2021/02/28

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)

 


この記事は、前の記事の続きで、基本方針は前の記事と同じですのでその説明は割愛します。

 

以下、「理論」、「コミュニケーション」、「言語」、「技術習得」の順で神田橋條治先生の以下の2冊の内容を私が教育に拡大的に解釈したまとめを掲載します。

 

 

神田橋條治 (1990) 精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社

神田橋條治 (1994) 追補 精神科診断面接のコツ』岩崎学術出版社

 

 

 

 

*****

 

 

理論

 

■ 現場を知れば知るほど、単純な理論や物語は語れなくなる

 

(拡大)解釈:神田橋先生が好む皮肉は、「すっきりした理論をつくるには、できるだけ患者を診ないようにしなくてはならない」である。臨床経験が深くなればなるほど、情報量が多くなり矛盾する情報も増えるので、物事を単純に割り切れなくなる。逆に言うなら、物事を単純に整理できるのは、情報量が乏しい間だけである。(1994. p. 128に基づく)

 

=> しかし、実験研究は「すっきりした理論」で「明確な結果」を求める。そこに実験研究の知見と臨床の知の相性の悪さがある。現場を、明解な理論による単純な物語だけで説明するのははなはだ困難であり、それを無理押しするとどこかに歪みが生じる。

 

とはいえ、「物事はそう簡単には割り切れないんですよ」とニヤニヤ笑うだけでは、力量ある実践家とは言えない。実践家は複雑で重層的な物語を丁寧に語る技能を獲得するべきだろう。

 

 

■ 学習者を一定の型にはめ込むような理解をしてはならない

 

(拡大)解釈:対面診断で避けるべきなのは、予め自らが好む理論的立場から一連の問いを決めてしまっておいて、それらの問いにすべて答えてもらえないと診断ができないようになることである。そのような問い方は、学習者を自分の理論の一つの適用例にする誘導尋問である。対面診断では、いつその診断を止めなくてはならなくなったとしても、自分なりの診断ができるように、問いと観察を重ねてゆかねばならない。柔軟に診断仮説を、必要ならば複数作り出せる能力が大切である。もちろん診断ができないと判断すれば、診断を保留しておく勇気も重要。(1994. pp. 136-137に基づく)

 

=> 「この学習者は○○だ」という診断が、教師の理論的虚栄心を満たすものでなく、学習者の学びを支え、同僚の理解を促進し、学習者自身に実情を伝えるものとなるためには(参考:学びの診断の3つの機能:指導方針、共通言語化、学習者への説明)、学習者を自分が好む一定のパターンで解釈してしまおうとする理論的野望を捨てて、その瞬間瞬間に自分の五感を働かせながら問いを新たに生み出してゆくことが大切。

 

 

 

■ 方法に縛られることで、目の前のかすかな兆しを捉えられなくなる

 

(拡大解釈):診断クライテリア、標準化された面接法、チェックリスト、定型的カルテなどは、診断者の注意が偏りすぎてしまうことを防ぐために使うべきであり、これらの一定の方法を守ることが自己目的化してはならない。画一的な問い・観察事項しか見ようとしなくなると、学習者のかすかな兆しを見落とす危険が高まる。第一に注意を払うべきは、方法ではなく学習者である。(1994. pp. 137-138に基づく)

 

=> 話は私が患者として医者に接した経験になるが、世間でよく言われるように、検査項目の数値しか見ようとしない医者、こちらが大切と思う情報を提供しても「それは専門外ですから」と聞こうとすらしない医者には何度も会った。教師でも、個々の学習者の事情を丁寧に見取ることをせずに、予め決められた事項の様子(例えば小テストや期末テストの合計点など)しか評価の対象としない教師は多いのだろう。そんな教師は「公正」な手続きに従っている正しい教師なのかもしれないが、多くの学習者にとってそんな教師は機械的で血の通わない冷たい教師に見えるのかもしれない。

 

教育においても一定の手続きを守ることは当然大切だが、そういった手続きは、個々の学習者を伸ばすために決めたものにすぎないのではないか。教師の仕事を、学習者が一定の手続きを満たしているかどうかを正確に判定すること、とするならマニュアル化も可能で、どこからの苦情にもつけいる余地を与えない診断(評価)を出すことはできる。だが、それが人を育てることなのだろうか。もし「学校教育なんてそんなもんだ」と割り切るなら、早く、そんな教師を人工知能で置き換えて、浮いた人件費で福祉を充実してほしいとすら私は思っている。

 

 

■ 確証バイアスで歪んだ理解をする危険性

 

(拡大)解釈:少なからずの教師は、自らが好んでいる理論や先入観に都合がよいように所見のつじつま合わせをしているにすぎない。その落とし穴から逃れるには、自分の理解に基づく未来予測を細かに行い、その的中率を確認することで自らの理解が現実に即しているかをたえず自問自答することが有効である。(1994. pp. 12-14に基づく)

 

=>自らの確証バイアス (confirmation bias) には誰も気をつけなければならない。自らの理解は、とりあえずの仮説であることを自覚し、それが普遍的な理論の一事例であるなどと思い上がってはいけない。だが、研究に没頭し臨床経験が少なくなれば少なくなるほど、現場観察において確証バイアスが働きがちになるので注意が必要。

 

 

■ 厄介な事例の際には因果律の適用に注意する

 

(拡大)解釈:人間の認識にはおそらく因果律で考える傾向が本能的に刻み込まれている。しかしその本能的傾向に無批判的にしたがっていると時に問題が悪化する。特に「厄介」な事例の場合、教師は手持ちの理論のどれかを使って「あの学習者が悪い特性をもっているから、この悪い問題が生じている」という因果律で満足したくなる(少なくともそう考えれば当面の心理的葛藤からは解放される)。だが、そのような因果律による説明は可能な説明の1つにすぎず、それにばかり拘ってしまうと、全体像を見失い、問題の解決につながらなくなる。そんな時は、必ず別の因果律(説明理論)を考え出し、別の解釈でも考えるべきである。その際に、古今東西のすぐれた文芸作品にしばしば見られるような、善意や善行から悪しき結果が生じる悲劇パターンや、怠惰や悪行から良き結果が生じる喜劇パターンを積極的に想起するとよい。(1990. pp. 163-164に基づく)

 

=> 自称「頭の良い人」が自分の考えに凝り固まって、現実対応能力を見失ってゆく有様は世間ではよく観察される。そういった不幸な人は、自らの理論の構築と擁護にはこの上なく雄弁だが、その他の解釈は決して許そうとしない。多くの人間は、結局「自分こそは正しい」と思いたいのかもしれない(このように偉そうな文章をブログに書きつける私もそのような傾向があるのかもしれない)。

 

本来なら、そのような自己中心的な思い込みを止めることが必要である。もしそれが現実的に困難だとしても、「人は自らの正しさを主張する」ということを相互承認することぐらいは達成しなければならない。しかし、その相互承認すらも拒み、あくまでも自分の正しさを主張する人もいるかもしれないところが悩ましい。総論的にまとめるなら、ある人を「困った人」と呼ぶなら、自分も他の人から見れば別の意味で「困った人」なのかもしれないことを忘れてはならない。

 

 

■ 安直に悪人を特定する図式で物事を理解してはならない

 

(拡大)解釈:人間関係のトラブルが生じた時に、「加害者対被害者」あるいは「悪い人対良い人」という図式で物事を理解するのはもっとも拙いやり方である。人間関係を考える際には、悪人が一人も出ないような理解図式を考え出すことが大切である。もし悪人が生じてしまうようなら、なぜその人が悪人の役割を追わざるを得なくなるようになった事情を解明しようとするべきである。そうすると、根底に善意を見出すことが多い。複数の善意の絡み合いやすれ違いが不幸を招いたという物語は、万人が認めるものではないかもしれないが、事態改善のための物語としては非常に優れている。(1990. p. 185に基づく)

 

=> この教えも、常に心に留めておきたい。どこかに悪人を求める思考法は、そう糾弾された人以外の者にとっては、免責的で思考放棄を許すとても魅力的な思考法だからである。また、実証主義者は、ある一つの事態に対して複数の物語が成立することをもって、物語は信頼ならないとするが、物語を現実的な問題に対処するために適宜採択する作業仮説と見なすなら、物語の複数性はきわめて有用な特徴となる。ちなみに、この考えはヘイドン・ホワイト (Hayden White) "The practical past"(「実践的な過去」)にも見られる。

 

実践者は常に複数の物語(=作業仮説であり解釈図式)を念頭におきつつ、仮説・実行・検証のサイクルを細かく繰り返し、事態の改善に取り組むべきである。

 

関連記事:

ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店 Hayden White (2014) The Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/2017-hayden-white-2014-practical-past.html

 

 

■ 同一事例を何度も報告することで評論家になってしまってはいけない

 

(拡大)解釈:同じ事例について何度も報告をすると、その過程で言語表現ばかりが整理され理論化されるが、もともとあった雰囲気や情感が失われてしまうことが多い。それは経験の歪曲化であり、その歪みをなんとも思わず報告を続ける者は、実践者ではなく評論家(あるいは理論家)となってしまう。それを防ぐためには、「一つの事例について報告をするのは一回だけ」という戒律を守ることである。

 

=> ここにあげられた戒律を私は守れていない。私は英語教育の評論家であるよりも実践家でありたいと願い、職場を教育学部から一般教育担当部局に変えたが、それでも論文を書く中で、自分の好みの事例を複数回使って論を進めていることがある。幸い、英語教育実践の機会は飛躍的に増えたのだから、自分が経験するさまざまなエピソードを適宜記録・記憶し、それらを常に新鮮な形で引用することで論考を進めるようにしたい。

 

ちなみに私は対面授業では簡単な授業日誌(ほとんどなぐり書き)を書いているが、2020年春に新型コロナ感染拡大で緊急対応し非対面式授業をし始めてからは、その授業日誌を書くことを、11月末に対面授業を再開するまですっかり忘れていた。思い出したきっかけは、学生の顔を生で見たことである。その瞬間に「そうだ、これら一人ひとりには固有の人生があり、それぞれに異なった思いをもっているのだ」という当たり前のことを再自覚し、少しでも授業エピソードを書いておこうと思った。授業日誌を書くことは、言語化することで単なる体験を自分なりの経験に変容させ、関連記憶も想起し、その後の観察の視点も得るという点で非常に有用である。

 

 

■ 自分が使っている理論は、「規制する理論」か「導きの理論」か

 

(拡大)解釈:理論は、既定の構造を保ち事態の安定をもたらす「規制する理論」でもありうるし、既定の構造を破壊し新しい視点と行動を生む「導きの理論」でもありうる。概して言うなら、規制する理論は何かを禁止し、導きの理論は新たな可能性を示す。自分が理論を使っている時には、どちらの種類の理論としてそれを使っているかを自問自答すればよい。ちなみに、哲学は、導きの理論を模索するための特別な理論であり、混沌とゆらぎをもたらす。対人関係での実践者は哲学への関心をもつようにするのがよい。(1990. p. 222に基づく)

 

=> 私は神田橋條治先生の精神医学の理論を哲学的なものとして解釈し、教育についての新たな思考法や行動法を学ぼうとしている。神田橋先生の著作を「導きの理論」として読んでいるわけである。だが、その学びの中で、私なりに神田橋先生の理論を整理するにつれ、それがやがて「規制する理論」と変容することもあるかもしれない。「虎の威を借る狐」のように、神田橋先生の言説を教条化して、自他の教育的な思考・行為にダメ出しばかりするようになってしまうかもしれない。私はそのような可能性を避け、神田橋先生の理論を、私を構成する数々の要素の一つとして、適宜使いこなせるようになる必要がある。

 

 

 

 

 

コミュニケーション

 

■ 発話の基盤はノン・バーバル(あるいはプレ・バーバル)な要素である

 

(拡大)解釈:発話に伴うノン・バーバル(あるいはプレ・バーバル)な要素は、昆虫以上に進化したすべての動物が共有するコミュニケーションの本流である。人間の言語は、そこから派生した特異な分枝に過ぎない。(1990. p. 46に基づく)

 

=> 英語教育は「外国語教育」、すなわち学習者の身の回りでは使われていない言語の教育であるが、それでもこういった言語の身体性を重視しないと、言語(英語)は学習者の「身につかない」。一部の言語学習者にとっては「言語は自律的・抽象的な形式体系である」が根本的認識なのかもしれないが、私にとっては「言語は第一に身体の表現である」というのが根底的信念である。

 

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■ 発話の鳴き声的側面と言語内容的側面の使い分け

 

(拡大)解釈:人間の発話は、プレ・バーバルな鳴き声的側面と、イメージ伝達に使う言語内容的側面に二分することができる。プレ・バーバルな側面は、個体を抱え育む環境作りに馴染みやすく、言語内容的な側面は個体をゆさぶる異物の操作に馴染みやすい。(1990. pp. 56-57に基づく)

 

=>  大学院に進学すれば、言語を精緻に使い分け、内容を厳密に記述する言語技能を身につけることができる(よい指導教員とゼミ仲間に恵まれればの話だが(笑))。だが、人を惹きつけるプレ・バーバルな言語使用についてはほとんど誰も意識していないため、体系的な指導を受けることができない。

 

他方、学歴は高くなくても世間でもまれた人は、プレ・バーバルな言語使用に長け、人々の共感や信頼を得てゆく。

 

当たり前のことだが、言語教師は両方の側面において発話技能を高めなければならない。

 

 

■ 非言語レベルと言語レベルでの学習者支援

 

(拡大)解釈:対面しながら学習者への支援を行う場合は、非言語レベルと言語レベルにおいてそれぞれ以下の点に留意するべきである。

 

非言語レベルでの支援:一般的で肯定的な支援を広く浅く行う。非言語レベルで深い支援を対面しながら行おうとすると、関係性が教師と学習者関係以外のものに逸脱しかねない。教師は対面時に学習者を支援する際は、自らの非言語レベルでの行動・仕草・表情などが、「暖かさ」や「やさしさ」を示す常識的なものであり、その支援を広く浅く行うよう心がけなければならない。

 

言語レベルでの支援:的確な言語を使って、具体的な機会に即した理解や叱責を明確に示す。言語レベルでの支援を、広く浅く常識的なものに留めると、学習者の信頼を失うことがあるので、教師は、言語を使って学習者を支援する際には、自らの言語が内容面においても目的においても焦点が定まった言語を使わなくてはならない。(1994. pp. 51-53に基づく)

 

 

=> 無難な助言ばかりをするので学習者からの信頼を得られない教師や、焦点は明確だが的外れのことばを投げつけることで学習者を憤慨させてしまう教師は多い。また非言語レベルでの対面行動が、特定個人に対して濃密に表現されると、教師と学習者が同性・異性にかかわらずさまざまな問題を引き起こしかねないことは周知の通り。

 

 

■ 「ヒト」として対応するか、「人間」として対応するか

 

(拡大解釈):人間には「ヒト」としての生物的・情動的な側面と、「人間」としての文字文化的・抽象的な側面があるが、対人関係のコツは、相手が「ヒト」の側面を前面に出してきた時はこちらも「ヒト」の側面を出し、「人間」の側面を出してきた時はこちらも「人間」として応対することである。(1990. p. 180に基づく)

 

=> たしかに相手が情動を表明して「ヒト」としての訴えを行っている時に、こちらが情動表明を抑圧して抽象的な対応しかしないのは相手を追い込むことになる。逆に、相手が「人間」としての抽象的・理性的な論証をしている時に、こちらが「ヒト」として切々と語っても話は噛み合わない。とはいえ、相手が動物的な怒りを表明した時に、こちらも情動的に対応しようとすれば、それこそ “fight or flight” で怒鳴り返すか逃げ出さんばかりに怯えることになりかねない。自己中心的な相手が子どもじみた情動を示す際には、こちらはあくまでも冷静に理性的な対応をするべきだろう。もっとも「子どもじみた」と書いたが、教師の中には文字通りの子どもを教えている人も多いのだから、そのような人にとってこの追加は、まったくの無駄話だった。

 

 

■ 教師は、学習者に「わかりません」と言わせるような問いをしてはいけない。

 

(拡大解釈):教師の問いに対して、学習者が「わかりません」と答えたら、その問いはその学習者にとって適切なものではなかったと思うべきである。(1994. p. 139および1990. p. 192に基づく)

 

=> うまくいっていない授業では、教師の問いに学習者が、同じようなトーンで「わかりません」「わかりません」と答え続ける。問いを続ける教師は学習者に対する静かな怒りを抱き、学習者はその単調な口調で授業に失望していることを表現し続ける。だが、上のように、「学習者に『わかりません』と答えさせる問いは、問いそのものが悪い」と仮定してみると、教師の力量は上がるかもしれない(もちろん、教師の気持ちが折れてしまわないことが大前提だが)。教師は個々の学習者の理解や関心や意欲についてより丁寧に知ることが必要となるからである。

 

 

■ 答えやすいが情報量は少ない答えを求める問いから、明確に答えにくいが情報量は多い答えを求める問いまで

 

(拡大)解釈:問いは疑問詞でいえば、次の順番で答えの情報量は増えるが、それは同時に答えにくい問いであるということである。

 

(1) Yes or No, (2) Which, (3) What / Who, (4) Where / When / How, (5) Why

 

逆にいうなら (1) の問いからはもっとも明確な答えが得られ、数字が上がるにつれ、答えの明確さは失われる(それは同時に、聞き手の解釈の力が必要だということでもある)。(1994. p. 150に基づく)

 

=> 上の順番は神田橋先生が提示されたものであるが、私にはどうも WhereWhenWhatWhoよりも答えにくいとは思えない。だから、私なりに言い換えるなら次のようになる。

 

(1) Yes or No, (2) Which, (3) What / Who / Where / When, (4) How, (5) Why

 

 

■ うまく働く「なぜ」は、話の高まりの中で自然に生じる

 

(拡大)解釈:「なぜ」という問いは、答える側に、必ずしも明確に説明できない多大な情報の提供を強いるものである。故に慎重に取り扱わなければならない。うまくいっている対面診断では、「なぜ」という問いは、話し合いの重要なポイントで生じる。「なぜ」と問うのは対面診断を行っている教師の場合もあるし、診断されている学習者の場合もある。いずれにせよ、話し合いの気運が高まってきた末の「なぜ」は、問う者が「今なら、『なぜ』と尋ねても実のある答えが返ってくる」と確信した時に出てくる。問われた方も、問う者のその問いの言語だけでなく、言語以前の身振りや表情も見ているので、問う者の真剣さを受け止め、それに応えようと困難な問いに立ち向かうことができる。(1994. pp. 159-160に基づく)

 

=> 逆に言うなら、話の最初から「なぜ○○をするんですか/しないんですか?」と詰問調に問いただすなら、問われた方は身構えてしまい、心を閉ざしてしまうだろう。「なぜ」は強力な問いかけなので、取り扱い注意ということは心に刻んでおかねばならない。

 

 

■ 「なぜ」を問い続けることで人を追い詰めることができる

 

(拡大)解釈:「なぜ」は、しばしば説明を求めるためというよりは、聞き手の納得できない気持ちを表明するために用いられる。したがって「なぜだ!」はしばしば叱責のことばとなるし、「なぜ○○しないのですか?」は聞き手に○○を強要することばとなる。「なぜ」を繰り返す子どもは精神的に大人に依存しているが、学習者に「なぜ」や「なぜ○○しない」を投げかけ続ける教師は、実は学習者を叱責・強要・吊し上げしているのであり、教師としての診断・指導能力がないことを告白しているにすぎない。(1994. pp. 161-166に基づく)

 

=> 「なぜ」を繰り返す教師は、自らの力量のなさを棚に上げて、その問いに対して答えない学習者に学びの不成立の責任をすべて押し付けることができる。もちろん、話の流れを踏まえ、「なぜ」の口調を変えた上で、「なぜ○○してしまうんだろうね。どうだろう、このことについて一緒に考えてみない?」とうまく誘うと当事者研究の入り口に学習者をいざなうことができる。

 

関連記事

英語教師の当事者研究

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■ 学習者の「なぜ」は大切にしなくてはならない

 

(拡大)解釈:「なぜ」の特徴を踏まえた上で述べるなら、学習者から教師への「なぜ」の問いかけは尊重されるべきである。その問いは、学習者が教師に対して積極的な関与をしようとしていることを示しているからである。(1994. pp. 170-171に基づく)

 

=> 以前あるブログで「学習者に『なぜ英語を勉強しなければならないのですか?」と問われたら、教師はどう答えるべきか?」という特集が開かれ、多くの英語教師が自分なりの答えを示した。私はそこに投稿しなかったが、私の考えは次のものだった。「その問いはそもそも純粋な問いでない場合もあるので、それに対する万能の答えはない。ただ、その問いが、学習者が教師と何らかの形でコミュニケーションを取ることを求めていることを示すことだけは確かだから、教師としてやるべきことは、既定の答えを返すことではなく、そこから学習者と何らかの対話を始めることである」。

 

 

■ 望ましい方向への誘導方法

 

(拡大)解釈:対面診断の質問で、教師が舵取りをするためには、学習者に選択の余地を与えるときに、教師が好ましいと思う方を先に提示するようにする。(例:「どうしようか。このままなんとか止めずに続けてみる?それとも思い切って止めてしまおうか?)。ただし提言をする際にも観察は続けるので、最初の提案の時に学習者の不随意運動に否定的なもの(例えば顔の表情が曇る)が生じたら、上の提言も、途中で適当に変えるべきである(例「どうしようか。このままなんとか止めずに(表情の変化に気付く)続けるのはやっぱりきついかなぁ。もちろん続けてもいいんだけれど・・・」)。

 

=> このあたりの介入・コントロール・計画性をどれだけどのように入れるのかについては、微妙な判断が必要だと思われる。こういった技量が乏しい私としては、教師としての自分の介入・コントロール・計画性をできるだけ減らすことを今の所の原則としている。とはえいえ、これは単位を落とすことや休学・退学が原則として学生本人の自由である高等教育機関だからこそ許されているのかもしれないが。

 

 

 

■ 助言をする場合は、相手の選択の余地をできるだけ広くする

 

(拡大)解釈:教師が学習者に助言やアイデアを提示する時に大切なのは、できるだけ3つ以上を提示し、そこから学習者に選ばせるやり方で、学習者の自己統御感を高めることである。

また同様に大切なのが、その時の雰囲気である。比喩的に言うなら、助言やアイデアを教師と学習者の間にそっと置くような感じである。学習者がそれを取ってもよし、取らなくてもよしという雰囲気を出すべきである。(1990. p. 140に基づく)

 

=> これも実践者なら身体に叩き込んでおくべきこと。案を複数出すことはまだ意識しやすいが、自分が醸し出している雰囲気は自覚しにくいだけに注意が必要。私は神田橋先生の「すべての療法の核にあるのは雰囲気」という考えをすごいと思っていると再三にわたって書いているが、もっと自分の中に「大切なのは雰囲気」ということばを染み込ませねばならないと反省。

 

 

■ 人間関係上の問題には双方が絡んでいる。

 

(拡大)解釈:厳密に言うなら、厄介な学習者というものはいない。ある教師にとって厄介な学習者が、別の教師にとっては特に厄介ではないことも多い。あるいは、教師と学習者が互いに関係性を好ましいとは思っていなくても、その思いの程度は両者で異なることも珍しくない。それが人間というものである。(1990. p. 128に基づく)

 

=>(私も含めた)教師は自分の思い通りにいかない学習者をしばしば「困った学習者」として認識し、問題がすべてその学習者から生じたものだと考えたくなるし、時には同僚にもその同意を求めたりする。そのような教師にとって、「人間関係での問題において、片方だけが100%悪いということはない」ということは忘れてはならないことだ。もっとも、こういったことは世間で揉まれた人なら誰でも知っていることで、ことさら大学教師がブログ記事に書くことでもないのだが(苦笑)。

 

 

■ 「厄介は能力」

 

「厄介」とされる問題行動も、学習者の力の現れである。むしろ、表に出せる力が大きければ大きいほど、その学習者には大きな力があるということになる。その力を、社会の中に生きる本人にとって好ましい方に導くのが教師の力。とはいえこれも「言うは易し行うは難し」なので、「厄介は能力」を合言葉にして、問題行動に敢えて「能力」(あるいは「力」)ということばを付けて、アイデアを練ることが教師にも求められる。(1990. pp. 144-145に基づく)

 

=> 「○○力」という用語を敢えて使うことにより、問題行動に対する解釈を否定的なものから肯定的なものに変えて、かつ、問題行動をその人から切り離すこと(=問題の外在化:問題と人を分けて考えること)は、当事者研究でも見られる手法でもある。

 

しかし、こういった手法について語ることは本当に簡単だが、いざ自分が問題に巻き込まれた時にそれを実践することはとても困難である。人間関係に関する知恵は、実践者の心の平安が保たれていないと実行できない。そして問題行動はたいていの人の心の平安を乱すわけであるから、こういった知恵は「当たり前のようでいて、とても当たり前にはできない」ことになる。

 

人間修養ということばを使うと説教臭くなってしまうが、人文系の学問を学ぶ者には人間修養は不可欠だろう。もっとも論文生産技術に長けた研究者からすれば、そのような言い分など、論文を書けない者のごまかしに聞こえるかもしれない。また実際、人間修養や道徳を声高に語る者にはいかがわしい者も少なくない。だが、人文系の学問を実学的なものにするためには、研究者はまず自分の身を修めなければならないと私は考える。もっともこれは、私自身がおよそ成熟していないからこそ思っているに過ぎないのかもしれない。

 

 

■ 現在は合意できていないことを合意してから、部分的な合意に向けて共に努力するように仕向ける

 

(拡大)解釈:合意がなかなか取れない相手とは、最初にお互いに合意できない点があるということについての合意を得た上で、非合意の一部でもなんとか共有できるように努めることが好ましい。具体的には「私は○○だし、あなたは○○ですから、本来はお互いに理解できないはずですが、無理に理解を試みるとすれば○○といったところでしょうか」と言った言い方が役立つ。(1990. p. 194に基づく)

 

=> あるところで、取り調べ室での上手な尋問の仕方は、まず相手に首を縦に振らせて、その後もできるだけ首を縦に振らせ続けることだと聞いたことがある。「本当はお前がやったんだろう」なら相手(容疑者)は首を横に振ってしまい、その後の流れが断ち切られてしまう。だが「寒いなぁ、この部屋は」、「出身は南の方だって?」、「留置所に入ってもう○日になるかなぁ」などといった始め方をすると、それなりに話の流れができてくる。

 物語の語り方 (storytelling) においても、私は読み手・聞き手の首をどの順番でどう動かすかが私は大切だと思っている(詳しくはいつか他所で)。首を縦に触れない非合意事項が避けられない事案でも、どのように話の流れを作るかという工夫は常に必要だろう。

 

 

 謝罪のことばは大切に発するべきである

 

(拡大)解釈:自分が謝罪を行わなければならない場合は、相手の怒りや悲しみを引き受け、自分自身で共感や後悔や自責といった気持ちが高まってから、謝罪のことばを口にするべきである。(1990. p. 198

 

=> 時々、自分に非があるとすればすぐに謝罪のことばを出しておき、後で「ちゃんと謝ったではないか!」と逆ギレする人がいるが、そのような人は、相手の気持ちを共感的に理解するという相手にとっての「抱えられ育まれる環境」を提示していない。また、そのように安易に出される謝罪のことばには、それに伴うべき適切な表情や仕草が含まれていないことが多い。重視されるべきは「不随意運動 > 随意運動 > 言語」という観点から考えると前の2つを無視して、発言内容だけを盾にとって話を自分にとって優位に進めようとするそのような謝罪行為は褒められる行いではない。だが、口調・表情・仕草などは微妙であり、発言内容ほど明確ではないので、「私は謝ったじゃないか」という逆ギレに抗弁することはそれほど容易ではない。ましてやツイッターといったSNSメディアでは、活字化された言語しか見えないので、こういった雰囲気は伝えられない。書きながら自覚し始めたのだが、私がSNSを好きになれないのにはこのようなことも関わっているのかもしれない。

 

 

 

■ 対面診断も「出会い」に過ぎない

 

(拡大)解釈:対面診断は、診断という目的をもって行う意図的・計画的なものであるが、その本質は生身の人間の出会いである。さまざまな縁起が重なって人間と人間が出会ったのであり、その偶然性・偶発性・はかなさに思いを馳せない対面診断は、結局のところ、学習者のためにも教師のためにもならないだろう。(1994. p. 56に基づく)

 

=>私見に過ぎないが、自らが科学的であると信じ切って、診断的な調査を断行し、その結果を被調査者にも一般聴衆にも科学的結論として提示する教育研究者を私はあまり信頼することができない。自らの観察(ひいては理論)は所縁に導かれた末に得られたものではなく、真理から必然的に導出されたものであると信じている鼻息の荒い研究者のことばは、被調査者や一般聴衆の可能性を抑圧するだけなく、その研究者自身の潜在的な可能性も歪めているように思う。

 

 

■ 対面指導では、究極のところでは、技法よりも正直さの方が重要

 

(拡大)解釈:強引な単純化をすれば、「対面指導で大切なのは、自分の正直な気持ちや考えを正直に伝えること」となる。対面指導の技法の具体も大切だが、「対面指導の本質は、技法を捨てた状態だ」とも言える。正直さだけで行うコミュニケーションが、教師と学習者の間のコミュニケーションのずれを消し、その雰囲気が、学習者の中にある自己対自己のコミュニケーションのずれをも消す。そのことによって学習者の中の自助能力が働き始める。(1990. pp. 230-231に基づく)

 

=> この箇所は特に拡大解釈が甚だしいので注意が必要。上の「対面指導」は神田橋先生の「精神療法」をそのまま書き換えたもの。精神療法が原則として11で行われるのに対して、教育における対面指導はしばしば1対多で行われるといった違いを無視したまま、アナロジーを展開しているので、上の拡大解釈が妥当なものかについては読者の皆さんが一人ひとり吟味していただきたい。

 

 もちろん私は上のアナロジーが通用すると信じているので、上の拡大解釈を書いたわけだが、その記述の中でもやはり「雰囲気」が重要だと考えている。「正直なコミュニケーション」といっても、たとえば「自分の怒りの感情をそのまま表出してしまうこと」などはその一例ではない。ここでの「正直さだけで行うコミュニケーション」は、自分が相手に下に見られるリスクを知りながら自分の困惑や無力感を吐露し、相手の状況に対する共感的理解も示すといった、複雑で微妙な対話だろう。そういったコミュニケーションには、通常のぞんざいなコミュニケーションには見られない独自の静謐な雰囲気がある。であるから、この「正直さが大切」といったテーゼも、単純に理解するのではなく、「雰囲気が重要」という神田橋先生の見解の中核を始めとした神田橋先生のさまざまな教えの中で理解するべき。その文脈から引きずり出して、これを抽象的な真理などとしてしまってはいけない。

 

 

 

■ 指導者が正直になれるには、最低10年ぐらいのトレーニングが必要

 

(拡大)解釈:複雑に入り組んだ自分の気持ちや考えをまずは率直に理解して、かつ、それらを他人に誤解されないように正確かつ繊細にことばで伝える技術が、対面指導のトレーニングの基盤である。だが、この基盤をある程度身につけるには最低10年ぐらいのトレーニングが必要。(1990. p. 232に基づく)

 

=> 「困った子」は「困っている子」ともよく言われるが、困り果てた学習者は若いこともあり自分でも気持ちを処理できず問題行動を起こす。その問題行動には教師も振り回されてしまう。その混乱の中でも教師が自分の気持にも問題行動を起こす学習者の気持ちにも静かに正直に向かい合い、その中で芽生えてきたことばを大切に学習者に届けることは確かに容易ではない。怒りを偽善的に抑圧してしまうのではなく、もちろん怒りに任せて相手を追い込むだけのお説教をするのでもなく、相手の気持ちにも自分の気持ちにも忠実にいることでなんとか打開点を探ることは、教師がさまざまな経験の中から自覚的・反省的に学ぶことだろう。

 

またもちろんのこと、間接経験として、教師はさまざまな文芸作品(小説・戯曲・詩・演劇・映画・ドラマ・オペラ・ミュージカル・歌曲などなど)から人間のあり方とその表現法について学ぶべきだろう。まったくの蛇足だが、私は最近眠る前に古典落語を聞くことを楽しんでいる。どんな登場人物にも「しょうがないなぁ」という弱みや欠点があり、そんな中で人間がなんとかやってゆく暮らしぶりが描かれている。江戸の昔から語り継がれてきた噺には何かあるはずだと私は今の所、新作ではなく古典落語ばかり聞くようにしている。古典落語のストーリーだけではなく、ことば、そしてその語り方からも、学べることはたくさんあると感じている。

 

関連サイト

中島岳志:落語「文七元結」-長兵衛はなぜ文七に五十両を差し出したのか

https://www.mishimaga.com/books/ritateki/002634.html

 

 

 

 

言語

 

■ 鳴き声としての言語発話

 

(拡大)解釈:人間も動物である以上、動物種の1つのヒトとして考える場合は、言語発話を鳴き声の一種として扱うことが正しい。鳴き声が伝えるのは、その動物の生体機能・情動・ごく単純な意思決定に関する現在の状態である。(1994. p. 119に基づく)

 

=> 教師は他の近代人同様、どうしても言語発話の内容(いわば発話を活字化・標準化して得た文字通りの意味)ばかりに注目して、言語発話の基盤となっている発話者の現在の状態に注目しない。また、教師と学習者の双方がやる気をなくしたようなクラスでは、どちらも発声を単調なものにして自らの個性を消し、それぞれの心身の状態をほとんど伝えない棒読み的な発声を続ける。

 

ちなみに私はここ最近、週末に帰る自宅には猫がいるので、その2匹の猫から鳴き声を的確に理解することがどれほど重要かを教えてもらっている。猫とコミュニケーションをしていると、自分では身体的・情動的な表現を大切にしているつもりでも、存外、ことばの文字通りの意味に頼ろうとしていることがあり、はっとさせられる。

 

 

■ 言語により人間は他の動物とは決定的に異なるようになった

 

(拡大)解釈:「ヒト」は言語を使用し始めることにより「人間」となった。人間は鳴き声に言語という記号体系を取り入れたため、強力なイメージ界構築能力を有するようになった。そのため、構築されたイメージ界が人間に影響を与え、ヒトとしての体調を乱すことすら生じるようになった。(1994. p. 120に基づく)

 

=> ある発話内容が、特定文脈を離れて常にある人間に伴い、その人間に肯定的な影響を与えることの例は、理念や訓示により自分を律することであろう。だが文脈を離れた言語は否定的な影響を与えるようになることもある。その場合、人間はヒトとして弱りはじめる。

 

鳴き声と違い、言語は体系的な記号の1つとして認識されるので、文脈を離れてもその意味喚起能力を失わない。その能力によって書きことばは、遠くまで同じメッセージを伝えることができるようになったし、近代人の素養として書きことばを操れるようになることが必須となった。またこの書き言葉がインターネットなどを通じてその伝播能力を飛躍的に高めたのも周知の通り。人間は、言語とりわけ書記言語を操るようになり、単なる鳴き声しかもたない他の動物とは決定的に異なる動物となった。

 

 

■ 人間の外界操作能力を暴走させない

 

(拡大)解釈:生物はすべて自らと環境の間に調和を図りつつ生きている。植物は、自ら変化するだけで環境に適応する。動物は自ら欲するところに移動すること、および環境の一部を操作して変えることで生き延びる。この外界操作能力が異様なまでに発達したのがヒトであり(言語を獲得した)人間である。(1990. p. 1に基づく)

 

=> だが、この外界操作能力の「外界」に他人の意識・認知までも含めてそれを変えようとすると、さまざまな悲劇が生じるのは周知の通り。教育も、教師が学習者を操作・管理・支配をする発想ではなく、学習者を一人の人間として認めた上で、その人間が生き物として現代社会という環境に適応をすることを支援するという発想に変わらなければならない。

 

 

■ 暴走する言語文化

 

(拡大)解釈:言語を獲得し、「ヒト」から「人間」になった私たちは、さらに書き言葉・活版印刷・インターネットといったテクノロジーを利用するに至り、生物本来としては傍流であったはずの言語文化によって、生体機能が痛めつけられてしまうことが珍しくなくなっている。そうなると、言語文化はヒトにとっての癌細胞であるという比喩さえ成立する。あるいは人類(人間全体)は、地球の生態系にとっての癌細胞とも言えるかもしれない。(1990. p. 68に基づく)

 

=> 言語操作能力を向上させる際には、その向上がその人間そしてその人間が生きる社会を幸福にするのかという問いかけを失ってはならない。文芸作品などを使って言語を学ぶ場合は、そういった問いが学びの底流に流れているだろうが、昨今の英語教育では誰が書いたかわからないような無機質な文章が「機能的」で「テストしやすい」といった理由で使われているのは周知の通り。最近の英語教育業界の話題の一つは機械による自動採点だが、ここでもいかに言語教育から人間的側面を減らして形式的操作の側面を増やすかというのが大前提となっている。私はこうした業界の流れにどうも馴染めない。

 

 

 

 

 

技術習得

 

■ 教師を育てることも、学習者を育てることと同じ

 

(拡大)解釈:教師の職能をさらに育てる教師教育におけるトレーニングも、学習者を育てるためのトレーニングと同じである。教師教育の最終目的も、その育てられる教師(当事者)の「読みとる」「関わる」「伝える」の3つの機能の上達である。その際にも、その当事者の意欲と能力を「妨げない」「引き出す」「障害を取り除く」「植えつける」順で事を進めるべきである。(1990. p. 204に基づく)

 

=> 物事を説明する際に、できるだけ特殊理論を作ろうとする人と、できるだけ一般理論を適用しようとする人がいるが、私は後者のやり方を好んでいる(そもそもそれが「オッカムの剃刀」の意味だろう)。しかし「教科教育学」といった後発分野は、学問政治において自分の地位を高めるために、自分たちの理論は独自の理論であることを主張しようとする。かくして「○○科教育学」というのが教科の数だけ生じる(さらにはその下位分野も生まれることも珍しくない)。その結果、「○○科教育学」の枠組みで育てられる者は、その特殊分野の書籍や論文しか読まなくなる。偉そうな言い方をすると、一般教養が乏しい。しかし、本来は、さまざまな事象もまずは、一般的な原理で説明することを試みるべきではないか。自分の分野に閉じこもらずに、広く読書をするべきであろう。

 

 

■ 名人芸の伝承は徒弟制的な体得が王道

 

(拡大)解釈:実践の熟達者の中には、自分の技術を自分と分離して客観視することを苦手とする人も多い。そのような人の実践を学ぶには、その熟達者の身近にいて、染み込むようにいつのまにかその実践の本質を体得するのが王道である。次善の方法として、観察者が熟達者の名人芸を言語化するか映像として残すことがある。(1994. pp. 15-16に基づく)

 

=>言語化や映像化が次善の方法にすぎないのは、言語や映像は現象の一部しか捉えることができず、その部分的な情報伝達からはさまざまな誤解が生じるからである。私は前任校の広島大学教育学部で、最初のうちは学部3年生に、さまざまな実践映像を見せた。だが、残念ながら学生はきわめて表面的な観察しかできず、またその観察から自らの先入見に引きつけた解釈ばかりに拘泥することが多かった。そこでその後は、その実践を私なりに分析した文章を読ませてから映像を見せることにした。しかしこの方法にしても、私の分析を先入見としてしまい、その点からの観察ばかりに学生を留めてしまう危険性がある。またカメラマンと編集者の視点変更に従うしかない映像観察では、そもそも現場で自分の直感にしたがって観察対象を変えながら細かな仮説検証を繰り返すことができないので、その点の力量形成に寄与しない。

 

 

■ 言語化の限界を自覚した上で言語化を進める

 

(拡大)解釈:実践の対象化・客観化・言語化は技を学ぶためには次善の策とはいえ、そのような訓練を得て得られた言語力は、実践者の学びの媒体の1つとして重要な役割を果たす。(1994. p. 20に基づく)

 

=>我田引水になるが、私はこのブログの前の前のウェブサイト(「英語教育の哲学的探究」)の頃から熟達者の実践の言語化を試みてきたが、当の実践者から真顔で「自分でやっていたことが理解できたように思う」と何度も言われてきた。言語化は次善の策に過ぎないかもしれないが、限界があることを自覚している限りにおいては進められるべきだろう。

 

関連サイト

英語教育の哲学的探究

https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/

 

 

■ ケース・カンファレンス(事例報告会)のあり方

 

(拡大)解釈:ケース・カンファレンス(事例報告会)では次のことに気をつけるべきである。

(1)  報告の焦点:報告者は、まんべんなく報告するのではなく、自分がもっとも興味をもっていることを中心に報告するべきである。そうすることにより、豊かな情報提供ができる。

(2)  文字情報の使い方:レジメは作っておいたとしてもそれは会の最後に配るべきである。報告では、文字情報はできるだけ使わず、話し言葉で報告するべきである。その語りの中で、報告者も聴衆も互いの口調や表情や仕草に注意が向くようになる。文字ばかりを読む報告は、理論家は育てても実践家は育てない。

(3)  聴衆は報告者を支援する:聴衆の役目は、報告者を支援することである。鋭い質問で報告者を追い込むと、ある局面に関する情報は集中的に得られるかもしれないが、場の雰囲気が悪くなると、報告全体が伝える情報量はかえって貧困になる。

(4)  会の前後で参加者がそれぞれに変化する:司会者の役割は、参加者全員が、会の参加の前後で何らかの変化が生じるように仕向けることである。プロを育てる報告会の場合は、参加者が、会が終わった後も考え続けるような変化をもたらすこともよい。

(5)  発言の内容と時間のバランス:すべての参加者は、自分が発言している時は、他のすべての者の時間を奪っていることを自覚して、自分の発言がそれにかける時間だけの意義をもつかを自覚するべきである。もしそのような自信がもてないなら、大人数の報告会ではなく、少人数の茶飲み話会を開いた方がよい。(1990. pp. 213-216に基づく)

 

=> (1)の報告の焦点については、私がかつて現職教員の研修会のスーパーバイザーをしていた時、「研究報告も、同僚に『ねぇ、聞いてよ』と語るようにストーリーとして語ってはどうでしょうか」と提言し、それなりの成果を得てきたと自負している(下記論文参照)。

 (2)の文字情報の使い方については、身体性やライブ性を大切にする講演者の中には、予め話の流れを決めておくことも避けて、パワーポイントなどのスライドも使用しない人もいる。私はそこまではできずパワーポイントを利用するが、それでも研究発表の時も授業と同じように聴衆とのアイコンタクトを大切にしている。私にとってアイコンタクトは、講演・授業の成果を告げてくれるよい指標である。

 (3)の聴衆の支援については、よい雰囲気を保ちながら解明的な質問や建設的な批判をすることが重要だろう。これも下の論文に書いたが、いわゆる校内授業研究では、聴衆が無難な質問しかしない傾向があり、よい雰囲気が共有されるまでにはいたっていないことが多い。

 (4)の会の前後での変化についてはまったくその通り。上では私はアイコンタクトを研究発表や授業の成果を推測する指標の一つとしたが、この指標も同じように重要。ただ、この指標は質的なものであり、アイコンタクト以上に実証的に示せない。

 (5) 発言の内容と時間のバランスについてもその通りだが、大きな研究会などでは自己承認欲求を満たしたいエゴが強い人がしばしば長々と発言することは周知の通り。まあ、そういう人のことはさておき、現実的な研究会(そして授業)の運営法の一つとしては、私は自分の一斉説明を(できるだけ短く)行った後に、全体のQ&Aセッションとグループでの話し合いセッションを入れるようにしている。全員が聞いているという緊張の中でのやり取りと、小集団の中での気楽なやり取りには、それぞれの良さがあると考えるべきだろう。

 

関連記事:

樫葉みつ子・柳瀬陽介 (2020) 「当事者研究から考える校内授業研究のあり方」

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2020.html

 

 

 

■ 人の統合の理想像は、単一体系ではなく、変幻自在な複合体である。

 

引用:人の成長における統合の理想像は「心をより複雑に」していった終点としての、混沌とゆらぎである。この統合状態は、決して弛緩したありようではない。微かな刺激が加わると一瞬にして反応がおこる過飽和の気体に準えられるような、静かに張り詰めた雰囲気の混沌、が統合の理想像である。(1990. pp. 218-219よりの引用)

 

=> この箇所の表現は見事なので、そのまま引用した。敢えて、私なりの言い換えをするなら次のようになるかもしれない。

 

成長するにつれ、人はさまざまなことを学び、それらを統合してゆく。だが、その統合は決して一つの原理だけに還元できる単純な体系とはならない。心を構成する多種多様な要素は、さまざまに結びつきうる可能性を保ったまま、その人の中で流動している。何かの刺激を感知するや、それらの要素は、その刺激への対応にするために適した組み合わせとして再統合し、その人はその事態に対処する。だがその対処も固定的なものではなく、事態の変動に応じて、異なる要素による再統合を行う。

 

 

■ プロとはどこでも常に一定以上の成果を上げる者のことをいう

 

(拡大)解釈:いかなる分野においても、プロの技術とは、目覚ましい成果を上げることではなく、常にどんな場面でも一定以上の成果を出して、ひどい失敗を起こさないことである。そのためには基礎的な技術を常に磨いておく必要がある。(1990. p. 128に基づく)

 

 

=>完全な脱線話になりますが(笑)、私はこういった意味での「プロ」を元広島カープの黒田博樹投手に強く感じます。黒田選手のような教師・研究者になりたいと思い続けていますが、私の現実の行動はその思いを裏切るばかりです。しかし黒田投手への憧れは私の中でずっと続いています。

 

関連サイト

ウィキペディア:黒田博樹

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%8D%9A%E6%A8%B9

 

 

■ 「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」

 

(拡大)解釈:経験から言えることは、困難を打開するには、自分が変わらなければならないが、変わるためには自分が十分に窮していること(困りきっていること)が必要だということだ。だが、人は困っている時に、自分の無力を存外に否定しているものである。その否認があるうちは、なかなか自分の中に変化は生じない。だが、窮している自分に充分に直面すれば、ほどなく自分の中の構造ががらがら崩れ、その混沌の中から新鮮な連想が湧いてくるものである。(1990. pp. 228に基づく)

 

=> 「陰極まれば陽に転ず」という格言も、これに似ているのかもしれない。あるいは、自分(たち)が無力であることを認めた時に、新たな可能性が生じるという発想は、当事者研究やAlcoholics Anonymousにも見られる。

 

関連記事

Wikipedia: Twelve-step program

https://en.wikipedia.org/wiki/Twelve-step_program#Twelve_Steps

 

 

■ よい教師になるには、自分らしさを最大限発揮しなければならない。

 

(拡大)解釈:自分という人間にとって最良の教師となるためには、自らのもって生まれての資質と人生経験で染み込んだ学習内容を、対面指導の技法に活かすしかない。つまり対面指導の技量を高めるための教師の目標は、自分なりの技法とその基盤となる理論を一人ひとりが築くことである。もちろん先人の技法や理論も学ぶが、それらは目標に至るまでの通過点と考えるべきである。先人の技法や理論の代弁者になることが目標ではない。他人の技法や理論は、自分の可能性を発見するための型であり、それは守破離の過程を経た上で、状況に応じて自在に使いこなすべきものである。それは自分の構成要素の一つであるが、すべてではない。良い教師となるためには、人間としての自らが身につけているものすべてを総動員して、その結果、もっともその人らしい教師になることが必要である。(1990. p. 257に基づく)

 

=> それなりに実践家を見てきて、自分でも実践家として職業生活の最後を終えようとしている自分としては、この主張にも深く頷く思いである。しかし、この主張は、多くの教育方法論の研究姿勢を根本的に疑うものであることにも注意したい。多くの教育方法研究は、普遍的な(あるいはそこまで大げさなことばを使わないにせよすべての人にとって)有効な指導方法があるとして、それを実証するための比較実験研究などを繰り返している。しかし、おそらくそういった最大公約数的によい方法とされるものはおよそ常識的なもの(例:「学習者一人あたりに肯定的な関心が向けられれば向けられるほど学習成果は上がる」)ぐらいのもので、現場で悩んでいる実践者にとってはほとんど情報量がないものだろう。

 

 たまたま今朝読んだ新聞の論説記事(下記参照)は、アメリカのチャータースクール論争についてEve L. Ewingという教育社会学者が書いたものだった。その要旨は次のとおりである。「メディアの関心は、チャータースクールを非難するか礼賛するかのどちらかであり、データはそのどちらかの主張を支えるように整理されてきた。言い換えるなら、2世代にわたる『チャータースクールは有効か?』という問いを研究者は出し続けてきたのだが、その答えは何度も何度も同じものであった。『有効な時もあるよ。状況次第だね』」。 (media attention toward charter schools tends to either demonize or canonize their practices, and data is regularly marshaled to strengthen the case.” … In other words, after two generations of research, scholars have repeatedly asked, “Do charters work?” and the answer is a resounding: “Sometimes! It depends!”)  


Can We Stop Fighting About Charter Schools?

https://www.nytimes.com/2021/02/22/opinion/charter-schools-democrats.html


この論説記事はチャータースクールというマクロレベルの教育方法についてのものだが、同じことはミクロレベルの小さな指導技法でも言えると思う。それなりに定評のある技法については、万能でもなければ無能でもない。それが有効になるのは、状況を踏まえた使い方次第であり、その状況を構成する要素はあまりにも多数であり流動的であるので(=複合性 (complexity) が高いので)、それを厳密な一般法則としては定立できない(『英語授業学の最前線』の中に書いた拙論をぜひお読みください)。

 

 それならば、教育方法に関して実践者が問うべきは、「どの指導法が万人にとってよい指導法なのか?」ではなく、「もっとも自分に適った指導法は何なのか?」だろう。この問いの転換のもつ意味や波及効果は大きい。上述の多くの教育方法研究者は戸惑うだろう。しかし、多くの実践者(特に若くて真面目な教師は)、この問いの転換によってずいぶん自由になれるのではないだろうか。もちろん誤解のないように付け加えておくと、「自分に適った指導法」の大前提は自分が指導する学習者をもっとも豊かな学びに導くことである。「自分に適った」というのは恣意的・利己的な意味での表現ではない。

 

2021/02/25

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)

 

この記事は、私が以下の2冊の本を読み、その精神医学に関する知見の一部を教育に拡大解釈し、さらに蛇足を加えたものです。

 

神田橋條治 (1990) 精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社

神田橋條治 (1994) 追補 精神科診断面接のコツ』岩崎学術出版社

 

 

私がよく作っている「お勉強ノート」の一種ですが、今回は、直接引用を基本的に避けて、私が読み替え・書き換えた「(拡大)解釈」を掲載し、その後の「=>」でそのことに関する私の考えを書き足しました。ですから、精神医学に関する神田橋先生の見識は大幅に歪められて(あるいは姿を消して)おります。ですから(釈迦に説法になりますが)、精神医学関係の方でたまたまこの記事を読み、神田橋先生にご興味をもった方がいらっしゃいましたら、この記事の記述を信じず、上の原典をご参照ください。

 

この「お勉強ノート」の最初の版は4万文字(原稿用紙100枚)を超えるものになりましたので、ブログ掲載に際しては2部構成とすることにしました。

 

1部であるこの記事には、上の2冊の中から「感性・雰囲気」、「教育」、「学習指導」、「学習者理解」に関すると思われる箇所についてのまとめを掲載しました。そのため、原著の順番は大幅に変更されたまとめとなっております。まとめの狙いとしては、まず神田橋理論の中核ともいえる「感性・雰囲気」について理解し、次に「教育」という大きなくくりで考えることを意図しています。次に、「学習指導」(神田橋先生の「精神療法面接」の拡大解釈)と「学習者理解」(神田橋先生の「精神科診断面接」の拡大解釈)についてまとめます。

 

次の記事の第2部では、「理論」、「コミュニケーション」、「言語」、「技術習得」の順でまとめます。


 ちなみにこの前の記事も、神田橋先生の著作から私が学んだことに関するものです。



『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

 

 それではご興味のある方は、以下のまとめをお読みください。いつものようにご批判を歓迎いたします。




*****

 

 

 

 

感性・雰囲気

 

 

■ 学びの診断は五感を駆使して行う

 

(拡大)解釈:教室や面談室で学習者に対面しながら学習者の学びについて診断しようとする教師は、その五感を駆使して診断を行う。学びの診断は、その学習者がどこに躓き、学びを進めるためには何を必要としているかという判断である。教師には、医学における脳波やCTスキャン像などのように科学的に信頼できる非対面的な検査データはないので、対面診断の技量を高める必要がある。 (1994, p. 10に基づく)

 

=>内申書成績や学外テストの点数も非対面的なデータだが、それらは医学における検査データのような厳密な妥当性や信頼性は有していない。教師は、そのような非対面式データに過剰に依存して、学習者と対面する際の自らの五感の働きを止めてしまってはいけない。

 

=>ただ、これ以降は、あくまでも教師が学習者の学びの診断を行う前提で話を進めてゆくが、『学び合い』などの実践では、学びの診断を学習者が対面コミュニケーションを通じて相互に行う。学習者の数は言うまでも教師の数よりも多いこと、かつ、学習者の方が教師よりも素直に感性を働かせる傾向があることなどを考えると、学びの診断を対面する学習者が共に行い合うことには高い合理性があるかもしれない。この『学び合い』実践の可能性については、今後も丁寧に考え検証してゆきたい。

 

関連記事:

<実践報告>大学必修英語科目での『学び合い』の試み --「対話を根幹とした自学自習」を目指して

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/11/blog-post.html

 

 

■ コツは身体知であり、実践者が雰囲気と自身を感じながら、流れにのって発揮するものである。

 

(拡大)解釈:技術のコツは、修練の毎日の中で知らず識らずに身に染み込み、それが必要となった時に無意識に発揮される。言語でどんなにそのコツを表現しても、歪曲化・矮小化・粗雑化などは免れない。名人クラスの実践家が自らの技芸を分析して書を著したとしても、その名人は実践を行う場合に、分析したことばを頭の中に思い起こしてそれを実行しているわけではない。名人は、ひたすら全体の雰囲気と自分の心身に生じてくる反応を感知し、それらをもとに相手の心身の状況を推測し続けるだけである。名人から学ぼうとする実践者は、その流れを感じ取らなければならない。(1990. pp. 256-257に基づく)

 

=> こういった技芸 (art) --個々人がその人生をかけてその身につけてゆく人格的知識 (personal knowledge) に関しては、Polanyiの分析が参考になる。あるいは異なる分野(太極拳、チェス、将棋)の修行が同じような過程を経ているのも興味深い。このような身体知は、完全に対象化して自然科学のように研究することはできない。だから、そのための独自の方法をもって研究を進めてゆかねばならない。そのような研究法についても少しずつ衆知が集まってきているように思う。必要なのは、自然科学(の真似事)だけが、英語教育研究でないという当たり前のことを皆が新しい常識とすることだろう。

 

関連記事

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html

ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳 (2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/2015.html

羽生善治氏の4冊の本を読んで:知識を経験にそして知恵に

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/4.html

 

 

■ 先入見と経験は実は同じものである。

 

(拡大)解釈:先入見と経験は、コインの表裏である。先入見をなくして観察をしようとすることは、それまでの経験知を働かせようとしないことあるいは否定することである。そのようなことをすれば感受性の低下が生じる。(1994. p. 241に基づく)

 

=> 人間の認知は、それまでの経験に基づいて生じるさまざまな感情に伴う予測に強く影響されている。「先入見をなくして観察をしよう」ということばは、「強い偏見を保ったままにしてはならない」という意味では有効な助言になるのだが、ただ繰り返すなら、人間のあり方を否定する妙なお説教になりかねない。

 

関連記事

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brainの五章(「概念、ゴール、ことば」)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/lisa-feldman-barrett-2018-how-emotions_26.html

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Madeの第六章(「脳はいかにして情動を作り出すのか」)のまとめ

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意味のシステム依存性と語の超越論的指示機能に関する若干の考察:バレット著、高橋洋訳 (2019) 『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)の1-7章を読んで

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7章「社会的実在性を有する情動」(Emotions as Social Reality) のまとめ: "How Emotions Are Made"より

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/7emotions-as-social-reality-how.html

身体と心と社会は不可分である:Barrett"How Emotions Are Made"の後半部分から

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/02/barretthow-emotions-are-made.html

 

 

 

■ 教育実践の中核は、それが醸し出す「雰囲気」である

 

(拡大)解釈(この項目は特に元の精神医学の知見を学校教育に拡張・変形させて解釈しているので注意が必要):成果を上げている教育実践を観察して言えることは、それらすべての核にあるのは、その場の「雰囲気」のよさである。教育実践において、使用する教材や教授法や教室、そして教える教師や教わる学習者は、実にさまざまであるが、それらがうまく噛み合って、学ぶ場によい「雰囲気」が感じられる時には、授業(対面指導)はよいものとなる。「雰囲気」とは、形がなく、輪郭がなく、厳密な言語化も困難な、その場のあり方である。それは参加者のことばの調子や、なにげないしぐさ、態度などに垣間見られる。その雰囲気がよければ、その教育実践は、参加する誰にとってもよいものとなる。逆に言えば、教材や教授法あるいは教師や学習者が、いかに「優れたもの」という評判を得ているものであっても、学ぶ場の「雰囲気」が悪いものになってしまえば、学びの成果は出にくい。(1990. pp. 43-52に基づく)

 

=> 前の記事でも書いたが、この「雰囲気」を神田橋先生は自分にとっての「セントラルドグマ」としているが、この考え方に私は衝撃を受けた。このような説明法は、実証主義者がもっとも非難するものであり、自覚のない実証主義者が多い学界でこのような発言をすることにはリスクが高い。しかし、実践者としてはこの考え方はとても共感できる。異なる個性をもった人間(「複数性」)を含む数多くの流動的な要因が絡まる場(「複合性」)で、「普遍的な要素」を求めるとしたら、このような概念ぐらいがその答えとなるのではないだろうか(もっともウィトゲンシュタインが『哲学的探究』で批判したように、実証主義者はこのようなことばが示しているのは「概念」ですらない、というだろうが)。

 

私は前任校(広島大学・教育学部)では、いろいろな小中高で授業観察をしたが、その際、(i) 児童・生徒が訪問者である私に挨拶をしてくれる、(ii) 校内の掲示物に温かい感じがある、(iii) 校長先生や担当教師が話しやすい、という3つの条件を満たした学校で、悪い授業を見たことがない。科学的な知見ではないが、私にとってこれは重要な経験則であった。これも「雰囲気」ということばで説明することができるだろう。

 

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英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて

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コミュニケーションはいかにして形成され、そこでは何が生じるのか:長岡(2006)『ルーマン 社会の理論の革命』の第8章を基にしたまとめ

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■ 雰囲気は、もっとも情報量の大きい、生の情報である。

 

引用:雰囲気は、もっとも情報量の大きい、生の情報である。(1990. p. 250からの引用)

 

=> 作曲家のメンデルスゾーンはかつて、「私の愛する音楽は、ことばでとらえるにはあまりにも漠然としている観念を表現しているのではない。実情はまったく逆で、音楽はことばで表現するには精密すぎる観念を表現しているのである」 (the music I love expresses ideas that are not too vague to be captured in words, but on the contrary too precise”) と述べたという。それに倣って言うなら、「ことばや数値で雰囲気を充分に表現し尽くせないのは、雰囲気が漠然としているからではない。雰囲気はあまりに緻密だからこそ、ことばや数値では表現できないのだ」となるだろう。

 ここでいう「雰囲気」は、ある楽器の入りのタイミングや合奏のテンポの揺らし方を微妙に変えるだけで、演奏があざとくも名演にもなること--まったく別の雰囲気が生じてしまうことから理解できるかもしれない。あるいは絵画のタッチのカーブや勢いの絶妙な加減が名画を生み出していることからも推測できるだろう。私などが言うと、まったくの俗物的な言い方になってしまうが、芸術家がその人生をかけて達成した表現の精密さを理解することは、一般教養の必須の項目だろう。

 

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Review: Mendelssohn's Lieder ohne Worte, Books 5-8

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■ 実践においては、雰囲気のよい流れが途切れないようにすることが肝要である。

 

引用:精神療法実務の要諦を一言でいうなら、「途切れが起こらないように、途切れている両者に橋を架けて流動が始まるように、と設定する工夫である。わたくしの論述に触れることで、後輩諸氏の内部に、新鮮でしかも懐かしく、個性的でしかも他の世界ととぎれていない流動、が再生するなら、先達としてのわたくしの、喜びこれ過ぐるはない。(1990. p. 257からの引用)

 

=> 『精神療法面接のコツ』の最後の段落のこの文章も達意の表現なのでそのまま引用した。下衆を承知で、特に重要な表現を書き出すなら、「途切れが起こらない」、「流動」、「(論述に)触れる」、「新鮮でしかも懐かしく」、「個性的でしかも他の世界ととぎれていない」、「再生」であろう。さらに野暮を行い、私なりの書き換えを試みるなら今の所、次のようになる。

書き換え:対面指導を行う際の要点は次のようにまとめられる。「指導を行っている際に、よい雰囲気の流れが続くように心がける。もし流れが途切れたら、教師と学習者の間に橋を架けて、よい流れが始まるように工夫する。自らの技術を言語化した先達が喜ぶことは、後進の者が自分の著作を丸暗記して教条化することではなく、著作を読み通すことによって自分なりのよい雰囲気の流れを心の中に見出してくれることである。その流れは、著作を読んだ一人ひとりが新たに創造したものでありながら、同時に、過去の先達の創造とつながっているものである。」

 

 

 

教育

 

■ 教師のすべての行いは、学習者の幸福につながるべき

 

(拡大)解釈:すべての技法は、すべて学習者の福利向上という理想に奉仕するためである。(1994. p. 177に基づく)

 

=> 残念なことに、少なからずの教育技法は、学習者を手早く管理するためであったり、教師の手間を省くためであったりする。もちろん管理や効率化が教師にとって不可欠な場面も多々ある。だが、すべての教師の行いは、究極的には学習者の幸福につながるものでなければならないという信念は、根本的な原理として心に刻んでおくべきだろう。その原理に明らかに反する行いは、たとえ短期的な利便性があったとしても、実行するべきではない。

 

 

■ 教育の場を構成する3要素:個体、環境、異物

 

(拡大)解釈(この項目は特に用語を変えているので、読者には注意が必要):教育の場を構成している要素を図式的に分けるなら、(1) 個体、(2) 環境、(3) 異物となる

 

(1) 学ぶ個体:教育の主役は学ぶ個体である。個体は人間として学習本能をもち、それに基づいてさまざまな自学自習活動を行う。教育の場においてもっとも重要なのは学ぶ個体であり、教育の基本はこの学ぶ個体の活動を最大限に活性化することである。

 

(2) 個体を抱え育む環境:教育において次に重要なのが、個体を抱え込む環境である。環境といっても自然環境と異なり、この個体を抱え育む環境は、特定個体の学びを促進するために、その個体の視点から作成される教育的な環境である。この教育的な環境は、個体の学習本能および自学自習活動が最大化されるように作られなければならない。

 

(3) 個体を刺激する異物:最後に登場するのが、個体の学びを促進するための刺激として教育的環境に投入される異物である。これは、通常は、教師が提示する教材や問いかけである。教育学部では、しばしば教材や教師の発問が教育の主体のように扱われるが、これらの異物は、学ぶ個体の学ぼうとする本能を破壊しないように、また個体を抱え育む環境を荒廃させないように慎重に導入しなければならない。教師の介入を常に善であると誤解してはならない。

 

以上の3つの要素を図示すると次のようになる。(1990. pp. 27-30に基づく)

 



 

=> 教育の場における重要度は、「学ぶ個体 > 学びのための環境 > 教師の介入」であることは、心に銘記しておかねばならない。教師はしばしば、自らの介入(教材や発問)を善と信じるがあまり、せっかく形をなしてきた学びのための環境や、もともと学習者がもっていた学ぶ本能を破壊してしまうからである。

 

ちなみにそういった教師は、本能を否定されやる気を失った学習者をバカ呼ばわりする。また、学びのための環境を殺伐としたものとして、一部の勝ち組が残れば良しとする。そんな教師や教室は、負け組とされた学習者にとってはたまったものではない。勝ち組となった学習者も、志望校合格といった報酬は受けても、その教師や教室をよい思い出とすることはない。またそういった学びが、その学習者の学び方を歪めてしまった可能性も高い。

 

ただ気をつけておかねばならないのは、神田橋先生は個人ベースの精神療法を考えているので、上の図には個体は一人しかいないことである。だが学校教育は集団での学びを基本とするので、神田橋理論を教育に応用する時は、集団的な学びについての考察を追加することが必要。とりあえず今は、おそろしく単純な図式化だけしておくと、複数の個体を入れた図が下の図となる。教師は、精神科医の知恵から大いに学ぶにせよ、複数の学習者の力学については独自の知恵を育てなければならない。

 



 

■ 学ぶ本能・意欲が問題行動として現れる場合

 

(拡大)解釈:どんな人間にも学びたいという欲求が本能としてあると仮定すると、教師からすれば問題行動としか思えないような学習者の行動(不服従や反抗など)も、その学習者が学ぶ本能を発揮したいと願いながらも自らの環境に不適合を引き起こしているために生じていると考えてみることが重要になる。ちょうど病の多くの症状が、生体が本来の状況に回復するために自ら引き起こしている事態であるように、教師が提示する学習に抵抗する学習者も、より自らに適った学びを見出すためにそのような行動を示しているかもしれない。(1990. pp.31-33に基づく)

 

=> 私の拙い経験にすぎないが、できるだけ教師の介入を廃し、学生の個人的・集団的な学びに委ねた授業をしている際に、教師からすればやる気のないような行動を示している学生に対しても私はできるだけ注意を控えて見守っていた。その結果、ほとんどの学生は、その後に積極的な学びを行った。以来、私は「推定無罪」 (Presumed to be innocent) にならって「教室に来ている学習者は、そうでないという決定的な証拠がでない限りは学ぶ意欲をもっている」ということを前提としている。

 

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■ 指導の初期段階では環境づくりを重視する

 

(拡大)解釈:学ぶ個体を抱え育む環境は、学習者の学びの本能を活かす場だけでなく、異物による揺さぶりを受ける学習者を支える場でもある。ゆえに、抱え育む環境を十分に整備しないままに、教師がいたずらに異物(教材・発問)を投入し指導を急ぐと、学習者は傷ついてしまうことがある。指導の初期段階では、適切な環境づくりを重視するのが定石である。そしてこの環境は、決して教師が一方的に作るものではないことを忘れてはならない。教師は、学習者の意識下にある学びの本能と共同作業しながら、学習者を抱き育む環境を作るべきである。(1990. p. 83に基づく)

 

=> 「学年・学期始まりの3日間は黄金の3日間」というのは現職教師の合言葉のようなものだが、この初期段階でやるべきは、学習者が安心しながらも学ぶ好奇心をかきたてられる環境づくり。私の場合は、簡単な(しかしある程度の感情を込めた)自己紹介をし、「学校は安心して失敗する経験を積むためにある」ことを明確に述べ、スライドを使いながら、機械翻訳などが使える現代社会において英語を学ぶべき意義について説明をしたりしている。

ちなみに「教育というものは死に至らない失敗を安全に経験させるためのもの」というのは植松努さんのことば。私は下の動画は、学校関係者必見のものだと思っている。

 

TED動画:植松努「思うは招く」

https://youtu.be/gBumdOWWMhY

動画全文書き起こし

http://scienceandtechnology.jp/archives/20149

 

 

■ 抱え育む環境の3層:物理的環境・教師との関係・学習者の内部環境

 

(拡大)解釈:学習者を抱え育む環境を便宜上、外層・中層・内層の3層に分けることができる。それらはそれぞれ、学習者の物理的環境・学習者と教師の関係・学習者の内部環境となる。

 

(1) 学習者の物理的環境:学校の立地状況、建物、部屋、調度品、および気温や照明や換気状況などの物理的環境を軽視するべきではない。現実的、常識的な範囲で、物理的環境を整備するべきである。ある病院長は、「一木一草、これ治療者」と語り、院内の自然環境や建築物の整備に心を砕いていた。

 

(2) 学習者と教師の関係:教師はプレ・バーバルなレベルでのコミュニケーションを重視し、学習者の同意や反発を読み取りながら、学習者が安心して学べる(=学びのために失敗できる)関係性を作るべきである。この関係性の構築は、一種のすり合わせであるから、効率を重視して直線的にやろうとすると失敗する。蛇行するのが自然であると考える場合である。もちろん教師が語ることばも大切であるが、その際は学習者が実生活で使うことばをできるだけ使い、かつ、授業の方針や計画を予め告げ、授業は教師と学習者が協力して作り上げるのだという態度を共有する方がよい。

 

(3) 学習者の内部環境:学習者の核にあるのは学ぶ本能であるが、その本能を囲んでいるのが、学習者が心のなかに抱いているイメージや記憶や言語である。これらの内部環境が良性のものであれば、学習者の学ぶ本能はうまく抱えられ育てられる。逆に、否定的なものであれば、学習本能を抑圧したり歪めたりしてしまう。否定的な内部環境に対して、教師は揺さぶりをかけるが、肯定的な内部環境については、教師は、そのイメージ・記憶・言語に聴き入り、プラスのイメージを与えることでそれをさらによいものにする手助けをする。

 

以上の3層を図式化すると下のようになる。(1990. pp. 83-101に基づく)

 



 

=> (1) の外層である物理的環境は、指定された教室に行って授業を行う大学教師は、せいぜい「この教室は暗いなぁ」などと感じるぐらいで、それについてあまり考えようともしない。だが小学校の担任教師などは、自分の教室をまるで家のように心地よいものにする努力をしている。まず物理的に居心地がよいことは、安心して学習するために大切なことだろう。ちなみに私は、物理的環境の典型例ではないかもしれないが、自分が提示するスライドにはできるだけ写真やイラストを添えて、学習者がさまざまなイメージを喚起しやすいようにしている。もちろんやりすぎは逆効果だが、単調な視覚刺激ばかりを与えないように気をつけている。

 

(2) の中層である教師と学習者の関係については、教師は自らの発言のプレ・バーバル(ノン・バーバル)な側面に注意を払ってコミュニケーションを行わなくてはならない。また、学習者に同意を求めるだけでなく、学習者が抵抗や反発を示した場合には、その際にも、言語以前の動き(特に不随意運動)に注目して、その抵抗や反発から自分が何を学びどのようにそれに対して適応できるかを理解して、学習者との相互調整作業に入らなければならない。もちろん、教師がいたずらに学習者に迎合してしまってはいけないが、ただひたすらに教師が一方的に定めた方針を学習者に受け入れさせることが教師の仕事ではない。

 

(3) の内層である学習者の内部環境については、まず教師はこれを尊重し、そこに見られる学びへの動きについて学習者から話を引き出しそれに聴き入ってそれを評価することで学習者のやる気を高めるべきである。具体的には、「なるほど、そう考えてこれまで○○してきたんだ。すごいねぇ」や「えっ、ずいぶん前からそのように心がけいていたの?賢いなぁ」、あるいはひたすら「へぇー」「はー」「ほぅ」などの合いの手を挟む程度に留め、ひたすら話を引き出すことなどが考えられる。

 

 

 

■ 学習は刺激だけで成立するのではない。学習は、刺激が学習者に新たな調和をもたらすことにより成立する。

 

(拡大)解釈:教師が学習者の環境に投げ入れる「異物」としての教材や問いかけは、学習者を揺さぶるが、その揺さぶりそのものが学びを生み出すのではない。揺さぶりは、学習者を囲む環境によって抱えられることで学びとして育つ(あるいは学習者の内部環境(イメージ・記憶・言語)によって受容されることで学びとして成立する)。教師は、教材を提示するだけ、あるいは問いを投げかけるだけではなく、その学習者にとっての「異物」が学習者を撹乱した後に、学習者の中に新たな調和が成立するような環境を整備するように留意しなければならない。(1990. p. 105に基づく)

 

=>刺激そのものではなく、刺激が引き起こす撹乱が新たな調和に変化することにより学びが成立するというのは、些細なようでいて重要な論点だと思われる。『学び合い』実践を行う教師は一見すると、課題を出してあとは教室の隅で生徒の様子をぼーっと見ているだけのように見えるが、目標・課題の設定、物理的・社会的環境の整備、目標と学びの実態に即した評価といった点で多大な努力をしている。それらの努力を通じて、学びがそれぞれの学習者独自の形で成立するように配慮しているのが『学び合い』の実践だと私は理解している。

 

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西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊

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■ 偶発的に生じたことばや出来事が学びを促進することもある。

 

(拡大)解釈:揺さぶりをもたらしやがては学びへと結実する「異物」は、教師が意図的に導入する教材や発問以外にも、学習環境内のさまざまな関係性の中で偶発的に生じることがある。ふと生じたことばや出来事が学習者の脳を活性化するわけである。そもそも人間の神経回路網は、さまざまな形で相互連結しているので、いろいろな相互干渉や相互葛藤が生じる。それは一般には「連想」という形でその人に自覚されるが、その連想により学習者の神経回路網は活性化し新たな連結が生じる(もちろん新たな混乱が生じるだけのこともあるが)。(1990. p. 105に基づく)

 

=>一定の説明を繰り返すだけではなかなかわかってもらえなくても、その事柄について手を変え品を変え解説し、いろいろな例や比喩を使ったり、学習者が出してくる誤解を少しずつ修正したりするうちに、学習者が理解し始めるというのは、教師ならしばしば経験しているだろう。私なりの『学び合い』の理解の1つは、教師の一斉説明をできるだけ抑えて、学ぶ事項についての学習者同士の対話(あるいは学習者の脳内での自己対話)を促進することで、学びについてのコミュニケーションを多く生み出し、その中で生じてくる偶発的なことばや出来事から学びを成立させるというもの。

 

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 「当事者の自助能力 > 当事者を抱え育む環境 > 他者からの介入」という優先順位を常に忘れない

 

(拡大)解釈:場合によっては、私たちは持ち場を離れ、他所の場所で「異物」としてある種の揺さぶりを生じさせることが期待される場合もある。しかし、その場合は、自分はあくまでも「異物」にすぎず、自分よりも、当事者の自助能力および当事者本来の環境(訪問者としての自分にとっての他所)が優先されるべきことを常に忘れてはならない。(1990. p. 184に基づく)

 

=> 要は「当事者の自助能力 > 当事者を抱え育む環境 > 他者からの介入」という優先順位を常に念頭に置くべきとまとめられるだろう。いかなる場合においても、学習者の学びにとって教師は主人公・主役ではないことだけは忘れてはならない。(かといって、いなくてもよい端役でもない)。

 

 

■ 当事者を囲む環境をまず配慮する

 

(拡大)解釈:ある人が大切な人(あるいは物)を喪失したところに、その人を抱え育む環境の質が低下し、そこに揺さぶりの介入が入ると悲惨な例なことになることが多い。特に介入が介入者の善意に基づいている場合は、悲劇が拡大することが多い。(1990. p. 197に基づく)

 

=> 当事者の自助能力は、その当事者の内部環境(イメージ・記憶・言語など)と外部環境(その当事者を抱え育てる人間関係と物理的環境)がしっかりしていてこそ、働きうる。当事者がそれらにおいて苦しんでいることに気づけない(あるいは気づこうとしない)善意の介入者は、その当事者をいっそう追い詰めていることがわからないので、状況は悲惨になる。当事者も介入者も「悪いのは、善意の介入にもかかわらず立ち直らない当事者」と思い込んでしまうからだ。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはよく言われる警句だが、教師といった善意に基づく職業人は、そのことばを心に銘記しておかねばならない。

 

 

 

■ 「学習」とは?

 

(拡大)解釈:「学習」とは、生物が快を求め、苦を避ける中で記憶したパターンである。学習は保持され再現されるものである。だが学習の根本的動機が生物としての本能である以上、学習の中には直近の未来の利益を追求するあまり、中・長期視野からは不利益をもたらすものもある(たとえばアルコール依存も学習の結果である)。さまざまな経験の中で獲得され生き残るパターンという意味では学習は進化に似ているが、学習は進化と異なり、はるかに短期間に成立するが子孫には生物的に継承されない。(1990. pp. 63-64に基づく)

 

=> 学習されることは必ずしも社会が好ましいとするものに限らない。学校で死んだ魚の目のような眼力しか示さない学習者も、子どもの時には好奇心で目を輝かせていたはずだから、そのような表情・しぐさを学校で学習したのだろう。そうすることで、退屈な教師から絡まれることを防ぐなどの短期的な利益を得て、そのパターンが定着したのだろう。そのような学習者に出会った教師は、「なぜやる気を出さないのだ!」といった詰問に逃げず、その学習者のこれまでを認めた上で、どうやってその学習者にとっての中・長期的な利益を獲得するようなパターンを学習するかを共に模索するべきだろう。典型的な「言うは易し、行うは難し」だが。

 

 

 

 

 

学習者理解

 

■ 理解とは、さまざまな所見のつながりを見通すこと

 

(拡大)解釈:学習者の学びの対面診断は、その学習者の過去から現在までのさまざまな所見をどれほど統一的に説明できるかを尺度にしてその妥当性の高さを推定することができる。どのような分野であれ、物事を理解するというのは、多くの所見を統一的に理解することである。(1994. p. 12に基づく)

 

=>「理解とは、見通しを得て物事の繋がりを知ること」というのはウィトゲンシュタインも『哲学的探究』の122節でも示している。また、意識の情報統合理論を読んだ上で、私なりに「意味」についてまとめるなら、意味とは「見通しを得ること」(=その事象が示している現実につながっている可能性の広がりを知ること)と表現することができる。

 

関連記事

柳瀬陽介 (2018) 「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論 ―英語教育における意味の矮小化に抗して―」 

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_53

 

 

■ 対面しながら診断を行う際には、「不随意運動 > 随意運動 > 言語発話」の順で観察結果を重視すべき

 

(拡大)解釈:人の精神的活動が外に現れる経路を単純に区分するなら、(1) 不随意運動、 (2) 随意運動、 (3) 言語発話、の3つに大別することができる。もちろんこれら3つは現実には融合しているのだが、ここでは便宜的にこの3つを区別する。さらに、これら3つそれぞれは、 (a) 自発的に生じるか、 (b) 他の刺激からの反応として生じるか、に分けることができる。

この分類にしたがって、診断上の価値がもっとも高いものから低いものへと順番をつければ、次のように (1a) > (1b) > (2a) > (2b) > (3a) > (3b) となる。

 

(1a) 自発的に生じた不随意運動:学習者の筋緊張や発汗など

(1b) 他の刺激からの反応として生じた不随意運動:顔の表情の一瞬の変化など

(2a) 自発的に生じた随意運動:学習者が自ら始める身振り・手振りなど

(2b) 他の刺激からの反応:学習者が何かへの反応で示す身振り・手振りなど

(3a) 自発的に生じた言語発話:学習者が自ら語り始めたことばなどの内容

(3b) 他の刺激からの反応として生じた言語発話:学習者が質問に応える形などで語ったことばの内容

 

つまり意識でコントロールできない不随意運動が学習者についてもっとも多くを語っていると想定するわけである。逆に、ことばは嘘やタテマエすらも言えるわけであるから、ことばの字面だけを重視するべきではない。発話内容については、それに伴う不随意運動と随意運動と共に理解するべきである。重視すべきは「不随意運動 > 随意運動 >発話内容」の順であることは肝に銘じておきたい。

 

=>この原則を知ってから、私は面談する際に、学習者の沈黙に困惑することが少なくなった。それまで、学習者が語ることを止めると、私は、「何に困っているのだろう」、「どうフォローしたらよいのだろう」、「あと何秒沈黙が続いたら私が発言しようか」などと、発言レベル(特に自分の発言)ばかりを考えていることが多かった。しかし上の知見を得てからは、私は面談で沈黙する学習者がいると、まずは私自身の不随意運動と随意運動に不自然なところがないかを確認した後、学習者の不随意運動を中心に観察するようにした(観察の際は、言語レベルのことは考えないようにしている)。これにより、私の面談は、少しはましになったのかなとも思っているが、一知半解には気をつけなければならない。今後も面談のあり方について学び、経験し、反省し、学び直し続けなければならない。

 

追記:とはいえ、先日、困難な対話をした際に、私も相手から感情を乱されてしまい自分自身の心身の状態のモニターを忘れてしまったことがあった。「修身斉家治国平天下」とも言うが、まずは自分の身を修めることを心がけなければならないと反省した。

 

 

■ 意図的に観察をする場合は、「自発的に生じるもの > 他の刺激から生じる反応」の順番で所見を集める

 

(拡大)解釈:教師が対面時に学習者の診断を重視する場合は、まずは教師の介入を控えて、学習者が自然に示す行動を観察するべきである。それをある程度行った上で、初めて教師は診断を進めるための介入(質問など)を行う。順番でいうなら、(1a) > (2a) > (3a) > (1b) > (2b) > (3b) の順番で観察を進めるべきである。

 

=> 学習者の集団内での自発的な学びを最大限に重視する『学び合い』実践では、学習者が自分(たち)で学んでいる時に、教師はできるだけ個々の学習者・グループに介入せずに、教室の隅などからぼんやりと全体の様子(神田橋先生の用語なら「雰囲気」)を観察することが原則となっている。多くの教師はとかく自ら学んでいる学習者に「どこがわからないの?」「○○について解説しようか?」などと介入したがるが、『学び合い』ではそういった介入はできるだけ控えるべきとなっている。もちろん、教師の介入を教条的に禁止する必要はないが、教師は自らが起こした行動に対する学習者の反応よりも、学習者が思わず示す行動の方が学習者の真実を伝えていると自覚するべきだろう。その意味で、学習者が思わず語る「すげぇ」、「はぁ、はぁ」、「そうか!」といったつぶやき、あるいは誰も音頭を取らないのに生じる拍手や肯定的な合いの手、さらには学習者が自分ではコントロールできないような驚きや喜びの表情は、よい授業を示唆する現象であると解釈してもいいかもしれない。

 

 

■ 学びの診断の3つの機能:指導方針、共通言語化、学習者への説明

 

(拡大)解釈:学びの対面診断には3つの機能がある

 

(1) 今後の指導方針を決定:教師が今後の見通しを立てて指導方針を決定するために、目の前の学習者がどのような類型に属するかを仮に決める。

 

(2) 教師同士の情報交換のための共通言語化:教師が現場を離れて他の教師と情報交換する際に相互の誤解を少なくするために、学習者にはどのような類型があるかを体系的に定める。現場から離れて講義や論文執筆をする研究者にとってはこういった共通言語は重要(ちなみに精神医学のDSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders) はこの機能を追求したものと考えられる)。

 

(3) 学習者への説明および指導:学習者に自分の学びがどのような状況にあるかを教師が伝える。この説明自体が、指導の一部となっていることにも注意。当然のことながら、学習者には (1) (2) の用語法とは異なるわかりやすい表現を使うべきであることが多い。(1994. pp. 28-38に基づく)

 

=> 現場での熟達者は比喩などを多用する (3) の表現に長けるものが多いが、(1) は特に意識化せずに行うことが多い。またそのような熟達者は、(2) にはあまり興味をいだかない。(2) は、自分が既に十分に知り体得していることを必要以上に難しく表現しているだけのように思えるからである。だが理想を言うなら、これらの3つの診断機能を常に同時に考えながら(ということは、実践者の中で常に3種類の表現方法を考えながら)学びの診断を行い自らの言語表現力を高めるべきだろう。他方、現場から離れている研究者は、自らの用語法を現場の実践者に押し付けようとするのではなく、現場のことば ((1) (3) の表現)を謙虚に聞き、それを (2) の用語法に翻訳するとしたら、何をどう補うべきかといったことを模索するべきだろう。要は、研究者はもっと謙虚になって現場の実践者から学ばなければならない。その上で、現場の実践者も研究者との対話を開始するべきだろう。

 

 

■ 学びの対面診断における3つの留意点:診断類型の虚構性、3機能の同時達成、診断保留

 

(拡大)解釈:上のどの機能を主にして対面診断をするにせよ、教師は以下の3点について留意するべきである。

(1) 診断類型は理論的虚構であり現実ではない:診断類型はどの機能のために使われようとも、便宜的に使われるものであり、永遠の真理などと誤解してはいけない。神田橋先生のことばを引用するなら次のようにまとめられる。

 

引用:この世に実在するのはすべて、輪郭のあいまいなものである。輪郭のはっきりしたものはすべて、実在しない抽象の産物なのである。実在するものは、隣との間が、いくらかの「ぼかし」で連なっている。明確な境界は仮象のものである。(1994. pp. 34-35

 

(2) 3種の機能を常に等分に考慮する:学びの診断をする時に、常に、「教師自身のための指導方針決定」、「研究者のための共通言語化」、「学習者に説明するための言語化」の3つを行うようにすると診断のセンスが上がる。

 

(3) 診断を保留することを大切にする:生半可な診断を指導方針・研究推進・学習者への説明の基盤としてそれに拘ってしまうと、どの面においても有害な結果が生じかねない。納得できる診断ができない場合は、診断を保留するべきである。また、それなりに納得できる診断ができた場合も、それは常に現実の成り行きによってチェックするべきことは言うまでもない。(1994. pp. 34-36に基づく)

 

=> (1) の「明確な境界を有するものは、理論的な虚構である」というのは、まさにウィトゲンシュタインの洞察である。神田橋先生の論考はウィトゲンシュタイン後期哲学に通じるところが多い。

 

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ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から

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野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)

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鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書

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ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 

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ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード

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ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

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「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

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■ 対面診断の3つの側面:学習者のことばを聞く、学習者の身体の状態を観察する、学習者と人間関係を築く

 

(拡大)解釈:教師が教室や面談室で学習者に面して接する(面接する)ことによって学習者の学びを診断するという対面診断には、3つの側面がある。それぞれの場面においてどれかの側面が主役となるが、できるだけ3つの側面全てを充足するように心がけるべきである。教師が学習者に対面すること自体が、学びを診断することであり、学びを支援・指導することであることを忘れてはならない。

 

(1) 学習者からのことばを聞く:学習者のさまざまな所見(学びの躓きや障害など)を得るために学習者のことばに耳を傾ける。教師は学習者のことばに聴き入らねばならないが、同時に、教師は何を聞くべきかを自覚し対話の舵を握るべきである。

 

(2) 学習者を観察する:学習者の様子をむしろ言語レベルよりも非言語レベルの方を重視しながら観察する。つまりことばの意味内容よりも、声の大小・調子・感情のこもり具合といった身体的側面を重視しながら観察する。まとめて表現するなら、学習者の「印象」を得ると言い換えてもよい。

 

(3) 学習者と人間関係を築く:学習者が教師を信頼することは、今後の指導・学びにおいて決定的に重要なので、教師は学習者と、学習者の意欲と能力が発揮されるような人間関係を対面時に築くようにする。(1994. pp. 45-51に基づく)

 

=> (1) は「傾聴」といったことばで推奨されているが、それがきちんとできる教師はそれほど多くない。また「傾聴」を試みるあまりに、学習者の話に流され、指導の根本方針を失ってしまう教師もいる。しかしもっと少ないのは、(2) の学習者の身体の様子を丁寧に観察できる教師である。また (3) の人間関係構築は、 (1) (2) に基づいていなければならないが、それらに基づかず、かつ学びに即さない「お友だち」のような「人間関係」を築く若い教師は多い。それらの教師は、一見学習者と仲がよいが、学びが進まず、学習者には密かに軽んじられている。

 

 

■ 対面診断での3つの留意点

 

学習者の学びについて知るための対面診断で、傾聴・観察・人間関係のどれを優先して行うにせよ、以下の3つには留意すべき。

 

(1) 3側面の相互関連に気をつける:傾聴・観察・人間関係の3つの側面は相互に関連している。共に助け合う場合だけでなく、こちらを立てればあちらが立たずという場合もある(例:傾聴するあまり、身体的観察がおろそかになってしまう。あるいは人間関係の成立を急ぐあまり、傾聴が浅いレベルにとどまってしまう、など)。教師は対面診断において3側面を常に意識し、どれを優先すべきかを瞬時瞬時に判断すべき。

 

(2) 対面診断と対面指導の隔たりはわずかであることを自覚する:診断のために学習者と対面している時は診断だけを行い学習者指導について考えていない教師や、指導するために対面している時に診断は一切行おうとしない教師は、共に考え違いをしている。対面診断においても、対面指導の「学習者の意欲と能力を引き出す・妨げない・障害を取り除く」という原則は当てはまる。対面診断と対面指導は重なりあっている。

 

(3) 観察とは関与であることを自覚する:「関与しながらの観察」という用語が流通しているが、そもそも非関与的な観察とは成立し難いことを自覚しなければならない。誰かを観察していることはその人に関与していることであり、誰かに関与していることは同時にその人を観察していることである。(1994. pp. 54-56に基づく)

 

=>総じてまとめるなら、観察者が関与しない、「純粋で客観的な」対面観察はありえないとなるだろうか。それなら隠しカメラなどを使って、被観察者が、自分が観察されていることを知らないままに観察者が観察することが「科学的」と主張する研究者もいるかもしれない。だがそのような方法が行われたことを被観察者が知った場合、彼・彼女らが憤慨したとしても不思議はない。また、そのような観察では、望む観察を行うためにあまりにも時間がかかりすぎるだろう。「それならばAIを使って学習者を24時間365日観察すれば・・・」といった提案をする研究者とは、私は個人的にはあまり話したくない。

 

 

 

■ 対面診断では、教師が学習者のことを知るだけでなく、学習者が教師のことを知ることも大切

 

(拡大)解釈:教師が学習者の情報を得たがっているのと同様に、学習者も教師についての情報を欲しがっている。教師のことがわかれば、一般に学習者の気持ちは安定するからである。教師だけが情報を得ることの怖さを想像するためには、教師がKKK団のような目だけを出した三角頭巾とマントを着用して対面診断を行うことを想像したらよい。(1994. p. 69に基づく)

 

=>2020年にCOVID-19により多くの教師がZoomで話を行ったが、顔を隠した学習者とずっと話を続けなければならない教師はフラストレーションを溜めたことだと思う(注)。情報の流れが双方的でなく、自分の情報だけが他方に吸い取られるだけというのは、気味の悪いものである。だが、しばしば教師といった権力者は、学習者の情報を一方的に獲得し、それに対するフィードバックを与えない。情報とは力(少なくとも力の源泉の1つ)であり、情報獲得の民主化は一般命題として促進するべきであろう。

 

(注)もちろん、学習者の立場からすれば、自分の顔が時折教師から見られることには慣れているものの、自分の顔が常時モニターに写り、教師・学習者というすべての参加者に見られている状態は初めてなので、当初は嫌がったとしても不思議はない。

 

 

■ 発言と発言の背後にある意識との関係から考える問診の3分類:取り調べ的問診、対話的問診、聞き役に徹する問診

 

(拡大的)解釈:会話を行う2人のそれぞれの意識において、発話には直接現れない連想が生じている。その連想のどちらを重視するかで、問診(という会話)は、次の3つに分類できる。

 

(1) 取り調べ的問診:問う者(教師)の意識に生じる連想から、次の話題や問いが定められる。問われる者(学習者)はもっぱら受け身になる。

(2) 対話的問診:問う者の意識の中の連想も、問われる者の意識の中の連想も共に尊重され、両者は対等な対話者となる。対話としては充実するが、本来の診断という目的が忘れられる場合がある。

(3) 聞き役に徹する問診:問う者は自らの意識に生じる連想よりも、問われる者の意識に生じている連想を重視し、聞き役に徹する。問いは、問われる者の話を画像化できるぐらいに明確に理解するためのものに留める。問う者は、その他は、問われて語っている者の非言語レベルの表出を観察し、簡単な(しかし情感のこもった)合いの手を入れるぐらいに留める。(1994. pp. 151-152に基づく)

 

=> 言われてみれば、たしかに私もこれら3種類のやり方で学習者の話を聞いている。もっとも、若い時は (1) の取り調べ的問診ばかりだった。年齢と経験を重ねるにつれ (3) の聞き役に徹することが増えた。(2) の対話的な問診は、意図せずに脱線に興じてしまったときで、終わった時は、互いに「今日は面白かったね」となる。教師が学習者を支援するためにはこのような個人的な絆も重要だが、こちらにばかり偏ってしまっては職務怠慢となる。

 

 

■ 面談は創造的行為であり、徒な標準化は避けなければならない

 

(拡大)解釈:標準化された対面診断方法は、アイデア貧困や感性の枯渇と結びつくと硬化した面談につながる。面談の一瞬一瞬は、日々新たな営みであるべき。(1994. p. 252に基づく)

 

=> 「同じ授業というものはなく、教師は日々発見し、その場その場に適した授業を即興的に作り出そうと努力する」というのは、力量のある教師の実感だろう。だが、万人が従うべき教育方法を提示することを生業としている研究者は、そういった教師の声を封印あるいは否認する。教育にせよ、マネジメントにせよ、アートにせよ、多くの要素が絡む複合的な現象には唯一無二の正解はない。実践者は、いくつかの原則に基づきながら、少しでもよい展開がもたらされるように選択・実行・検証・反省を繰り返しているだけである。この当たり前のことを、授業に関わる研究をしているすべての者が認めるべきではないか。

 

関連論考

柳瀬陽介 (2020) 「当事者の現実を反映する研究のために -- 複合性・複数性・意味・権力拡充 --」淺川和也・田地野彰・小田眞幸(編)『英語授業学の最前線』ひつじ書房. pp. 25-48.)

 

 

 

 

 

学習指導

 

■ 「読みとる」「関わる」「伝える」

 

概略:精神療法の主な3つの機能は、「読みとる」「関わる」「伝える」である。精神療法では「読みとる」技術の拙さが目立つので『精神科診断面接のコツ(初版1984、追補版1994) を先に出版した。『精神療法面接のコツ(1990) では「関わる」「伝える」技術について解説する。(1990. pp. 1-2に基づく)

 

=> (英語)教育界では、知識を「伝える」機能がもっとも重視される。ベテランになると学習者とどう「関わる」かが大切だと理解し始め、その技量を高める。だが学習者の学びおよびその行方を「読みとる」ことができる教師は少ない。的確に「読みとる」ためには、感性を働かせながら「関わる」だけでなく、教育内容の徹底的な理解も必要となる。その理解は、輸入学問としての英語学が教えるようなものでは不十分であり、学習者が思考の基盤としている日本語、および学習を進める中で学習者が自分の中で育てる「中間言語」の観点から英語を理解しなければならない。このような意味での教育的な英語学については、これからの大いなる発展を期待したい。実際、最近の英語学関係の教育書には注目すべき良書が多い。それを成し遂げるのは、小中高大を問わず、学習者に即した指導をしながら理論的勉強も怠らない実践者だろう。

 

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研究社『英語年鑑2020』の書評「英語教育の研究」(pp.83-86)で取り上げた24

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『英語年鑑 2021』(研究社)での書評(「英語教育の研究」)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2021.html

 

 

 

 

■ 太古からの人間の知恵を活かす教育と学び

 

(拡大)解釈:大学を出たばかりの新人教師でもしばしばなんとか授業を通じてそれなりの成果を上げることができるのは、教師と学習者が、人間として意識・無意識に蓄えてきた莫大な知恵を活用しているからである。その成果を、たかだか数十年の歴史しかもたない「英語教育学」の成果と考えるのは、浅慮であり奢りである。(1990. p. 3およびp. 205に基づく)

 

=>「英語教育学」の看板を掲げる研究者は、自らの研究結果ばかりを参照するのではなく、「英語教育学」の知見とは無関係に成果を挙げている現場の実践者にもっと注目するべきである。「英語教育学」の枠組みで、実践者を裁断するのではなく、実践者の認識や知恵をうまく記述・説明できる枠組みを作り出すべきである。

 

 

■ 4つの基本的助言:助け合う本能、読みとるための感性を高める、関わり伝える人間関係を育てる、ある理論で自分の癖を矯正する

 

(拡大)解釈:対面指導のための4つの基本的助言。重要な順番に並べるなら、(1) 助け合う本能、(2) 読みとるための感性を高める、(3) 関わり伝える人間関係を育てる、(4) ある理論で自分の癖を矯正する、の4つとなる。

 

(1) 人間が動物としてもっている助け合おうとする本能が対面指導の基盤である:人間を含む動物は仲間を助けようとする本能をもっている。この本能を再活性化することが教師としての始まりである。この助け合いの本能を活性化していない人が行う行為は、どれほど外見がそれらしくても面談指導とは呼べない。

 

(2) 基礎トレーニングで感性を高める:「読みとる」の技術の核は、「感じる」能力であるので、日頃から場の雰囲気や流れを感じ、その場の中での自分の心身の流れを感じることに努めるべきである。さらに基礎的なトレーニングは、感覚と概念化の中間にあるイメージ形成において視覚だけに頼らずに五感すべてを働かせかつ統合させることである。また、ことばを使う際にも、ある領域の感覚表現を他の領域に対して使う(例:「ザラザラ」を音に対して使う)ようにする。そうしていると五種類の感覚が統合的な流れとして認識されるようになる(これを「第六感」と読んでもいいのかもしれない)。

 

「関わる」と「伝える」技術に必要な感性を高めるには、赤ん坊や犬猫などのことばの通じない相手とノンバーバル・コミュニケーションを取ることである。

 

(3) 関わり伝え合う人間関係を育てる:「関わる」と「伝える」技能を高めるためには、やはり他人が必要である。自分の専門分野以外でよいから誰か尊敬できる人を見つけ、その人と関わりその人の技能を無批判的に吸収するべきである。分野は異なれども技能習得の本質は同じだからである。そしてその人に自分の疑問や悩みを伝える訓練をするべきである。逆に、自分が学んだことを他人に伝えることも積極的に行うべきである。「先人から教わる、自分で工夫する、後輩に教える」という3つの要素は成長にとってどれも重要だからである。

 

(4) 理論は尊敬できる師匠が教えてくれる理論をまずは吸収する:師匠の教えを下手に批判的に取捨選択して学ぼうとすると、逆に師匠の悪い部分だけを学んでしまうことが多い。周りに師匠がいなければ本から理論を学ぶべきだが、その際は理論の創始者の伝記を読んでそれに共感できたら、それは自分にとって良い理論であることが多い。無批判的な吸収を勧めるのは、理論とは自分の癖をいったん取り除くための方便であるに過ぎないからである。守破離の教えが伝えるように、最初の段階では、多くの先人がその良さを認めてきたある理論の教えを徹底的に学び、自分の癖を取り除くことが必須である。しかし、そのうちに、どうしても自分としては腑に落ちない箇所が出てきて、理論の一部を破らなければならなく思えてくる。さらに理論の理解が深まると、その理論を墨守するとか破壊するとかいうことはどうでも良くなり、その理論から自由になり、必要に応じてその理論から離れたり戻ったりすることができるようになる。理論を学ぶのは、この守破離の過程を通じることで、凝り固まった自分や自己承認欲求に基づくエゴを捨て去ることである。だから、最初は親近感を覚える理論に自分の認識を変えてもらうぐらいの勢いで吸収するべきである。(1990. pp. 12-23およびp. 233に基づく )

 

=> これら4つの助言はどれもおそろしく重要だと思われる。

(1) の助け合いの本能は、人間に関わる営みにすべて共通する大切なこと。この慈愛や惻隠の情を欠く者、あるいはことさらに否定することで注目を浴びようとする者には注意が必要。

 

(2) の感性を高めるトレーニングは具体的であるだけに貴重。感性の重要性を説く者は多いが、感性を育てる訓練法を具体的に語る人は少ないだけに、この項目は覚えて、日々実践したい。

 

(3) の関わり伝え合う人間関係も、古来、師匠と弟子や、先輩と後輩の間で育まれていたことだが、教育の効率が問われるようになり、こういった人間関係は希薄になってきた。また、「批判的態度」が浅薄な意味で広まり、伝統や権威に服し己を無にして学ぶ文化も廃れてきた。パワハラや搾取といった悪習を取り除いた新しい形で、伝統や権威を尊重する文化を私たちは作らなければならない。

 

(4) の理論学習も (3) と同じだが、最近は大学院生にすらすぐに論文執筆が求められるので、長年かけなければならない理論学習は疎んじられ、すぐに結果を出せる実証研究ばかりに研究が偏る傾向がある。しかし、偉大なる理論に取り組むことにより、自己を変容し、自由な境地を得る経験をしなければ、研究も通俗的な理解を無批判的に再生産するようなものばかりになるかもしれない。

 

 

■ 本能的な学ぶ意欲・能力を「妨げない」「引き出す」「障害を取り除く」「植えつける」

 

(拡大)解釈:教師が面談指導で優先的に行うべきことは、学習者が本能的にもっている学ぶ意欲と能力を、「妨げない」ようにすること、「引き出す」こと、「障害を取り除くこと」であり、必要に応じて、学ぶ意欲や能力を「植えつける」ことである。

 

これら4種のことは、まずもって慈愛や惻隠の情に基づく人間としての助け合いの心で行われなければならない。「学びの環境」を築く時にも、教師が「異物」としての教材や発問を投げ込むときも、まずは学習者の学ぶ本能を妨げることなく引き出すようにする。次に、学習者の学びを阻んでいるものが見つかった時にはその障害を取り除くようにする。そうした後で、学習内容が、学習者が直感的に学ぶ意義を見出しにくい場合などには、うまく教師が介入して、学ぶ意欲や能力が学習者の中で育つように試みる。学習段階が上がり、学習内容が高度・抽象的になればなるほどこの「植えつける」要素は大きくなるかもしれない。(1990. p. 34に基づく)

 

=> 数学などの抽象度の高い学びや、外国語などの生活実感に乏しい学びを促すためには、教師が学習者の中で学ぶ意欲や能力が育つように介入する必要があるだろう。しかし意欲や能力を「植えつける」にせよ、それらが学習者という土壌に適したものでなければならない。やはり基本は、意欲・能力を「妨げない」「引き出す」ことであり、その邪魔をしている「障害を取り除く」ことであろう。

 

 

 

 

 

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この記事は次の記事に続きます。

 

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2

 

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