2021/05/20

【約3万5千字】 AI時代の英語教育: 大学Academic English指導者の立場からの提言

 

以下の文章(約3万5千文字)は、6/19(土)の「ELPAオンラインセミナー2021:英語教育は『道具としてのAI』をうまく活用できるのか? 」の準備のために、私の考えをまとめたものです。(PDF版はここからダウンロード

長い文章ですので、短く考えを知りたい方はこちらから短縮版をお読みください。



***


 

AI時代の英語教育:

大学Academic English指導者の立場からの提言

 

柳瀬陽介

(京都大学・国際高等教育院)

 

 

1 はじめに

 

本稿の目的:本稿は、AI (Artificial Intelligence 人工知能) の現状およびこれからの発展を考えると、大学大学英語教育は以下に述べるような点で大幅な変化を遂げる必要があるという考察を展開し、同時に、小中高の英語教育も変化せざるを得ないという示唆も示す。

 

著者の立場:著者は、研究志向の国立大学の教養・共通教育課程で1回生へのacademic Englishを主に指導している。これまで英語教育について哲学的に、すなわち根底的に考え直すことを自らの研究方法としてきた。著者は約2年前に学生が秘かに機械翻訳を使って提出した英語の質の高さに驚いて以来、自らも教育指導や行政仕事においてAIアプリを使いながら、大学英語教育へのAI活用について積極的に検討してきた。2020年度後期からは、授業の一部でAIを使った日英翻訳を扱っている。今回の考察をまとめるにあたっては、概説書を通じて、AIの深層学習についての基本的な理解を得ておいた。

 

 

関連記事

メラニー・ミッチェル著、尼丁千津子訳 (2021) 『教養としてのAI講義』日経BP

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藤本浩司・柴原一友 (2019) AIにできること、できないこと』『続 AIにできること、できないこと』 日本評論社

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松尾豊 (2020) 「人工知能 ディープラーニングの新展開」

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Wordtuneで、ある英文の10通りの表現法を生成し、表現の幅を広げる AI時代の英語学習について

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瀧田寧・西島佑(編著) (2019) 『機械翻訳と未来社会』 社会評論社

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松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』

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落合陽一 『魔法の世紀』『これからの世界をつくる仲間たちへ』『超AI時代の生存戦略』

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伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017) 9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房

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Pragmatism: 本稿は、AIがますます発展する「AI時代」のあるべき大学英語教育の姿について提言するが、その提言はpragmatismに基づくものである。ここでのpragmatismとは、さまざまな利益相反関係もあり変化が容易ではない現状も踏まえながら(=realism現実主義)、同時にあるべき姿に近づける努力 (=idealism理想主義) を捨てない態度である。著者は、本稿で提案する未来像は実現可能であると考えている。とはいえ、本論考は個人によるものであるので、さまざまな方々のフィードバックが必要とも思っている。

 

 

2 人間知能を補助・拡張するAI

 

本稿で論じるAI:本稿でのAIとは、ビッグデータと深層学習 (deep learning) に基づくAIである。具体的には、多言語間翻訳のDeepLGoogleTranslate、英語校正のGrammarly、英語パラフレーズ提示のWordtune、英語字幕生成のChromeブラウザー機能などを念頭において考察を行った。

 

 

2. 1  AIと人間の関係性

 

後述するAIの機能的限界と構造的限界から考える限り、本稿は、AIと人間の関係性の原則として以下の3つを提言する。

 

第1原則:AIは人間の知能を補助・拡張するが、それの完全な代替とはならない

AIは、人間の知能を補助 (assist) したり拡張 (augment) したりするが、人間の知能に取って代わるものではない。AIによって人間は、Assisted Intelligence(補助された知能)やAugmented Intelligence(拡張された知能)を得ることができると考えるべきである。

 

第2原則:AI出力に対しては人間の判断と修正が必要である

AIは人間の代行をすることができないのだから、重要な仕事について人間は、AI出力についての判断を行い、必要に応じてその修正を行わねばならない。

 

第3原則:AIの利用に関しては人間が主導権と責任を取らなければならない

現状のAIには機能的・構造的限界があるので、人間がAIを使って知的仕事を行う場合、人間が主導権を取り、その仕事の責任を取らなければならない。

 

 

2.2  AIの構造的限界

 

現状のAIが上記のような機能的な限界をもつのは、以下のような構造上の限界をもっているためである。(この項目の論考は、多くの理論的前提知識を必要としているので、英語教育についての具体的な論考だけを望む読者はこの項目を飛ばしてもよい)。

 

 

関連記事:

柳瀬陽介 (2021) 「学校英語教育は言語教育たりえているのか:意味の身体性と社会性からの考察」『KELESジャーナル』 6 p. 6-23 

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(1) 情動をもった身体を有しない:たとえば翻訳AIは、2つの言語の形式上の関係を学習し推論しているだけの「記号系アーキテクチャ」でしかない(松尾 2019)。もちろん他のAIには、現実世界からの入力を司るセンサー(感覚器官)と現実世界への出力を担当するアクチュエーター(運動器官)を有しているものもある。そういったAIは、「知覚運動系アーキテクチャ」を有しているし、それが記号系アーキテクチャと連動しているので、その構造は人間の知能の構造に少し似ている。しかし、現状のAIの知覚運動系アーキテクチャは、情動をもたないという点で、人間の身体とは決定的に異なる。

人間の身体は、生命の維持と繁栄のために「情動」(emotion) を発出し、それが複雑な相互作用を創発させる。情動の簡単な定義は、「やがては身体の外に (ex-) に表出する、神経系・生化学系・抗重力系などのあらゆる種類の身体内の動き (motion) 」だが、記号系アーキテクチュアでしかないAIにはその情動がない。知覚運動系アーキテクチュアも備えるAI(ロボット)には情動に類する信号の送受信があるが、その種類はきわめて限定的であり、自ら(の生命)にとっての快を求め不快を避けるという根本的な生物学的動機をもっていない。またその記号系の単純な回路は、人間の複雑精妙な情動ネットワークとは比べ物にならない。

人間の身体は、身体内の複合的なネットワークの中で多種多様な情動を発生させ、それらを連動させる。その発生と連動から、自らの生命を保ち拡充させるための身体状態を自ら次々に創り出す。だが、AIの知覚運動系アーキテクチャは、予め定められた種類の入出力を行うだけである。例えば将棋を指していた人間が地震を感じたら、その人は自らの生命を守ろうとして避難行動を取るだろうが、将棋AIロボットは将棋を指し続けるだけである。ネコを認識する人間は、そのネコがあまりにかわいければ、より幸福感(快適な状態)を得るためにそのネコに近づこうとするかもしれないが、ネコ認識用のAIは画像認識以外のことは一切行わない。AIが人間のような情動をもった生物学的身体をもっていないことにより、AIの知性は人間の知性と別種類のものとならざるを得ない。

 

(2) 世界モデルを十分にもっていない:人間は長年の進化と淘汰の過程で、この世界で生き延びるために有利な知識(世界に関するモデル)を獲得しそれを生得的知識(「コア知識」)にしている。(今井・佐治 2014 その例として、人間の言語獲得における普遍文法や知覚における各種の暗黙的前提があげられるだろう。だが現状主流の「教師あり学習」で深層学習するAIは、定められた課題に関する正解付きデータで訓練されるだけであり、その学習の前提となり学習を飛躍的も効率化するさまざまなモデルはほとんど有していない。

 

 

関連記事:

語彙学習の3段階と言語習得の社会性について:今井むつみ・佐治伸郎(編著) (2014) 『言語と身体性』(岩波書店)を読んで考えたこと

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したがってAIは、人間なら少数のサンプルで学習できることに対して、人間では処理できないぐらいのビッグデータを必要とする(これには前述の情動や後述の意味理解や転移学習などでの困難も関わっている)。さらに、現状のAIは、基本アーキテクチャ(人間なら脳)も進化の過程を経ていないので、この世界での有用な知性を行使できるために有利な構造を獲得していない。したがって現状では、深層学習の基本構造(=層やユニットの数や活性化関数などの「ハイパーパラメータ」)の設定においても、プログラマーの「芸術的センス」や「錬金術」といった定式化できない力量に依存している。このように現在のAIは、人間と比べて、学習の前提となる知識(モデル)とメカニズム(アーキテクチュア)において非常に劣る。

 

(3) 意味や物語の理解ができないAIは自らの生命の維持と拡充を基本的機能とせず、生存のためには関連領域とされる事柄への類推や転移学習ができない。したがって、対象の認識が、予め定められた側面だけに限られている。前にも述べたように、たとえばネコを同定できるAIは、ネコを含んだ画像を(ほぼ正しく)見分けることができるが、その中のネコをかわいいとか飼いたいとか思い、そこから別種の新たな言動を開始することがない。AIが認識している「意味」は、「ネコ/ネコ以外の存在物」という区別を行っているだけである。

この区別は、人間が認識するネコの「意味」の「現実性」(=人間が明瞭に意識できる側面)のごく一部に過ぎない。AIは人間のように他の現実性(例えば「この写真の中のネコは台から落ちかけている」「あの写真のネコは生まれたばかりである」など)を理解しない。ましてやそこから派生する「可能性」(=人間が意識できないレベルで認識し次の行動の準備に役立てる側面)はまったく認識できない。AIは予め定められた機能を行うように設計されているだけであり、次の事態の予測という人間の知能にとっての根本的な性質を一般的に備えているわけではない。(Barrett ゆえにたとえばAIは台から落ちそうなネコの写真を見て、ネコを助けるために手を伸ばそうとする準備を開始することはない。

 

 

関連記事:

Lisa Feldman Barrett (2018) How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain (London: Pan Books) の四章までのまとめ

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身体と心と社会は不可分である:Barrett"How Emotions Are Made"の後半部分から

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またAIは同時に認識する存在物の意味の可能性も理解しないので、それらの存在物の間の潜在的な関係性なども理解できない。人間にとっての意味とは現実性と可能性の統合であり、意味はその統合から次々に自己展開(=自己生成)してゆく。 (柳瀬 2021 人間においては、いわば「意味が意味を呼ぶ」。ある可能性と結びついた現実性が、新たな現実性となる。それがさらに新たな可能性と結びつき、人間はさまざまな可能性について秘かに準備する。AIはこのような意味および意味の自己展開の認識ができないので、人間と同じような理解はできないと言わざるを得ない。

 

 

関連記事(再掲):

柳瀬陽介 (2021) 「学校英語教育は言語教育たりえているのか:意味の身体性と社会性からの考察」『KELESジャーナル』 6 p. 6-23 

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さらに、多種多様な意味をそれなりに統合した形で提示する「物語」の理解も、AIは当然のことながらできない。人間ならある物語を理解することで、そこから「教訓」(=他の事例や領域に転用可能な知識)を学ぶことができるが、AIはそのような転移学習ができない。人間ならある国や時代の歴史を学ぶことで、人間社会の流れについての汎用的な洞察をそれなりに深めることができるが、AIにはそのような学びはできない。

このようにAIは意味や物語を理解できないので、その点で人間と大いに異なる挙動を示すことになる。

 

 

関連記事:

論文:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―

http://alce.jp/journal/dat/16_12.pdf

 

 

(4) 新しい価値や仮説を創造することができないAIは情動をもたないため、生命の充実のために重要な評価認識(=価値)を新たに見出すことができない。たとえば現状のAIが人間の価値(たとえば将棋の勝敗)を認識できるのは、人間がそれを予め教えているからにすぎない。人間の将棋指しなら勝敗とは別次元の「美しい手」や「将棋指しの人格的な偉大さ」などの価値を感じることができるが、AIはそのような感情的認識を新たに発見することはない。またAIは意味や物語を理解せず、ある認識からその認識とは別種の認識に関する予想(=仮説)を生成することもできない。たとえばネコを認識するAIは、「人間がネコの画像認識をAIにさせたがるのは、哺乳類一般に対する興味からではなく、『癒やされたい』という欲求からではないか」といった思考の飛躍はしない。

 

 以上、AIの構造的限界を整理してきたが、ここでそれらの書籍ではほとんど言及されていなかった新たな論点を提示しなければならない。それは現状のAI開発が、ほとんど考慮していないため、上述の構造的限界では指摘されていなかった論点、すなわち現在のAIは社会的存在ではないということである。

 「社会的」という意味は、「複数の自我から構成される関係性」と定義することができる(ルーマン)し、アレントの「複数性」の意味にも重なる。要は、目的・興味・関心・態度・意欲・価値・知識・能力・立場などにおいてさまざまに異なる行為主体が、いろいろな行為をしながら相互に影響を与えながらも同じ世界で共存していることが社会性である。

 

 

関連記事:

N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』法政大学出版局

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/n-2009-1.html

真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/blog-post_24.html

 

 

だが、現在のAIは社会的関係をもたずに個体として学習・推論するだけである。もちろんAIは人間によって学習データを入力され、人間に対して推論結果を出力するが、そこでのAIと人間の関係性は、人間同士のように異質ながら対等に共存する社会的なものではない。AIはデータを入力する人間や、出力を受け取る人間と、コミュニケーションを取らないし、人間の目的・興味・関心・態度・意欲・価値・知識・能力・立場などには一切構わない。もちろん、たしかに一部のAIは「敵対的生成ネットワーク」の関係性で、1つのアルゴリズムが他のアルゴリズムを騙すこと、他方のアルゴリズムは騙そうとするアルゴリズムに騙されないこと、を報酬とする敵対的関係を結び学習する。これら2つの個体は目的を異にするといえる。だが、ここでの行為は一種類だけであり、興味・関心・態度・意欲・価値などの違いはほとんど存在しない。したがってこの敵対的関係性を人間の社会性と同等とみなすことはできない。

 人間は地球上でおそらくもっとも複雑で高度な社会性を有する生物として、多種多様な個体が、言語と行為を通じてコミュニケーションを行う。そのコミュニケーションにおいて、それぞれの個体は自分自身だけでは見いだせなかった可能性に接し、そこから学ぶことで自らの知識や能力を拡張する。そのような個体がさらにコミュニケーションを重ねることにより、そのコミュニケーション共同体はさらに発展する。発展の一部は、行動によって非形式的・暗黙的に共有されるか、文字によって形式的・明示的に共有される。後者の共有形式は、活版印刷やデジタルメディアによる大規模な複製を可能にするため、近現代において人間のコミュニケーション共同体はその力を飛躍的に増大させた。だが、AIはこのような社会的関係性を有していない。それがAIの構造的限界として付け加えられるべき論点である。

 

 

関連記事:

ジョセフ・ヘンリック著、今西康子訳 (2019) 『文化がヒトを進化させた』白楊社、Joseph Henrich (2016) The secret of our success. New Jersey: Princeton University Press

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/2019-joseph-henrich-2016-secret-of-our.html

 

 

(5) 社会的なコミュニケーションを行っていないAIは、目的・興味・関心・態度・意欲・価値・知識・能力を異にする対等な存在と共存していない。ゆえに、AIは個体として学習をするだけであり、コミュニケーションを通じて単体では予想困難な影響を受けて自らを変容させることがない。AIは個体としても転移や創造を不得手としているが、非社会的存在であるがゆえ、いっそう個体の所定の構造に制約され、自らの知能を発展させることができない。

 

以上のような構造的限界(情動的身体・世界モデル・意味や物語の理解・価値や仮説の創造・社会性の欠如)から、AIは次のような機能的な限界をもたざるを得ない。

 

 

2.3  AIの機能的限界

 

現状のAIは、以下のような機能的限界をもち、それが前述の人間とAIの関係性につながっている。なお、以下の番号は、上の構造的限界の番号から引き継いでつけられたものである。

 

(6) ロングテール現象に弱いAIはビッグデータに頻出する定型的な現象を認識することは得意とするが、非定型的・例外的な現象(=「ロングテール現象」もしくは「エッジケース」と呼ばれる、それぞれは少数だが多くの種類で現実世界に存在する現象)の認識を不得意とする。人間と異なり、データだけが学習の基盤だからである。ゆえに、たとえば翻訳や字幕生成においても、AIはビッグデータからすれば珍しい専門用語などを誤認識する(例: “Husserl”という哲学者を知る人間なら容易に類推で理解できる “Husserlian” を「フッサリとした」と翻訳する)

 

(7) 人間では考えがたいミスをするAIの「理解」は、人間の理解と根本的に異なるため、AIは人間が予想し難いミスを行う。たとえば翻訳AIは、意味理解において非常に重要な要素(肯定・否定の区別、データの数字、固有名詞)を間違えたり、一文を丸ごと抜かしたりする(訳抜け)。また、人間なら気になる代名詞や冠詞の誤用や文体の非一貫性も、AIはしばしば示してしまう。

 

(8) 領域固有の学習・推論しかできず応用がきかないAIは、現在主流の「教師あり学習」(=人間が予めデータの正解と不正解を教えておく学習)で深層学習をしている限り、その正解/不正解の区別以外の学習(転移学習)をすることができない。AIが限定的な課題で驚くべき能力を示したとしても、その能力に関連する領域でそれ相応の能力を示すことはない。AIは人間のようにある種の学習成果を、別種の学習に類推・応用させることができない(したがって現状のAIは、「汎用知能・強いAI=人間の知能と同等なAI」からはほど遠いところにある)。ある程度の訳出ができる人間にはそれなりの意味理解が期待できるが、翻訳AIには意味理解をまったく期待できない。翻訳AIはビッグデータで学習した言語形式間の関係性に基づき、言語形式を出力するだけだからである。

 

 

以上述べてきた構造的限界と機能的限界から、「AIは人間の知能を補助か拡張するだけであり、人間はAI出力について判断しそれを修正するなど、AIに対して主導権を握り、AI利用に対する最終責任を担うべき」という、AIと人間の関係性についての本稿の提言が導きだされたわけである。それでは次に、そういった関係性において、AIを大学英語教育において活用するならば、大学英語教育はどのように変わるべきかについて考察しよう。

 

 

3 今後の大学英語教育

 

Academic English:この論考で考える「大学英語教育」は、academic Englishの能力開発を目指して一般教養課程で行われるものとする (English for General Academic Purposes: EGAP)。もちろん、一般教養課程の大学英語教育には他の目的もあり得る。また大学英語教育には、学部専門課程での英語論文読解や専門ゼミでの英語論文執筆の個別指導などもある (English for Specific Academic Purposes: ESAP)。しかし、それらについての考察は割愛して、ここでは一般教養課程(筆者の勤務校での用語なら「教養・共通教育」)でのacademic English (EGAP) を志向した大学英語教育について検討する。する。とはいえacademic Englishを単に「学術英語」と訳すと、それが研究者・学者のみが使う英語と理解されがちなので、ここでこの用語についての著者の理解を示しておく。

 著者の考えるacademic Englishとは、知的に高度・複雑な内容を、正確・簡潔・整合的に (precisely, concisely, and coherently) 伝えるために、国境を越えて用いられる英語である。敢えて訳すなら「教養ある英語」や「学識に基づいた英語」になるかもしれない。いずれにせよ、この種の英語は、研究目的のみならず、商業的・政治的・社会的な目的のためにも使われる。それらの交渉では、知的に高度・複雑な内容を、正確・簡潔・整合的に伝え合うことが必要となりうるからである。現代の知識基盤社会がますますグローバルな結びつきを強めるになるにつれ、academic Englishを適切に利用できることは個人や組織や国にとってますます重要なことになる。なお、著者は、英語ばかりが強力になり、英語が支配的な力をもつ「英語帝国主義」については批判的な立場を取るが、そのことについての論考はここでは割愛する。

 

 

3.1 総論

 

 まず「AIは人間の知能を補助・拡張するだけであり、それの完全な代替となることはない。人間はAIに対して主導権をもち、AIの出力に対して必要な修正を加えるなど最終責任を担わねばならない」という原則からは、「人間はAIがその構造的限界と機能的限界から苦手とする知性を高度に発達させるべき」という命題が導き出される。以下、その命題を基に大学英語教育について総論的にまとめる。

 

 AIの構造的限界(情動的身体・世界モデル・意味や物語の理解・価値や仮説の創造・社会性の欠如)からは、大学英語教育が次のようなことを重視するべきことが示唆される。

 

情動的身体:英語を単なる形式体系と捉えず、人間の身体に情動を引き起こす記号でもあることを前提とし、英語使用を通じての情動的体験を重視する。

 

世界モデル:英語学習を単なる形式体系の学習と考えず、英語の学習は、英語によって認識・表現される世界のあり方についても学ぶことであることを前提とし(Davidson)、英語学習と世界に関する知識をできるだけ融合した英語教育を目指す。「英語を学ぶ」よりも「英語を通じて世界を学ぶ」を志向する。

 

 

関連記事:

デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考

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コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028105

 

 

意味や物語の理解:たとえ自然科学系の論文といえども、そこには実験結果の新たな可能性を示唆する「意味」があり、実験結果を印象的に提示するための「物語」の作法があることなどを前提とし、英文が伝える意味の可能性をどのように制御するか(どこまでの含意をもたせるか)や物語の展開方法(ストーリーテリング)についてはどのような選択肢があるかなどについても学習させる。

 

 

関連記事:

SSH (Super Science High Schools)の生徒さんと教員の皆さんのために書いた2つの文章

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価値や仮説の創造:とくに受容系技能(リーディングやリスニング)において、英文の文字通りの情報を把握し、その含意(可能性)について理解するだけでなく、そこから読み手・聞き手が具体的に何を新たに生み出すことができるかを授業で探究する。もちろんその探究は、英文が示す現実性と可能性に基づいていなければならないが、それは1つもしくは少数の例に限られるものではなく、読み手・聞き手の創造性により多様に展開しうるものである。

また、上の「意味や物語の理解」の論点ともつながるが、リーディングやリスニングの能力評価を、一義的な解答しか認めないいわゆる「客観的」テストだけで行うことも止めなければならない。唯一の正解しか認めないテストは、意味や物語の複数の解釈や、価値や仮説の新規性をまったく扱えないからである。「測りやすい対象を測定することをもって、それを評価とする。評価は妥当性(=適切に評価がなされているか)よりも、信頼性(=誰がやっても評価結果が同じか)を重視する」といった知的怠慢に基づく官僚主義は払拭しなければならない。ましてや、受容技能よりもはるかにさまざまな方向性に開かれた発信技能(ライティングやスピーキング)の能力評価において、その能力を定型化・標準化して評価の信頼性だけを高め、妥当性をないがしろにしてしまうことは避けなければならない。AI時代における人間の能力評価は、定型化・標準化・数量化できない側面を重視しなければならないからである。

 

 

関連記事:

創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない

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Measurement and Its Discontentsの翻訳

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/05/measurement-and-its-discontents.html

 

 

社会性:教育工学的発想が強い英語教育においては、指導も評価も個人ベースで行うことが規範とされてきた。したがって、指導は通常こそ一斉指導であれ、テクノロジーによってLL (Language Laboratory) CALL (Computer Assisted Language Learning) で個々人のペースで学習が行われることが教育の進歩とされた。個々人で学習のスピードが異なるにせよ、学習内容はすべて同じであった。また、評価においても、個人で受験するテストが評価の中心であり、学習者が集団で行うことなどは、正式な評価の対象とはならない添え物扱いでしかなかった。こういった個人主義的な指導や評価においては、学習者がコミュニケーションを通じて相互に変容し、個々人では期待できない成果や創造を達成することは軽視されてきた。しかし、AIの弱点が、そのようなコミュニケーションを通じての社会的達成であるとすれば、これからの大学英語教育ではもっとコミュニケーションによる課題への協働的な取り組みを重視するべきであろう。このコミュニケーションの言語は理想的には目標言語である英語であるが、学生の習熟度の実際に合わせて、(大半の)学生にとっての第一言語である日本語も積極的に活用するべきである。

 

 以上はAIの構造的限界からの考察であったが、機能的限界(ロングテール現象での失敗、非人間的なミス、学習の転移の不能)からは次のような原則が導き出される。

 

ロングテール現象:「世界モデル」の項での提言と重なるが、世界に関する具体的知識を重視し、定型的でない例外事項をおろそかにしないような英語使用を目指さなくてはならない。このためには、細かな事項の差異によって重大な結末を招きかねないように英語使用の活動を設定する必要がある。英語の受信においても発信においても、毒にも薬にもならないような無難な内容を受信・発信を行わせるのではなく、受信や発信における細かな言語表現の差が、現実世界において深刻な違いとなってしまうことを学習者に実感させる課題設定をしなければならない。教師は、できるだけ現実世界の人間の生き方に即した課題や指示を発案する能力を開発しなければならない。

 

非人間的なミス:「機械は主観的でないので間違わない」や「AIは機械だから公正で正確である」といった俗見が間違っていることを、具体的なAI使用を通じて学習者に認識させるべきであろう。英文と日本語文のペアを示して、AI翻訳の誤りを正させる活動のなどもこれから重要になってくるかもしれない。ただし、その際は、AIが非定型的・例外的な表現を含む英語を処理することが前提となる。典型例の処理においては、AIはまさに間違わないように思えるからである。

 

転移学習:従来の英語教育は、Presentation-Practice-Production (PPP) の発想で、1つの授業時間内に、教師がある言語内容を提示し、それを学習者に練習させた後に、それが練習通りに産出できるかという正確さを重んじる限定的な学習をさせることを好んでいた。この発想にこだわる限り、タスク基盤教授法 (Task-Based Language Teaching: TBLT) のように、タスク(現実世界に見られるような課題)を遂行することを重視し、言語の理解や産出は学習者がそれまでに知っていることを転移させたり類推させたりして行うことは、誤った教育方法であるように思えるかもしれない。だが、転移や類推こそは人間がAIに対してもつ優位性の1つであった。そうなると、これからの大学英語教育においても学習における転移や類推を奨励し、学習者の転移や類推が適切なものであったかどうかをタスク基盤の授業などで検証するべきだろう。

 

 以上、これからの人間は、AIの機能的・構造的限界を補うことを重要な課題とするという前提から、大学英語教育が今後取るべき原則を導き出した。以下は、もうすこし具体的に「ライティング・リーディング・スピーキング・リスニング」のいわゆる4技能と「対話」の5つの観点から、academic Englishを主眼とする大学英語教育がどのように変容すべきかについて考察する。

 

 

3. ライティング

 

 英語での論文といった、高度な内容をある程度の分量をかけて表現しなければならない英語ライティングは、いわゆる4技能の中ではAIの補助・拡張能力がもっとも有用になる領域であろう。うまく翻訳AI(機械翻訳)を活用すれば、日本語を母語とする英語学習者は、これまで以上の量と質の英語論文を生産できるだろう。

 ここでのうまい活用法とは、(1) 日本語話者が、論文の原稿を、長時間にわたってもっとも正確・精妙に思考を展開できる日本語で書き、(2) 日本語話者が、その日本語原稿をAIが英語に翻訳しやすいような日本語に修正し(=プリ・エディティング、pre-editing:前編集)、(3)日本語話者が、 翻訳AIが出力した英語を確認し必要な修正・編集を加える(=ポスト・エディティング、post-editing:後編集)の3段階で英語論文を作成する方法である。(もちろん、簡単な内容を短く伝えるような英文メールなどならば、わざわざ日本語の下書きをする必要もないだろうが、ここではそのような英語をacademic Englishとは考えていない)。(追記2021/05/24:とはいえ、ほとんどの大学生には、AIを使わせる前に、機械翻訳なしのライティング力をつけさせる必要があるだろう。大学でのライティングが以下の3段階での指導に限るべきとは筆者は考えていない)。

 

 (1) 日本語原稿執筆:英語論文の原稿をまずは日本語で作成することについては、英語圏で活躍する日本語母語話者の研究者(特に人文社会系)も、自らの思考を十分に表現するためにはまずは日本語で文章を書き、その後にそれを英語に翻訳するか、もしくは新たに英語を書くことがよいと言っていることからも、質の高い論文執筆のためには重要であることがわかる。少し昔の例ならば経済学の森嶋通夫(ロンドン大学)、現在の例なら教育社会学の苅谷剛彦(オックスフォード大学)がそのような証言を残している。またアメリカに移住して何十年もそこで知識人として活躍したハンナ・アレントも、こと著作物に関しては最初に母国語(ドイツ語)で執筆し、それをドイツ語と英語の両方に堪能な秘書に英訳させ、その英訳をチェックしてから英語出版していたことが知られている。この論考の筆者自身もある英語論文を書いていた時に、最初は英語で書き始めていたものの、その執筆過程は、まるで利き手でない左手で箸を使って食事をしているようであった。筆者としては、自らの思考の展開の遅さと粗さが気になって仕方なく、ほとんど書き上げていたその英語草稿は結局すべて破棄した。その後、筆者は日本語ですべての原稿を新たに書き推敲し、自分のできうる範囲の最上の精度で自分の考えを表現した。筆者は次に、それを日英の発想や叙述法の違いに留意しながら英語に翻訳した。日本語母語話者が、長時間にわたって、自分なりにもっとも正確・簡潔・整合的に思考を展開し表現しようとしたら、それは母語である日本語が一番であることが多いというのは常識的なところであろう。

もっとも、話題が非常に専門的・限定的で、かつ研究者がその分野について英語の文献しか読んだことがない場合などは、その研究者は研究内容を日本語で表現するのがむしろ困難となり、最初から英語で書いた方がいいとなるかもしれない。しかし、人文社会系の論文なら、話題は多くの領域とつながっており、他分野ひいては日常言語の語法で語ることが有用な場合がある。さらに、日本語固有の思考や表現が話題の重要な部分になっていることも少なくない。そうなると書き手が自在に使える日本語で考え表現することが必要になる。また自然科学系でも、技術的で定型的な短報の執筆ならともかくも、理論的に突き詰めて考える論考なら、古くは湯川秀樹が『莊子』の「胡蝶の夢」から発想を得たように、自ら親しんだ言語と文化の枠組みで考え書くことが有利となるだろう。総じて述べるなら、話題の汎用性が高まれば高まるほど、思考と執筆の言語は母語である方が望ましい。

 

(2) プリ・エディティング プリ・エディティング(前編集)とは、日本語で書いた原稿の日本語表現を修正する編集過程である。これは、翻訳AIが、日本語では省略してしまう情報の欠如から妙な英語を出力してしまわないようにするために重要である。日本語は、主語(主題)や名詞の数や限定性に関する情報の提示が省略されることが多い言語である。AIは、そのような省略の多い文から省略された情報を形式的に獲得することができない。したがって、AIは、ビッグデータでよく出てくる主語(主題)や名詞の数・限定性の情報を適当に補って英文を出力する(言うまでもなく、これらの要素抜きには英文として成立しないからである)。またプリ・エディティングでは、熟語や喩えなど日本語文化圏固有の表現も除去するべきだ。これらは、AIが「教師あり学習」で使うビッグデータからすればロングテール現象にあたり、翻訳AIが誤訳する可能性が高いからである。その他にも、AIが統語関係を把握しやすいように、長い文を避け、かつ読点を多めに使うなどの細かなテクニックも知られている(参考文献)。プリ・エディティングはこういった語法レベルでまず必要である。

プリ・エディティングは、ストーリー(物語展開・情報提示)のレベルでも大切である。日本語では、肯定・否定を始めとした中核的情報が文の最後に来ることからの影響か、複数の文章からなる段落でも結論は最後の部分でようやく述べることが多い。また、抽象的概念を最初に出して具体的事例を説明する順番ではなく、具体的詳細を先に述べてから抽象的なまとめを最後にする順番も日本語では好まれる。だが、これらの発想は、多くの英語圏の読者にとって馴染みなく読みにくいものである。英語論文が、ことさらに日本語的発想や日本文化の特徴を前面に出すものでないなら、書き手は情報提示の順番も英語圏で好まれるように自らの日本語を翻訳AIに入力する前に変換しておくべきだろう。

プリ・エディティングの過程を省力化することを重んじるなら、日本語原稿を書く際に、そもそも英語からの翻訳のように日本語を綴ることが便利かもしれない。AIが学習の基盤としているのは、ある英文と日本語の対訳データである。その対訳データを大量に得られるのは、英語文献の日本語翻訳であろう(一般にそれぞれの言語がもつ情報価値の差から、英語から日本語への翻訳の方が、日本語から英語への翻訳よりも大量に存在することが知られている)。そうなると翻訳AIが慣れ親しんでいる日本語は、英語からの翻訳日本語であることになる(文体感覚に鋭い人は、翻訳書や多国籍企業の広報文の文体を思い起こしてほしい)。日本語での原稿執筆およびそのプリ・エディティングの際に、英語から翻訳された日本語の語法・文体・情報提示を規範とするのは、1つの実用的な戦略ではある。

ただし高度で精妙な思考を展開しようとしている時に、使用言語について注意を注ぐことは、思考の質を落とすことにつながるので、日本語執筆の段階から英語からの翻訳日本語のように書くことは、簡単な内容の論文を書く場合にのみ勧められる方針となる。また、英語の発想に合った日本語ばかりを使おうとする習慣は、英語支配や文化的多様性の否定につながるが、そのことに関する批判的論考はここでは行わない。

 

(3) ポスト・エディティングAIが出力した英語を修正・編集するポスト・エディティング(後編集)では、プリ・エディティングの配慮だけでは防ぎきれなかった誤訳、およびAIの機能的限界で指摘された、肯定・否定の区別、データの数字、固有名詞の間違いや訳抜けなどをチェックし修正する必要がある。これらの誤りは、深刻な結果を招きかねないのでくれぐれも慎重に行う必要がある。

また、文体レベルでのポスト・エディティングも重要である。たとえば、日本語では、行為主体を明示しないままに叙述を進めてゆくことが多い(「〇〇と思われていたが、次第にそうではないと判断されるようになった」など)。だが、そういった表現を、翻訳AIは、受け身表現として訳出することが多い。しかし英語圏読者は、一般に受け身構文の多用を好まない。したがって、情報はそれなりに伝えられているが文体的に必ずしも読みやすくはない英語は、文体の点からも編集する必要がある。

その点、Grammarlyといった校正アプリは文体上の助言もするし、Wordtuneなどのパラフレーズアプリは数々の書換えの選択肢を提示してくれる。だが、前者の助言も現時点では、機械的で過剰であったりする。後者も、提示された選択肢のうちどれを選ぶかという判断は人間に任されており、その判断を誤れば、文章全体としての整合性がかえって損なわれる場合もある。

総じて述べるなら、英語母語話者が、AIからの補助・拡張を受けて、これまで以上の分量の英語論文を執筆するようになれば、読みやすさといった文体上の配慮はより重要になるだろう。情報量が爆発しても、人間の注意量は増えない。ゆえに、注意を引きやすい、すなわち読みやすい文体の英語が好まれるからである。そうなると内容だけでなく文体の点にも注意してポスト・エディティングを行うことは、ライティングでAIを用いる際の必須の条件となるだろう。一般論としては、これまでの日本の英語教育の主な関心が、文法や語法 (usage) の正しさであったとしたら、これからのAIを活用しての英語ライティングの主な関心は、文体 (style) や物語 (story) の質の高さとなるであろう。ビッグデータに基づく機械翻訳出力のほとんどは、文法・語法上の誤り含んでいないからである。

もし以上の (1) (3) を大学英語教育でのライティング指導とするならば、指導教員には日英両言語に長けている必要がある。(1) の日本語原稿執筆の指導において、高度な日本語能力が必要なのは言うまでもない。ストーリー展開の仕方から、細かな語彙選択などに至るまで、指導教員は学習者の日本語原稿について指導をすることができなければならない。しかしそうなるとそういった指導は「英語」の教育の範疇を超えてしまっているのではないかという批判も来るかもしれない。だが本来、大学の科目は、学術探究のために必要な技能を教えるためのものである。日本の大学には、少なくとも英語圏では当たり前に存在する、その国での主要言語を使ってのライティングの授業がないが、「英語ライティング」の授業の一部で、日本語での学術的文章作成を英語での学術的文章作成とつなげながら教えてもいいのかもしれない。

(2) のプリ・エディティングの指導において、指導者は、日本語と英語の発想の違いや日英翻訳での問題点を知っておく必要がある。もちろん、機械翻訳の癖についての具体的な知識も必要である。この点からすれば、指導者はみずからAIを使っての日英翻訳に習熟していることが望まれるだろう。

(3) のポスト・エディティングについては、指導者にきわめて高度な英語力が求められる。この点は、日本語を母語とする指導者にとって必ずしも容易なことではない。日本語話者の学習者がAIの助けを借りて作成した英語が、一切日本語を知らない英語話者にも正しく当初の意図を伝えられるかを見抜くことは、日本語を母語とする英語教師にとって簡単ではない。日本語を母語とする英語教師は、なまじ日本語を知るため、学習者とAIが共作した英語に対して容認度が高くなる恐れがあるからである。ライティング指導者には、自分の日本語知識や学習者の日本語原稿といった知識をいったん忘れ去って、新鮮な気持ちでAIが生み出した英語を冷静に精査し、その英文の不備を指摘するだけのリーディング力が必要となる。ここでも「AIを使えばとにかく仕事が楽になる」というわけではない。むしろ、人間はAIという強力な人間知性の補助・拡張装置を手に入れた以上、これまで以上の高度な知性が必要とされると考えておくべきだろう。

 

 

3.3  リーディング

 

英語リーディングをAIに任せてはいけない

 AIの出力は完璧ではないため、英語リーディングで機械翻訳を使うにせよ、そのAIが生み出す日本語翻訳を批判的に精査することは不可欠である。だがその精査は、機械翻訳を日本語から英語へと翻訳する英語ライティングで使った場合に比べると容易である。日本語(=英語原文からの機械翻訳出力)と英語(=日本語原文からの機械翻訳出力)を読むことを比べた場合、日本語は(大半の学生にとっての)母国語であるため圧倒的に速く正確に読むことができる。したがって、間違いが根本的な点(肯定・否定の間違いや訳抜けなど)であれ小さな点(専門用語の誤訳や文体上の不統一)であれ、AI出力の問題点も気づきやすい。間違いに気づけば、学習者は該当箇所の英語原文を丁寧に検討することができる。

そうなると英語リーディングのほとんどはAIが代行できるとすらも主張する者がでてきても不思議ではない。実際、現在は英語論文の多くを機械翻訳で日本語にして大量に読んでいると語る自然科学系の研究者も少なくない。しかし、そういった主張は、これまで英語を読み続け、その過程でリーディング力を高めて来た者によってなされていることを忘れてはならない。英語リーディング力をある程度つけた者が現在AIを多用しているからといって、それが大学入試レベルのリーディング力しかもたない大学生が、これ以上英語の読解力をつける必要はないということにはつながらない。

 

リーディング力は、ライティング・リスニング・スピーキングのためにも重要

また、英語ライティングにおけるAI利用は、上述の通りこれからもっとも有望なAI使用だと思われるが、そのポスト・エディティングでは、機械が出力した英文を精査することが必要不可欠であった。そもそも外国語である英語を、日本語読解の精度とスピードで行うことは通常できない。加えて、学習者が、自分で書いた日本語の機械翻訳出力(英語)を読む場合、学習者はどうしても自分の意図を英語に読み込んでしまう。したがって、第三者的に客観的な精読をすることがきわめて困難になる。「この英文が意味しているのは○○であるはず」という先入観があるため、学習者は批判的に英文を精査することが困難である。したがって、学習者は今後英語ライティングでAIを活用するためという理由だけでも、高度な英語リーディング力を必要とする。

そもそもリーディング力は、ライティングだけでなくリスニングやスピーキングの力を育成するためにも重要である。語彙の正確な意味(類語との差異)を知りその統語・連語上の特性を学ぶのは、英単語の綴りとその訳語を一対一で結びつける丸暗記語彙学習では事実上不可能である。語彙学習については、質と量の両面で充実したリーディングでその語の使用を何度も吟味する必要がある。知らない語彙を聞き取ることはできないし、的確な語彙選択はスピーチの意味伝達と話し手の信頼獲得にきわめて有効であるから、リーディングを通じての語彙学習は、リスニングとスピーキングにとってきわめて重要である。加えてリスニングとスピーキングにおいて、ストーリー展開がどうなるかについて的確な予測や計画を立てることは大切である。ストーリー展開の詳細を学ぶのにもリーディングが最適であることには異論は少ないだろう。

 

これからのリーディング指導

以上のことから、筆者は、大学英語教育においてリーディング指導が不要になるとはまったく考えていない。むしろリーディング指導は、英語力全般の底上げのためにも、質的転換を経た上で充実しなければならない。リーディング指導の質的転換とは、英文を「だいたいの文意理解のため」に粗雑な日本語に訳出するようなリーディング授業から完全に脱却することを前提とする。そのような精度の低い情報獲得はAIでも十分可能だからである。リーディング指導は、粗雑な訳読授業から、(1) 文体論的精読、(2) 身体的朗読、(3) 翻訳執筆、(4) タスクやプロジェクトを使った授業、といった方向で充実するべきだと筆者は考える。また、これらのリーディング指導の展開において、学習者はAIを使うべきではない(というよりもAI利用は、これらの学びにはほとんど役に立たない)。卒業後にAIを活用する学習者は、大学英語教育でAIを使わずに、AIが人間を補助できないリーディング力を身につける必要がある。

 

(1) 文体論的精読:解像度の低いリーディングでは、英語は情報伝達のために使われる一時的な記号形式としかみられない。しかし言語における意味は、言語の形式と融合したものである。ある記号がその他の記号ともつ形式的な関係性や、その記号形式の音声的・視覚的特徴が人間の心理に与える影響も、意味の一部を構成する。つまり言語の形式とは、任意の形式でよいものではない。少なくとも厳密なレベルでは、形式が変われば意味も変わる。この形式と意味の連動性は、人間のような情動や身体をもたず、形式だけに基づいた特徴検出をして言語処理をするAIには理解困難である。したがってAI時代のリーディング指導で重要なことの1つは、形式の違いがどのように意味に影響するかという文体論的な分析を伴う精読を心身の感受性を総動員して行うことである。

文体論的精読は、意味の可能性の微妙な違いを吟味する。その違いは、他でもあり得た表現(同義語・類義表現)と当該表現の形式の差から生じている。したがって、文体論的精読では、現に書かれている顕在的な表現を読むだけでなく、書かれてはいないがそう書かれることも可能である潜在的な表現も読み取り、それらの比較をしなければならない。言うまでもなく、こういった複数の可能な表現を比較吟味することは、ライティング技能の向上に直接つながる。

異なる表現の比較は目標言語(英語)の体系内で行われるわけであるから、学習において使用するべき辞書は英英辞書が前提となる。現在の大学生の多くは、単語集で訳語を覚える訓練は数多く受けていても、辞書を丁寧に読む、ましてや英英辞書を意味のニュアンスや連語関係を知るために熟読する経験をほとんど有していない。したがってこのような文体論的精読は、粗雑な訳読とは読み方も調べ方も大きく異なる。また教材はそれが報告や記述や説得であれ、文体的に上質のものでなくてはならない。また、精読ということで多くのページを読むことも難しい。そうなると、教材選択も授業進度もこれまでとは大きく変わらざるをえない。だが、AIとの共存を考えるなら、このように目的を明確にしたリーディング指導は必要だろう。

 

(2) 身体的朗読AI時代に重要になるリーディング指導の2番目は、英文の音の響きを身体で感じ取り、そこから生じる情動を味わうこと、さらには英文を自らの情動と直結した音の響きとして読み上げる朗読を行うことであろう。英語を目で認識すると同時にその意味の広がりと深さを身体に生じるさまざまな情動の蠢きで感じ取り、英語を読み上げる際にはそういった情動が伝わるような音声化を行うことを、仮に身体的朗読と名づけるなら、身体的朗読はAIが行い得ないことである。身体的朗読をもって初めて理解や表現できる意味はある。だからこそ人々は既によく知るテクストの朗読を、金を払っても聞こうとするし、自らが発表をする際は原稿の言語を自分の身体に染み込ませて表現力をより精妙にしようとする。また、研究発表などで、仮に原稿を読み上げる必要があったとしても、それが棒読みであってはならないことは言うまでもない。これからのリーディング指導の一部には身体的朗読を組み込むべきであろう。

ちなみにこの身体的朗読は、単に機械的な音読と異なり、そのスピードや正確性などの一律的で客観的(=没個性的・無人格的)な基準でもって価値を測定することはできない。これまでのリーディング授業には英語音声が使われなかったものも多かったこともあり、その改善の一貫として、音読を強調する向きもあった。だが、その音読は、ともすれば意味の実感を味わうこともなく、ひたすら高速に文字を音声化する作業に終わっていた。そういった機械的音読にも一定の効果はあっただろうが、身体的朗読は単なる文字の音声化を超えて、意味を自分と相手の身体に響かせる営みである。単なる文の読み上げなら、現状のAIでもそれなりのレベルで行える。しかしAIは情動的身体を有しない以上、自ら「意味を身体で感じる」ことがそもそも困難であり、どんなテクストがこようがそれを身体的朗読で聞き手にしみじみと意味を実感させるように身体的朗読を行う機能を実装することは困難である。しかし、人間にはそれができる。また、それができればその経験は、自らが創造的に英語を話す時の話し方の規範となり、効果的なスピーキングにつながる。身体的朗読は、その人なりの意味理解や身体表現も伴うので、標準化も数値化も困難であるが、これからのリーディング授業では推進されるべきであろう。

 

 

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(3) 翻訳執筆AI時代のリーディング指導には、厳選された質の高い英語の意味理解を、丁寧な日本語翻訳で表現させる学びも大切かもしれない。翻訳の大家の山岡洋一氏は「翻訳こそは、英文理解の最善の方法だ」としばしば述べていた。英文の意味の可能性を吟味し尽くした上で、それを1つの日本語表現だけに託して表現しなければならないという翻訳は、その過程において英語表現とそれに対して可能な日本語表現について精査せざるをえないため、たしかに英文の深い理解につながる。さらに、英語と日本語の表現の対照言語学的な差についても洞察が深まり、スピーキングやライティングでの表現の質向上につながる。AIによる補助や拡張でこれからますます大量の英語が生み出されるとすると、私たちが表現する英語も高品質のものとならなければ、読み手・聞き手の注意を捉えることができない。対照言語学的な洞察は、AIの出力の不完全さや不適切を、修正したり予め減少させたりすることに役立つ。雑な訳読とはまったく異なる、丁寧な英日翻訳をたとえ少量とはいえ、実際に1つの日本語作品として執筆し他人の目に晒すことは、AIでは達成し難い英語力をつけるために有効な手段の1つとなるのではないか。

 

(4) タスクやプロジェクトを使った授業:人間が何かを理解する時、多くの場合はその理解が何かの新しい行動につながる。というより日常生活では、私たちはある人の反応を見て、その人が実はどのような理解をしたかを初めて知ることができる(ウィトゲンシュタイン)。何の反応も生み出さないまま「私は理解した」と述べることは、現実的には物事の理解がなされたことを立証しない。したがって、リーディングにおいても、その理解を文体論的分析や情動的な朗読や翻訳の執筆だけに限らず、何か次の行動につなげることで、英文理解を人間の現実に即したものに近づけることができる。「読んで終わり」ではなく「読んでから始まる」授業である。そのようにリーディングという言語処理を、他の意味深い活動の一部として組み込み、言語処理自体ではなく現実的な活動の遂行を目的とする学習形態は、タスク基盤の言語教育 (Task-Based Language Teaching: TBLT) やプロジェクト基盤学習 (Project-Based Learning: PBL) であった。これからの大学英語教育のリーディングも、英語をいたずらに自己目的化せず、それを使用することで何かを成し遂げるような形の活動を指導の中心とするべきではないだろうか。一般的に述べるなら、一般教育課程の大学英語教育での「英語を学ぶ」から「英語を使う」へと力点を移すべきであろう。

 

 

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以上、これからも大学英語教育は、学習者がライティングでAIを使いこなし、スピーキングやリスニングの底力をつけるためにも、リーディングの教育を充実させるべきことを論じてきた。その充実とは、従来多くある粗雑な訳読の量を増やすことなどではまったくなく、指導の質的転換を行うことであった。その転換の可能性として、本稿は (1) 文体論的精読、(2) 身体的朗読、(3) 翻訳執筆、(4) タスクやプロジェクトを使った授業の4つを提示した。しかし、リーディングおよび前述のライティングといった書き言葉を基盤とした技能も、リスニングやスピーキングで基本となる話し言葉での技能が基盤となってはじめて開花する能力である。次はスピーキングについて考察してゆこう。

 

 

3.4   スピーキング

 

スピーキングは全身的な表現

 AIは情動的身体表現ができないため、スピーキングにおいて達成すべき信頼獲得の機能を果たすことができない。人が何かを話す時に行われているのは、音声で記号伝達をしていることだけではない。人は記号を、情動に満ちたプロソディ(=イントネーション・リズム・ストレス・音色などの語を超えたレベルでの音声的特徴)と表情・身振り・動作で表現する。聞き手がその情動的表現に共感すれば、その語りは説得力を増す。語りの際に、言語表現と、プロソディといった言語随伴的表現 (paralinguistic expression) 、そして眼差し・表情・身振り・動作などの非言語的表現 (non-verbal expression) は、ちぐはぐであってはならず、完全に同期していなければいけない。同期といってもそれら3種類の表現がまったく同種類の働きをするのではない。それらは相互補完的(あるいは「弁証法的」)に、それぞれの独自の表現力が綜合されて、語りという1つの表現に結実する。(McNeil この表現が見事だと、その語りは説得力をもつだけなく、その語り手が信頼できる人物であることを聞き手に納得させることができる。このような語りは現状のAIやロボットでは不可能である。

 

 

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 だが人間が、とりわけ外国語でそのように言語的・言語随伴的・非言語的な表現を統合させて語ることも、それほど簡単なことではない。不得手な外国語を話す学習者の目が泳いだり、表情が単純化されてしまったり、どこか動作がちぐはぐになったりすることが多いのは、周知のことである。外国語学習者は、最初は疎遠な記号にすぎなかった外国語表現に、自分の人生を託すことを、心身のすべてを使って学ばねばならない。

大学英語教育のスピーキングも、自らの心身と同調した語りを指導しなければならない。そのようなスピーキングの指導は、最初は所定の英文の身体的朗読としての再生 (reproduction) から始まるかもしれないが、スピーキングの指導は次第に即興的で創造的な発話 (production) に移行しなくてはならないことは言うまでもない(というより、後者こそがスピーキングの典型例である)。この点で、スピーキングの指導は、リーディング授業における身体的朗読(再生)と、スピーキング授業における即興的・創造的口頭発話の2つで分担させることも考えられる。情動的なスピーキング能力は、いわゆる「英語力」の一つの象徴的表現である。その能力が向上することは、学習者のさらなる学習意欲の喚起にもつながる。スピーキング能力が、リスニングやリーディングにおける共感的理解やライティングにおける説得力ある文章作成につながることは前にも示唆した。スピーキング能力開発は、情動と直結したものとして、これまで以上に強調されるべきであろう。

 

情報伝達としても限界があるAI

 また、仮に、情動的な表現や理解をあまり必要としない情報伝達のためにAIを使おうとしても、その情報伝達がacademic Englishであれば、AIには限界があると言わざるをえない。現在の小型音声翻訳機などは、観光などの限られた用途なら実用的に十分かもしれない。しかし、academic Englishにおいては、ロングテール事項(=一般的には頻出しないが、専門分野ではきわめて重大な意味を担う表現など)を数多く含む高度で複雑な内容を、正確・簡潔・整合的に伝えることが重要であった。したがって、典型的で定型的な頻出表現に傾斜した小型音声翻訳機は、academic Englishの使用において人間に取って代わることはない。というより、人間のスピーキング力の補助や拡張を行うことも困難だろう。専門的な知識の表現でしばしば間違いを起こす機械なら、最初から使わない方がよいからだ。ある専門分野だけに特化したAIを開発しない限り、AIacademic Englishの情報伝達においても不十分である。

 以上、スピーキングは言語表現と言語随伴的表現と非言語的表現が完全に同期しながら相互補完的に機能するものであることも確認し、スピーキングは人間の認知活動の根幹である情動を基盤にしたものとならなければならない。こういったスピーキングではAIの役割はきわめて限定的であり、人間は自らの心身を総動員してスピーキング能力を向上させなければならないことについて考察した。さらに、academic Englishは専門用語を含む高度で複雑な内容を正確・簡潔・整合的に伝えるため、AIが犯しがちなロングテール事項での間違いが重大な結果につながりかねないことからも、大学英語教育でのスピーキング指導は、AIの力を借りずに人間が生身で語れることを目指すべきであることを述べた。次項では、話し言葉の一端を担うリスニングについて考察しよう。

 

 

3.5  リスニング

 

情報受信でのAIの補助と拡張

リスニングについては、AIの自動音声認識・文字起こし機能を人間は活用することができる。そのような機能は、現時点でもスマホでもある程度実現できるし、コンピュータではChromeブラウザーを使えばそこで流れる英語音声は自動的に字幕となって文字化される。しかしその文字起こしにもAIの機能的限界は当てはまり、ロングテール現象に弱いし、人間では考えがたい意味の取り違え(特に肯定と否定の間違いなど)を行うといった弱点がある。したがって、やはりリスニングにおいても、AIは人間の能力を完全に代行してしまうことはなく、人間はAIを自らの知能を補助し拡張する手段として使いこなさねばならない。

AIによるリスニングの補助と拡張については、連結・脱落・同化 (linking, reduction, assimilation) した音への対応が典型例となろう。日本語を母語とする英語学習者の多くは、仮に個々の単語の発音を知っていたにせよ、単語が連なることによって、英語の音声が連結・脱落・同化を起こすと、途端にリスニングができなくなる(実際問題としては、個々の単語の発音もきわめて不正確にしか覚えていないことも少なくないが、ここではその点は割愛する)。しかし、これらの超分節的 (suprasegmental) な音の変化は、英語のビッグデータでは頻出する典型的な事例であり、AIはかなりの正確度でもって、これらの音を文字化してくれる。日本語を母語とする学習者は、英語を聞く際にAIを補助的手段として使うことにより、自分が苦手としていた連結・脱落・同化された英語の音声を認識することができる。この補助をうまく使えば、日本語を母語とする英語学習者もこういった音声変化にやがて慣れ、自分自身でも聞き取れることが期待できる。そのようにAIが日本語を母語とする英語学習者のリスニング力を補助すれば、学習者もリスニングが快適になり、これまで以上に英語を聞くようになるだろう。その経験の増加により、リスニング能力も自然と向上することが期待できる。これがAIによるリスニング能力の拡張である。

 とはいえ、何度も言うようにAI出力は完璧ではなく、特に専門用語などのロングテール現象の音声認識にAIはしばしば失敗する。これについては、人間がAI出力を補い修正する必要がある。となると、AIを使ってのリスニングにおいては、学習者がリスニング教材のトピックについての知識を予め有していることが前提となる。この前提については後で、具体的なリスニングの指導方針を立てる際に再度考察することとする。

 

対面コミュニケーションでの情動的反応

 以上は、リスニングをとりあえず情報受信の営みとして捉えた上での考察であったが、現実世界でのリスニングでは、聞き手が情報を受け取るだけでなく、その情報受信と同時に自らの情動的反応を無意識的に示している。この即時的な情動的反応は、人間が長い進化の過程の中で発達させてきた、生存にとってきわめて有用な反応である。一般に人間以外の哺乳類の眼には、人間ほどにはっきりとした黒目と白目の違いがない。この違いがあれば、ある個体の眼を見るだけで、その個体が何を注視しているかなどがより明確にわかるようになる。他の動物以上に社会性を有する人類は、黒目と白目の違いをもつように進化することによって、コミュニケーションにおける社会性をさらに発展させ、その集団的生存能力を高めてきたと考えられる。この事例に見られるように、人間はお互いの表情をよく観察することにより、互いの思考や情動を推察し、その推察によって相互信頼を醸成する術を進化の長い過程で生得的能力にしてきた。同情 (sympathy) や共感 (empathy) を情動的に表現・理解することで相互信頼を獲得するこの人間の生得的能力の重要性が、AIが出てきたからといって、急速に減少するとは考えがたい。

 

 

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 となると、リスニングにおいても、聞き取った内容を即座に理解し、その理解を(しばしば意識的な制御の範囲を超えることではあるが)表情で示すことが大切になる。そのような速やかな表情表現のためには、英語使用者は聞き取る英語を、後で何らかの情報に変換されるべき記号形式としてではなく、身体に直結した情動的な音声として身体的に受け止めなければならない。さらには、身体がその音声から自らの情動を生み出せるように英語音声を聞かなければならない。その情動的受容と情動的反応は間髪を入れずに生じるものである。もしその間に、AIによる文字起こしを読むといった時間的遅延が生じると、同情や共感の発露にも遅れが生じ、対面コミュニケーション上は好ましくない。互いが英語で語り合っているグループの中に、1人だけスマホの英語音声認識・文字起こし機能を使っている人がいることを想像してほしい。その人の反応は他の者から遅れ、グループが一斉に笑ったり顔を曇らせたりしている瞬間、その人の顔つきはスマホの細かな文字を読む緊張した表情となっている。そのような経験が重なるにつれ、たとえ悪意はなくとも、グループのメンバーが互いに感じるような共感を、その人に対してはもたなくなることは想像に難くない。またその人は、音声の理解の遅れのため、その発言についての自分自身の見解を示すための反応(専門用語を借りるなら、スピーチのターンの獲得)も遅くなり、発言の量も少なくなるだろう。このように、表情と言った言語随伴的な反応の点でも、AIは人間の能力を代替することはできず、リスニングの指導は今後とも重視されなければならない。特に、リスニングを情動の伴った活動として指導しなければならない。

 

 

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オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/01/emotional-attunement.html

 

 

 なお、AIの導入以前に、日本の英語教育では、日英両語の音声的特徴の差異に基づいた分析的なリスニング指導があまり行われておらず、そのことが上述の連結・脱落・同化などでのリスニング力不足につながっている。今後のリスニング指導について考える際は、このような対照言語学的で分析的な指導が不可欠である。だが、本稿はAIとの関連から英語教育について考えることを主眼としているので、そういった指導についてはこれ以上言及しない(もちろん、分析的指導についてもたとえばELSAといった発音訓練のAIはリスニング能力向上にも活用できるが、それは世界市場向けのものであり、日本語を母語とする学習者のニーズに特化していないこともあり、ここでは割愛する)。

 以上の前提からこれからの大学でのリスニング指導について方針を定めるなら、(1) 英語の音声的特徴が身体化するまでのリスニング指導、(2) 世界についての興味・関心に基づいたリスニング教材の選択となるだろう。

 

(1) 英語の音声的特徴が身体化するまでのリスニング指導

 リスニング指導は、単に英語音声から情報獲得できることを目指すべきではない。そういった目標なら、AIの自動音声認識・文字起こしを、学習者が自らの知識をもって修正すれば達成可能だからだ。むしろ、リスニング指導の目標は、英語の音声的特徴を学習者が身につけることにおくべきではないだろうか。リスニングの経験を通じて、英語の音声的特徴を身体化することは、スピーキング、リーディング、ライティングの技能獲得の基盤となるからである。

リスニングの観点からスピーキングを定義するなら、スピーキングとは、聞き手がリスニングしやすいように意味内容を音声化することである。リスニングの聞き手は、個々の音素(=分節化された単音)だけでなく、プロソディ(超分節的特徴=イントネーション、リズム、ストレス、音色などの単音を超えたレベルでの音声的特徴)を識別することによって、意味の内容や区切りについての理解を進める。ということは、スピーキングにおいてプロソディを的確に操ることができれば、その話の内容は聞き手にとって理解しやすいものとなる。

このようにスピーキングの根幹の一側面はプロソディの的確な利用だとすれば、音声的特徴が身体化されるまでリスニングを学習しておくことは極めて重要であることがわかる。リスニングを通じて、意味内容を効果的に伝えるプロソディを学び、さらにはそれが身体化するまでになると、それはスピーキング能力の向上につながる。前に、リーディング授業の身体的朗読(再生)で(即興的・創造的ではない)再生的なスピーキングの指導を行うことができると述べたが、リスニングにおける英語の音声的特徴の学習も、そういった音声的特徴を所定の例文を口頭再生するスピーキングの訓練と融合させることも考えられる。一般に、自ら実現できる身体運動の認識は、そうでない身体運動の認識よりも容易であることが知られているが、日本語母語話者にとって苦手な音声的特徴を含む英語のリスニング力向上を、そういった特徴をもった英文の口頭再生訓練を通じて行うことは合理的かつ効果的であると考えられる。

リーディング能力を向上させる点においても、音声的特徴の身体化が必要である。ある程度のスピードをもって文章を読むということは、読者が心の中で活字を、プロソディを備えた意味ある音声に変換することだからである。実用レベルでのリーディングとは、活字を対象にして目でリスニングをすることであるともいえる。音楽の楽譜と違って、単語の発音以外にはなんの音声的特徴の指示も示されていない英文を、目にした瞬間からイントネーション、リズム、ストレス、音色などの特徴で意味が明らかに浮かび上がってくる音声に次々に変換して、脳内での文章理解を助けるのが、「リーディングがある程度できる」ということである(この意味で、リーディングは、目で捉えた活字を理解しやすいように音声化するスピーキング能力を含むともいえる。要は、書き言葉の処理においても話し言葉の能力が必須であるということである)。

ライティングにおいても、リスニング・スピーキング・リーディングの根底にある身体化された音声的特徴が重要である。ライティングとは、読み手が心地よく音声化できるような英文を創り出すことだからである。ライティングの重要な側面の1つは、活字を通じて読み手に気持ちよくスピーキング再生し、意味がわかるようにリスニングしてもらえる文章を作成することである。

このように、リスニングを通じて英語の音声的特徴を身体化し、学習者が自在にプロソディを使いこなせるようになることが、その後のスピーキング・リーディング・ライティングの能力向上にも決定的な影響を与える。しかし、現状の多くのリスニング学習は、情報処理のために英語を浅く聞くだけであり、英語の意味を音声的特徴と共に味わうように理解して、プロソディを自家薬籠中のものとするような学習がほとんどなされていない。せいぜい行われているのは発音記号に基づいた音素(単音)の指導だが、それも(少数の良質な教育実践を除けば)ほとんどの場合は表面的なものに終わっている。

この背景にはリスニング指導も、もっぱらテストで高得点を取るために行われていることもある。現在のリスニングテストの大半は、唯一の正解を選択肢の中から見つけ出す客観テスト方式であるから、リスニング学習は、そういった客観テスト方式で問われやすい情報を音声の中から確認することに主眼が置かれる。そういったテスト用学習では、音声的特徴で示される意味の微妙なニュアンスは指導者と学習者の関心から外れる。音声は一度聞くだけで情報処理されるべきものである。何度も味わうように音声に聞き入り、それがいつしか自分の一部になるになるような聞き方はされない。そうではなく、音声に込められた意味の可能性を味わい、それが身体化されるまで深く聞き入ることが今後のリスニング指導の方針となるだろう。リスニング指導を、得点で管理するだけのリスニングテスト実施で代替することはできない。最後にはその音声的特徴が身体化されるまでに何度も聞き入るような教材をリスニング指導では使うべきだろう。その教材選択について次に考える。

 

(2) 個々の学習者の興味・関心に基づいたリスニング教材の選択

 リスニング教材は、身体化するまでの深い聞き込みを促進するような内容をもったものであるべきである。もちろん、どんな内容であれ、学習者の興味・関心・意欲を引き出すような課題の設定法や話術といった教師の力量は存在する。そういった力量は、日頃から学習者を観察し、学習者の来し方行く末(過去と未来)を常に参照・想像しながら、今この瞬間のこの学習者のやる気を奮い立たせる方法を試行錯誤しそれを省察することで培われる。そういった教師の能力開発は間違いなく重要だが、ここでは教材の選択という点だけを考える。

 

 

関連記事:

「学びのための対面コミュニケーションとはどうあるべきか: 精神科医・神田橋條治氏の実践知からの整理と考察 『ラボ言語教育総合研究所報 ことばに翼を』Vol.4

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 巧みな課題設定や話術なしには、すべての学習者の興味・関心・意欲を引き出すような内容の教材を見つけることは(特にリスニングに限らず)容易なことではない。万人向けの教材を選ぼうとするなら、誰にとっても毒にも薬にもならないような内容と表現の英語が教材となることがほとんどである。それならば発想を変えて、一人ひとりの学習者が、自分自身が学びたい教材を見つけるべきであろう。それを可能にするのが、検索で自在に情報の在り処を見いだせる莫大なウェブの世界であり、ウェブに上がっている英語音声を自動的に認識し文字化するChromeブラウザーの英語字幕自動生成機能である。

 2000年代初頭のWeb 2.0を通じて、一般人も情報提供者となり、現在は、あらゆるジャンルでの動画が著名人から一般人に至る多くの人々によって作成されている。その多くはもちろん英語を用いている。動画内容の是非や教室内使用に関する著作権の詳細についての議論を今は割愛するなら、物理学理論からアイドルに至るまで、実にさまざまな話題が英語動画で語られている。この莫大、かつ検索技術で瞬時に入手できる情報の海を、学習者が自分用のリスニング教材を見つけ出す母体とすることができる。

 しかし英語動画をそのまま聞き取ることができないのが学習者であった。学習者が選んだ英語動画も、そのままなら、それは学習者にとって興味はあるかもしれないが、手のつけようのない英語材料に過ぎない。それをリスニング教材に変えうるのが、Chromeブラウザーの英語字幕自動生成機能である。英語動画を、その機能設定オンにしたChromeブラウザーで視聴するなら、画面の下には小さな字幕が提示される。そこにはAIが、流れる英語音声を次々に自動的に認識し文字起こししてくれる。AIの文字化は直前の音声にも適用され、現れた英語字幕が小さく変更されることもある。この英語字幕は、英語音声がたとえばニュースといった、整った文章を発声のプロ(アナウンサー)が読み上げるようなものであれば、ほぼ完全に正確なものである。英語の文および音声的特徴が、ビッグデータの高頻度出現領域から離れ、ロングテール領域に近づけば近づくほど、字幕の正確性は落ちてゆく(筆者の限られた経験から、直感的な数字をあげるなら、その正確度は95%程度、すなわち20語に1語程度の誤認識が見られるぐらいである)。だがこの程度の誤りなら、トピックについての先行知識があればリスニング理解にはさほど支障はない。

 このChromeブラウザーの英語字幕自動生成機能を活用すれば、学習者は膨大な情報を含むウェブ空間から選んできた、自分の興味・関心に適った英語動画をリスニング教材に変えることができる。字幕生成機能は簡単に停止することができるので、学習者は字幕を付けたり消したりすることで、リスニングの難易度を変えてリスニング力を向上させることができる。さらに、学習者が自分の先行知識を使ってChromeブラウザーのAIが犯す間違いを同定することができれば、AIが間違って認識した頻出表現と正しい表現の音声的類似性がわかり、現実世界のリスニングでは、聞き手のもっている知識で音声認識を予測したり補正したりすることの必要性を実感することもできる。

 こうして学習者が、自分の知的意欲を喚起する英語をリスニング教材にすることができれば、学習者はその音声的特徴に込められた微妙な意味のニュアンスについてもより鋭敏に察知することができる。また、英文の意味の可能性についてもより的確に理解できるので、英文について考えながら何度も聞くことができる。このことによって英語の音声的特徴の身体化も、形式的にならず、意味と一体化した理想的な形で促進される。

 このように、AIを利用したこれからの大学でのリスニング指導は、これまでのテスト対策中心の表面的な指導から、英語の音声的特徴の身体化を目指し、学習者がもっとも知的意欲を覚える教材を使ったものへの転換することが考えられる。もちろん、その指導には、AI導入以前から不足していた、日英両語の音声的差異に基づく分析的な指導も補われるだろう。リスニングは、スピーキング・リーディング・ライティングの基礎となるだけに、その指導の充実は非常に重要である。

 

 

3.6  対話

 これまでいわゆる4技能で分けて、これからの大学英語教育について論考を進めてきた。だが、書き言葉と話し言葉が関わるそれら4技能の能力が統合的に必要とされ、かつ、AIがもっとも苦手とする言語使用のジャンルとして、対話 (dialogue) がある。ここでは今後、人間の素養がもっとも必要とされ、AIの補助・拡張手段がもっとも得難いこの対話について短く考察していく。

 それが研究目的であれ、政治的・経済的・社会的な目的のためであれ、コミュニケーションの重要な局面では対話が必要とされる。対話とは、どの人間の既存の知識や枠組みでも解決しがたい問題に対して、複数の人間がそれぞれの知識や枠組みを否定することもいとわずに、互いの主張を聴き合う営みである。(ボーム) そうやってお互いがそれぞれの決めつけや思い込みから自由になって、協働的に新しい可能性を探求しようとしなければ、解決困難な問題の解決や調停・和解は困難であろう。研究での対話は、たとえば学会での質疑応答に見られる。質問者はしばしば、発表者とは異なる前提からの問いかけをし、少なくとも発表者は自分の前提だけにこだわっていれば、質問の趣旨を損ねてしまうからである。政治的あるいは社会的な交渉では、対話がよりいっそう重要となる。そもそもの立場や信念がまったく異なる者同士が利害調整をしなければならないからである。経済的交渉でも、定型業務を離れた契約成立や合併交渉などとなれば、対話を行わないかぎり、打開の途は見つかり難い。

 

 

関連記事:

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

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感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html

 

 

英語の能力獲得も、それがいかに標準化された客観テストの高得点につながろうと、現実世界の対話で使われなければ、それは実用的なものとはとても呼べない。大学英語教育は、どのような科目設定をしようと、最終的には対話を志向する目標設定をしておくべきだろう。技能訓練も、その技能が何のために使われるかが明らかでなければ、いたずらに自己目的化して迷走するだけである。世界の多様な文化がますます出会い、その相互作用からますます世界の多様化が進行するこれからの時代において、言ってみるなら「多様性を統一」するといった困難な課題を行う対話の技量は、必須の教養となるだろう。さもなければ多様化した世界は、相互に孤立する分断の世界か、少数の強力な価値観が多様な価値観を力づくで抑圧する世界になるだろう。対話は、英語の科目を超えて、あるいは英語といった領域を超えて、大学一般教育課程がもっと重視すべき項目であると筆者は考える。

 この対話重視路線は、対話こそが現在のAIがもっとも不得意とする事柄の1つであることからも強調されるべきである。AIは情動的身体をもたないので、葛藤への苛立ちや和平希求、あるいは対話の中で芽生える共感などの、人間にとって重要な感情を認識できない。また、何よりも生命を愛おしむ根本的動機を有していない。AIは人間が地球環境での生存のために進化の過程で獲得してきた世界モデルをもたないので、生命にとって重要な事項に直覚的に気づくことができない。またAIは人間のように意味や物語を理解しないので、対話中の発言がもつ可能性にも気づけない。さらにAIは予め定められた枠組みの中で機能するだけであり、対話の展開がもたらす前提の変容についてゆけず、新たな価値や仮説の創造ができない。そもそも現状のAIは非社会的な存在であり、定められた機能以外の学習や推論、その機能を超えた転移や類推ができないのであった。AIはおよそ対話に不向きであり、対話において人間はAIからの多くの支援を期待できない。AIによって限定的な機能について飛躍的な補助や拡張を得た人間が、その機能を超えた事象について対話をする能力を発達させなければ、人間の間での葛藤は、いっそう凶暴化した形で展開しかねない。核兵器や化学兵器は、人間の対立を人類の滅亡に導きかねない規模のものにした。さまざまなテクノロジーが、その限定的な機能をAIで徹底的に強化する時代の人間の対立は、想像を絶する凄惨なものになりかねない。AI時代に、人間的な対話の能力は不可欠である。

 

 

今後の小中高の英語教育

 

機械を使わずに発揮できる身体化された能力を指導し評価する

AIのこれからますますの進展と普及と共に、以上のような形で(あるいはその他の形で)大学英語教育が変わるとすれば、その影響は必ず小中高の英語教育にも及ぶ。しかし筆者は現在、小中高の英語教育現場から離れているので、ここで未来の小中高の英語教育のあり方についての具体的な考察を行うことは控える。

 ただ、これまでの考察から明らかなことは、AIによる英語力の完全な代行は不可能であり、AIからの補助や拡張を受けるにせよ、その根底には利用者個人の身体化した英語力が必要だということである。現在のほとんどの大学入試は、多くの監督者の注視の中、受験生が一切の機器を使わずに生身で発揮できる能力を評価しているが、今後共に「機械を使わずに発揮できる身体化された能力を評価する」という原則は踏襲されるべきではないだろうか。小中高の英語指導におけるAI利用でも、物珍しさから行うのではなく、そのAI利用がどれだけ英語力の身体化につながるかという観点で批判的に採択するべきではないだろうか。

 

「人間らしい能力」を育成する

 次に明らかなことは、一言で述べるなら、小中高の英語教育も「人間らしい能力」の育成を大切にするべきということである。AIと人間を比較したこの論考における「人間らしさ」とは、情動的身体に加えて、生存のために必要な事柄を直感的に知っていること(世界モデル)、意味や物語は開かれた可能性を示すこと、価値や仮説は与えられるだけで自らが想像することができること、異なる人間がその差異を否定してしまわずに共存する社会的な生き方を体現することであった。

これらの「人間らしさ」を育てることの重要性は、こうして提示されると当たり前のことのように思えるかもしれないが、これからAIが発展するにつれ、教育においてその否定が気づかないうちに進行してしまうかもしれない。これから「AIを使った指導」というのは宣伝文句として多用されるだろう。AIに対する適切な知識をもっていなければ、AIは公正で正確なものと無批判的に信じられるからである。AIによる指導が普及するにつれ「AIによる評価」も同じ理由でもてはやされるであろう。

しかし、指導にせよ評価にせよ、現在のAIが得意とするのは、対象がきわめて限定され、正解が予め人間によって与えられたデータが大量に存在する領域での、典型的な事例の推論であった。AIは人間世界に多く存在する少数事例をないがしろにする恐れがある。だが、少数の例外的な事例とはいえ、それらは、人間的な感情からしても、あるいはこの世界の維持のため、もしくは新たな可能性の創造のため、そして社会的共存のためにも、決しておろそかにしてはならないものかもしれない。だがAIはそれらの人間的に重要な事項をうまく扱えない。それを知らずして、無闇矢鱈とAIによる指導や評価を進歩とばかりに推奨することは、私たちの非人間化を知らず識らずの間に進行させることになるだろう。「人間らしさ」を守るためにも、AIについて原理的に理解しておくことは必要である。

 

 

5 まとめ

 

 本稿は、AIの構造的限界(情動的身体・世界モデル・意味や物語の理解・価値や仮説の創造・社会性の欠如)から、AIには機能的限界(ロングテール現象での失敗、非人間的なミス、学習の転移の不能)があり、それゆえに私たちは、「AIは人間の知能を補助・拡張するだけであり、それの完全な代替とはならない」「AI出力に対しては人間の判断と修正が必要である」「AIの利用に関しては人間が主導権と責任を取らなければならない」といった原則でAIを利用すべきであることを明らかにした。

 その上で、本稿は大学英語教育について、AIの構造的・機能的限界から導き出される総論を示した後で、いわゆる4技能と対話についての指針を示した。

 ライティングについては、日本語で執筆した原稿を、AIが翻訳しやすいようにプリ・エディット(前編集)して機械翻訳に入力し、それが出力した英語を原稿執筆者が、英語として正確・適切に読めるようにポスト・エディット(後編集)する方法を、大学では指導するべきではないかと提言した。

 リーディングに関しては、リーディング力はライティング・リスニング・スピーキングのためにも重要でもあり、英語リーディングをAIに代行させて大学で指導しないことは愚かであることを示した上で、(1) 文体論的精読、(2) 身体的朗読、(3) 翻訳執筆、(4) タスクやプロジェクトを使った授業という4つの指導方針を示した。

 スピーキングについては、AIは人間の英語スピーキングを代行するにはあまりに役不足であり、全身を協調的に使っての情動的なスピーキングの力を育成するべきであると説いた。

 リスニングに関しては、AIは情報受信のためだけでも限界があり、ましてや人間の対面コミュニケーションにおいて決定的に重要な情動的反応をAIで代行はおろか補助や拡張もできないことを指摘した。その上で、リスニング力が、スピーキング・リーディング・ライティングの力の基盤であることを示し、リスニング指導の指針として、(1) 英語の音声的特徴が身体化するまでのリスニング指導と、(2) 世界についての興味・関心に基づいたリスニング教材の選択を提示した。

 以上のいわゆる4技能が統合され、話し言葉と書き言葉としての英語のすべてに関する素養が要求される言語使用として、本論は対話を取り上げた。対話においては、人間の素養がもっとも必要とされ、AIの補助・拡張手段がもっとも得難い。だが、対話の力を失えば、AIによって強化される高度な知識を有しながら、グローバルな交流で、多様性が相互排他的対立や少数権力による覇権的支配へと傾斜しがちな世界は、危険な状態に陥りかねないことも論じた。

 このようにして大学英語教育についてのあり方について考察した上で、本稿は、小中高の英語教育についても短く述べた。英語使用において、人間がAIからの補助や拡張を受けるにせよ、その根底には利用者個人の身体化した英語力が必要であることを確認した上で、「人間らしい能力」の育成を原則とするべきであると論じた。この原則は、社会が「AIによる指導・評価」を無批判的に称賛すれば、知らず識らずのうちにないがしろにされてしまうものであるから、決して自明のこととして軽視してはならない。AIの発展とともに、「人間らしさ」の探求と追求も進展しなければならない。

 以上が、特に大学英語教育実践者の立場からまとめた「AI時代の英語教育」についての筆者なりの物語(=多くの側面をそれなりに統合した語り)である。この物語に、筆者は英語教育におけるAIの意味の現実性と可能性を表現した。この物語が、読者によって批判的に読まれ、その欠点が明らかにされると共に、そこから新たな仮説や価値が生まれることを望んでいる。あらゆる人文・社会系の論考がそうであるように、本稿も社会的なコミュニケーションの一部に組み込まれ、より人間らしい社会の実現に少しなりとも貢献することを筆者としては願っている。

 

 

参考文献

 

瀧田寧・西島佑(編著) (2019) 『機械翻訳と未来社会』 社会評論社

藤本浩司・柴原一友 (2019a) AIにできること、できないこと』 日本評論社

藤本浩司・柴原一友 (2019b) 『続 AIにできること、できないこと』 日本評論社

松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』角川書店

松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』角川書店

松尾豊 (2019) 「深層学習と人工物工学」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/oukan/2019/0/2019_F-5-2/_pdf

松尾豊 (2020) 「人工知能 ディープラーニングの新展開」、西山圭太・松尾豊・小林慶一郎 (2020) 『相対化する知性』日本評論社 (pp. 1-103)

丸山宏 (2019) 「高次元科学への誘い」https://japan.cnet.com/blog/maruyama/2019/05/01/entry_30022958/

丸山宏 (2019) 「人工知能研究者として私たちがすべきこと」https://japan.cnet.com/blog/maruyama/2019/12/31/entry_30022985/

ミッチェル, M. 著、尼丁千津子訳 (2021) 『教養としてのAI講義』日経BP (Mitchell, M. (2020) Artificial Intelligence: A Guide for Thinking Humans. Pelican.)

 


楽しい英語学習は長続きする:アニメ・ドラマ(Netflix on Language Reactor)と漫画(LANGAKU)

本日、英語学習に意欲的な学部生と英語で話す機会を得ました。彼ら曰く、英語を身につけるためには集中的な学習が必要なのはわかるが、毎日続けるには、楽しさという要素が必要だ、ということです。ここでは彼らから教えてもらった2つの方法を共有します。 (1) Netflix上のアニメやドラマ...