2024/10/02

「言語教育設計学2」(2024年度後期)のシラバス

 

言語教育設計学2

 

 

 

授業開催形式

 

今期の授業はすべて教室で対面して行う予定です。受講者の皆さんは、京都大学の人間・環境研究科のLearning Management SystemであるPandAにアクセスできるデバイス(ラップトップ推奨)を持参して教室に来てください。なお、万が一のためにZoomでの生配信をしますが、これは特別な理由で教室に来れない人のための例外措置です。

 

授業資料提示および課題提出はすべてPandAから行います。受講者は毎週必ずPandAをチェックしてください。

 

なお下の記述は、大学のKULASISシステムに掲載したものとは少し異なっております。講師の最新の知見を活かすための改訂ですので、ご了解をお願いします。

 

 

授業の概要・目的

 

この授業では言語教育の設計を、「実践研究・実践者研究」、「個人としての教師と学習者」、「教師と学習者の共同体」の3つの観点から考察します。この授業の目的は、これら3つの観点から、言語教育における授業およびカリキュラムの設計について理論的に考察し、さらにそれを改善・再構築する力をつけることです。この力により、履修者が実際に教壇に立った際に、言語教育の改良に貢献できることを目指します。

 

なおこの授業での「言語教育」として考察する事例は主に日本における英語教育ですが、その他の事例にも時に言及します。またここでの「設計」として主に考えるのは、教師が(学習者からの協力をえながら)構想・実施できるレベルの設計・改善・再構築です。

 

 

到達目標

 

・理論的目標:言語教育における授業やカリキュラムの設計において、単に自分の経験から考えるのではなく、実践研究・実践者研究の観点から検討を加えることができるようになる。

 

・理論的下位目標 (1):実践および実践者を重視した研究について理論的に考察できるようになる。

・理論的下位目標 (2):言語教師と言語学習者が個人として行う行為や技能修得について理論的に考察できるようになる。

・理論的下位目標 (3):言語教師と言語学習者が共同体を形成し語り合うことについて理論的に考察できるようになる。

・実践的目標:言語教育の授業やカリキュラムの設計・改善・再構築について、自分なりの解決法を提案し、それを共同体的観点からも研究的観点からも再検討することができるようになる。

 

 

授業計画と内容

 

この授業は上記の4つの観点に基づき、4部から構成されています。

 

【第1部 なぜ実践研究・実践者研究が重要か】

第01回 (10/03)  コミュニケーションとしての授業

第02回 (10/09)  ある実践者(田尻悟郎氏)の実践の分析

第03回 (10/16)  人間と言語の全体性から考える言語教育

第04回 (10/24)  教育実践の再現可能性について

第05回 (10/31)  第1総括:全体性の観点から考える言語教育の設計

 

【第2部 個人としての教師と学習者の観点からの言語教育設計】

第06回 (11/07)  実践者論から考える言語教育

第07回 (11/14)  技能修得論から考える言語教育

第08回 (11/28)  身体論から考える英語教育

第09回 (12/05)  行為論から考える言語教育

第10回 (12/12)  第2総括:実践者・技能・行為の観点から考える言語教育の設計

 

【第3部 教師と学習者の共同体の観点からの言語教育設計】

第11回  (12/19) 対話論とオープンダイアローグから考える言語教育

第12回 (12/26)  当事者研究から考える言語教育

第13回 (01/09)  物語論から考える言語教育研究

第14回 (01/16)  第3統括:共同体の観点から考える言語教育の設計

第15回 (01/30)  フィードバック

 

授業の基本方針:以下に、予習と復習のやり方について書きますが、大切なことは、この授業は教師が一方的に知識を提供する情報伝達ではなく、受講者の主体的で積極的な参加を求めるということです。受講者は、教師が予め提供しておいた予習用資料の中で、自分が重要だと思った論点を予めまとめてPandAに投稿します。授業ではそれらの論点を共有し対話を行います。その際に、さらなる説明が必要でしたら教師は解説を加えますが、それ以外は、教師は基本的には授業内では知識提示は行わず、もっぱら受講者の対話を深める役に徹します。復習は総括回で行いますが、そこでは、授業で学んだことをできるだけ精緻に言語化します。予習では書きことばで、授業では話しことばで、思考と省察を重ね、言語教育について的確に考え語ることができるようになることを目指します。その思考力・省察力によって言語教育の現場でも有益な対話をするだけの力を獲得することを狙っています。

 

予習:授業前日の深夜(水曜夜23:59) までに、以下の■の資料は必ず読んだ上で、自分なりに理解できたことと理解できなかったことをまとめて、PandAの「課題」の欄に書き込んでください。可能なかぎり▲の資料も読むことをお勧めします。

この課題では、独自の観点から資料をまとめていることや資料に含まれている欠点を指摘することや資料に基づいて自らが知る類似事例を示すなどの批判的な読解を評価します。資料の単なるコピー・ペーストや、資料と関係のない感想や思い出だけを書いたような課題は評価の対象としません。

総括回の予習は、それまでの週の論点の中で自分がもっとも重要だと思った命題について論証してください。

いずれの課題も標準的なレイアウト・フォントでA4用紙相当のファイルを使って書いてください。通常回では、1枚あるいはそれ以上の分量を書いてください。総括回では2枚あるいはそれ以上の分量を書いてください。

フィードバック週については、教師が授業全体の学びを再確認してそこから新たな学びにつながるような情報提供をPandA上で行います。

 

 

履修要件

特になし。

 

 

 

成績評価の方法・観点

 

通常回の授業での予習状況(25点満点)と積極的な対話(25点満点)、および統括回における予習(25点満点)と実際の発表(25点満点)の合計得点(100点満点)で評価します。

 

 

 

【第1部 なぜ実践研究・実践者研究が重要か】

 

第01回 (10/03)  コミュニケーションとしての授業

 

※ 第1回目の授業では顔合わせ、授業説明をした後に以下の解説動画を見ていただきます。この回に限って予習は必要ありません。

 

■ 授業で視聴

「授業というコミュニケーションの計画性と偶発性」スライドと説明Zoom動画の公開

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/zoom.html 

 人格的コミュニケーションとしての授業:スライドと解説動画

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/09/blog-post.html 

 

 

第02回 (10/09)  ある実践者(田尻悟郎氏)の実践の分析

 

■ 必須

柳瀬の発表部分のスライドと動画の公開:人を育てる英語教育・田尻悟郎の授業は大学生の人生にどう影響を与えているのか

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/08/blog-post_22.html 

「英語教育の希望としての田尻実践」のスライドと準備録画の公開、および若干の感想

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/03/blog-post.html 

 

 

▲ 参考

「こんな先生に出会いたかった! ~豊かな人生を送るために子どもたちに伝えること~」

http://www.kobegakkou-blog.com/blog/2014/08/post-cbeb.html 

アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418 

田尻実践に見る英語教育内容マネジメントに関する一考察 (2005/3/6)

https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#050306 

田尻悟郎先生の多声性について

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/04/blog-post.html 

 田尻先生の「進化」、言語感覚、コミュニケーション観、学習観

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_14.html 

田尻悟郎 (2021) 『知ってる英語で何でも話せる! 発想転換トレーニング』 コスモピア

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/05/2021.html 

大学野球「関西大学」に組織力が生まれた「意外な方法」…野球を「教育」にすればこれだけ変わる

https://gendai.media/articles/-/102048

「田尻悟郎氏の授業における教室秩序の成立」:シンポジウム発表のスライドと解説動画を公開します。

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2023/08/blog-post.html 

 

 

第03回 (10/16)  人間と言語の全体性から考える言語教育

 

■ 必須

「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」

https://doi.org/10.14960/gbkkg.12.14 

ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』 明石書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/08/2024.html

ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledge

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/08/2021-gert-biesta-2013-beautiful-risk-of.html 

「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html 

 

▲ 参考

福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html 

西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書) その他三冊

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/2016.html 

木村泰子(2015)『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』小学館、他3冊の木村先生の著作

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/201532903.html 

柳瀬・山本・樫葉 (2015) 「英語教育の 「危機」 と教育現場」

https://doi.org/10.18983/casele.45.0_31 

「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」発表スライド

https://app.box.com/s/wh67tstkva5w9ksqvxy9wsl8tvdr8020

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html 

C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19631972.html 

C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19681976.html 

C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html 

C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html 

河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009.html 

河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2010.html 

河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009_25.html 

河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/04/2009.html 

J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html 

 

 

第04回 (10/24)  教育実践の再現可能性について

 

■ 必須

当事者の現実を反映する研究のために

(PandAに掲載)

柳瀬陽介 (2017) 「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」『中国地区英語教育学会研究紀要』47 巻 p. 83-93.

https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83

 柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」

https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11


▲ 参考

「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/09/blog-post.html

柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html


草薙邦広・鬼田崇作・ 亘理陽一 (2021) 「外国語教育研究の再現可能性 : 素朴な認識の拒絶と追求姿勢の擁護」 『広島外国語教育研究』

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2021_26.html

    石井英真(編著) (2021) 『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社

    https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2021.html

 

第05回 (10/31)  第1総括:全体性の観点から考える言語教育の設計

 

これまでの週の論点の中で自分がもっとも重要だと思った命題について論証してください。なおこの総括は、本格的なエッセイ・論文である必要はありませんが、学術的な書き方にはしたがってください。「学術的な書き方」について共通理解を得るため、一度は必ず下の記事を読んでおいてください。

 

■ 必須

私家版:論文執筆のための5つの手順

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/04/5.html

Thesis Statement (X is/does Y in Z) の3要素の説明とYとZの定め方

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/05/thesis-statement-x-isdoes-y-in-z-3yz.html

 

 

 

【第2部 個人としての教師と学習者の観点からの言語教育設計】

 

第06回 (11/07)  実践者論から考える言語教育

 

■ 必須

「工学的合理性から行為内在的省察へ」 "The Reflective Practitioner" の第2章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner-2.html

K.ガーゲン・M.ガーゲン著、伊藤守・二宮美樹訳 (2018) 『現実はいつも対話から生まれる』ディスカヴァー・トゥエンティワン

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/km-2018.html

「学びのための対面コミュニケーションとはどうあるべきか: 精神科医・神田橋條治氏の実践知からの整理と考察 」 『ラボ言語教育総合研究所報 ことばに翼を』Vol.4

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/04/vol4.html


 

▲ 参考

「専門職および専門職の社会における位置に関する発展的考察」 "The Reflective Practitioner"の第10章のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/reflective-practitioner10.html

ルーマンの二次観察についてのさらに簡単なまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/07/blog-post.html 

ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html 

『神田橋條治精神科講義』『神田橋條治医学部講義』(創元社)を読んで

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/blog-post.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その1)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/1.html

神田橋條治『精神療法面接のコツ』『追補 精神科診断面接のコツ』(岩崎学術出版社)の教育への拡大解釈(その2)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2.html

神田橋條治 (2011) 『技を育む』 中山書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2011.html

 

 

第07回 (11/14)  技能修得論から考える言語教育

 

■ 必須

Michael Polanyi (1958) Personal Knowledge (The University of Chicago Press)のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1958-personal-knowledge.html

Michael Polanyi (1966) The Tacit Dimension (Peter Smith) のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/michael-polanyi-1966-tacit-dimension.html

 

▲ 参考

ジョッシュ・ウェイツキン著、吉田俊太郎訳 (2015) 『習得への情熱 -- チェスから武術へ』(みすず書房)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/2015.html

羽生善治氏の4冊の本を読んで:知識を経験にそして知恵に

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/4.html

 

 

第08回 (11/28)  身体論から考える英語教育

 

■ 必須

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_11

竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html

野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html


 

▲ 参考

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_73.html

竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html

「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/ss.html

野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/01/blog-post.html

和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html

3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/34.html

京都講演に対する松井孝志先生のコメントを受けて

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_06.html

「ユマニチュード」あるは<人間らしさ>を教室でも実践することについて

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_13.html

喜多 壮太郎 (2000) 「ひとはなぜジェスチャーをするのか」 『認知科学』7 巻 1 号 p. 9-21

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/06/2000-7-1-p-9-21.html

喜多壮太郎 (2002) 『ジェスチャー 考えるからだ』 金子書房

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/06/2002.html

7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法(京都外国語大学)は予定通り開催します + 柳瀬の当日発表資料公開

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/715.html

David McNeill (2005) Gesture and Thoughtの第1-4章のまとめ

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/david-mcneill-2005-gesture-and-thought1.html

7/22の公開研究集会「外国語教師の身体作法」での柳瀬発表の後の質疑応答

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/722_17.html

率直で開かれたコミュニケーションから私たちの喜びである共感や連帯感が生まれる(アダム・スミスの『道徳感情論』から)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_23.html

「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/05/blog-post_22.html

(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/05/blog-post_30.html

(続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_18.html

 

 

第09回 (12/05)  行為論から考える言語教育

 

■ 必須

B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/b-2019bruno-latour-2005-reassembling.html

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html

▲ 参考

國分功一郎・熊谷晋一郎 (2019) 『<責任>の生成 -- 中動態と当事者研究』(新曜社)を読んで:「英語が話せる」ことや「やる気が出ない」ことなどについて

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/03/2019.html

國分功一郎 (2021) 「中動態から考える利他--責任と帰責性」伊藤亜紗、他『「利他」とは何か』集英社 (111-134頁)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/2021-111-134.html

『学び合い』における コミュニケーション観の転換 ―近代的主体からオートポイエーシスへ―(中国地区英語教育学会発表用のスライドと配布資料と発表音声)

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html

 

 

第10回 (12/12)  第2総括:実践者・技能・行為の観点から考える言語教育の設計

 

第1総括以降の週の論点の中で自分がもっとも重要だと思った命題について論証してください。なおこの総括は、本格的なエッセイ・論文である必要はありませんが、学術的な書き方にはしたがってください。

 

 

 

【第3部 教師と学習者の共同体の観点からの言語教育設計】

 

第11回  (12/19) 対話論とオープンダイアローグから考える言語教育

 

■ 必須

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/04/david-bohm-dialogue.html 

感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html 

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/poetics-of-open-dialogue.html 

オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html 

オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html 

オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/love.html 

 

 

▲ 参考

ボームの対話論についての学生さんの感想

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_8.html 

意味と真理の概念から捉えた対話の概念

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/09/blog-post_49.html 

比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html

ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2016.html

野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/02/2018.html

「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/11/blog-post.html

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/2016.html

斎藤環 (2019) 『オープンダイアローグがひらく精神医療』日本評論社

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/12/2019.html

 

 

第12回 (12/26)  当事者研究から考える言語教育

 

■ 必須

樫葉みつ子・柳瀬陽介 (2020) 「当事者研究から考える校内授業研究のあり方

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/02/2020.html

 浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

英語教師の当事者研究

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html 


▲ 参考

The Distinct Epistemology of Practitioner Research: Complexity, Meaning, Plurality, and Empowerment. 

https://doi.org/10.32234/jacetjournal.64.0_21

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」

https://doi.org/10.18983/casele.48.0_95

当事者研究が拓く、弱さを語るコミュニケーション ―校内のコミュニケーションリーダーとなる英語教師を目指して―

https://doi.org/10.20581/arele.30.0_271

中川 篤,柳瀬 陽介,樫葉 みつ子 (2019) 「弱さを力に変えるコミュニケーション―関係性文化理論の観点から検討する当事者研究」『言語文化教育研究』第17巻 pp. 110 - 125

https://doi.org/10.14960/gbkkg.17.110

当事者が語るということ

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html

バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/zygmunt-bauman-2001-individualized.html

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/2009.html

熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html

眞子和也君と中川篤君の学会発表(2019/03/09(土)言語文化教育研究学会(於 早稲田大学)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/03/20190309.html

熊谷晋一郎(編) (2019) 『当事者研究をはじめよう』金剛出版

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/03/2019.html

向谷地生良(他) (2020) 『弱さの研究 -- 「弱さ」で読み解くコロナの時代 --』 くんぷる

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2020/12/2020.html

当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html 

 

 

第13回 (01/09)  物語論から考える言語教育研究

 

■ 必須

なぜ物語は実践研究にとって重要なのか

https://doi.org/10.14960/gbkkg.16.12

「英語ユーザーへのインタビュープロジェクトの実践から」(日本英文学会第95回大会シンポジウム)の解説動画とスライド

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2023/05/95.html

「英語ユーザーへのインタビュー」の経験から

(資料は別途配布)

八木真奈美・中山亜紀子・中井好男 (2021) 『質的研究を考えよう』(ひつじ書房)、および意味概念と物語概念のまとめ

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/2021.html

「人が他人の心を知ることができるのか」という難問、および再帰性 (reflexivity) と省察 (reflection) の違い

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/reflexivity-reflection.html


 

▲ 参考

3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/311.html

北出慶子・嶋津百代・三代純平 (2021) 『ナラティブでひらく言語教育』

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/03/2021_24.html

『荒木飛呂彦の漫画術』を読んで、実践報告における人間の描き方について考えました

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2022/05/blog-post.html

小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3321.html 

村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010_31.html 

小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2007.html 

 

 

第14回 (01/16)  第3統括:共同体の観点から考える言語教育の設計

 

第2総括以降の週の論点の中で自分がもっとも重要だと思った命題について論証してください。なおこの総括は、本格的なエッセイ・論文である必要はありませんが、学術的な書き方にはしたがってください。

 

 

第15回 (01/30)  フィードバック

 

PandAで情報提供します。

2024/09/20

今井むつみ (2024) 『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』『きょう、ゴリラをうえたよ』

 

この記事では今井先生の近著についての私の感想を書きます。


『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』


「伝わる文章とは何か」という問いは、英語ライティング教師である私にとって常に考えなければならない問いです。私はライティングを語法・文体・ストーリーの3つの観点から考えますが、語法と文体についてはAIでずいぶん学習者は支援を受けることができるようになりました。残る課題はストーリーです。

ストーリーについては、Context-Problem-ResponseやWhy-What-So Whatあるいは起承転結などの一般論で、ストーリーの全体像についてある程度指導はできます。ですが学生の英文の中には、これらの枠組みに即しているようで、どうも分かりにくい文章が少なくありません。また、ストーリーの細部、例えば1つのボディパラグラフの中の論証が理解しづらいことも多いものです。教師としては学生の英文をしばらく読んで、「はぁ、つまり◯◯を立証したいわけ?それならこの情報を先に提示してくれないと読者は混乱するよ。また、この情報はむしろ読者の誤解を招くから削除した方がいいよ」などと助言します。ライティング教師として、私は「伝わる文章」を書くためのストーリー展開の指導には大幅な改善が必要だと思っています。

今井むつみ先生の『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』は、仕事や家庭や学校でコミュニケーションの困難を覚えている人々--ということは私たちのほとんど--のために書かれた本であり、ライティングのストーリー展開を考える点でも非常に有益な本です。

「これだけ言っているのにどうしてわからないのだ!」と不満を募らせる人は、人間は相手の話した内容をそのまま脳にインプットしているわけではないということを理解していません(p. 22)。人間には「知識や思考の枠組み」(スキーマ)があります。この枠組みは、一人ひとりの学びの経験や環境、興味や関心、そして言語が異なれば、それぞれに異なってくるものです (p. 30)。上記の不満を抱く人の多くは、自分と相手の知識や思考の枠組みがそもそも異なっていることが分かっていません。一部の人は違っているということ自体は分かっていても、枠組みのどこがどのように異なっているのかを具体的に把握できていない。だから、自らの説明法を変えたり、別の事例をもってきたりすることができません--はい、私のことです(苦笑)。

「伝わる文章」を書くためには、まずは人間のさまざまな思考法と興味関心を一般的に学んでおいておかねばなりません。次に、今・ここで自分が面している相手がどのような思考法と興味関心を抱いているかを理解し、その相手に最適な論理展開で論証をする必要があります。さらには今後のために、その思考法と興味関心を有する人にとって、その論理展開が最善だったかを反省しなければなりません(ソクラテス『パイドロス』p. 118; 「AIの言語生成と人間の言語使用の違い:AI時代の言語教育のための考察」(2024年2月10日 言語系学会連合公開シンポジウム)  

この『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』を読むと、私たちの日常生活での誤解の原因が具体的にわかり非常に勉強になります。専門家の偏りや認知バイアスについて、私たちはもっと理解を深めるべきでしょう。また名著『英語独習法』を書いた英語の使い手として今井先生が説明しているwear/put onやa/theの違い(それぞれ p. 34と p. 132)は中学生にも理解してほしいことです。

人間の価値観が多様化し、人間の交流がグローバル化するにつれ、相手に伝わるコミュニケーションを行う力は重要になります。そのようなコミュニケーション力は、機械的な学習を繰り返すことではおそらく獲得することがでません。他人に的確に伝えることは、人間の思考法と興味関心についての該博な知識に基づいて、目の前のコミュニケーションをメタ的かつ動態的に分析することによって達成できるのでしょう。そんな力をもつ人こそ教養ある人と呼ぶべきです。本書は現代社会における教養を身につけるための本ともいえます。




『きょう、ゴリラをうえたよ』


今井むつみ先生について驚くことは多岐にわたりますが、その1つが発想の柔軟性です。国際的学術誌に専門的な論文を執筆すると同時に、上の『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか』のように一般読者に伝わる本を書けるということは、実は容易なことではありません。どちらかのジャンルなら書けるけど両方で書ける人は稀有といえるでしょう。

この本は、「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴先生がまとめ、吉本ユータニキさんがイラストを添え、今井先生が監修し解説を加えた、子どもの言い間違えについての本です。読んで笑いながら、なるほどなるほどと言語の本質的な特徴について考えることができる知的エンターテイメントといえるでしょうか。

知識人とは、学界での興味関心事においてだけでなく、日常生活においても知的分析を行うことができる人なのだと思わされます。




関連記事

下の拙論は、オープンアクセスが始まった月には2万件以上のアクセスをいただき、その後も細々と読み続けられているライティングについてのまとめです。最新のAI技術を追うのではなく、「少々のAIの進展では克服し難い、日本語母語話者が英語という外国語で考え書くという難題を克服するために注意すべき点」についてまとめたのが功を奏したのかもしれません。


柳瀬陽介 (2023)

「AIを活用して英語論文を作成する日本語話者にとっての課題とその対策」

『情報の科学と技術』73 巻 6 号 p. 219-224

https://doi.org/10.18919/jkg.73.6_219


抄録:本稿は,日頃英語で書く経験が乏しい日本語話者が,短期間で英語論文を執筆する方法について解説する。作業手順は,日本語による構想と原稿執筆→AIによる英語翻訳→AIによる文体改善→著者による最終校閲である。一貫している原則は,人間が,AIが不得意としている領域の作業に最善を尽くすことで,最終成果物の質を上げることである。作業の際の留意点は,ストーリー・文体・語法の3つの観点別に説明する。それぞれの強調点は,ストーリーでは戦略的な構想,文体では英語の発想に即した表現法,語法では日本語話者が不得意とする領域である。本稿は総じて,人間とAIが相互補完的に作業を進めることを推奨する。


 

2024/09/02

「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」のスライドと予行演習動画の公開

 

8/30(金)の19:30-21:30にSomatics and SEL研究会主催の公開オンライン研究会で50分の講演をしました。その後の約1時間はすべて質疑応答に使うという贅沢な会でした。事務局と参加者の皆様に改めて感謝いたします。

私の講演タイトルは「言語使用におけるリスクと責任--身体的で歴史的な実践知」でした。一般の方々はしばしば「外国語なんて、現地で暮らせばだれでも身につけることができるよ」と言います。それを聞いた言語教育関係者は、自分の存在意義を疑われたと怖れて動揺しながら「そうはいっても、教室と現地は違いますから」と言います。その弁明は正しいのですが、言語教育関係者の多くが行うことは、教室の学習ひいては評価の体系化であり「科学化」です。

しかし「言語学習についての安直な学問化・科学化と在野の知恵について」の記事 (https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/05/blog-post.html) でも触れたように、私は過剰な体系化や浅薄な「科学化」の方向性には賛成しません。それよりも、上の一般人の述懐の含意を丁寧に考えてゆくべきだと私は考えます。


今回の講演では、上の「現地で暮らす」こと、つまり現実世界で言語を使うことの重要な側面として、使用する言語のリスクと責任を取ることを取り上げて考察しました。その考察から、安直な科学化を施した研究が謙虚さを失った結果をかなり批判しました。この批判は、下の考察からの流れに基づいています。



「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」 (https://doi.org/10.18983/casele.40.0_11)


「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」 (https://doi.org/10.18983/casele.47.0_83) 


「柳瀬陽介「教育実践を科学的に再現可能な操作と認識することは,実践と科学の両方を損なう」(シンポジウム:外国語教育研究の再現可能性2021)(https://yanase-yosuke.blogspot.com/2021/09/2021_11.html)



今回の講演のスライドはここからダウンロードすることができます。(https://app.box.com/s/jvyka8gsznljxo0vbourf9murfhje2o7)。講演の予行演習動画は下から見ることができます。ご興味のある方は御覧ください。






質疑応答の中で特に私にとって勉強になったのは、「実践者の報告の中にも硬直したことば遣いで、相互理解を拒むものもあるのではないか」と「PPPのような機械的な言語操作練習にも一定の意義があるのではないか」というものです。これら2つはもっともなご指摘で、私の説明不足を補ってもらうものでした。

実践者の中にも頑なな態度で、他の実践者から学ぼうとしない人がいるというのは、残念ながら事実だと思います。そういった方は時折「◯◯さえすればよいのだ!」とご自身の実践を過剰に一般化した主張をされます。もしそういった方の実践にみるべきところがあれば、周りの人たちはその方の教条化した表現を、他の人にもわかるように具体的に言い換えて、その方の実践の価値と限界を明確にすることができるでしょう。私たちは言語教師なのですから、研究を語る際も、できるだけ丁寧にことばを使うべきです。

後者の指摘の、機械的な言語操作練習にも一定の効用があるというのも、まったくその通りです。この点は講演でもっと強調しておくべきでした。楽器の演奏やスポーツのパフォーマンスと同様、自由に "play" するためにはある程度の定型的な練習は不可欠です。

しかし、多くの授業が機械的な練習だけで終わっています。何のために機械的な繰り返しを行うのかをはっきりさせていません。ですから、一部の授業は、機械的な練習を過剰に行いそれを厳密に評価することばかりに力を注いでいます。まさに手段が目的になってしまっています。

そうではなくて、自由に、そして自分のために言語を使うために、機械的な作業を必要最小限に留めるべきと私は考えます。そして定型的作業設定に比べてはるかに困難な自由度の高い課題を適切に設定することが、そしてその課題達成のための学習者の意欲を高めることが、言語教師として大切ではないでしょうか。


ともあれ、講演の最後の方で私は「リスクと責任を取っている実践者(現場教師)の声に真剣に耳を傾けよ--たとえその意見が、学会で「正統」だとされている合理化主義者 (rationalizer) の知的枠組みに収まらなくても--」と主張しました。私としては、せっかくの学会という組織が、もっと実践者の日々の葛藤を丁寧に拾い上げることを願っています。


2024/08/26

「英語教育は学習者をAIのようにしてはいけない―AIの言語生成と人間の言語使用の違い―」のスライドと予行演習動画の公開

 

全国英語教育学会第49回福岡研究大会(会場:福岡工業大学)の2日目(2024/08/25・日曜)の最終イベントであるシンポジウム「日本の英語教育の将来:AIの衝撃-英語教室はどう変わるのか?」に登壇させていただきました。コーディネーター兼登壇者が石井雄隆先生、(千葉大学・理化学研究所)、もう一人の登壇者が水本篤先生でした(関西大学)。このイベントを可能にしてくださったすべての関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。


私のタイトルは、「英語教育は学習者をAIのようにしてはいけない―AIの言語生成と人間の言語使用の違い―」でした。主旨は、「人間の言語使用は、実存的な語りができるという点でAIの言語生成と異なる。その人らしさを表現できる語りができるようになる英語教育でないと、AI時代に存在意義はない」といったものでした。


発表で使ったスライドはここからダウンロードできます。


発表前に個人で行った予行演習のYouTube動画は下から見ることができます。




当日は、3名の発表が終わった後にSlidoというアプリを通じてたくさんの質問をいただきました。そのうち一部しか答えられなかったのが残念です。

3名で答えた質問の1つは次のものでした。

小中高生に「AIがあるからもう英語の勉強なんか意味ない。」と言われたら、先生方は何と返されますか?

この問いについては、このブログで改めて私の見解を書きます。

「どうして英語の勉強をしなくてはならないのだ」という問いは、AI登場以前からありました。多くの場合、こういった問いは、--私の発表で使った用語を用いますなら--<実存的>な問いです。私なりに拡張すれば、「自分は英語を勉強していても意義が感じられない。どうして自分の貴重な若い時代の時間をこのように退屈な作業に費やさなければならないのか?英語を教えるあなたも一人の人間なのだから、一人の人間として私の問いに答えてほしい」という問いです。

<実存的>な問いに、無難な答え--<よくある話>の表現--を出すのは、人を小馬鹿にすることです(近年の多くの政治家や官僚はそのような答え方をしていますが、その点については割愛します)。教師は自分の人生を反映した見解を示す必要があります。その答えを聞いた学習者が、「なるほど、この先生がこう言うのなら信頼できる。たしかにこの先生は日頃からそのような考えをもっていたように思える」と感じてくれるようなものでなければなりません。

 もしそのような説得力あることば(ということは教師人生)が自分にないのなら、「正直、自分も納得できる答えがなくて、いつも心苦しく思っている」と正直に語ることも1つの方法でしょう。もちろんそういった答えが拡散され問題になるかもしれませんが、誠実に語れば、少なくとも人間関係はできるのではないでしょうか。

もちろん<実存的>な問いは、誰が(他に誰がいる状況で)いつ(どんな出来事の流れの中で)どこで(どんなことが通常期待されている場所で)問われたかなどが決定的に重要です。ですから、答えは千差万別です。ということは上に述べたように、このような<実存的>問いに一般的な模範解答はないということです。

もちろん、こういった問いを抽象化した上で、一般的な答えを考えることも英語教育関係者としては重要です。特に私などは「哲学的探究」などと称しているのですから、それなりのきちんとした答えが必要でしょう。ですが、それは必然的に一文、二文では終わらない長いものになります。そういった答えを私なりに提示することはまた後日の課題とさせてください。


その他にも、当日に答えられなかったどころか、今、アプリを見て気づいた質問・コメントのうちに下のものがありました。個人的にとても共感しましたのでここに掲載します(シンポジウムで読み上げられることを前提とした書き込みなので、ここに掲載することに問題はないと判断しました)。

公立中学校で教えています。担当は中学一年です。必要に応じてAIも使って行かないといけないのか、と思っていましたが、今日のお話を聞いて、もっと自分の担当している生徒を見て、必要であればそして使って意味あるようであれば使おうと思うようになりました。時代に逆行するようですが、むしろそれが最先端のような気がしました。ありがとうございます。

当日の発表スライドの最期にも書きましたが、(英語)教育にとって、AIもハイデガー哲学も枝葉末節のことだと思います。大切なのは、人間らしく生きるために今の時代の若者に何が必要かを大人が真剣に考えてそれを誠実に教えていくことだと私は考えます。


2024/08/01

ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledge


 以下は、ガート・ビースタ(著)、田中智志・小玉重夫(監訳) (2021)『教育の美しい危うさ』東京大学出版会 /Gert Biesta (2013) The Beautiful Risk of Education. Routledgeを読んで作成した私のお勉強ノートです。ノートの作成方法は、(1) 翻訳書を先に読む、(2) 翻訳書に下線を引いた箇所のみ原著を読む、(3) 原著のそれらの箇所から私なりにまとめを作成する、という方法です。はい、安直な読み方です。ごめんなさい。

 翻訳書の日本語はよく考え抜かれた明瞭なものですが、以下のまとめでは私なりの翻訳をかなり入れています。信頼できる理解を得たい場合は、訳書と原著の両方をご参照ください。まとめに続く「=>」からの文章は、私の感想です。



第1章:創造性 (Creativity)


■ 教育とリスク

 教育は常にリスクを伴う (education always involves a risk) 。だが現代においては、教師は教育からリスクを取り除くことを求められている。(xii, 1ページ) 統計やデータを通じて教育を遠くから抽象的にしか捕らえない政策決定者や政治家が、リスク回避 (risk aversion) を好むからだ。

 しかし、生身の人間を扱う教師は、教育は「固定化」 (fixed) できるものではないことを痛感している--あるいは「固定化」するなら高い代償を払わなければならないこと知っているというべきだろうか。。

 教育を強く、安全で、予測可能で、リスクのない (strong, secure, predictable, and risk-free) にしようとすることは、この[教育の]現実を否定しようとすることでもある。 (p.2, 2頁)

=> 教授法の比較実験は、「エビデンス」を示すことで、教育のリスクを減らそうとしている。統計的な有意が示された教授法を行えば、いつでも・どこでも・誰でも教育が成功するといわんばかりである。しかし現場で鍛えられた教師は、教育の本質は一つ一つのクラス・一人ひとりの児童・生徒・学生の反応に応えてその時々で最適と思われる行動を起こしてゆくことだということを知っている。そういった教師は、いつでも同じ授業しかしないなら、児童・生徒・学生の学びの意欲を伸ばせないことを知っている。

 他方、管理主義的・支配的な教師は、同じ授業を粛々と行い、それで学力が伸びないなら、それは児童・生徒・学生の自己責任であると片付ける。そのような教師は、授業やカリキュラムを変えようとする動きに対しては、「その改革が成功するというエビデンスはあるのですか?エビデンスのない改革を行うわけにはいきません」としばしば述べる。


■ 強い創造と弱い創造

 キリスト教でも世俗社会でも、原因と結果という強い形而上学的用語を使って (in strong metaphysical terms -- in terms of causes and effects) 創造を考えることが多い。だが出会いと出来事という弱い実存的な用語 (in weak existential terms -- in terms of encounters and events) で創造について考えることもできる。 (p. 12, 14頁) 教育を創造と考えるなら、この2つの創造観について自覚的であるべきだ。

=> 政策決定者や「エビデンス」を作り出す研究者は、ある教授法という原因をもたらせたならば、テストの点数の上昇などといった結果が生じると信じている。これに対して児童・生徒・学生と正面から向き合う教師は、教育とは出会いであり、刻々と変化していく出来事であると考える。「原因→結果」という単純で固定的な枠組みだけで教育を捉えようなどとは決して考えない。


■ 神の創造についての2つの解釈

 聖書の詩篇に端を発しプラトンとアリストテレスの形而上学を経由した創世記の神は、無からすべてを創造する神である。だが、別の解釈では、神は大地や水や風を作り出したのではない。それらの存在は既に神と共にあり、神はそれらの存在を善きものと呼んだ (called good)というのがその解釈である。この2つ目の意味での創造は、無が存在に変わることではなく、存在が善に変わることである (not a movement from non-being to being, but from being to the good)。(p.13, 17頁)

=> 中高一貫校で宗教を教えている私の配偶者(神学部出身)によると、創世記は2つの系統の文書から構成されているということは、キリスト教神学の常識らしい。私はまったく知らなかった。


■ ヤハウエとエロヒムの違い

 創世記で神はヤハウエともエロヒムとも称されるが、これらには違いがある。ヤハウエはエデンの園での行いによって示されているように、アダムとイブに生命を与えたというよりも、生命の試練を与えている (Yahweh does not so much give Adam and Eve life as he gives them a test of life)。ヤハウエは自らが創造したアダムとイブを信頼しておらず、最終的には二人をエデンの園から追放するという形で、創造主として自分が取るリスクを最小化した。ある意味で、ヤハウエはアダムとイブを「永遠の子ども」のように扱っている。

 これに対してエロヒムは、リスクを取ることを厭わない。本当の信頼とは常に根拠なしの信頼であり (always without ground)、「見返り」 ("return") がないことを知っている。この意味で、信頼とは無条件である。エロヒムにとって生命とは無条件に贈与するもの (unconditional gift) である。(p.14, 17頁)

=> 思い切って俗っぽい言い方をするなら、ヤハウエ的な教師は、学生に課題を与えて「この課題を行えば単位をあげます。課題ができなかったら、それはあなたの責任ですから、私は知りません」と言う。課題ができない学生や課題に反抗する学生がいても「課題ができなければ単位をあげません」と繰り返すだけである。

 他方、エロヒム的な教師は、課題に苦しんだり課題を面白くないと決めつける学生に対しても、「この学生もいつかは、課題の意義がわかり、課題ができるようになるはず」という信念を、根拠やエビデンスなしに抱き続ける。そして、その時々に応じた対応をする(時には敢えて何もしないという対応を取る)。それらの対応が報われず、学生が教師に感謝の意を示さないとしても、「教師というものはそんなものだ」と思いを新たにし、次の授業においても学生を信じる。


■ エロヒム的な創造

 エロヒム的な創造とは、そこにある存在を肯定する行為 (the act of affirmation) である。その肯定により、存在に意義と意味 (significance and meaning) が与えられる。エロヒム的な創造は、原因という形而上学的説明を授けるものではない。 

 エロヒム的な創造は、教育者も創造がリスクを伴う営み (a risky business) であること、というよりも、リスクを取らなければ主体性という出来事 (the event of subjectivity) は生じないことを教えてくれる。(p.23, 30頁)

=> エロヒム的な教師は、学生ができるようになるのは、学生の内にある力が外からの働きかけをきっかけにして開花したからと考える。そしてその成長をすばらしいと認める。教師としての自分の働きかけも、無駄に終わるかもしれないことを自覚しながら、少しでも事態が改善する方向にもってゆくための試行錯誤を繰り返す。

 これに対してヤハウエ的な教師は、学生が何かできるようになったら、それは自分の授業のおかげだと考える。そういった教師の授業は、「エビデンス」やシラバスといった権威にひたすら忠実なものであり、そこからの逸脱を嫌う。学生が課題を達成できなかったら、それは正しい授業にもかかわらずできなかった学生のせいであると考える。ヤハウエ的な教師は、エビデンスがなく失敗するかもしれない新たな働きかけをするといったリスクは取らない。


■ 子育てから考える神の態度

 善い親は、自らの子どもはいつかは成長してわかってくれるだろうと望みながら、子どもが予測不可能で見通しが立たず、愚かで、ひいては破壊的ですらあることと折り合いをつけなければならない (must learn to deal with the unpredictability and the unforseeablity, the foolishness, and even the destructiveness of his children, in the hope that they will grow up and eventually come around)。(p. 15, 19頁) エロヒムの態度は、善き親の態度に似ている。

=> 以上のビースタの神学的な議論は、Caputo (2006) The Weakness of God: A theology of the events. Indiana University Pressに基づいています。このCaputoの本はいつか私も読みたいと思っています。


■ 教育における主体化

 ビースタは、教育の過程と実践は、有能化 (qualification)、社会化 (socialization)、主体化 (subjectification) という3つの領域が重なり合うところで営まれていると考えている。

 ここでの主体化とは、教育される者が客体・対象物 (object) としではなく独自の主体 (subject) --行為し責任を取ることができる主体--であると考えることである。主体化を尊重するならば、教育の過程と実践が、人間的主体性 (human subjectivity) の創発 (emergence) に貢献することを願う。

 主体化は社会化とは異なる。社会化は、教育を通じて個々人が既存の秩序と伝統の一部となることである。だが主体化は、人間の存在はそれらの既存のものでは完全には決定できないことを示している。 (p. 17, 22頁)

=> ビースタのいう教育は、下のベン図の3つの円が重なる領域であると考えられる。ある知識・技能で有能になっても、既存の社会に溶け込めなければそれは適切な教育とはいえない。社会には適応できても、知識・技能が足りなければ教育として不適格である。だが、有能で社会に適応していても、その人が一人の人間として独自の行為を選んで責任を取ることができなければ--つまりその人の主体性がなければ--、その教育は失敗である。

 もっとも一部の政治家や資本家は、優秀で従順でありながら、決して自分の意思をもたず、自分たちの指示にひたすら従う主体性のない「人材」を作りだすことを教育の使命と考えているかもしれない。





第2章 コミュニケーション (Communication) 


■ 開かれて不確定だからこそ生成的かつ創造的なコミュニケーション

 教育のほとんどの部分はコミュニケーションであるが、コミュニケーションを理解するには強いコミュニケーションではなく弱いコミュニケーションについて考えるべきである。以下、本書の一部を翻訳する。

 「デューイはコミュニケーションの弱い理解を提供してくれる。つまり、コミュニケーションは、根底的に開かれ不確定というだけでなく、生成的で創造的な過程である。デューイにとってコミュニケーションとは、意味が創られ共有される過程である。ある情報をある場所から別の場所に「安全に」に伝達するための機械的な「仲介」ではない。デューイによれば、コミュニケーションは主体の間の出会いとして生じるものであり、客体の間の交換ではない。したがってコミュニケーションは、そのような出会いに賭けられているすべてのリスクと予測不可能性と共に生じるのである。(Dewey provides us with a weak understanding of communication, that is, of communication as a process that is not only radically open and undetermined but also generative and creative. For Dewey communication is a process in which meaning is made and shared, not a mechanical “go-between” for the “safe” transportation of bits of information from one location to another. With Dewey communication thus emerges as an encounter between subjects, not an exchange between objects so that it comes with all the risk and unpredictability that is at stake in such encounters.) (p. 35,46頁)

=> ビースタは、博士号をデューイの研究で獲得したそうです。私は前任校の広島大学の大学院で、数年間、デューイのDemocracy and Educationを教科書にして授業をしていましたから、このあたりのビースタの議論はよくわかります。

 

John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html

 

私の偏見は、学部生や修士課程の時代に最先端の研究論文ばかり読ませると、若き研究者の促成栽培には成功するかもしれないが、それらの学生さんの潜在的能力を活かせないかもしれないということです。時の試練を経て読みつがれている古典を、現代的視点から批判的に読む教育は重要だと考えます。さもないと研究者は、狭い分野を追い続けるという能力に特化した専門家ばかりになってしまいます。もっとも分業体制がしっかりした科学分野ではそれでもよいのかもしれませんが、英語教育といった総合的というか臨床的というか実践的な分野では、視野狭窄の専門家があまり権威と権力をもつべきではないと私は考えます(こうやって私は業界にますます敵を増やしています(笑))。




第3章 教えること (Teaching) 


■ 人によって教えられることと、人から情報を得ることは異なる

 教師 (teacher) は、単なる情報のリソース (resource) とは異なる。誰かが教師を情報のリソースとして使うなら、その人は教師と教師の言動すべてを自分の理解の範囲の中にとどめてしまう。そうなるとその人は既存の自分のままにいることになり、根本的な変容を経験できない。

 誰かから学習するという経験は、誰かに教えてもらうという経験とは根本的に異なる (to learn from someone is a radically different experience from the experience of being taught by someone.) (p. 52, 71頁)

=> ビースタは、「教えること」は「(一人で)学ぶこと」とは異なることを強調しています。論証の中ではレヴィナスの論も使っています。教師は「教える」中で、学習者がその時点では理解できないことを教えようとしているのだということは、同じくレヴィナスに基づく内田樹先生の次の本がわかりやすいです(「内田樹なんていう評論家風情について言及するなんて・・・」とお怒りのエビデンス派の皆様、申し訳ございません(笑))


内田樹『先生はえらい』(2005)ちくまプリマー新書





第7章 わざ (Virtuosity) 


■ 教師の主な仕事は状況的な判断

 教育は、有能化・社会化・主体化というそれぞれ異なる次元の課題を統合させることであるので、教師はこれら3つの次元を同時に考えながら何が教育的に望ましいのかを状況に応じて判断しなければならない (situated judgments about what is educationally desirable in relation to these three dimensions)。ゆえに、教師の主な仕事は、単に目標を決めて計画を実行することではない。教育は多次元であり、教師は3つの次元のバランスについて常に判断を行わなければならない。どれかの次元を優先させることもあるだろうが、その優先は一般的で固定的なものではなく、具体的な状況と個々の生徒との関係で判断されるものである。そこには緊張や葛藤が生じるかもしれないが、それをプラスの相乗効果に転じることが望ましい。 (p. 129, 170頁)

=>だから教師はしばしば判断に悩む。悩みながら得た知恵は次の機会に活かされるが、次の機会はまた異なる状況なのだから、教師が判断から免れることはない。


■ 教えることは科学ではなく技芸

 William Jamesは、教えること (teaching) は、科学であるべきではないし、そもそも科学ではありえないことを述べた。しかし、彼は教えることが技芸 (art) であることについて述べなかった。よってアリストテレスの議論が重要になってくる。(p. 132, 173頁)

=> 上では偉そうに古典の重要性を述べながら、私はここで言及されている以下の2つの古典を未読です。明らかな勉強不足です。お恥ずかしい。

Talks to Teachers on Psychology and to Students on Some of Life’s Ideals

『ニコマコス倫理学』


■ 変化する世界におけるポイエーシスとプラクシス

 実践的な生活 (practical life) は、変化する世界 (the world of change) であり変動する ("variable") ものである。この変化する世界においては、ポイエーシス (poiesis) とプラクシス (praxis) という2つの行動の様態がある。(p. 133, 174頁)

=> 実践的な生活に対比されているのは、必然的なるものと永遠なるものについての観照的生活 (theoretical life) 。観照的生活で得られるのはエピステーメー (episteme)。ちなみに、この実践的な生活と観照的な生活の対比は、アレントも使っていた。


■ ポイエーシス(生産)とテクネー(生産技術)

 ポイエーシスとは例えば鞍や船といった物の生産 (production) である。これまでなかったものを作り出すことであり、そのためにはテクネー (techne) が必要である。Techneは、英語ではしばしば "art" と翻訳されるが、ここは以下これを「生産技術」と訳すことにする。

 ポイエーシス--以下「生産」とする--は、それ自身が目的 (end) ではなく、それ以外の目的のために行われるものである。したがって生産技術は、その目的に適う物を生産するための手段である。(p. 133, 175頁)

=> しかし、この生産と生産技術は変化する世界の中の出来事であることに注意。生産技術は、エピステーメーのような必然的で永遠の真理ではない。


■ プラクシス(倫理的実践)とフロネーシス(実践的賢慮)

 変化する世界は、物の世界であると同時に、社会的世界--人間の行為と相互行為-- (the social world -- the world of human action and interaction) でもある。社会的世界ではプラクシス (praxis) が行われる。プラクシスは、人間の世界に「善さ」 ("goodness") をもたらすことであり、善き行為 (good action) である。つまりそれ自身が目的であり、何か他のことのための手段ではない--この意味で、ここでは以下、"praxis" を「倫理的実践」と呼ぶこととする。

 倫理的実践で必要な判断は、どのようにして事をなすべきか (how things should be done) はなく、何がなされるべきか (what is to be done)である。この判断はフロネーシスと呼ばれる。"Phronesis"は英語ではしばしばpractical wisdom(実践的知恵)と訳されるが、ここでは「倫理的実践」とのつながりを少しでも示すため「実践的賢慮」と訳すことにする)。(p. 133, 175頁)

=> 私は昔から "practice" と "praxis" をどう訳し分けたらよいか悩んできたが、ここでは「実践」と「倫理的実践」という翻訳で区別することにした。

=> P.133には実践的賢慮とは"a reasoned and true state of capacity to act with regard to human goods"という表現が見られるが、私はここでなぜ "goodness"ではなく "goods"が使われているのかわかりません。


■ 教育は生産(ポイエーシス)以上のものであり、教育を生産にしてしまってはならない

 教育は人材の生産であるなどと考えてはならない。教育とは社会的な技芸 (a social art) である。教育は生産以上ののものである。いやむしろ、生産以外のものといった方がよいかもしれない。教育は倫理的実践(プラクシス)である以上、自由の中で自由のために (in freedom and for freedom) 行われなければならない。この発想は生産の論理からは出てこない。(p. 133, 175頁)

=> よく言われるように、ある者にあることができるようにするもっとも確実で迅速な方法は、拷問かもしれない。しかしそのような恐怖による支配を私たちは決して教育とは呼ばない。ビースタの用語を借りるなら、そのような強制は、有能化には成功しても、適切な社会化は行えていない。行えているのは、特定の権力集団へ服従させているだけである。ということは、主体化もまったくなされていない(というより没主体化に成功している)。

 そういえば私は昔、このようなウェブ記事も書いていた。


教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_4057.html



■ 実践的賢慮(フロネーシス)は人格的特性である

 実践的賢慮(実践的知恵・フロネーシス)は、人に付け加えられる技術・傾向性・能力 (a set of skills or dispositions or a set of competences) ではない。実践的賢慮は、その人自身のある種の性質や卓越性 (a certain quality or excellence of the person) として理解するべきである。古代ギリシャはこのような人格的特性をアテレーと呼んでいた。アテレーの英訳は "virtue" であり、翻訳書ではこれを「ヴァーチュ」と表記している。だが、ここでは「人格」と訳すことにする。「徳」という用語も考えたが、後の "virtuosity" との関連で「人格」とする。

 そうなると実践的賢慮は、どうすれば学習できるかと問うのではなく、どうすれば実践的賢慮に充ちた教育的に思慮深い人 (educationally wise person) になれるかと問うべきである。(p. 134, 176頁)

=> 人格や徳などというと、エビデンス派の人たちなどは冷笑するだけだろう。しかし古代ギリシャや古代中国の昔から言い継がれているこれらの特質について、近代人はもう少し注意を払うべきではないか。

私は以下の本を長年読めないでいるが、いつか時間を見つけて読み通したい。


Trying Not to Try: Ancient China, Modern Science, and the Power of Spontaneity



■ 教師は、教育的に思慮深い判断に基づく人格的な技芸を求める

 教育関係者は、教育実習生 (teacher students) が、人格的な専門職 (virtuous professionals) になることを求めている。それよりも適切な言い方は、教師教育が求めているのは、教育的に思慮深い判断を行う人格的な技芸であるというものだろう (what we should be after in teacher education is a kind of virtuosity in making wise educational judgments)。 (p. 135, 178頁)

=> 教育が人を育てるものなら、教師教育も人を育てるものでなければならない。ただ、最近は物を生産するような教育そして教師教育が多くないか。教師も一人の人間である以上、多くの欠陥をもつ。だが、それだからこそ人を育てるという教育の営みに自らの身を呈しなければならない。そうやって教師が真剣に生きようとする時、学生も始めて学びに本気で向かい始めるのではないか。





エピローグ 出来事の教育学のために (For a Pedagogy of the Event) 


■ 教育が教育であるためにはリスクを取ることが不可欠である

  リスクがなければ教育そのものがなくなり、社会的再生産がそれに取って代わり、人の存在・行動・思考を既存の秩序の中に組み込んでしまう。(p. 140, 181頁)

=>しかし、今、教育改善といった名前で推進されているのは、まさにここで批判されている社会的再生産--強くて確実で予測可能でリスクのない生産--ではないのか。


■ 教育の弱さ、敢えて言うなら教育の崇高なリスクを引き受ける出来事の教育学が必要である

 私たちは原因と結果の教育学、つまり、予め特定された「学習目標」だけを生み出すだけを狙う教育学を必要としていない。私たちが必要としているのは、出来事の教育学 (a pedagogy of the event) である。つまり、教育の弱さ (weakness of education) を肯定することを志向する教育学である。この教育学は、教育の崇高なリスク (the beautiful risk of education) を喜んで取る教育学である。(p. 140, 182頁)

=> 「出来事」を私は、「固定的でも永続的でもない動態的で次々に変化する対象、いつか始まりいつか終わる現象」ぐらいに捉えています。教育はある数値目標といった固定的で永続的な目標を達成する営みではなく、教師が自らの弱みを認めながら、児童・生徒・学生の「善さ」を肯定するために彼ら・彼女らとかかわり続ける営みです。教育はリスクを伴う営みですが、そのリスクを教師は--敢えて意訳するなら--崇高 (beautiful) なリスクと考えるべきです。





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ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』 明石書店

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2024/08/2024.html

ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』 明石書店


 今月発刊される大修館書店の『英語教育9月号』に、ガート・ビースタ(著)、 亘理陽一、神吉宇一、川村 拓也、 南浦涼介(訳) (2024) 『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』(明石書店)について私が書いた書評記事(というよりも紹介記事)を掲載していただく予定です。

 私はまったく不勉強でこのビースタという教育学者の存在すら知らなかったのですが、読んでみたら大当たりでした。こんな本を読みたかった。私が常日頃言いたくても言語化できないことを見事に表現してくれた本でした。もちろん私にとっての発見もたくさんありました。 

 教育研究(私の関心で言うなら英語教育研究)を目指す人には全員読んでほしいと私は思っています。ベテランの研究者も--「量的研究」と「質的研究」という便利だけれどやや粗すぎる用語を使って述べるなら--、量的研究の限界を確認し、質的研究についての勉強不足を自覚するために本書を読むべきでしょう。

 この本があまりによかったので、私は書評原稿を2種類書きました。1つはこの本の良さを私なりにできるだけ忠実に伝えようとしたもの、もう1つはそれよりももう少し大胆に私の意見も入れたものです。編集部との相談で、後者の書評を掲載していただくことにしました。

 以下に掲載するのは、『英語教育9月号』に掲載しない方の書評です。本当は9月号の発行の直前に掲載する予定でしたが、本書の前に発行されていたビースタの『教育の危うい美しさ』を読んだらそれも面白くて、そのまとめもブログに掲載したく思ったので、本書の出版しない書評を本日掲載することにしました(この掲載についても大修館書店編集部の許可を得ています)。



英語教育研究の再生のための必読書


 あなたが研究者であれ実践者であれ、以下の問いが心に刺されば、ぜひ本書を読んでほしい。該当章からでいい。

 「研究者が自説に引用する理論は、研究者の信仰対象になっていないか(1章)」。「教育研究を自然科学化する動きは無条件に正しいのか(2章)」。「教育研究はエビデンスを求めるだけの営みか(3章)」。「実践とは、インプットとアウトプットの間の没個性的な生産プロセスなのか(4章)」。「教育研究は、心理学者や社会学者や哲学者が自らの専門を応用する研究にすぎないのか(5章)」。「教育における測定の過大視は、教師を技術的管理者に変え、教育の知恵を矮小化していないか(6章)」。「知識は人の主観から独立した存在か、それとも人と物理世界の間で越境的な相互作用 (transaction) が行われることで生まれるのか(7章)」。「学術出版制度は今や研究のあり方を定める政治的・経済的権力になっていないか(8章)」。

 教育学の世界的重鎮による本書は、現在流行し正統とされている研究だけが教育研究ではないことを示す。実践の個性や複雑性や価値判断を重視する研究は可能だ。評者は本書に、研究者と実践者が共に学び合える教育研究の可能性を見る。プロローグに書かれた「研究者の仕事をいくらかでもより知的なものとすること」の含意は、実は非常に深い。質の高い翻訳と訳注と共に刊行された本書を英語教育界は丁寧に読み解かねばならない。



 翻訳および訳注は優れていて読みやすい日本語になっています。とはいえ現在流行しているしか追っていない研究者は、慣れない考えが出てくるので、本書を丁寧に読む必要はあります。しかし丁寧な読解はきっと教育研究についての深い理解をもたらしてくれるでしょう。

 私の場合は、下のようにデューイやシステム理論をある程度理解していましたから、スイスイ読めました。これらの分野にある程度の知識がある人でしたら楽に読めるはずです。


John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)

https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html


英語教育の哲学的探究2:ルーマンに関する記事

https://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3


英語教育の哲学的探究3:ルーマンに関する記事

https://yanase-yosuke.blogspot.com/search/label/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3


B・ラトゥール著、伊藤嘉高訳 (2019)『社会的なものを組み直す』法政大学出版局、Bruno Latour (2005) “Reassembling the social” OUP

https://yanase-yosuke.blogspot.com/2019/08/b-2019bruno-latour-2005-reassembling.html



  本書『よい教育研究とはなにか--流行と正統への批判的考察』のご一読を心よりお勧めします。また『英語教育9月号』もぜひ御覧ください。



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