2020/03/10

J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)『開かれた対話と未来』医学書院、Jaakko Seikklra & Tom Erik Arnkil (2014) "Open Dialogues and Anticipations: Respecting Otherness in the Present Moment." Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.



ここでは、以下の書から私が学んだことをまとめてみます。


翻訳書:
J.セイックラ、T.アーンキル(著)、斎藤環(監訳)(2019)
『開かれた対話と未来』医学書院

原著:
Jaakko Seikkula & Tom Erik Arnkil (2014) 
Helsinki, Finland: National Institute for Health and Welfare.


翻訳書には丁寧な解説と訳注、そしてオープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン (ODNJP) による「オープンダイアローグ:対話実践のガイドライン」がついている良書です。今回、私は翻訳書を通読して、気になったところを原著でチェックしました。

なお、私は原著を以下のサイトから購入しました。


Open Dialogue UK


以下のまとめで使われている翻訳は基本的に拙訳です。信頼おける訳をお求めの方は翻訳書をご参照ください。(35, 5)といった数字は、最初が翻訳書の、次が原著のページ番号を示します。

観点は、対話性、多声性、権力と研究の3つです。



*****


■ 対話性

この本の主題が、対話性 (dialogicity) であることは序論の冒頭と最終章の要約から明らかです。

序論では、この本の目的は対話性を促進することだと明確に言いきった上で、対話性を「他人を変えてやろうといった作戦をもたない、開かれて、互いに応じ合う関係性」 (open, responsive relationships without strategic aims to change others) と定義します。(35, 5)

この対話性の重視は、専門家中心の従来のやり方との決別につながります。最終章で、彼らはこうまとめます。

この本で私たちは抜本的な転換を提案してきた。クライアント・患者・生徒・家族・共同体といった「対象となる人々やグループ」 ("targeted persons and groups") を変えることに専念した専門家中心の流れから、対話への転換である。対話では、他者は無条件に受け入れられ (the Other is accepted unconditionally) 、敬意に充ちた対話 (respectful dialogue) によって物事は進められる。対話においては、官僚組織の境界線と分業化によって決定された援助ではなく、個人的ネットワークと専門職ネットワークの間での対話を通じてつながれた社会的ネットワークのリソース (social network resources) によって途が開かれる。私たちが提案したのは、専門職システム (the professional system) が日常生活の要求に合わせる (adapt)実践文化 (a practice culture) である。日常生活の方が専門職システムに合わせるのではない。この文化は、専門家がクライアントの声に耳を傾け、クライアント・患者・生徒・家族それぞれの独自のやり方に、専門知を合わせる文化である。(324, 190)

つまり、開かれて、互いに応じ合う関係性である対話は、これまでの権力関係の抜本的な変更につながるわけです。


■ 多声性

オープンダイアローグなどにおける対話では、ファシリテーターが投げかける最初の問いは開かれたもの (open ended) であることが望ましいとされます。当事者と家族とそれ以外の関係者 (the rest of the social network) が、その瞬間にもっとも重要だと考えていること (the issues that are most relevant at that moment) から話し始めることができるようにするためです。ですから、専門家のチームは予めミーティングのテーマを計画しません。

ミーティングでは、誰もが望む時にコメントをする権利があります。しかしコメントが、そこで行われている対話をさえぎる (interrupt an ongoing dialogue) べきではありませんし、話そうとする人は自分のことばをそこでの対話に合わせるべきではあります。(117, 60)

このように誰もが対等に、互いを尊重しながら対話を紡ぎ出そうとする文化では、多数の声が聞こえてきますし、聞こえてこなければなりません。

バフチンの思想を背景に、著者は以下のようにまとめます。

いかなる社会的状況においてもさまざまな複数の声が存在する (a variety of different voices are present)。人々の出会いとはすべからく状況固有の出来事 (situation-specific incident) であり、話し手のメッセージは話し手の心の中で予め定まっており (ready-made in their mind) 、それが受け手に提示されるだけだといったことはない。そうではなく、メッセージは対話者 (interlocutors) の間の領域 (area) で構築されるのだ (will be constructed)。James Wertch (1991) が指摘するように、どの会話にも少なくとも2つの声が存在するのであり、声は複数形として使うのが適切なのだ。私たちは声の多数性 (a multiplicity of voices) の中に生きており、その多数性は、私たちが、何について・どこで・どのように・誰と共に話しているのかによって活性化し、多数の声が同時にそれぞれの役割を果たすのだ。社会的現実は常に多声的である (Social reality is always polyphonic)。(バフチンとヴォロシノフがその輪郭を描き出したように)、多声的な現実においては、社会的「役割」といった強固な社会構造はない。実際に誰が行為者 (actor) であるのかということを考慮せずに、ある場面から別の場面へと移送できるような構造は存在しないのだ。多声的な現実においては、どんな問題も会話が変わるたびに新たな意味を帯びる (each issue receives a new meaning in a new conversation)。新たな会話では、吟味している事柄に対して新らたなことばが構築される (a new language for the things under scrutiny is constructed)。どの人の社会的意味 (social meaning) も社会的アイデンティティも実際に行われる会話で創造される。社会的意味や社会的アイデンティティが異なる社会的状況においても同じであると考えるべきではない。(194, 107-108)


このように対話は多数の声に充ちており、それらの関係性から意味も社会的に定まっていきます。しかしこの多数性は、対話に参加している数だけあるという水平的多声性 (horizontal polyphony) だけに限りません。垂直的多声性 (vertical polyphony) も存在します。(198, 110)

垂直的多声性とは、対話に参加するそれぞれの人がそれぞれの心の中にもっている声です。たとえば「父」が話題になった時に、その話題についてさまざまな意見が出されるかもしれませんが(水平的多声性)、それと同時に表には出ていなくてもその話題についての多くの声が各人の心の中に存在しているわけです(垂直的多声性)。

このように、対話は、水平的多声性だけでなく垂直的多声性にも充ちた時空で生じるわけです。この多声性を対話において重視するオープンダイアローグは、多声性を一つの声に収斂させることを重視することはありません。オープンダイアローグと未来語りダイアローグ(Anticipation/Future Dialogue) の2つをまとめて著者は次のようにまとめます。

どちらの実践においても多声的な世界観が必要不可欠である (a polyphonic world-view is essential)。これらの実践は、行動計画の基盤として、問題理解を全員一致 (unanimous) のものにすることを目的としているわけではない。これらの実践が他の実践と異なるのは、それぞれが問題について自分自身の見解をもつということである。しかし、お互いがそれぞれの見解を理解しようとすることは重要である。そうやってできあがる新たな理解は、参加者の間の境界領域に生じる。どんな個人の見解も、唯一の正しい定義として優先されることはないからである。(169, 91)

ある問題を、ある特定の観点だけからとらえるのではなく、同時に複数の観点からとらえようとすること、しかも、対話が進むにつれ、さらに新たな観点が生じてくることも拒まないこと--これが対話の要諦と言えるでしょうか。

そういった対話は、ある手続きで1つの結論を必ず出す近代的な会議文化とも、合意に対する異論が少なくとも表にでないようにするまで延々と話し合いを続ける寄り合い的な文化とも異なる文化に属するものです。

対話における多声性とは、アレントの用語を借りるならなら「複数性」を大切にすることと言えるでしょうか。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/06/blog-post.html

あるいは、現実世界の複合性 (complexity) という観点から考えるなら、対話の多声性は、対話の意味をに多くの可能性を保たせたまま状況の変化に応じることによって、現実世界のさまざまな変化に対応しやすいようにしているとも解釈できるかもしれません。

関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/1990.html


実は、オープンダイアローグと親近性が高い当事者研究を言語教育の実践研究の1つとして考える論文を昨年書き、現在、それは印刷中です。

J-STAGE: JACET Journal
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jacetjournal/-char/en
(現時点では拙稿が掲載予定の2020, Volume 64は未掲載)

その論文 (The Distinct Epistemology of Practitioner Research: Complexity, Meaning, Plurality, and Empowerment) では、タイトルにあるように複合性・意味・複数性・エンパワメントといった観点から実践研究を捉えなおそうとしています。今、オープンダイアローグについてまとめていて、改めてこれらの観点の重要さを感じています。というより、これらの観点が(比較実験などの)現在主流の研究方法ではいかにないがしろにされているかについて考えているというべきでしょうか。

対話性や多声性という概念は、暇人の戯言ではなく、現実の権力構造を動かしうる概念でもありえます。それを次の項で考えてゆきましょう。


■ 権力と研究

「よい実践」(good practice) としての介入 (intervention) を定める研究として現在権力をもっている研究方法は、Evidence-Based Medicinceに代表されるような比較実験方法(ランダム化比較試験 (Randomized Controlled Trial: RCT)です。英語教育界では本格的なRCTはほとんど行われませんが、現在主流派を自称する研究者の多くは、RCTを頂点とするエビデンス獲得を目指しています。

関連論文:
柳瀬陽介 (2010)
「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」
『中国地区英語教育学会研究紀要』40巻 p. 11-20
https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11

そういった主流の研究法を、この本の著者は「どのレベルでも主体(知識の提供者)と対象(知識の受容者)を峻別」 (a clear-cut distinction between subjects (providers) and objects (receivers) at all the levels)とした上で、次の3点でまとめます。

・介入において、クライアントは介入を受ける対象である。介入の主体は専門家である。(clients are objects of intervention, professionals the subjects)
・介入の開発において、専門家は開発された介入を受容する対象である。開発の主体は研究者と開発者である。(professionals are objects of developmental activities, researchers and developers the subjects)
・介入を普及することにおいて、地方の関係者は普及先の対象である。普及の主体は、中央当局である。(local players are objects of dissemination, central authorities the subjects)  (313-4, 187)

私の拙い翻訳でわかりにくい日本語となってしまいましたが、要は、英語教育に当てはめていうなら、このようになるでしょう。

*「生徒はだまって教師の授業を受けろ。授業の主体は教師であり、生徒は授業の対象にすぎない」
*「教師はだまって研究者・開発者が作った授業方法を受け入れろ。授業方法開発の主体は研究者・開発者であり、教師は開発された授業方法を与えられる対象に過ぎない」
*「地方の教師や指導主事はだまって授業方法の普及を手伝え。授業方法を普及させる主体は文科省の関係者である」

となるでしょう。

これに対して、対話的なやり方だと、どのレベルでも主体の役割が大きいと著者は述べます。

・クライアントは、サービスを行いとその結果を享受する共同製作者である (clients are co-producers of the service and its effects)
・専門家は、実践の共同研究者であり共同開発者である。(professionals are co-researchers and co-developers of the practice)
・地方の関係者は、他の地方の関係者と対話を行い、中央当局はその対話を促進する(local players are in dialogue with players in other localities with central authorities as enabling partners) (314, 187)

英語教育に当てはめるならこうなります。

*「生徒は、教師とともに授業を作り、その結果を享受する」
*「教師は、授業方法を研究者や開発者と共に開発する」
*「地方の教師や指導主事は、他の地方の教師や指導主事と対話を重ねる。文科省の関係者はその対話を促進する」

こうなるとオープンダイアローグといった対話性・多声性を重視する実践は、現在主流の権力関係を根底からひっくり返してしまう実践であることがわかります。

しかし、対話性・多声性の重要性を訴える人々は、決して権力奪取のためにこれらを唱えているわけではありません。対話的・多声的である方が人間らしい実践ができ、人間らしい成果が得られるからです。その効果は、オープンダイアローグ(あるいは当事者研究)を行う人々が実感する通りです。

権力関係の根本的転換という点では、『学び合い』も同じかと思います。もちろん『学び合い』という授業スタイルを推進する人たちは別に権力闘争をしたいのではなく、より人間的な教育をしたいだけです。そしてそのすばらしい成果も関係者が知る通りです。


関連記事
福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/2016.html


木村泰子先生は、『学び合い』とは直接関係ありませんし、以下のビデオは、「独立行政法人教職員支援機構」(旧「独立行政法人教員研修センター」)が作成したものです。ですが、権力関係の改編を行ない対話性と多声性を重視しなければ、現在の困難を打破できないという点では共通していると思います。




関連記事
木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/201532903.html


異文化共生という21世紀的課題を考えても、対話性と多声性の重要性は疑いようがないかと思います。

しかし、オープンダイアローグといった精神医学にせよ、英語教育といった教育学・応用言語学にせよ、まだまだ研究の主流は比較実験法であることは上に述べた通りです。比較実験法では、ある教育方法を施したか施していないかという一点だけで異なる2群(実験群と対照群)を作り、かつその差を保ち続けてデータを取ります。

しかし、そのように2クラスの差をある要因(教育方法)の有無だけにとどめ、それ以外の差は生じさせないように授業方法を固定するというのは、実践感覚からすればおそろしく不自然なことです。同じ授業をやっているつもりでも、クラスで差が出てしまうことはよくあることです。その場合、経験豊かな教師は、それぞれのクラスの個性(および教師の個性)に合った工夫を行います。2つのクラスに対する授業が、ある1つの要因の有無以外にはまったくない状態を作り出しそれを保ち続けるというのは、考え方によっては教育者としての努力を怠る営みとすらいえるかもしれません。

さらに、そのような不自然な実験環境で得た結果を、現実世界に当てはめることには無理があると言わざるをえません。著者も言うように、このタイプの研究の外的妥当性 (external validity)は低いのです。(309, 184)

現在の学界の多くの領域に見られるのは、実践よりも研究デザインの方が優先される傾向です。その結果、実践は実験デザインの限界に合わせた形で行わなければ研究として認められません。研究の方が現実生活の状況に適合するのではなくなっているわけです。(297, 176)

量的研究ばかりではなく、質的研究も必要と言われてずいぶんになりますが、実践に対する認識にはまだまだ偏見が残っているようです。実践とは単純な要因だけで説明しきれるものではなく、もし強引に説明をしてしまったら、それは実践に対する認識を損ねてしまうのです。「単純明快な説明こそが学問だ」などと言っていたら、実践について学問をすればするほど実践について誤解するという「学問をした馬鹿」が生じるわけです。

著者はこうまとめています。

実践はつねに個別的であり、普遍的ではない。実践は固有の文脈で生じ、ある一定の瞬間にある一定の人々によって遂行される。したがって、物事をあたかも普遍(時間・空間・人間抜きの永遠の因果性)であるかのような報告をすることは、対話をないがしろにすることである。とはいえ、実践の成果は語り継がれなければならない。ここで私たちが行わなくてはならないのは、より説明的であろうとするのではなく、より記述的になろうとすることである。 (Practices are always particular, never universal; they take place in local contexts and are carried out at given moments by given people. Therefore reporting matters as if they were universals (eternal causations void of time, place and people) does not do justice to dialogues. Nevertheless, outcomes need to be communicated. The challenge is to be more descriptive instead of more explanatory.) (289, 170)

こうなりますと、私のまとめは、次のようになるでしょう。

より人間らしい社会を実現するには、対話性と多声性を重視しなければならない。
そのためには、現状の権力関係を改編する必要がある。
権力関係を変えるためには「真理の体制」(regime of truth)として権力を支える研究のあり方を変えなければならない。

オープンダイアローグからも、(英語)教育のあり方について学び続けてゆきたいと思います。



関連記事
オープンダイアローグについては旧ブログで多く記事を書きました。それらのリンクは以下の記事に集約されていますので、ご興味のある方はご参照ください。
野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html








2020/03/09

熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版



以下は、『当事者研究をはじめよう』から私なりに学んだことをまとめたお勉強ノートです。まとめは「当事者研究」、「社会的関係性」、「身体」の3点についてです。

とはいえ、まとめはとても恣意的なものですから、この本にご興味をもたれた方はぜひご自身で本書を手にとってください。なお、以下は敬称略となっていることをお許しください。


A 当事者研究について

A1 グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究

当事者研究の「当事者」とは単数形なのか複数形なのかというのは以前私が抱いていた疑問でした。向谷地生良先生に直接お会いする機会があった時にそれをお尋ねしたところ「複数形です」との即答をいただきました。

ある問題を抱えている当事者は狭い意味での当事者で、これは1人であることがほとんどでしょう。しかし、「当事者」には広い意味もあり、それは狭い意味での当事者と共に当事者研究を行う人々も含まれます。ですから当事者は複数というわけです。(私は、二義性を避けるため、狭い意味での当事者を「第1当事者」、広い意味での当事者を「研究当事者」と呼ぶことも可能ではないかと思っています)。

伊藤知之(「当事者研究の公開」(123-127ページ))は、グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究という用語を導入しています。

当事者研究の典型例は、グループで行う「グループ当事者研究」でしょうが、それを2人で対話的に行う「2人当事者研究」もあります。これらの複数人での当事者研究で学んだことをもとに第1当事者が、日頃から気づいたことをノートなどに書くことは「1人当事者研究」となります(123-124ページ)。

「グループ当事者研究」、「2人当事者研究」、「1人当事者研究」(および「第1当事者」、「研究当事者」)という名称は便利な区分なので私も今後使ってゆきたいと思います。


A2 当事者研究ワークシート

綾屋紗月が「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ)と「付録」(196-203ページ)で示しているのが、特に2人当事者研究で有効に思える「当事者研究ワークシート」です(注)。ここに示されているのは2019年度版であり、決定版というわけではありません。当事者研究を行うものがそれぞれに変更することも認められています。

2人当事者研究では、まず第1当事者と研究当事者の2人がそれぞれにワークシートを記入し、次にそれを交換して互いの話を聞き取り合います。(93ページ)

私見ですが、これは2人の当事者の間に、権威や権力の大きな差がある時に効果的であるように思えます。専門家といった権威・権力を抱いた人は、どうしても上から目線で一方的に助言をしてしまうからです。

専門家もワークシートで自分を(簡単に)当事者研究し、自分の弱さや問題を認め、そしてそれを第1当事者に示すことによって、専門家も少しは第1当事者の語りを謙虚に聞くことができるのではないかと思います。また第1当事者も、研究当事者(専門家)も弱さや問題を抱えた人間であり、傷つきやすく完璧でないという意味でお互い対等であるということを認識できるのは重要ではないでしょうか。

ワークシートはもちろん2人当事者研究以外でも使えます。たとえばメンバーが4人いれば4人一組でワークシートを交換することもできます。特に権威・権力の点で問題がないなら、第1当事者だけがワークシートを記入した後、それをグループ全体で共有することもできるでしょう。(93ページ)

これまた私的見解ですが、このワークシートは、自己観察と二次観察を促進する工夫だと解釈できます。

自らが経験したことを改めて書いて表現することにより、当事者は、自分を、「経験した自分」、「経験を記述する自分」、「経験記述を読む自分」の3つに分化できると考えられるからです。

経験を書き出さないと当事者は「経験した自分」の中に囚われてしまい、何がなんだか整理できない状態に留まるかもしれません。そこに「経験を記述する自分」を導入することにより、自己観察が始まります。記述した後は、「経験記述を読む自分」により改めて落ち着いて自分の経験と記述を観察すること(つまりは二次観察)することができます。

以下は、教師の省察について以前に書いた拙論の一部ですが、ここでは「経験した自分」、「経験を記述する自分」、「経験記述を読む自分」を、それぞれ「実践者」、「記述者」、「読者」として表現しています。

また、書くことは「対話」である、というメタファーを四人とも使ったことは興味深い。 (中略)
もちろん書くことは一人で行う行為であるから、この「対話」は、分化された複数の自己の間での対話である。自らの実践を書く場合、教師は、選択的な想起を行う中で、教室の中で実践していた「実践者」を自己から分出する。その分出は同時に、その実践を文章化するという「記述者」という自己も分出する。さらに、文章化は時間のかかる行為であり、教師は書く最中から自らの文章を読み始め、書きながらも文章を修正・編集し、時を置いて読み返すので、この過程で自己からさらに「読者」が分出する。つまり、実践の文章化で、教師は、「実践者」、「記述者」、「読者」の三者を分出し、自己は三つに分化する。(100ページ)

引用文献
樫葉 みつ子, 大塚 謙二, 坂本 南美, 柳瀬 陽介
「英語教師が自らの実践を書くということ (2) : 中高英語教師が自らの実践を公刊することについて」
『中国地区英語教育学会研究紀要』(2014年44巻 p.97-106)
https://doi.org/10.18983/casele.44.0_97
関連論文
柳瀬陽介
「言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述」
『中国地区英語教育学会研究紀要』(2012年42巻 p.51-60)
 https://doi.org/10.18983/casele.42.0_51

自分の経験を書き出すことは必ずしも容易なことではありませんが、ワークシートの枠組みによって、当事者は、自己観察とその二次観察をうまく進められるのではないかと思います。

(注)
当事者研究ワークシートの主な項目は
1 研究テーマ
2 苦労のエピソード
3 苦労のパターン
4 苦労の年表
5 個人的要因/社会的要因
6 仲間のコメント
7 実験計画
8 実験報告
となっています。



B 社会的関係性

B1 対等性・安心感・平場感

当事者研究では、支配関係や上下関係を作らないことが決定的に大切であることを複数の論者が述べています。

上岡陽江+ゆき(「ダルク女性ハウスの当事者研究」(14-26ページ))は、「役割分担で大切なのは、絶対にメンバー間に上下関係をつくらないこと。支配関係と上下関係のあるところに回復なんてありえない」(21ページ)と、当事者研究における対等な関係性の重要性を説きます。

綾屋紗月(「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ))は、研究当事者のコメントが、どうしても上から目線のアドバイスになりがちであり、第1当事者は「攻撃された」と思ってしまうことを指摘しています。綾屋の助言は、研究当事者が「アドバイスではなく、自分個人の経験を書く」ことですが、大切なのは当事者研究では皆が「安心感」を得ることとまとめることができるでしょう。(99ページ)

綾屋紗月・熊谷晋一郎・上岡陽江(「当事者研究ワークシート実践報告①」(106-116ページ)でも、「安全な場づくり」が強調されます。その関連で、ファシリテーターが自分の不安や緊張を言語化するにせよ、それはその言語化が場の安全性や参加者のためになるかを精査したうえでなければならないとも述べています。(111ページ)。

さらに綾屋・熊谷・上岡は、「先輩と後輩、当事者スタッフと利用者など、自助グループ内でも発生することがある固定化された上下関係を、対等に戻す効果」として「平場感」(112ページ)という用語も使っています。

支配関係や上下関係から逃れるために、対等性・安心感・平場感が重要だというのがこれらの報告者が力説しているところです。


B2 「主体性」の問い直し

油田優衣(「強迫的・排他的な理想としての<強い障害者像>」(27-40ページ)は、脊髄性筋萎縮症の当事者として、日常生活の多くの側面で介助者を必要としています。現在は10人以上の介助者と接しています。彼女は、介助者が変わることにより自分の欲求が変わることに戸惑いを覚えます。

介助者がAさんであったはずのところ、急にBさんが来たなら、それまで覚えていなかった欲求が湧いてくることを彼女は経験します。そのことにより彼女は、それまでの信念を揺さぶられます。彼女のこれまでの「当然」は、「「自分」というものが「確固たる個」として存在し、「自分のやりたいこと」は、自分の純粋な欲望として自分の中に存在する」、というものでした。この背景には「障害者の自立生活というものは、障害者の主体性の下に行われるべきものであって、介助者に影響されてはならない」という信条がありました(32ページ)。

関連記事
B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/b-2019bruno-latour-2005-reassembling.html
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html


こういった戸惑いを経た油田は、当事者研究を「<強い主体>というイメージに支えられた近代的主体の脱構築の実践」ととしてとらえます。浦河の当事者研究では、当事者を「自分のことは、自分が"わかりにくい"ことを知っている人」として、「自分のことは自分だけで決めない」ことを当事者性の原則としているからです。(35ページ)

「主体性」を、社会的関係から孤立した(虚構的な)「個人」に帰属させることについては注意が必要です。もちろんこれは「コミュニケーション能力」といった概念についても当てはまることです。



C 身体

C1 身体感覚の確認

過酷な問題に苦しむ当事者は、しばしば自分の感情や身体に対する感覚を閉ざすことで自分を守ります。ゆき(上岡陽江+ゆき「ダルク女性ハウスの当事者研究」(14-26ページ))は、母親の自殺を知った時の自分を「そもそも自分の感情というものがよくわかっていなかったし、身体にチェックインできていなくて、どこか別次元にいるようだった」と述懐しています。(14ページ)

上のようは事態はかなり深刻なものですが、通常の当事者研究でも「身体感覚の確認」や「疲労の確認」は重要だと綾屋は報告します(綾屋紗月「当事者研究を体験しよう!」(88-105ページ))。抑圧された状態に慣れきった人は、身体からのメッセージを無視して、社会的に無難な発言・無難な発言だけをしがちです。しかしそれは問題を回避するだけのことですから、当事者研究では、「身体感覚の確認」や「疲労の確認」を重視します。

身体からのメッセージは、従来、話題としては積極的には取り上げない雰囲気も時にあります。しかし例えば英語話者が日常的に使う "How are you?" にしても、そういった問いは、「あなたの身体、つまりはあなたの感情と思考と記憶を生み出す根源は、今、どのような状態であるのか?」という問いとして重視されるべきでしょう。身体の異和感こそは、何かがおかしいことを原初的な形で私たちの意識に伝えているからです。


C2 異和感の対自化

記憶を飛ばしでもしないとやっていけないような辛い経験をした当事者が自己分析を進めることは容易なことではありません。そのような人が自己分析を始める際にきっかけとなるのが、「感情と身体感覚が入り混じって、なぜそのようなものが押し寄せているのかさえわからない「異和感」に注目」(134ページ)することです。(上岡陽江・宮本眞巳・熊谷晋一郎「専門家からアドバイスを受ける「正しい」方法」(130-136ページ)。

上岡・宮本・熊谷は、対人関係場面で相手の言動がきっかけとなり生じた異和感について振り返ることを「異和感の対自化」と呼んでいます。

その第1段階は「異和感の察知、注目、識別」で、感覚に気づきそれを感情語で描写することです。第2段階は「異和感の理解」で、異和感が生じた理由などの理解を深めます。第3段階は「異和感の対自化がもたらした影響の確認」で、気づきと理解により、異和感がどのように変化したかを検証することです。この気づき・理解・検証を自覚的に行うことで、自己分析が多少は可能になるのではないかというのが3人の見解です。(上岡・宮本・熊谷 136ページ)



以上、この本を、

A 当事者研究について
 A1 グループ当事者研究・2人当事者研究・1人当事者研究
 A2 当事者研究ワークシート
B 社会的関係性
 B1 対等性・安心感・平場感
 B2 「主体性」の問い直し
C 身体
 C1 身体感覚の確認
 C2 異和感の対自化

という3観点6項目でまとめてみました。

ですが、もちろん、この本には他にもたくさん重要なことが書かれています。気になる方はぜひご自身でご一読ください。







2020/03/06

中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125

この度、『言語文化教育研究』第17巻に共著論文を掲載していただくことができました。改めまして査読者を始めとした編集委員会の皆様に厚く御礼申し上げます。

この論文の概要は以下の通りです。

社会学者のバウマンが指摘する「個人化」の潮流は本来協働的な営みであるはずのコミュニケーションを個人化して考える傾向と連動しているように思われる。しかし,ますます複合的になり,個人で解決困難な問題が増加していく社会においては,多くの人間が協働的に問題への対処を目指すコミュニケーションこそが重要となる。そこで本研究では共同体による問題対処のコミュニケーションについて,精神保健福祉の分野で目覚ましい成果を挙げる当事者研究を題材にして再考した。その際の理論的枠組みは,個人の特性ではなく関係性の特性に注目する関係性文化理論である。再考の結果,当事者研究のコミュニケーションは,特定の関係性を文化として定着させた上でのコミュニケーションであり,その関係性の文化においてコミュニケーションは弱さを力に変えることができることがわかった。


この学会誌はWeb上で全文を読むことができますので、以下にURLを示します。



『言語文化教育研究』第17巻


中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 
「弱さを力に変えるコミュニケーション
―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究―」
『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125



ご興味のある方にお読みいただけたら幸いです。




2020/03/05

研究社『英語年鑑2020』の書評「英語教育の研究」(pp.83-86)で取り上げた24冊


先日(といってもかなり前になりますが)発刊された『英語年鑑2020』、今回も光栄なことに書評(英語教育の研究)を書かせていただくことができました。

原稿を書き上げた2019年の11月初旬は、ちょうど、2020年度から予定していた大学入試での英語の民間試験の活用が延期になったことが全国メディアを騒がせていたころでした。

今回、その時点で選んだのは以下の24冊でした。(注)


***


酒井英樹・廣森友人・吉田達弘(編著)『「学ぶ・教える・考える」ための実践的英語科教育法』(大修館書店 2018.12)
酒井志延(編著)『先生のための小学校英語の知恵袋』(くろしお出版 2018.7)
上山晋平(著)『はじめてでもすぐ実践できる! 中学・ 高校英語スピーキング指導』(学陽書房 2018.7)
胡子美由紀(著)『中学英語 生徒がどんどん話せるようになる! 即興スピーキング活動』(学陽書房 2018.7)
内山工『英語絵本を使った授業つくり―CLIL的アプローチ指導案12か月』(郁朋社 2018.6)
村端五郎『英語教育のパラダイムシフト 小学校英語の充実に向けて』(松柏社 2018.5)
佐藤響子・Carl McGary・加藤千博(編著)『大学英語教育の質的転換―「学ぶ」場から「使う」場へ』(春風社 2019.1)
大沢真也・市川薫(編著)『地方私立大学の英語教育への挑戦』(ひつじ書房 2019.2)
根岸恒雄(著)『英語授業・全校での協同学習のすすめ』(高文研 2019. 3)
水落芳明・阿部隆幸『これで、小学校外国語の『学び合い』は成功する!』(学事出版 2018. 11)
デイジー・クリストドゥールー(著)『7つの神話との決別』(東海大学出版局 2019. 5)
片見彰夫・川端朋広・山本史歩子(編著)『英語教師のための英語史』(開拓社 2018. 6)
池内正幸・窪園晴夫・小菅和也(編著)『英語学を英語授業に活かす』(開拓社 2018. 9)
手島良『これからの英語の文字指導』(研究社 2019. 2)
アレン玉井光江『小学校英語の文字指導』(東京書籍 2019. 3)
福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識』(開拓社 2018. 10)
八島智子『外国語学習とコミュニケーションの心理』(関西大学出版部 2019.3)
小柳かおる・向山陽子『第二言語習得の普遍性と個別性』(くろしお出版 2018.3)
石川有香(編著)『ESP語彙研究の地平』(金星堂 2018. 3)
久保田竜子『英語教育幻想』(ちくま新書 2018.8)
中森誉之『技能を統合した英語学習のすすめ』(ひつじ書房 2018. 9)
小泉利恵(著)『英語 4 技能テストの選び方と使い方』(アルク 2018. 4)
南風原朝和(編著)『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』(岩波書店 2018.6)
江利川春雄『日本の外国語教育政策史』(ひつじ書房 2018. 8)

***

これらの中で、社会的影響という点では、『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』の出版の意義は誰しも認めるところです。阿部公彦『史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房 2017. 12)とこの書という2冊のブックレット―即動性の高い出版物―は、まさに英語教育の歴史を変えたと言えるでしょう。





個人的には、自分の仕事内容が全学的な英語教育の管理運営に移ってきたこともあり、横浜市立大学の英語教育改革を報告した『大学英語教育の質的転換―「学ぶ」場から「使う」場へ』を面白く読みました。









ちなみに昨年度の書評は、以下の研究社のサイトからダウンロードできます。「イギリス小説と批評の研究」から「英語教育の研究」にいたるまでの14項目におよぶ書評のすべてです。

研究社:英語年鑑2019 回顧と展望


一見非常に地味な取り組みといったら関係者に怒られるかもしれませんが、しかしこういった記述の積み重ねが、将来歴史を考える糧となるかと思います。及ばずながら私も「後世の人はこの原稿をどう読むだろうか」という視点を忘れずに原稿を書いたつもりです。『英語年鑑』の長年の蓄積に心からの敬意を表します。




(注)
この記事を掲載した当初、この記事の冒頭にある時事問題についての私見を書いておきましたが、その私見の判断の根拠となっていた情報が間違っていましたので、その見解は削除しました。判断をする際には、きちんとその根拠を検討しなければならないと反省しています。(2020/03/17)



2020/02/25

身体と心と社会は不可分である:Barrettの"How Emotions Are Made"の後半部分から



この記事も、Barrettの "How Emotions Are Made" に関するお勉強ノートです。





この記事ではこの本の後半部分にあった、理論の要約部分とルーマンの理論との親和性を示唆する部分についてまとめます。おそらくこの本のお勉強ノートはこれで終わりです。

( )内でのページ数表記や、翻訳書に大変お世話になったことは前の記事に書いた通りです。







関連記事Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html
Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/09/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html
意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/2019-1-7.html
第7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/7emotions-as-social-reality-how.html


*****


■ 理論の要約:身体と心と社会は不可分である

バレットは、本書後半で何度かにわたって、前半で説明した彼女の理論を非常に短く要約している。それらによると、彼女の理論は3つの柱から構成されている。3つの柱には、以下に見られるように微妙に異なった表現を与えられているが、本質的には同じことを述べている。


要約その1:読者に学んでほしかったのは以下の3点である。

(1) 身体と心は深く結びついている。 (your body and your mind are deeply interconnected)
(2) 行為を駆動するのは内受容である。(interoception drives your actions)
(3) 脳の配線を行うのは文化である。(your culture wires brain)
(176 , 292)


要約その2:情動を作り出すには以下の3つの構成要素 (ingredients) が必要である。

(1') 内受容 (interoception)
(2') 情動概念 (emotional concepts)
(3') 社会的実在性 (social reality)
(256 , 417)


要約その3:人間の心に共通する構成要素とは、以下の3つの心の側面 (aspects) である。

(1") 身体変容に基づく実在主義(affective realism)
(2") 概念(concepts)
(3") 社会的実在性 (social reality)
(285, 465)


要約その4:3点を統合した形で述べた文章

拙訳:人間は明示的に教えられなくても情動を知覚する。しかしだからといって、情動が生得的であるとか、学習とは関係ないとかいうわけではない。生得的であるのは、人間が概念を使って社会的現実を作り上げるということである。そして今度は社会的現実が脳の回路を組み上げる。さまざまな情動は、社会的現実がまさに実在的に創造したものである。この創造は、人間の脳が他の人間の脳と連携するからこそ可能になっている。(You perceive emotions without formal instruction, but that does not mean that emotions are innate or independent of learning. What's innate is that human use concepts to build social reality, and social reality, in turn, writes the brain. Emotions are very real creations of social reality, made possible by human brains in concert with other human brains.)
(281, 459)


以上の要約を私なりにさらにまとめてみると次のようになる。

私なりの要約:身体と心と社会は不可分である。

(i) 心の身体性:身体内で起こっている情動が、その人の脳で知覚されることによりその人に心が生じる。
(ii) 心の概念・予測性:心は、その人のこれまでの経験の要約である概念を活性化する。その概念が、その人の未来を予測して行為を導き出す
(iii) 心の社会性:心の中の概念は、さまざまな人々がそれまでに作り上げてきた社会的現実の中で、その人が言語を使いながら他の人々と連携することによって獲得される。



■ ルーマンの理論との親近性

以前の記事でも書いたように、バレットの理論とルーマンの理論は親近性が高い。ここでは3つの論点を挙げてみる。


論点その1:脳と世界の間に境界はない

拙訳:私たちはたいてい、自分と外の世界は物理的に分離されていると考えている。出来事は世界という「外で」起こるのであり、自分は脳という「内で」それに反応すると考える。
しかし、構成主義的な情動理論では、脳と世界の境界線は相互浸透しているもの、というよりは、存在しないものである。脳の中核システムは、脳と世界をさまざまな形で結びつけ、知覚・記憶・思考・感情・その他の心的状態を構築している。
(Most of us think of the outside world as physically separate from ourselves. Events happen "out there" in the world, and you react to them "in here" in your brain.
In the theory of constructed emotion, however, the dividing line between brain and world is permeable, perhaps nonexistent. Your brain's core systems combine in various ways to construct your perceptions, memories, thoughts, feelings, and other mental states.)
(153, 255)
補足:脳は、外で客観的に起こっていることを内に投影しているのではない。脳は、外で起こっていることに起因する身体内の変化を、その時々の身体の状態と過去の記憶を通じて、自らの神経回路に反映させて「現実」を知覚している。


論点その2:私たちは「自己」をその時々に応じて生成している

拙訳:自己も概念であるのなら、人はそれぞれの自己のさまざまな事例をシミュレーションによって構築していることになる。構築した一つ一つの自己は、その時々の目的にかなっている。人はある時には自分を職業によって規定する。他の時には親であったり子どもであったり恋人であったりする。時には単なる肉体である。社会心理学者によれば、私たちは複数の自己を有しているのだそうだ。だが、これらの自己のレパートリーは、「自己」という一つの概念のさまざまな事例として考えることができるだろう。その「自己」は、目的に即した概念であり、目的は文脈によって変化する。
(If the self is a concept, then you construct instances of your self by simulation. Each instance fits your goals in the moment. Sometimes you categorize yourself by your career. Sometimes you're a parent, or a child, or a lover. Sometimes you're just a body. Social psychologists say that we have multiple selves, but you can think of this repertoire as instances of a single, goal-based concept called "The Self" in which the goal shifts based on context.)
(191, 315)
補足:「自己」という自分自身を表象する語の意味は、その語を発する人が、自分が置かれている文脈とそこで自分が定める目的に応じて生み出すものであり、その時々のその人の状態と状況によってさまざまに異なりうる。だが、その多様な意味を、「私という自己」といった語は、超越論的に指示する。
多くの人は、その超越論的指示が、どの言語使用においても<今・ここ>の指示対象の中に具現化しているに違いないと思い込んでいることはウィトゲンシュタインも指摘したとおりである。

論点その3:たった一つの現実など存在しない
拙訳:私たちが「確実なこと」として経験すること--自分自身やお互いや身の回りの世界について知っているという感情--、これは、私たちが毎日をなんとかやってゆくために脳が作り出している幻想である。(中略)私たちは愚かであったり能力が足りなかったりするから現実を把握できないと述べているのではない。私が言っているのは、把握すべき唯一の現実などないということだ。脳は、周りの感覚入力に対して1つ以上の説明を与えることができる--現実は無限に存在するとまでは言わないにせよ、確実に1つ以上は存在する。
(What we experience as "certainty" -- the feeling of knowing what is true about ourselves, each other, and the world around us -- is an illusion that the brain manufactures to help us make it through each day. (...) I'm not saying that we are dumb or ill-equipped to grasp reality. I'm saying there is no single reality to grasp. Your brain can create more than one explanation for the sensory input around you -- not an infinite number of realities, but definitely more than one.)
(290, 474)

補足:著者は、(292, 477)で、自分の理論も客観的事実ではない(not objective facts)ではない、と述べる。彼女の理論は、現時点でもっとも脳の物理現象を説明できる理論であるとは信じているが、同時に、将来、他のよい理論が出てきたとしても驚きはしないと述べている。


最近新訳が出たルーマンの『社会システム』の訳者のことばをもじっていうなら、こうなるかもしれない。


バレットの理論は「人間の知性の理論」ではない。
この理論そのものが、人間の知性の一部なのだ。


構成主義的な考え方からすれば、記述・説明される事象から独立してすべてを眺望的に記述・説明するが、自らはいかなる知的記述・説明からも逃れられている超越的な知性は存在しない。エッシャーの「描く手」のように、理論はその理論的記述・説明により、対象だけでなく自分自身も記述・説明している。自らの理論が絶対的なものではないという自覚を保ちつつ「なんでもあり」の俗流相対主義に陥らないのは、現代人の基礎的素養の一部だろう。








追記
いつものように私の誤解や錯誤を怖れます。もし何かありましたらこちらまでお知らせください。


2020/02/20

第7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より



この記事も、How Emotions Are Madeに関するお勉強ノートです。






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意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/2019-1-7.html


今回の記事では直前の記事と少し重なりますが、同書の第7章についてまとめました。この章は同書の理論編の最後の部分なので少しきちんとまとめておこうと考えました。

以下に現れる (131, 220) といった表記は、最初の数字が原著の、次の数字が翻訳書の該当ページ番号を示します。

翻訳書は大変参考にさせていただきましたが、下で示した訳は私なりに訳したものです。

翻訳書は正確で読みやすく、訳注や解説も充実していますから、ご興味がある方はぜひ入手してお読みください。






*****


■ 情動は実在するのか? (Are emotions real?)

何が実在する (real) かに関しては、二種類の実在性 (reality) を想定するべきであろう。

第一の実在性は物理的実在性 (physical reality) であり、これは人間という観察者がいようがいまいが、その実在性に変化がない実在性である。物理的実在性は知覚者とは無関係 (perceiver-independent)なカテゴリーである。 (131, 220) 物理学者や化学者などはこの物理的実在性をもとに研究を進めている。

第二の実在性は社会的実在性 (social reality) である。社会的実在性は知覚者に依存した (perceiver-dependent) カテゴリーである。 (132, 221)

情動は--少なくともバレットの定義によるなら--人々に意味をもたらし行動を促すものである。もちろん個々人の意味や行動はそれぞれ微妙に異なるが、同じ文化に住む人々はだいたいに同じように意味を感じ同じように行動を促される。

逆に言うなら、文化が違えば情動に関する意味や行動は大きく変わりうるし、そもそも文化によっては他の文化がもたない情動をもつこともある。こういう点からすれば、情動は、同じような生活様式(ウィトゲンシュタイン)を共有してきた歴史をもつ人々がおおまかに同意する限りにおいて存在しているものである。したがって、情動は社会的実在性をもつと考えるべきである。

もちろん、心臓の鼓動・血圧・呼吸・体温・コルチゾールなどの変動は物理的実在性を有しているともいえる。(132, 222) (注)

(注)ただ、これらの変動を特定しているのは人間の概念であることからすれば、そう簡単に「観察者からの独立性」を標榜をすることはできない。しかしこの問題についてはここでは深入りしない。

ダマシオならこれらの物理的実在性を有する現象に対して「情動」という用語を使うかもしれないが、情動の概念性・予測性を重視するバレットは、それらの物理的(というよりは生理学的)現象を「本質的には情動でない」 (not intrinsically emotional) と述べる。(133, 222) 彼女はこうまとめている。

筋肉運動や身体変化が情動の具体的な事例 (instances of emotion) としとして機能する (functional) のは、人間がそれらを具体的な情動の事例としてカテゴリー化した時だけである。そのカテゴリー化によってこそ、さまざまな経験や知覚といった新たな機能が得られるのである。 (133, 222)

もちろんこの情動の社会的実在性には、物理的実在性の基盤がある。脳と身体である。だが物理的対象としての脳と身体そのものが情動であると言い切ることはできない。脳と身体が生み出した現象についてゆるやかに合意する人々の社会的な営みがあってこそ、私たちは情動をリアルなものと感じている。このリアリティーが社会的実在性あるいは社会的現実である。

ちなみに特定の人間集団という観察者に依存した社会的実在性を、厳密に客観的な方法で測定することはできない。得られるのは合意 (consensus) ぐらいである。これは、科学の限界を示しているというよりは、私たちが物理的実在性ではなく、社会的実在性について扱っていることを示していると考えるべきである。(140, 234)--ちなみにバレットはウィトゲンシュタインを引用していないが、私は彼女の立論を理解する際に、ウィトゲンシュタインの哲学が(ルーマンの哲学と共に)非常に有用であると感じている。


■ 情動はいかにして実在するようになるのか? (How do emotions become real?)

人間が情動の社会的現実を信じている背景には、人間の総合力 (human capabilities) が二つ必要である。

第一に必要なのは、集団的志向性 (collective intentionality)である。これは、対象・事実・事態・目的・価値などに対して、複数の人々が共同的に注意を向ける心の能力であある。集団的志向性は、意図・注意・信念・受容・情動などを個人を超えた複数の人々で共同的に共有するという様態を取る。(Stanford Encyclopedia of Philosphy)。集団的志向性によって協調的行為 (cooperative act) が可能になる。(135, 226)

だが、集団的志向性は、アリ・蜂・鳥・魚・チンパンジーなどももつものである。集団的志向性は、人間の情動にとっての必要条件ではあっても十分条件ではない。 (135, 226)

そこで、第二に必要となってくるのが言語 (language) である。人間ほどに集団的志向性とことば (words) を結びつけている動物はない。 (135, 227) これら二つが結合することにより、人々は協調的にカテゴリー化を進める (categorize cooperatively) が、これがコミュニケーションと社会的影響 (social influence) の基盤となる。 (136, 227)

たとえば「楽器」や「怖れ」といったことばを考えてみても、これらは外見上は非常に異なる事態を概念としてまとめあげている。これらの複雑な概念が「楽器」や「怖れ」という言語の形式を得ることにより、人間はこれらの概念をコミュニケーションに明示的に登場させ、協調的にカテゴリー化を広げ・深めることができるようになった。

人間の集団がこれほどゆたかにさまざまな情動と概念を有しているのは、人間が集団的志向性と言語という二つの力を相互作用させながら使いこなしているからである。


■ 情動的文化的変容 (emotion accultulation) 

社会的実在性をもつ情動は、当然のことながら、属する社会(集団)が違えば異なってくる。移民や留学生は、新しい国の文化と言語になじむにつれ、新しい言語が表す概念に従うことを学び、考え方や感じ方や行動の仕方を変容させる。これを情動的文化変容と呼ぶことができる。

簡単な例を出すなら、アメリカで長く暮らす日本人の多くは、次第にアメリカ人のような身振り・手振りをし始め、笑いや不快感のツボもアメリカ人と同じようになってくる。

こういった日本人が日本の文化・言語による生活様式も忘れていないとしたら、そういった日本人はbicultural(二文化併用的)になったと言えるのかもしれない。

だが、もちろんアメリカ語は流暢になってもアメリカの生活様式をなかなか受け入れない日本人もいるだろう。そういった人は、bicultural(二文化併用的)にならないままbilingual(二言語併用的)になったといえるだろう。そういった日本人の話す英語は、特に情動のレベルで時にアメリカ人を驚かすかもしれない。

言語的変容と文化的変容という話題については、さまざまな価値観が交錯するので語りにくいところもあるが、ますます異文化間交流が進む現在、無視できない話題ではある。




2020/02/15

意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで


Lisa Feldman Barrettの "How Emotions Are Made"の翻訳である『情動はこうしてつくられる』(高橋洋訳、2019年、紀伊國屋書店)をようやく入手し読み始めることができました。



やはりすぐれた翻訳書というのはありがたいです。「そうか、こう訳せばよかったのか」と学ぶ点も多いですが、何よりもありがたいのは、日本語で書かれているので圧倒的に速く読めることです。読む認知的負担が少なくなるので、読みながらいろいろ考えることもできますし、何度も読み返すことによって集中的に考えることもできます。また、訳注や訳者あとがきもとても有用です。特に後者では、バレットの「情動」概念が、ダマシオらの「情動」概念と異なり、意識的(自覚的)であり認知作用を含むものであることが、原著者と訳者の間での質疑応答から示されており (520頁)、一読者として確証が欲しかったことに一定の解が与えられた気分です。

この記事では、翻訳書の1-7章(本書の理論編に相当)を読んで私なりに考えたことを備忘録として書き留めておきます。論点は、意味のシステム依存性(=意味は、システムの作動に伴う出来事である)と語の超越論的指示機能(=語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である)の2つです。丸括弧の中の (27, 57) といった2つの数字は、前者が英語原著の、後者が日本語翻訳の該当ページであることを示します。何箇所か日本語訳を出しますが、それは拙訳です。


*****


■ 意味のシステム依存性:意味は、システムの作動に伴う出来事である

「意味は、システムの作動に伴う出来事である」という命題は、先日、ブログ記事に掲載したルーマンの意味理論からのものです私は、さまざまな科学的知見を読み解く時に便利だからルーマンの抽象的な論考に興味を抱き続けています。バレットの理論を理解する際も、私はルーマンの理論を手がかりにしました。

関連記事
ルーマン『社会の社会』第1章第3節(意味)のまとめ
https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/13.html


以下は、バレットの見解を、ルーマンの用語を時折使いながら要約してみます。ルーマンの用語は《 》で表記しますが、その中に=がある場合は、バレットの用語とルーマンの用語がほぼ交換可能ことを、≒が使われている場合は、厳密には交換できないことを示します。

人間は、覚醒している間ずっとさまざまな感覚刺激を受けています。その刺激は多義的でノイズの多い情報です。それは人間が何気なく認識している情報が、人工知能にとってはひどく認知が困難であることからもわかるでしょう。ですが人間の脳は、そのような曖昧な感覚刺激から、過去の経験を使って仮説(シミュレーション、あるいは予測)を作り出します。(27, 57) 外界《=環境》からの撹乱を受けて、自身の中にあった記憶を使い仮説を生成し、次の瞬間のシミュレーション・予測をするわけです。これが意識システムの主要な作動です。システムが構築していた記憶はバレットの用語では「概念」と呼ばれます。ですから、脳が意味を生み出すメカニズム《=意識という自己生成システムが意味を紡ぎ出すメカニズム》は次のようにまとめられます。バレットの表現です。

どんな時、どんな文脈でも、脳は概念を使って、世界という外に起因する感覚 (sensations) に対しても、[身体という]内に起因する感覚に対しても、その瞬間ごとに意味を与える。(30, 61)

意味は絶え間なく更新される動態的なものです。脳は、何十億もの予測ループを使って未来をシミュレーションし続けているからです。その予測は、世界に起因する新たな感覚入力 (sensory input)《≒撹乱》)によってチェックされます。脳はそれを優先しシミュレーションを変更することもあれば、無視してそのままシミュレーションに基づいた行動を行うこともあります。(64, 116)


こういったバレットの論点は、そのまま彼女の情動構成理論 (the theory of constructed emotion) の定義にもつながります。

覚醒しているときはどんな瞬間でも脳は、概念として体系化された過去の経験を用いて、行動を導き、感覚に意味を与える。概念が情動を伴う概念 (emotion concepts) である場合、脳は情動の事例を構築することになる。 (31, 63)

言い換えるなら、情動とは、外界《=環境》で生じた出来事から自動的に生じる反応 (reaction) ではありません。(31, 64) 情動とは、身体内外に起因する感覚を契機として、脳《≒意識システム》が、自らの構成要素である概念《=記憶》を用いながら、未来の事態を予測することを促す身体内の変容です。情動は、現在を過去と未来に関連づけるとも言えるでしょう。こういった点を総合して言い切ってしまうなら、情動とは意味です (Emotions are meaning)。(126, 211) そして、意味を作り出すということは、現在与えられている情報《≒撹乱》を超越することです (To make meaning is to go beyond the information given)。(126, 211)

私は以前、ある機会(2019年度 大学英語教育学会(JACET)関西支部大会)の講演で、下のスライドを使おうかと思いながらも、時間の都合で断念していました。このスライドには、上の説明では割愛した、body budget (身体予算=身体のリソースを勘案する機能)、interoception (内受容=身体内の変化を脳が感知すること)、exteroception(外受容=身体外の変化を脳が感知すること)、conatus (生きる力(コナタス)=生命が自らを維持し発展させようとする力:バレットは使っていないが、ダマシオはスピノザの用語として時折使っている)という用語が使われています。ですからバレットの理論の忠実な要約にはなっていませんが、これも私なりの1つの解釈かと思い、ここに掲載します。図の白色部分は身体内を、黒色部分は身体外の領域を示します。灰色部分は、それらの両方の領域に関わる現象です。なお、図にはmeaningの用語が見当たりませんが、この図全体が、いかにして意味が生成されるかを説明しているとご理解くだされば幸いです。






*****


■ 語の超越指示論的機能:語は、その語の使用事例の全てを超越論的に指示できる記号である

語は、乳児の注意を、他人の内部にある概念(特に情動概念(注))に向ける。概念は、外界では観察できないが、語により表現されることによって、乳児の注意をひくことができる。語は、外界のさまざまな事例を互いに類似している個体群・母集団としてまとめることを教える(98, 166-167)

(注)私は、野口三千三が言うように(あるいは竹内敏晴も示唆するように)、すべての概念には情動が含まれていると考えた方が合理的だと思っています。また、バレットの理論で考えても、すべての概念は何らかの形で情動概念につながっていると考えてもよいと考えています。ですから私は、「概念」と「情動概念」を峻別する必要はないと考えます。よって、以下でバレットを引用する際に「情動概念」や(その概念を表す)「情動語」という用語を使っても、その議論は「概念」や「語」一般にも適用されると私は理解していることを付記しておきます。この両義性をうまく表現するために、「(情動)概念」や「(情動)語」といった表記を時折使うことにします。 
関連記事
野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
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野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り
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「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
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竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html


ここで大切なのは、乳児がまだ学んでいない(情動)概念は、外界ではさまざまな事例で表現されるので、外界の様子を観察するだけでは、その(情動)概念が存在することすら乳児にとっては理解困難であることです。しかし、周りの大人が、その(情動)概念を表現する(情動)語をさまざまな事例でを通して使い続けると、乳児はその語の形式(=音声)の同一性(厳密には類似性)から、さまざまな外界の様子には、何らかの共通性(厳密には類似性)があるのではないかと推論することが容易になるでしょう。

たとえば「怒り」という情動概念が適用される事例には、実にさまざまな身体、文脈、目的の状態が含まれます。(100, 171) ゆえにその概念の学習は容易なことのようには思えません。しかし、周りの大人から適切な折に「怒り」という語を含んだ発話を聞く子どもは、その時々の状態を超えて(=超越して)、「怒り」の概念が適用できる範囲を規定する道具・媒体を授けられます。語のことです。もちろんその概念構築(つまりはその語の使用)の過程で、子どもは大人から誤用を指摘されることもあるでしょう。ですが、多くの使用事例を通じて、子どもは語を、目の前の特定の状態に適用できるだけでなく、その事態を超越した様々な状態にも適用することを可能にする、いわば超越論的な指示機能をもつ記号であることを学びます。

この語の超越論的な指示機能(繰り返して説明するなら、目の前の事例を超えて、誰もその全貌を知らない範囲を指示できる働き)こそは、人間と他の動物の知性の差を生み出している大きな要因の1つでしょう。もちろん動物も、たとえば「獲物」や「敵」といった単純な概念をもつ語はもっているかもしれません。しかしそれらは、ほぼ本能的に受け継がれた概念であり、その語とその指示対象の関係は単純で限定的です。

人間の言語でしたら、たとえば「怒り」にしても、表面上はあえて静かな態度を取り続けるといった事例にも適応可能ですし、雷という事例に対しても「(天の)怒り」といった形で適用可能です。ましてや抽象的な「美しさ」といった概念でしたら、万人が受け入れるような事例から前衛アートといった事例にいたるまで、物理的対象に限っただけでもさまざまな事例に適用可能です。ましてや「生き方の美しさ」や「虚数の美しさ」といった抽象的事例も考慮に入れるなら、人間の語のもつ超越論的指示機能は、他の動物の語の機能とは大きく異なっていることがわかるでしょう。誰もが現実世界では達成できない超越的な指示を可能にするという点で、超越論的な語は、人間の知性を大いに発展させていると私は考えます。

また、このように多くの事例を表象できる語という記号は、それらの事例に含まれている無数の、しかもマルチモーダルの情報を統括的に要約します。この記号の神経表象は、現実世界のさまざまな問題に対応しなければならない脳にとって、非常に効率的・効果的な表象でもあります。(116, 197)

さて、そのように超越的な指示をする人間の語ですが、それが指示しているすべての事例の集合(=過去や未来の事例も含むので、だれもそのすべてを知ることができない集合)をどのような要素によって構成されている集合として考えるべきか、ということも重要な問題です。

原著でバレットは、19世紀のダーウィンの思想を20世紀のメイヤーが要約した "population thiking" という用語を使っています。この中にある "population" は私見では、「母集団」とも「個体群」とも訳せる語です。(ただ、現在は、個体群的思考と訳した方が誤解が少ないかとも思っています。ちなみに、翻訳書でも個体群的思考という訳語が使われています)。

「母集団」とは言うまでもなく統計学の概念で、採取した標本(サンプル)の母体となる集団を指しますが、その母集団とは、しばしば誰もが容易にアクセスすることができない集団であることが含意されていると理解します(統計学に詳しい方、この含意が間違っていたらご指摘ください)。目の前にある標本から平均値を出したりすることはできますが、それは母集団の平均値であるとは限りません(もちろん統計的な手続きとしては、標本の平均から母集団の平均を推定する方法は確立されていますが、母集団の平均は推定するしかできないものです)。私の解釈では、ある語が指示することが可能な事例のすべてという集合は、母集団として(別の言い方をすれば、超越論的に)推定できるだけです。ですから、限られた数の語の使用例の中に共通要素や平均的・典型的な使用例を見出したりしたとしても、それらは母集団にも当てはまるとは限りません。母集団は、標本以上に多様で異質な事例も含んでいるかもしれないというのが妥当な推論ではないでしょうか。ある語もしくはある概念が指示しうるすべての事例の集合は(超越論的に想定できる)母集団に過ぎないという主張には一定の理があると私は考えます。

他方、"population" を「個体群」と訳すと、その集団の中には、さまざまな個体が存在することが強調されます。その含意として、そこで平均をとったとしても、その平均から逸脱する個体はたくさんあることが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

"Population thiking" を「母集団的思考」と訳そうが「個体群思考」と訳そうが、その含意は、すべての事例が均一なものではないということです。つまり、すべての事例は、互いに類似しているが、すべて同一ではないということです。これは、本質主義 (essentialism) や類型論的思考 (typological thinking) の否定です。この否定は、ウィトゲンシュタインの親族的類似性概念による本質主義批判や、ローズの平均主義批判につながる大きな論点です。

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私は、近々公刊される予定の原稿でこの論点について少し論じましたので、ここではこれ以上の議論は割愛しますが、語彙学習を考える上でも、この本質主義・類型論的思考の批判は重要だと私は思っています。現在主流の単語テストの考え方は、英単語の訳語を産出したり、選択肢の中から正しい定義を選んだりすることができればその英単語は(一応)習得できたとみなすものです。しかし、この考え方は、本質主義・類型論的思考に基づくもので、言語使用の実態を歪めていると私は思っています。この考え方は、訳語・定義こそはその語のすべての使用に共通する本質であり、それを知れば、その語を使用することが可能になると想定しているからです。

私の考え方はこうです。言語使用の実態については、ある程度の定義や典型例は想定できるものの(母集団的思考)、それらを暗記するだけではその語を使用することができません。学習者は、さまざまな実例を体験するたびに、自分の記憶や身体予算を参照しながら、それぞれに異なる情動の事例を新たに経験する必要があります(個体群的思考)。学習者は自分の心身全体でその意味を処理し、その意味処理の時点を過去と未来と結びつけることが必要です。そうしなければ、学習者は、語の超越論的な指示機能を働かせる術を身につけられないとと私は考えます。

さて、子ども(あるいはここで論点を拡張させるなら、外国語学習者)は、そのような超越論的指示機能をもつ語という記号を手がかりにして、大人(あるいは当該外国語話者)の心の中にある(情動)概念を学ぶわけですが、その場合の語は、「孤立した語」 (words in isolation) ではなく、「情動概念を使って子どもの勘所 (the child's affective niche)[=身体変容性ニッチ]を押さえている他の人間が話しかけている語」 (102, 173) であるというバレットの主張にも注目したいところです。言い換えるなら、子ども(あるいは学習者)が語を学ぶのは、それらの語が彼・彼女らの心身の様子を共感的に理解した上で、彼・彼女らの心身を活性化し、彼・彼女らの意識を過去と未来に拡張するようなやり方で提示された時ということです。

具体的な事例を出します。私の勤務校での授業では、ある単語集を使って、原則として毎週50語を範囲とした単語テストを行うことが義務づけられています。ですが私は大学が提供する一問一答式のテストは使いません。それらは文からも文脈からも孤立した単語単体だけが提示される形で、その単語とその定義(同義語)を対応づければ正解となるテストだからです。私はそのようなテストは実施・採点するには便利ですが、学習者の言語使用につながりがたいと感じています。

言語使用の事例は、同一ではなく互いに類似しているだけなので多様です。学習者は、それらのさまざまな実例を自分の心身で処理して、自分なりの意味をそれぞれに実感しなくてはなりません。学習者は、さまざまな言語使用の実例を、自分で共感できる具体的な文脈の中で情動的に経験する必要があります。

ですから、私はテストでは50語の範囲から10語出題しますが、それぞれの語に5つずつの例文を用意します。テストされる語は、最初の一文字を除いて例文からは消去されていますので、学習者は5つの互いに類似しているが異なった文に共通して使われている当該語を推定します。学習者は、事前に勉強していた50語のうち、どの語でこの消去部分を埋めればよいのだろうかと頭を働かせ続けるわけです。また私は、テストが終わってもそれで学習を終了せません。私は、それぞれの語の例文を取り上げ、それらの文脈を補いながら、その例文を発話した者や聴いた者の心情や目的などを学習者に実感させます。

このテスト方法は一例にすぎませんが、単語学習・単語テストのあり方を考える場合においても、抽象的な理論理解は重要だと私は考えます。この記事では、(1) 意味は、意識システムの作動に依存しその意識が過去や未来とつながることであること、また、(2) 語の超越論的指示機能は、定義といった本質ですべて指示されるものではなく、さまざまな事例を経験する中で人が徐々に身につけるものであること、という2つの論点を提示しましたが、こういった理論的検討は、英語教育という非常に具体的な実践においても重要であると私は考えます。


*****


以上、備忘録としての文章なので、まだまだわかりにくい表現も多かったことをお詫びします(それは、私がまだまだ精緻には考えきれていないといことでもありますが)。しかし、私としては「優れた理論ほど実践的なものはない」という逆説的な表現を信じています。上の論点は、今後少しずつ整理して、具体例なども補うこととして、この記事はここで終わります。



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追記(2020/02/20)
(1) 「超越論的機能」といった表現は、意味をより正確に示すため「超越論的指示機能」などと書き換えました。
(2) 語が超越論的な指示機能といった一種驚くような機能をもちうるのは、語がこれまでさまざまな人々によってコミュニケーションで使われ続けてきて、今後も使われ続けるだろうという前提をもった媒体だからからだ、と言えるのではないかと考え始めました。



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