2023/06/26

今井むつみ・秋田喜美 (2023) 『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書

 

『言語の本質』は、知的興奮を誘う本です。著者と共に、身近な言語現象について確認・調査し考えを進めるうちに、謎が解き明かされていく感覚を得ることができます。まさにこの本の主題の1つであるオノマトペを使えば「ワクワク」する学術書です

その理由の一つは、この本が人間の言語学習の重要な特徴としている「ブートストラッピング」を本書自身が達成しているからでしょう。人間、特に子どもは、乏しい知識を駆使して仮説を立てて試行錯誤しながら驚くほど多くの学びをします。「ブートストラッピング」ということばの説明は後にして、私が本書の中核と思った箇所を少し長くなりますが引用します。


要するに、高い学習能力を持っている学習システムでは、何かのきっかけでシステムが起動されると、知識が知識を生むというブートストラッピング・サイクルによって知識がどんどん増えていくのである。単に知識のボリューム(個別の要素知識)が増えるだけではない。新しく加わる要素は既存の知識に関連付けられ、知識システムの構成要素となる。同時に、新たな知識は既存の知識を質的にも変化させる。(中略)つまり言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。(太字強調は原著)(pp. 203-204)


この記述こそは私たちが「わかった!」という感覚を的確に表現しているように思えます。私たちが何か新しいことを理解する時は、その新事項 (X) を丸暗記するのではありません。Xを理解するということは既存のA-Lといった知識が再編成され、新しい知識Mが生まれることです。抽象的な言い方になりますが、次のように表現できるかもしれません – 「ひょっとしてXって、AともBとも似てるけど、Cという点で異なっていて・・・」「つまりXは、Dとは全然違うけれど、喩えてみればEのようだけどFと対立しているGのようだというか・・・」「ああそうか、つまりHとIとJはすべてXという一点だけでつながっていたんだ!」「ということは、KかつLならMになるということか・・・」-- などと新しい知識と既存の知識の差異と関係性が明らかになり、その関係性から新たな知識が生まれるわけです。

もう少し具体的に説明を試みれば、英語がある程度できるようになった人は、英英辞典を使うのに慣れ、英語のリーディング量やリスニング量が増えてきた頃のことを思い出してください。それまでは日本語を通じてしか英語の意味を推測することしかできなかったのが、だんだん自分が慣れ親しんだ英語表現が増えるにつれ、それらの英語表現が新たな類推や推測を招き、さらに英語が使いこなせるようになった頃の感覚です。その頃は、これまでは使ったことがなかった連結で英語が創造的に使えるようになり始めたはずです。

私からすればこれが「ブートストラッピング・サイクル」で知識が知識を生むように学ぶ典型例の一つのように思えます。数学が得意な方なら、ある時を境に急にこれまで知っていた数学体系の理解が深まり、新しい数学概念を学ぶことが容易になった頃を思い出すかもしれません。ともあれ、知識と知識が組み合わさることにより理解が深まり、その深まった理解により新たな知識の獲得が楽になるような学びのサイクルが「ブートストラッピング・サイクル」だと私は理解しています。

とはいえ上の私の説明は誤解を含んでいるかもしれません。この時点で少しでもピンと来た方はぜひご自身で本書をお読みください。本書では、上のような粗雑な説明ではなく、一つ一つの具体的な言語現象を知ることにより、言語についての理解が深まり、言語についてさらに創造的に考えることができるようになります。


さて「ブートストラッッピング」 という用語ですが、これは “bootstrap” という動詞から来ています。この動詞の意味をOxford English Dictionaryは、 “To make use of existing resources or capabilities to raise (oneself) to a new situation or state; to modify or improve by making use of what is already present” と説明しています。(https://www.oed.com/view/Entry/21553?rskey=IJzQGM&result=2#eid)「既存の自前のリソースを使いこなすことにより新たな事態に対応する」ぐらいの意味でしょうか。この動詞はもともとは名詞に由来します。引っ張ってブーツを履くためのつまみのようなものです。CC BY-SA 3.0で利用可能な下の写真で示しますと、右のブーツの上についたつまみです。(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dr_Martens,_black,_old.jpg)




動詞としての “bootstrap”には"to pull oneself up by one's bootstraps"という慣用句があり、これは19世紀ぐらいから「不可能なことを行う」ぐらいの意味で使われていたそうです。(https://en.wikipedia.org/wiki/Bootstrapping) ここで思い出される--しかしこの語とは直接の関係はない--エピソードは、ミュンヒハウゼン男爵が沼に落ちてしまった自分と馬を、自分の髪の毛を引っ張って沼から引き上げたというホラ話です。「ブートストラッッピング」 とは、極端に言えばそんな矛盾を想起させるぐらい困難なことを、ほとんど自力だけでやってしまうといった語感があるように私には思えました。

この動詞は現代英語では様々な意味をもっていることは上のウィキペディア記事に記載されている通りです。言語学・言語習得での意味はこちらを御覧ください(https://en.wikipedia.org/wiki/Bootstrapping_(linguistics))。

ともあれ、人間の言語習得はブートストラッピングでかなり説明できるのではないかというのが著者がさまざまな観察や実験からたどり着いた仮説です。そして、このブートストラッピングを支える推論の一つがアブダクション (仮説形成推論 abduction) です。演繹 (deduction) とも帰納 (induction) とも異なるアブダクションの重要性を著者の一人である今井先生は、京都大学の霊長類研究所のチンパンジーの「アイ」の画像を見ていた時に気づいたそうです。

アイは訓練を受けて異なる色の積み木とそれぞれに対応する絵文字の関係を学ぶことができました。黄色の積み木を見ると△を指差して[黄色の積み木→△]という関係を学び、同様に[赤色の積み木→◇]、[黒色の積み木→◯]といった関係も学んだそうです。ところがアイは[△→黄色の積み木」という逆方向の関係性を理解することができなかったそうです。人間の子どもなら[A → X] を学んだ後に「X」を示されたら[X → A]という関係を示すことができるでしょうが、チンパンジーのアイにはそれができなかったそうです。今井先生はこの現象に驚愕し、そこから考えを進めました。

考えてみますと、[A → X] から[X → A]を導き出すのは論理的には誤り(後件肯定の誤謬)です(大谷選手は右投げ左打ちの野球選手ですが、右投げ左打ちの野球選手が必ず大谷選手であるわけはありません)。しかし人間は、[A → X] から[X → A]を導くという「対称推論」をごく自然に行うバイアスをもっているようです (p. 234)。このバイアスは人間以外の動物には事実上見られないものだそうです。しかし人間は[A → X] から[X → A]という仮説を作ることにより、「外界の情報を整理・圧縮」し、「現象からその原因を遡及的に推理」しやすくなったのかもしれません (p. 244) 。もちろんこの仮説は間違っていることもありますが、人間という動物は多くの仮説を生み出す能力によって他の動物よりも多種多様な環境に対する適応力をつけたのかもしれません( p. 245) 。


以上、私の粗雑なまとめでこの本の趣旨を歪めてしまったかもしれないことを怖れます。繰り返しになりますが、興味をもった方はどうぞこの本をじっくり楽しみながらお読みください。

少なくとも私はこの本によって言語についてのさまざまな考えが再編成されました。私が属する英語教育の業界でも昨今は出版物が増え、学生さんも業界人が書いた本ばかり読む傾向が強まっているのではないかと思います。ですが、あまり視野を狭くするのではなく、本書のような知的な興奮を誘うような本を読んだ方が、いい英語教師になれるように思います。

本書で理解が新たになったおかげで、でてきた疑問もあります。人間が他の動物と異なる特徴の一つに高度な社会性があります。私は不勉強で今、「社会性」という粗い用語しか使うことができませんが、社会性はブートストラッピング・サイクルとどう関わっているのでしょうか。本書も二人の著者が5年以上にもわたり研究交流を構築することにより初めて形をなすことができたと著者はそれぞれに述べています。二人の間のコミュニケーションという社会的現象は、ブートストラッピング効果を生み出したのだと私は想像しますが、そのメカニズムを具体的に記述するとそれはどのようなものでしょうか。

もう一つの疑問は、動物ではできないはずの対称性推論(および相互排他性推論)ができる「クロエ」 (p. 243) にはなぜその能力があったのだろうかということです。クロエは単なる統計的な外れ値だったのでしょうか。それともクロエは人間との交流(社会的関係)から何かを学んだのでしょうか?霊長類研究所での研究についてほとんど知らない私は妄想をふくらませるだけですが、そんな妄想からも何か知恵が湧くかもしれないと思って不勉強な自分を慰めることにします。

ともあれ圧倒的に面白い本でした。読み進めれば進めるほど面白くなります。ご興味のある方、および広く深く学ぶべき学生さんはぜひご一読を。



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追記(2023/06/29)

中央公論新社が『言語の本質』の特設サイトをスタートしました。

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