節の比喩を先取りして導入するなら、「ことばとその意味の関係は、お金とその効用の関係に似ている」となる。「お金」(例えば1万円)の意味は、「1万円で買えるある特定の商品」だけではなく、「1万円がなしうることすべて」--さまざまな商品を買ったり、商品でないものを譲ってもらったり、他人を祝ったり侮辱したりするなどのすべてのこと--と考えた方がいいだろう。ここで「すべてのこと」とは何かという問いが生じるかもしれないが、その問いについては後で考察する。

 

 

■ 「言語ゲーム」の多様性(第23節):

 概略:「言語ゲーム」とは、言語を使うことが、ある活動もしくは暮らし方・生き方の一部であること (das Sprechen der Sprache ein Teil ist einer Tätigkeit, oder einer Lebenfrom / The speaking of language is part of an activity, or a form of life) を強調するために用いる用語である。次のような言語の使い方、およびそこから想起される人間の営みを思い起こしてみよう。 

命令、観察、測定、記述、報告、推測、仮設、検証、図説、創作、朗読、演劇、歌唱、謎解き、冗談、小話、問題解決、翻訳、依頼、感謝、呪い、挨拶、祈り、などなど。

 この言語ゲームの多様性は、『論理哲学論考』を執筆し「命題(文)の一般形式」を考えていた頃のウィトゲンシュタインのような論理学者の言語観や、平叙文・疑問文・命令文の分類だけでよしとする言語学者の言語観にはまったく見られないものである。

=>言語ゲームの例示には、念のために「などなど」という表現をつけるべきであろう。それが後に述べる「親族的類似性(家族的類似性)」が強調することである。

また、多様性を見ようとするか、還元的な単純性を見ようとするかは、相反するともいってもよい認識スタイルの違いである。ある生物学者は、森を散策しながら木や葉や花の形態および色彩の多様性を愛でるかもしれないが、別の生物学者はこれらがすべて塩基配列の所産であることに改めて驚嘆するであろう。多様性を見ようとする認識と一元的な要素を見ようとする認識の、どちらも貴重なものであり、一律的な優劣をつけるべきではないだろう。だが、ある目的のためには、どちらの認識が有用であるかという判断は可能であるし時に必要でもあるだろう。

 

 

■ 本質的特徴でなく類似性によって「言語ゲーム」ひいては「言語」という概念を捉える(第65節):

 概略:「言語ゲーム」という概念によってさまざまな言語の使用法が語られているが、この言語ゲーム論では「言語ゲームの本質」 (das Wesentliche des Sprachspiels / what is essential to a language-game) は語られていない。あらゆる言語ゲームに共通する要素が何であるかについて一向に触れようとしていない。ましてや「言語の本質」についてはまったく語られていない。これは「命題の一般形式」あるいは「言語の一般形式」を追求しようとした『論理哲学論考』とはまったく異なる態度である。

  しかし『哲学探究』でウィトゲンシュタインが示したのは、「さまざまな現象に共通するものがあるという理由で私たちはある特定の語を使うのではない」という考え方である。そうではなくて、「さまざまな現象は、相互にいろいろと異なった仕方で類似しているだけであり、私たちはその類似性 (Verwandschaft / affinity) ゆえに、ある特定の語を使っているのだ」というのが『哲学探究』でウィトゲンシュタインが示した考え方である。

 => ウィトゲンシュタインは例えば第18節で古い街並みがどんどんと拡張されて新しい都市となってゆく例を挙げたり、第23節や第68節で数の概念の広がりの例を挙げたりして、この類似性によるつながりを説明している。だが進化によりさまざまな形態をもつようになった種の例を挙げる方がわかりやすいかもしれない。ダーウィンに基づくとされる “population thinking” については下の論説でも触れたが、進化論がもたらした認識の変化について少しはきちんと勉強しなくてはと思い続け、一向に勉強が進んでいない。

 

関連記事

<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して—

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

 

 別の角度から補うと、第14節に出てきた「すべての道具は何かを変形するのに役立つ」といった論法で、すべての現象に共通な要素を説明することもできるだろう。ウィトゲンシュタインもその可能性は否定しない。私も「名詞にゼロ冠詞が付いている」といった小理屈を立てて説明することもある。そういった説明法の方がすっきりする場合もあるからだ。

  そうなると大切なのは、ある語が示すすべての現象に共通なものがあるかないかということで論争を始めるのではなく、どちらの認識で物事を捉えたほうが有益だろうかというpragmaticな態度ではないだろうかというのが私の解釈である。とはいえ、私は常々pragmatistでありたいと願っているので、pragmaticな認識を重視する傾向がある。私の解釈はその傾向ゆえの偏見かもしれない。

 

 

■ 「考えるな、見よ!」 (denk nicht, sondern schau! / don’t think, but look!) (第66節)

 概略:ある語の意味を考える時、「何か共通なものがあるに違いない。さもなければ、同じ語(例えば「ゲーム」)を適用するはずがないから」 (Es muß ihnen etwas gemeinsam sein, sonst heißen sie nicht ‘Spiele’ / They must have something in common, or they would not be called ‘games’ )という先入観で考えてはならない。考える前に、見ること、観察することが大切である。複雑な網の目のように互いに重なり交差しているさまざまな類似性、大小さまざまな規模での類似性をまずは見なければならない。

 => 観察しているうちに、ある1つの類似性が見えてきたり、それとは別の種類の類似性が見えてきたりするかもしれない。(私は実際、そのようにして英単語の意味を指導している)。その結果、複数の類似性をさらにまとめるいわば高次の類似性が見いだせればその類似性についても言及してもいいかもしれない。しかし大切なのは、まずは観察して、それを記述することから始めることであり、最初から理論を構築しようとしないことである。

 

 

■ 「家族的類似性」(第67節)

 概略:このような類似性をウィトゲンシュタインは「家族的類似性」 (Familienähnlichkeiten/ family resemblances) と呼ぶ。ある一族の人たち -- そこには当然夫婦のようにそもそもの血統がまったく異なる人たちも含まれる--が、さまざまな種類の類似性をもちながら「ファミリー(親族)」を形成している様子を思い起こすことが、この類似性を理解することに役立つからだ。

  他のたとえを使うなら、長い一本の糸を考えてもよい。糸は多くの繊維が重なり合うことにより成立しているが、長い糸の最初から最後まで貫いている繊維はない。

 => いろんな折に言っているので、ここでは長く繰り返さないが、核家族を連想させる「家族」という用語よりも、大家族を連想させる「親族」という訳語を使って「親族的類似性」と呼んだ方がいいのではないかと私は思っている。

 

 

■ 概念は、必ずしも下位概念の論理和というわけではない。はっきりとした境界をもたない概念も多いからだ(第68節)

 概略:言語ゲームや家族的類似性の説明を受けても、論理や概念の明晰性を保とうとして、概念はその概念を構成するすべての下位概念を足したもの (die logische Summe jener einzelnen mit einander verwandten Begriffe / the logical some of those individual interrelated concepts) であると主張したがる人もいるかもしれない。しかし、多くの概念には明確な境界があるわけではない。ウィトゲンシュタインが言うように「数」の境界もはっきりしているわけでもない。さらに補うなら「生命」や「知性」にも明確な概念境界はない。

  もちろん、ある概念を明確に区切ろうとして、境界を引くことはできる。だが、境界を引く以前に、私たちは問題なくその概念を使っていたことは忘れないでほしい。

 => 単純に概念を下位概念の論理和とすることはできないという反論には、上の反論以外にも、下位概念が相互排他的でなく相互に重なり合っているの論理和とすることもできないとか、別の区分で下位概念を設定したりすることもできるのでそうそう単純には考えられないとかいうものもあるだろう。

  また、新たに概念に境界線を引くことは、「この論文では○○の概念を△△と定義し、XXといった事例は考えないことする」といった例でも見ることができる。そうでもしないと、所定のページで簡潔に議論をすることができないからだ。だが、そうやって境界を定められた概念こそが真の概念だなどと思い違いをしてはならない。

 

 

■ 私たちは例示によって説明をする(第71節)

 概略:私たちは何かの概念を説明する時に、さまざまな事例をあげて、「このような意味なのだ」と説明する。この説明によって、説明者は、説明者自身が言語化できない共通要素を学習者が何らかの神秘的な方法で獲得してほしいと願っているのではない。説明者は、さまざまな例を示すことによって、学習者もその概念をそれらの例の類似性によって示されたように使うようになってほしいと願っているだけである。複数の例を示すことは、よりよい手段がないから仕方なく用いる間接的な手段ではない。どのような一般的な説明であっても、誤解される可能性があることを忘れてはならない(第28-31節も参照のこと)。

 => もちろん説明者は複数の例を出した後に、「これらの例が示すように、○○のような意味が、この概念の意味なのだ」と「○○」という総括表現を補うかもしれない。だが、この「○○」を、それ単体で定義となる説明であると考えてはならない。この「○○」は、示された特定例や、説明者の意図あるいは学習者のそれまでの理解などのさまざまな文脈的な要素に組み込まれた上で意味をなす説明である。「○○」は、ポラニーの用語の「伝承」 (maxims) に似ているかもしれない。伝承を覚えるだけでは(説明された概念を使いこなすという)技芸を獲得することはできない。伝承は、技芸の実践的知識の中で統合されなければ役に立たない。

 

関連記事

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

 

 

■ 例示による説明で、説明者の知識は十分に表現されている(第75節)

 概略:ある説明者が、ある概念の例を複数示し、そこからのアナロジーで他にどのような例が考えられるか、また逆にどのような例は考えられないかを示したりしたら、その説明者の知識は十分に示されたと言ってよいのではないか。

 => もちろん、その説明者も、学習者が予想もしなかった誤用を示すと「いやいや、そんな例は考えていなかったけれど、そのような使い方はしない」と説明を更新するだろう。また別の文脈にいる別の学習者には、別の説明をするかもしれない。しかし、それらの説明はその説明者にとってのその時々での最善の説明というべきであろう。もちろん、後で「あの例も付け加えるべきだった」と後悔することもあるだろうから、それらの説明は「その時々の」最善の説明であるにすぎない。だから、矛盾表現になってしまうが、次の瞬間には「その最善よりもさらによい説明」が出てくるかもしれない。とはいえ、それらの説明は、複数の例と、「これらの例が示すように○○のような」といった文脈に依存した総括しかないからといって不完全な説明と非難されるべきではない。このような説明を「不完全」と断じる人は、すべての事例に共通し、その説明だけで概念が必要十分に定義できる説明を求めているのかもしれないが、人工的に新たに作り、それ以上にその利用を拡張する予定がまったくない概念でもない限り、そのような説明は得られない。

 

 

■ たとえば「よい」ということばの意味を私たちはどのように学び、どのように使っているかを思い起こしてみよう。(第77節)

 概略:言語ゲームや家族的類似性の考え方をどうしても受け入れがたいのなら、例えば私たちが「よい」ということばの意味をどのように学んだか、そしてどのように使っているかを思い起こすといいだろう。

 => まさに「考えるな、見よ」(第66節)の例であろう。しかしウィトゲンシュタインにはこの表現を含め、魅力的な表現が多いので、それを乱用しないようにしないといけない。Bruce Leeの “Don’t think. Feel.” という台詞は有名になりすぎて笑いのネタにされることもあるが、本来は非常に深いことばである。「考えるな、見よ」も同じように深い格言として慎重に使うべきだろう。

 

 

■ 「知っていること」と「語ること」は同じではない。(第78節)

 概略:「モンブランの高さは何メートルか」と問われて答える人の知っていることと語ることはほぼ同じかもしれないが、「クラリネットはどんな音がするのか」と問われた音楽家が語る言語と、その人がもっている知識はまったく異なる。(「『ゲーム』ということばはどのように使用されるか」と問われた人の答えと知識の例は、モンブランとクラリネットの例の中間にある例といえるだろう)。だが、しばしば人は、モンブランのような例だけでもって知識を考えようとする。

 => モンブランのような例しか考えない、あるいはそのような例のところで知識についての境界線を引いてしまおうとする人は、ポラニーの暗黙知についても否定するのだろうか?

 

関連記事

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

 

 

■ 想像できるすべての誤解を取り除くことを、説明に求めるべきではない(第87節)

 概略:説明 (eine Erklärung / an explanation)の働きとは、その説明がなければ生じてしまう誤解を取り除いたり、予防したりすることであり、想像しうるあらゆる誤解を取り除いたり、予防することなのではない。

 => 一方的に説明をして、それで学びそこねたら、それは学習者の責任と断じてしまう教師はともかく、丁寧に説明をしても学習者が多種多様な誤解をすることを知っている教師なら、このウィトゲンシュタインのことばは身にしみるだろう。多くの良心的な教師は、若いうちは「完全な説明」を求めて教材研究を重ねるが、学習者との交流を通じて、そのような執着から自由になって、学習者の学びを第一に考えるようになる。その結果、ある教師は、教師の説明は最小限に抑えるべきと考えるようにもなる。

 

 

■ 唯一無二の普遍的な「厳密さ」があるわけではない(第88節)

 概略:「厳密でない」ということばは、しばしば正当な批判のことばである。だが、「厳密さ」とは一律なものではなく、目的や状況次第である。家具職人に千分の一ミリ単位で注文を出さなければ厳密ではないというわけではない。

 => あることばを聞いた時に、そのことばには「本質」(共通要素)があるに違いないとか、「それは1つの意味しかもっていないに違いない」と私たちは考えがちである。私たちはさまざまな様態で使われている一つ一つの言語使用を、あたかも活字化し(第11節)、標準化さらには理想化してしまう癖をもっているからである。この癖に気づき、その癖から生じてくる難問は、実は解く必要のない問題にすぎないことを知ることが哲学の効用であり、以上の節に続く『哲学探究』の89-133節の重要なテーマである。

 

次の記事

ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の89-133節の個人的解釈

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/89-133.html

 

 

2021/03/03

國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて

 


以前読んだ國分功一郎先生による『中動態の世界』は圧倒的に面白い本であった。

 

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html

 

本書『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』は、國分先生に深い影響を与えている熊谷晋一郎先生との対談本です。発刊されてすぐに購入したのですが、長い間読むことができませんでした。最近、ようやく読了することができましたので、以下に、本書を引用しながら私なりのエッセイを書くことで、この本を紹介いたします。


 

 

 

*****

 

 

■ 「英語が話せる」と「私は英語を話す」の違い

 

「英語が話せる」ようになりたいという学習者は多い。だが、英語教師はしばしば自覚抜きにこの表現を、「学習者が、「私は(が)英語を話す」 という事態を欲している」と翻訳してしまう。中核部分である「私は(が)英語を話す」だけを抜き出せば、<学習者という主体が、英語という客体を、話すという行為で使う>という図式で理解する。英語で表現するなら、"I speak English" という <Subject + Action + Object> の枠組みで考えるわけだ。

 

と言われても何のことかわからない方も多いかもしれない。しかし、中動態 (middle voice) という文法の考え方を導入すればこれらの違いが少しはわかるようになる。とりあえずは、「英語が話せる」という表現が表している事態と、「私は(が)英語を話す」が表している事態の違いについて考えてみよう。

 

前者の「(私は)英語が話せる」という表現は、<「私」という場所において、「英語が話せる」という出来事が生じる>ことを表していると解釈できる。「私」とはその出来事の過程が展開する場である。この表現は以下の中動態の定義に当てはまると考えられる。

 

「中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」 (エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(岸本通夫訳、みすず書房、1983年、169頁:本書p 97からの孫引き)

 

安直にWikipediaを見ると(自分の不勉強ぶりに嘆息)、Zúñiga, F., & Kittilä, S. (2019). Grammatical voice. Cambridge: Cambridge University Press.を参考文献として掲げた上で、次のような中動態の特徴が掲載されている。

 

The subject of such middle voice is like the subject of active voice as well as the subject of passive voice, in that it performs an action, and is also affected by that action

https://en.wikipedia.org/wiki/Voice_(grammar)#Middle_voice

拙訳:中動態の主語は、能動態の主語とも受動態の主語とも似ている。なぜなら中動態の主語は、行為を遂行しながらも行為によって影響を受けるからである。

 

この定義からも、「(私は)英語が話せる」という表現は、中動態的な事態を表現していると考えることができる。以下の解釈が可能だろう。

 

<私という場所において、私が英語を話すという事態が生じる>

 

だが上の表現では丸括弧付きで「私は」を補ったが、そもそも堅苦しく「私は」を入れる必要はないのかもしれない。日本語の口語表現ならば、「英語が話せる」の方が、「私は英語が話せる」よりも自然かもしれない。

後者は、「他の人とは違って、私は・・・」という「取り立て助詞」として「私は」が使われていると考えた方がいいだろう (益岡隆志・田窪行則 (1992) 『基礎日本語文法 改訂版』 くろしお出版 p. 50)。

日本語ではしばしば主語が省略される。というより、日本語文法ではそもそも「主語」という概念を設定しない方が、説明が合理的になる(三上章  (1960) 『象は鼻が長い』くろしお出版)。

「は」は、(主語ではなく)主題を提示する提題助詞であると三上文法、およびそれに影響を受けている益岡・田窪の文法は考える。(関連記事:文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―) 聞くところによると外国人に日本語を教える現場では、この日本語の「は」は主題提示であるという教え方が好まれているともいう。

 

ともあれ、日本語では、英語のような主語がない「英語が話せる」ようになりたいという願望表現は極めて自然だということには異論はないだろう。

 

だがこの願望は、「私は(が)英語を話す」 (I speak English) ことに関する希望に翻訳することができる。この表現は、中動態的事態を能動態的に表現したものだ。

 

能動態の説明など今さらと思うかもしれないが、能動態を中動態と対立させて定義するなら次のようになる。

 

「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。 (エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』(岸本通夫訳、みすず書房、1983年、169頁:本書p 97からの孫引き)

 

現代の英語などでは、能動態と中動態の対立ではなく、能動態と受動態の対立で言語の働きが成立している。したがって、この上の定義を現代英語に当てはめるのは正当ではないのかもしれない。だが、あえてこの中動態との対比で定義される能動態の枠組みで解釈するなら、「私は(が)英語を話す」 (I speak English) は次のような事態を表現していると解釈することができる。

 

<私という主体は、「英語を話す」という行為を、私の外で行う>

 

この解釈での「私」は、英語を話している自分とは別の場所に定位される。デカルトの心身二元論よろしく、次の解釈が導かれる。

 

<非身体的な「私」という主体が、「私の身体」という客体を使用して、「その身体が英語を話す」という事態をもたらす>

 

ここでは、「私」と「私の身体」が分離している。「私」は「私の身体」の一部ではない。「私の身体」とは、「私」によって使用される客体(対象)なのだ。また、「英語」も「その身体」の外部にある。「英語」と「身体」も分離している。

 

この分離的な認識は、多くの現代人に共有されている。私が身体論を説くと、多くの人がやってきて「ご意見に賛成です。正確な練習を繰り返して、自分の身体(口舌などの発声機関)を正確にコントロールできるようにならないと駄目ですよね」と語りかけてくる。

 

もちろん私もそのような見解がまったく間違っているとは思わない。現実的には、技能獲得訓練の一部には「機械的」と称されても仕方がないような反復練習もある。だが、その際でも、「私」と「私の身体」は、支配者と被支配者あるいは制御者と物体のような一方的支配関係にはない。仮に最初はそのようにしか思えなかったとしても、「私」と「私の身体」を融合して一つにするのが反復訓練だと私は認識している。

 

私からすれば音楽演奏やスポーツを学んだ経験がある人なら、このような認識はすぐにわかってもらえるはずだと思っている。だが、現在、一般人で運動を行っている人の中の多くは、筋肉トレーニング(筋トレ)ばかりを行っているので、<「私」が「私の身体(筋肉)」を支配的に使用する>という発想からなかなか抜け出すことができない。

 

そこで本書を引用しながら、今一度、使用とは何かについて考え直してみよう。

 

 

■ 使用論:「何かを使用する」とはどういう事態なのか?

 

この本では、ジョルジュ・アガンペンの『身体の使用』が随所で引用され、論説を補強している。私はこの本を未読だし、原著はイタリア語なので、読んだとしても翻訳の日本語しか頼ることはできないので甚だ心もとないのだが、それよりも恥ずかしい孫引きを以下に行う。

 

「主体は動作を支配するのではなく、みずからが動作の起こる場所なのである」(ジョルジュ・アガンペン著、上村忠男訳 (2016) 『身体の使用』 https://amzn.to/2NFXOkb  (p. 59)   みすず書房からの孫引き) (p. 353)

 

補記:上の翻訳の「みずからが」の「が」の意味が今ひとつはっきりとはわからない。翻訳書からの引用ミスなのか、それとも翻訳書ではこの通りになっているのかがわからない。もし後者だとしたら、原著を見ればよいのだが、私はイタリア語がまったくできないので、原著参照も無意味である。後日、日本語訳を読んで面白かったら、英訳も参照してみよう。原著を読むことができないにせよ、2種類の翻訳を比べてみれば何か少しはわかるかもしれない。

 

この見解は、日本語で考えれば非常によくわかる。上でも述べたように、例えば日本語の「私は」は、主語ではなく主題 (topic) を表す表現である。 “Topic” の語源は “topo(s)” であるから、「主題 (topic)」 を「場所」と訳すことは牽強付会ではない。となると、上の引用文は次のように解釈できる。

 

「私」は、動作を支配する動作主 (agent) ではなく、動作が起こる場所である。日本語の「私は」は、文法上の主語 (subject) と認識されることも多いが、実は、文が語る話題が展開される場所 (topic) と考えるべきである。「私」とは、「私の動作」 (action) という客体 (object) を引き起こす動作主 (agent) ではない。「私」とは「私の動作」が生じる場所であり、そこにおいて「私」と「私の動作」は分離し難い。

 

この解釈は極めて日本語的でありながら、中動態的でもある。動作が生じる過程は、私という場所で展開する。私は、その過程の中にある。少なくも「私」と「私の動作」は分離していない。「私」は、「私の動作」を遂行している主体のようであるが、「私の動作」によって影響も受けている。

 

この発想法は、現代英語では珍しいかもしれない。現代英語では、文法上の主語 (subject) が、動作を表す述語・動詞の動作手 (agent) であり、文の話題 (topic) でもあることが好まれることが数々の文体指南書が示すことだからである。(日本語での文献なら、たとえば遠田和子 (2018) 『究極の英語ライティング』がわかりやすい)。

 

日本語話者は、本来は中動態的発想に慣れ親しんでいるはずなのだが、英語の発想に影響を受けた英語教師などは、中動態発想を忘れ、能動態的な認識ばかりをするようになっているのではないだろうか(根拠のない我田引水的な憶測)。そして、「英語が話せる」ようになりたいという学習者の希望を、<学習者という主体が、「英語を話す」という行為を、学習者の外で遂行する>、ひいては<非身体的な学習者という主体が、「その学習者の身体」という客体を使用して、「その身体が英語を話す」という事態をもたらす>という図式で捉えているのではないか。

 

その結果、学習者が英語や自分の身体をよそよそしいものとみなしてもそれは当然だと思っているのではないか(「この単語をいやでも20回書く!」、「理屈はいいからとにかく音読!」などなど)。自らが学ぶ内容や自らの身体が、自らを疎外することを気にせず、むしろその苦痛に耐えることこそが勉強だと学習者に思わせているのではないか。

 

そもそもそんな英語教師は、自らの英語学習も、自ら学ぶ内容と自らの身体が生み出してくる疎外感との戦いであり、その苦痛に打ち勝ったからこそ、自分は英語試験で高得点を取れた(だが、不思議なことに、英語はそれほど身についていない)と思っているのではないか。

 

私はかつて『英語教師は楽しい』という本の「学習者と教師が主体性を取り戻すために」という章で、マルクスが『経済学・哲学草稿』で「疎外」について書いた箇所の「労働」という表現をすべて「学習」に変えた次の文章を掲載した(翻訳は、マルクス著、長谷川宏訳(2010)『経済学・哲学草稿』光文社古典新訳文庫を利用)

 

「第一に、学習が学習者にとって外的なもの、彼の本質とは別のものという形を取る。となると、彼は学習のなかで自分を肯定するのではなく否定し、心地よく感じるのではなく不仕合わせに感じ、肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開くのではなく、肉体をすりへらし、精神を荒廃させる。だから、学習者は学習の外で初めて自分を取りもどし、学習のなかでは自分を亡くしている。学習していないときに安らぎの境地にあり、学習しているときは安らげない。彼の学習は自由意志にもとづくものではなく、他から強制された強制学習だ。欲求を満足させるものではなく、自分の外にある欲求を満足させる手段にすぎない。肉体的強制その他が存在しないと、学習がペストのように忌み嫌われ遠ざけられるところに、学習のよそよそしさがはっきりと示されている。外からやってきて人間を外化する学習は、自己犠牲の学習であり、辛苦の学習なのだ。最後に、学習が学習者にとって外的なものだということは、学習が彼自身のものではなく他人のものであり、他人に属すること、学習のなかで彼が自分ではなく他人に帰属していることのうちに見てとれる。」

 

ひょっとしたら、多くの人が英語の学習や技能獲得の過程で感じる疎外感の一部は、中動態的発想を抑圧した能動態的発想(主体と客体の分離と前者の優位性)から生じているのかもしれない。

 

話が疎外の方に行ってしまったが、本書の論旨に戻る。

 

著者の一人の熊谷晋一郎氏は、脳性麻痺をもっているが、自らの身体を使用することについて次のように述べている。

 

「支配しようとしたりコントロールしたりしようとするとうまくいかないのです。むしろ、身体が今どのような状態なのかということに聞き耳を立てるように、いわば沸き起こってくる動きをすくい上げていくような感覚がないといけない」 (p. 378)

 

身体から「沸き起こってくる動き」とは、「協応構造」とも言い変えられる。(この表現は、熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書院)でも説明されている)。人間の身体は、多種多様の骨と筋肉と関節が連動して動くものであるから、それらが協応するパターン(構造)が数多く存在する。そのパターンに即した動きをすると身体は苦もなく動き、私たちは「身体を思い通りに動かした」といった感覚を得る。

 

この「身体を思い通りに動かす」という事態は、意志が身体を客体として支配的に動かすとことで生じるのではない。それは、自らの意志をまさに「身に委ねる」ことによって生じるのである。 (p. 374) 「私」と「私の身体」に、「主体」対「客体」の分離的支配関係を構築せずに両者を融合し、「私」と「私の身体」を分けてしまうことがむしろ困難に思えるような事態を生じさせることが「身体を使いこなす」すなわち「身体を使用する」ことではないのか。

 

「私」と「私の身体」の使用の関係は、「私」と「私の道具」の関係に拡張することができる。本書では、自転車に乗る例がでてくる。自転車に乗る人は自転車を支配しているというよりは、自転車と一体となり、自転車乗りとして自らを再構成している。私たちは道具を支配するというより、道具と一つになって使用を実現している。 (p. 356)

 

「英語が話せる」とは、「私が英語を話す」のように「私」と「英語」を分離させてしまい、前者が後者を支配的にコントロールしようとするのではない。「私」という場所において、「私」が「私の英語」を使おうとしながら、逆に、「私の英語」の言い分(「私の英語」がその構造から示してくる可能性)にも従い、どこからどこまでが「私」で「私の英語」なのかわからないような境地で、英語を生み出すことである。

 

別の言い方をするなら、「私」という心の中で設計図を作ってしまってから、その設計図に忠実に私の身体に英語を発話するように命令するのではない。「考えてから話す」のではなく、「話しながら考える」のだ。自分がとりあえず発話した英語に導かれ(=英語の「協応構造」に従い)、次の語彙や文法構造を選択して英語を紡ぎ出してゆくのだ。それが英語を話すということだろう。しかし日本の英語優等生には、存外、このように即興的に話せる人間が少ない。

 

そうなると、私たち英語教育関係者も、まさに「使用を支配に回収しない発想法を身につける必要がある」 (p. 405) と言えよう。

 

 

 

■ 「私はやる気を出さない」のか、それとも「私にはやる気が出てこない」のか

 

この本は題名が示すとおり「責任」概念について問い直す本である。その問い直しの出発点として、この本は中動態を使っている。古代では「能動態か中動態か」であった文法的対立は、やがて「能動態か受動態か」という対立になった。この新しい対立では、ある行為は「自分の意志でやったのか、そうではないのか?」という区別が明確になる(これを「尋問の言語」と呼ぶこともできる)。中動態の衰退と意志概念の勃興には平行性があるともいえるかもしれないと著者は考える。 (p. 104)

 

(英語)教育に即して考えるために、「やる気」を例にしてみよう。ある学習者は勉強をしない。それは「その学習者がやる気を出さない」からだろうか、それとも「その学習者にはやる気が出ない」からだろうか。前者の表現を多用する教師からは非難のことばが出てきそうだ(「どうして、君はやる気を出さないのだ!」)。他方、後者の表現を愛用する教師からは、共に事態を解明して改善しようとすることばが出てくるかもしれない(「どうしてなかなかやる気が出てこないのだろうね。一緒に考えてみようか」)。

 

「その学習者がやる気を出さない」とは能動態的発想である。「その学習者は主体として、『やる気』という客体をコントロール必要がある。それなのにコントロールできていない」といった含意をもつ。他方、「その学習者にはやる気が出ない」は中動態的発想である。「その学習者という場に、その学習者に学びをもたらすやる気という事態が生じていない」と解釈できるであろう。

 

能動的発想で「やる気を出さない学習者」と認識された学習者に、教師は平気で(「善意で」と言いながら怒気を含んで)責任を問いただす(「どうしてやる気を出さないんだ。落第しても君の責任だぞ!」)。他方、中動態的発想で「やる気が出ない学習者」と学習者に対して、教師はその個人だけに責任を求める問いただし方はしない。「どうしてやる気が出てこないかなぁ」と問いかけるうちに、学習者は自分の劣等感や焦燥感あるいは家庭内でのトラブルなどを語り始めるかもしれない。そのうちにその学習者が「でも、やれることはやらなければなりませんよね」と反省を示すこともある。

 

どちらの方に教育的効果があるかと問われれば、私は中動態的発想に基づくアプローチだと答える。だが、実際には能動態的発想に基づき、学習者の個人を問いただし説教をする教師が多いことに驚いている。そんな教師の中には、自分が正しいことをしていると信じ切っているから恐ろしい。百歩譲って説教で学習者がよい方向に変化すれば学習者個人だけに責任をなすりつけるやり方にも効用があると認めることができる。だが、説教で事態が改善しないことは周知の通りだ。

 

時間があれば「やる気」だけではなく、「動機(づけ)」や、 “motivate / motivation” の用例についても考えたい。だが、今はその余裕がないので、次には、本書に即して、責任とは何かについて考え直してみよう。

 

 

■ 責任論:「責任をとる」とはどのような事態なのか?

 

著者は、責任 (responsibility) とは、応答 (response) に関わるものであるが、その応答とは、自分なりのものでなければ、それは単なる反応になってしまい、本当に責任を感じているとは思えなくなることを指摘する。 (pp. 4-5) 「何か怒られたら、とりあえず謝っておけ!」という態度が責任ある態度とはみなされないことには誰も異論はないだろう。

 

ここで中動態的発想を取っていると解釈できる当事者研究が注目に値する。当事者研究では、ある当事者が精神疾患の発作などの影響で「放火した」と言えば、モデレーターが「ああ、放火現象が起こったんですね」と言い換える。(p. 180) 行為を外在化して、「人」と「こと」を分けて、あたかもその「こと」が自然現象のように生じたととらえるわけである。そうやってその「人」を免責すると、多くの場合において「こと」が生じるメカニズムが明らかになる(それが当事者研究である)。そうなると、逆にその「人」は自分がした「こと」の責任を感じはじめ、被害を受けた人に対する謝罪などが素直にできるようになる。いわば個人を一度免責することで、その個人は最終的に引責できることになるのだ。 (p. 43)

 

当事者研究ではなく、中動態に関するあるシンポジウムに参加していた人は、こう発言したという。その人は、ある犯罪加害者だったのだが、それまでずっと罪の意識を持たねばと思いながらもそれができなかった。しかし行為の責任を行為者だけに求めるのではない中動態の話を聞いて、はじめて罪の意識を感じ始めたという。(p. 46)

 

心理的解釈をすれば、「現在」が安心できるものになってはじめて、現在・過去・未来という時間軸が安定し、落ち着いて過去を振り返ることができるともいえるのかもしれない。(p. 182)

 

ともあれ、中動態的発想がなければ、とても責任を引き受けるに至ることができないのではないかというのが本書の主張である。 (p. 401)

 

それにもかかわらず、私たちが行為の責任(あるいは原因)を特定個人の内にのみ求めがちなのかといえば、著者は、そこには「意志」という概念が絡んでいるという。最後に、これまた本書に即しながら、かんたんに「意志」について考えてみよう。

 

 

■ 意志論:意志とは何なのか?

 

意志概念に関する歴史的考察は、本書や『中動態の世界 意志と責任の考古学』に詳しいが、ここではその要約は割愛する。

 

ただ本書の重要な論点の一つは、「ある行為が行為者の意志によってのみ開始されたという考え方は、どんな人間も過去からの影響を受け外部からの刺激を受けている以上、現実的ではない」ということである。それにもかかわらず近代人が意志を行為の(唯一のあるいは重要な)原因として見ているのは、もはや信仰としかいいようがない (pp. 111-112) と著者は訴える。

 

信仰といっても、近代人にはその自覚はない。行為の原因としての意志を前提とした社会制度(特に法制度)が普及してしまったので、意志概念を使い続けているといった方がいいのかもしれない。

 

それでは意志を前提とするとどのような社会になるのか。まずは、行為の原因をもっぱら意志のみに求めることで、その行為はその人が個人的に所有しているもの(=私有財産)であるとみなせる。 (p. 114) ある意味、「近代」を構築した言説の有力な部分は、私有財産の保護そして権利を求めるものであったから、ある行為を、その行為を引き起こしたとされる意志を有している者の専有的所有物とする考え方も、容易に普及したのかもしれない。

 

かくして、ある行為の責任をある特定の個人に帰することが「当たり前」になってきた。 (p. 193) さらには、ある諍いが起こった時でも、中動態的発想なら、「私たちという場において、諍いという出来事が生じ、私たちを苦しめている」となるが、個人主義文化での能動態的発想なら「ある特定の人間がある特定の意志によって、諍いという出来事を引き起こした」となる。そうなると「悪いのは誰だ!」という犯人探しが始まる。

その犯人探しのゲームで、誰か他人に責任を帰属させることができれば、諍いの渦中にあった自分は、その諍いの責任から完全に免責される。その免責を求めて私たちは「悪いのは誰だ」という尋問の言語ゲームにしばしば従事するのかもしれない。何しろ2人の間で起こったトラブルでも、自分に責任が問われる確率は50%であり、関係者がそれ以上になればその確率はもっと下がるわけである。確率論的に考えれば、この犯人探しのゲームはそれなりに合理的である。

 

しかし、意志を行為の原因としてしまうと、その意志以前の歴史的要因やその意志以外の同時代的要因は、ほとんど考慮されなくなる。意志概念は、その意志をもつとされる者と、その者を囲む文脈を切断してしまうのだ。(p. 113) そうなると、その「意志」によって責任を担わされた者は、その意志以前の事情や意志以外の外的要因を持ち出すことができなくなる。「悪いのはすべて自分」なのである。

 

しかし近代的な能動態語法によってそのように追い込まれた者も、内心では、自分だけに責任があるのではないという気持ちを払拭できない(そしてそれは正当なことである)。だからこそ、そうやって追い詰められた人は、反省することができなくなり、世間で「謝罪」とされている文言を型どおりに述べるだけとなる。これはその人なりの応答 (response) とはいえず、その人は責任 (responsibility) を果たしているとは思えなくなる。 (p. 428)

 

かといって、個人に責任を帰する社会制度・法制度をすべて解体することは非現実的だ(考えてみれば、教育評価も、能力やパフォーマンスを個人に帰属させることを大前提としている。これについても考えたいのだがここではその余裕はない)。せめてできることは、能動態的発想(より正確に言えば、事態をもっぱら能動態的発想か受動態的発想で捉えて、「誰かがやった」のか「誰かにやられた」の二者択一でしか考えない発想)を少し批判的に捉えて、中動態的発想(自分の中に何かが生じて、それによって自分も影響を受けてしまうこともあるという発想)を適用させるべき文脈はないかと考え始めることであろう。

 

その試みとして、このエッセイでは、「やる気」について考えたし、身体や英語を使うことについても考えた。中動態については、ラトゥールの行為論とも重ねて考えることも可能だろう。また、英語以外の言語、特に日本語について分析すればもっと面白いだろう。どこかのブログ記事でも書いたが、スペイン語には中動態的な表現が少なからずあることは、スペイン語の先生に聞いても確認できた(スペイン語の知識がないので、きちんと理解はできていないのだが)。中動態については、これからも考え続けてゆきたい。

 

 

付記

実は、このエッセイを書き始めていた時は、このエッセイの着陸点がわからず、「こんな文章をまとめても、何の役に立つのかわからないけれど、まあ、何か気になるからまとめておこう」とぐらいにしか思ってなかった。しかし数時間かけてこの文章を書き終えてみると、自分の思考が、自分が引用したり書き直したり紡ぎ出したりすることばに導かれるようにして形成された。私が言語使用において、「私」と「ことば」を切り離して考えることはできず、やはり両者は表裏一体であるように思える。これが言語を使用するということだと改めて実感している。

 

 

追記

本書の著者の一人である國分功一郎先生による『はじめてのスピノザ』は、『中動態の世界』と本書の間に刊行された本です。NHKの「100分de名著」の書き下ろし原稿をもとにした書籍ということもあり、非常にわかりやすく、また中動態についても理解を深めることができるのでありがたい限りです。


大学院授業:言語教育設計学2(2026年度後期版)

  言語教育設計学 2       授業開催形式   授業はすべて教室で対面で行います。受講者の皆さんは、京都大学の人間・環境研究科の Learning Management System である KULMS にアクセスできるデバイス(ラップトップ推奨)を...